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怨霊退治と神宝の処遇を任せられた空海

「怨霊からの解放」という天皇の切なる願いをもって、遷都を実現するためにマスターマインドとして背後で活躍したのが秦氏、和気清麻呂と空海です。秦氏は、経済的な支援を惜しまず提供し、遷都を短期間で実現するための原動力となりました。ユダヤにルーツを持つと言われる秦氏にとって、自らの影響力下である山背国葛野郡周辺に遷都を実現させることは長年の夢でもあり、とても重要でした。秦氏の役割が経済的支援とするならば、和気清麻呂には建築土木技術における活躍が求められました。日本の国土をくまなく歩き回りながら培われてきた和気清麻呂の地理勘と、多くの灌漑工事や神社仏閣の造営工事に携わりながら体得した土木建築技術の経験則において、当時彼の右に出るものは誰もいませんでした。それ故、和気清麻呂には平安京の造営が一手に任されたのです。そして桓武天皇が最も恐れた怨霊を取り除くための宗教アドバイザーとして、当時、宗教心と語学力、諸外国文化の知識において比類なき名声を得ていた空海が側近として召され、遷都地の聖別と神宝の処遇について任されたのです。こうして、秦氏、和気清麻呂、空海の三名によるコラボレーションにより、平安京の造営が急遽、実現する運びとなりました。

平安京の遷都が実現した直後、空海は正式に僧侶となることを願い、剃髪得度の式を受けるため一旦、奈良に戻り、当時の規定に従って国家試験を受けました。奈良仏教に失望し、大学を中退してまで修行を積み、悟りを開いた空海が、何故かしら再び奈良に戻ることになったのです。空海はその後2年間、奈良大安寺の住僧として、南都六宗の経典などの研究に徹しますが、その間、神宝の歴史とその所在について、さまざまな資料を研究したに違いありません。そして796年、22歳にして唐より来朝していた泰信和上より具足戒を授かりますが、庶民の救済を忘れて無益な宗教哲学や立身出世を目指すことに終始する南都六宗を空海は嫌い、「あらゆる僧尼は頭を剃って欲を剃らず」と、痛烈に批判し続けたのです。

ある日、祈り求めていた空海は御仏の啓示により、「久米に行くべし」との啓示を受けます。そのとおりに東塔を訪ねてみると、そこで思いもよらずインド密教をルーツに持つ「大日経」の経典七巻を発見します。その経典には、仏と我が一体となる即身成仏に至る悟りの教理が記されていました。大勢の庶民を救い導き、怨霊の祟りから天皇をはじめ多くの人々を解放することを天命とした空海にとって、まさに「生命の宗教」の基となるべき経典を手にしたのです。その直後797年、当時23歳の空海は、突如として世俗から消息を絶ちます。そして804年、遣唐使として中国に渡るまでの7年間、空海は歴史から姿を消すことになります。