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2023/06/12

渡来人が大活躍する古代社会 空海が活躍する土台を作り上げてきた有力者

古代日本文化の原動力となった渡来人

弥生時代後期から飛鳥、奈良時代にかけて、大勢の民が朝鮮半島から海を渡り、日本列島に移住してきました。それまでも渡来人の流れは列島にむけて何百年も続いていましたが、その流れがだんだんと加速してきたのです。特に奈良盆地の周辺はシルクロードの最終地点にもなったことから、古代社会のメルティング・ポットとして多くの知識階級層の渡来人が居住するようになりました。こうして大陸文化の流入とともに、古代日本文化の礎は築き上げられていきます。

当時の古代社会において政治や宗教、文学、農業など、日本の社会全般に多大な影響を与え、日本文化の基礎を培う原動力となったのは、渡来人にほかなりません。そして、長い年月をかけて渡来人は列島の文化に同化し、日本独自の文化を作り上げていくことに貢献します。

名を残した渡来人有力者の活躍

藤原不比等(菊池容斎・画、明治時代)
藤原不比等
(菊池容斎・画、明治時代)
古代社会において、日本固有の文化形成に貢献した有力者の出自は、そのほとんどが渡来系の人々でした。中国大陸において優れた教育を受けてきた渡来者は、文字の読み書きについては勿論、多種多様の技術や知識を身に着けて列島に移住してきたのです。その結果、新天地である日本の地において活躍の場は広く、列島各地で日本文化の発展に貢献しました。それら渡来者の民族性と特異性についても列島文化の随所に垣間見ることができ、その名前は各地の地名としても知られるようになりました。こうして渡来者は瞬く間に日本列島の文化に同化し、いつしか日本古代の有力者として、その名を歴史に残してきたのです。

例えば長岡京(現京都府)の周辺に居住していた秦氏、弥坂氏、鴨氏、出雲氏などは、渡来系であることが知られています。これらの有力者の経済力と高い教養のレベルは渡来人ならではのものであり、単に中国や朝鮮半島との繋がりだけでなく、遠くは西アジア、ユダヤ系の民も複数存在していたと思われます。

中でも山背国で実権を握り、平安京遷都の立役者として活躍した秦氏とユダヤの関係についての噂は絶えません。秦氏はその財力と大陸文化に繋がる人脈故に、平安京遷都の際には所有する財産や不動産を献上し、桓武天皇の信任を得ながら朝廷にとって大きな経済的支えとなりました。秦氏の名前はヘブライ語で理解できるだけでなく、ユダヤ系一族というさまざまな伝承もあり、その経済力だけでなく、民族移動をしてまで一族が日本列島に移住してきたという史実を振り返るならば、秦氏の出自はユダヤ系であると想定して間違いないでしょう。

また、平安京に遷都する以前、平城京から長岡京への遷都においても、それを指揮した藤原種継の母親も秦氏でした。一連の遷都の背景には当初から多くの秦氏の影響が強く加わっていました。また藤原家も、藤原不比等の「不比等」という名前が、ヘブライ語で発音を逆読みすると「神」となることから、ユダヤ系の一族であったと考えられます。だからこそ、古代日本社会において、何ら宗教文化や哲学を教わらずとも、宗教儀式や風習において、難なく庶民を指導することができたのです。渡来人ならではの貢献と言えるでしょう。

空海に影響を与えた渡来人

秦氏のほかにも、奈良時代後期から平安初期にかけて、日本の文化に貢献した注目すべき渡来系人が、多数浮かび上がってきます。まず桓武天皇の母親は、今生天皇の「ゆかり」発言にもあったように、高野新笠という百済の出であり、父方の和氏は武帝王由来の百済王族です。また、延暦寺を建立し、桓武天皇に仕えた最澄は、後漢の孝献帝の子孫を祖先とする三津首家(みつのおび)の家柄であり、中国系の渡来人の子孫です。そして空海も、母方の阿刀氏が帰化人です。

そして空海の伯父にあたる阿刀大足(あとのおおたり)は、その優れた教養と知識が朝廷でも高く評価され、桓武天皇の皇子、伊予親王の侍講を勤めていたほどでした。その阿刀大足は、おそらく中国でしか学べなかった論語、孝経、史伝を中心とした多くの知識を、幼い空海に自ら授けたのです。こうして古代社会においては、至るところで渡来系の人物が日本の文化に多大なる貢献をし、その結果、朝廷にも大きな影響力を与え、古代日本の歴史と文化の礎を作る大きな原動力となったのです。

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