1. ホーム
  2. 邪馬台国への道のり
  3. 邪馬台国の道のり

伊都国への旅路を検証する

魏志倭人伝等の史書の記述によれば、邪馬台国は朝鮮半島にある帯方郡から見て東南方向にあり、北九州の末盧国に船で到着した後、陸路を東南方向へと進んだことがわかります。それ故、旅の舞台は北九州の東部に移されることになります。末盧国が現在の鐘崎・宗像周辺に存在していたことをこれまで解説してきましたが、そこから東南方向の地図を検証すると、意外にも北九州のエリアはそれほど大きくないことがわかります。鐘崎港から北九州の東海岸沿い、周防灘までの直線距離は40kmほどです。つまり2日も費やすことなく、陸地を横断して九州東側の海岸沿いに歩いて到達することができます。北九州の地勢は、海岸沿いが多くの岬や入り江によって複雑に入り組んでいる半面、陸路については平坦な土地が多く、徒歩で旅をしやすい環境にあったと言えます。

何故、東南方向へと旅を続けるのか

中国からの来訪者が頻繁に倭国を訪れ始める以前、その何世紀も前から、倭国においては船による東西間の行き来が行われていました。鐘崎が発祥の地であると言われている海人は、北九州の玄界灘界隈だけでなく、そこから朝鮮半島や日本海沿岸、そして瀬戸内海方面、更には今日の近畿地方を超える地域まで行き来していたのです。それ故、海人文化は早くから瀬戸内海周辺の地域にも広がり、近畿地方、淡路島、四国を含む地域から九州、朝鮮半島を行き来する航海路は遠い昔から存在していたと考えられます。

これら古代の舞台を考察するにあたり、最も参考となる文献が古事記や日本書紀等の史書です。日本列島における人の流れが、古くから淡路島や近畿地方までも含む瀬戸内海沿岸から九州まで広範囲に広がるきっかけは、古事記や日本書紀に記載されている国生み神話に見出すことができます。それは単なる空想話の伝承ではなく、アジア大陸から訪れた渡来人が、日本列島の地理的要因を検証し、移住先の島々を見定めた後、渡来人の移住が始まるプロセスを象徴的に記述して編纂されたものであり、古代史を理解する上で大変重要です。その国生み神生みの話の背景には、国家を失ったイスラエルの民、特に南ユダ王国からの渡来者の存在があります。紀元前7世紀ごろから日本に渡来し始めたアジア大陸からの移民の流れを見極めることにより、後述するとおり、淡路島から始まる国生み神話の流れを解明し、海人文化発祥の起源や皇族の流れを理解することができます。

それら海神の航海路は、淡路島周辺を基点とする近畿地方から西に向かう航海路と、朝鮮半島から対馬、壱岐等の離島を経由して鐘崎・宗像を中心とする北九州へと向かう航路が古くから交差し、古代社会においていつしか瀬戸内海から九州東海岸、そして北部の玄界灘経由で朝鮮半島までを行き来する航路が活発に利用され始めたと考えられます。そして朝鮮半島と倭国を行き来する人の流れが増加するにつれ、玄界灘と東海岸を結ぶ安全な陸路が主要交通ルートとして重宝されたのです。その後、北九州の人口が増えるに従い、壱岐から肥前の方面に向かう航海路も含め、頻繁に利用され始めました。

また、朝鮮半島から鐘崎・宗像までの航路は史書に記載されている対馬と壱岐を経由した主要航路だけでなく、時代を遡れば元来、朝鮮半島の最南端にある今日の釜山近郊から対馬の鰐浦、そして沖の島から大島までをほぼ一直線に玄界灘を航海して渡り、朝鮮半島から最短距離にて鐘崎・宗像まで到達するという航路もありました。王系一族を初めとする渡来人を迎え受ける拠点とし造営された宗像三社だけに、そこから東南に向かって伊都国に移動する陸路は、古くからいち早く認知されていたに違いありません。しかも玄界灘の東方にある響灘は小倉、福岡、長州の中間にあり、重要な海上交通路ではあるものの、潮の流れが速く、暗礁も多いために難破船が後をたちませんでした。よって、玄界灘に続く海の難所を避けるためにも、末盧国の玄関である鐘崎港に着岸し、そこから九州の東海岸に抜ける陸路を旅することは、古代社会においては常道手段であったことでしょう。

伊都国の比定地は何処に

(末盧国から)陸上を東南に五百里すすむと、伊都国に到着する...

伊都国の場所については、「伊都」の名前が福岡県糸島郡の糸島平野周辺、前原市付近にあった旧怡土郡が「イト」という発音であることから、今日の前原町三雲、井原、平原周辺にその中心地があったと推測する見方が有力視されています。糸島郡とは1896年、怡土郡と志摩郡の2つが合併したものです。そこには伊都国の中心部にあった神殿跡ではないかと地元で言い伝えられてきた細石神社があるだけでなく、王の墓があるとも言われている平原遺跡など、弥生時代の遺跡が複数発見されています。よって万葉集や延喜式、和名妙に記されている筑前の「怡土郡」や日本書紀にある「伊覩県」なども同様に、伊都国と関連して理解されます。

しかし、「伊都国」の比定地については上記に限らず、北九州市八幡西区、若松区、直方市北部や、旧伊豆国、旧出雲国、旧伊蘇国に比定する説など、多種多様の見解が存在します。更なる問題は、末盧国の比定地をこれまでの提言どおり、鐘崎・宗像とした場合、その西方に存在する糸島郡を「伊都国」に比定することが難しくなるという点です。果たして、鐘崎・宗像から東南方向に向けた古代の陸路は存在していたのでしょうか。早速地図を開き、地勢を参考にしながら、古代の陸路が存在する可能性の高いルートを検証してみました。

末盧国から伊都国までは500里という記述にまず注目です。これは短里にして最低35〜37kmほどの距離です。まず、末盧国の港町である鐘崎から湯川山の西側の裾を宗像を右手に歩いて進むことになります。地図を検証すると、確かに東南方面へ抜けるほぼ平坦な道が山沿いの裾に続いています。そして鐘崎港からおよそ平坦な地を東南に進み、湯川山の南、戸田山南側の山道を越えると鞍手町周辺に達します。鐘崎港から約20km歩いてきた計算です。更に東に進み、その後、東方の正面に聳え立つ皿倉山を避けるように若干、北東方面に進み続けて到達する鐘崎港から35km地点となる場所が、今日の北九州市八幡周辺です。

想定ルート

古代、筑前国と豊前国にまたがっていた八幡地域は、元来、人口が少ない地域でしたが、戦前の1901年、官営の八幡製鉄所が建造されてからは、北九州地区の工業都市、重工業の中心地として鉄鋼業を軸に栄え、飛躍的な発展を遂げました。そして1917年には八幡町が八幡市となり、1963年、北九州の5市の1つとして、北九州市となるべく合併したのです。その後、八幡区は1974年に八幡東区と八幡西区に分かれて今日に至ります。果たしてこの八幡が、伊都国となり得るのでしょうか。

陸海の交通路の要所となる伊都国

人家は千余戸ある。代々国王がいて、みな女王国に統属している。(ここは帯方)郡からの使者が倭と往来するときに常に駐まるところである。

魏志倭人伝の記述によれば、伊都国の人口は「千余戸」と、意外にも少ないのです。しかしながら、この小さい国には代々王が存在していたことも記されています。そこには地域の長官のような役人もいました。しかも邪馬台国の女王に魏からの文物が届けられる際は、その港で検閲が行われていたという場所でもあり、往来する高官が常に留まる場所であったことから、陸海の交通に便利な地理的条件に恵まれた中継地点であったに違いありません。また、王が存在することから行政の中心地の1つとして考えられ、その地域的重要性は疑う余地がありません。

これらの背景から察するに、伊都国とは統治者が権威をもって政治を執り成していた古代の港町であったと考えられます。よって、町の近くには海や大きな入り江、港湾が存在し、朝鮮半島からだけでなく、倭国の東部、つまり九州の東海岸、瀬戸内海沿いの地域からのアクセスにも優れた極めて利便性の高い、地の利に恵まれていた場所であったと言えます。ただし、その戸数から察するに、王や長官が存在する国としては、その地形上、国の人口と規模はとても小さいものでした。

その地の利を活かした伊都国こそ、北九州八幡ではないかと考えられるのです。八幡のイメージは、著名な八幡製鉄所を中心とした近代工業都市であり、今日の地図を見る限り、大きな都市として目に映ることから、「千余戸」の記述は一見、矛盾しているように思えてしまいます。ところが八幡の歴史を調べてみると、近代工業化する以前の八幡地域はほとんど開発がされていない、人口が大変少ない地域であったことがわかります。そこは古代の筑前国と豊前国がまたがるエリアですが、当時、北側の広大な洞海湾の入り江が、今よりも地域全体の南側までかなり食い込んでいたため、その真南に聳え建つ皿倉山と洞海湾岸の間には平地があまり存在せず、人家を建造できる場所が比較的限られていました。

縄文時代の古洞海湾と古遠賀湾の姿

温暖な気候になった約5000年前には、北九州市の洞海湾沿岸の平野部はその大半が海面下にあり、洞海湾西側を流れる遠賀川の下流にも大きな湾が形成され、それぞれが、古洞海湾、古遠賀湾と呼ばれていました。新延貝塚、楠橋貝塚が、古遠賀湾沿いに発掘され、その周辺まで海から湾が伸びていたことが確認され、それらは奥湾性貝塚とも呼ばれています。また、遠賀川の下流から古洞海湾は江川と呼ばれる川によって繋がっていました。今日では洞海湾の南西からは堀川が遠賀川に繋がっていますが、これは江戸時代初期に、遠賀川流域の治水用水路として福岡藩が造成を始め、1804年に全長12kmの堀川が開通したにすぎません。

このように八幡周辺は、例え居住する平地は小さくとも、古洞海湾と呼ばれる広大な入り江からなる水路に恵まれ、西側は遠賀川、東側は関門海峡へ東西双方に水路でアクセスすることができたのです。しかも陸地では東西双方向に平野が続き、九州東海岸から西側の宗像方面まで、陸路を使って簡単に行き来できるという優れた立地条件を備えていました。これが、八幡が「千余戸」の規模しかない小さい規模の国であっても、重要な都市であった理由です。「魏略」に書かれている「戸万余」の方を正しいとする説もありますが、魏略は誤字が多いことで知られ、魏志倭人伝の信ぴょう性は魏略に勝ることからしても、地理的な要因により、戸数が増えなかったと推定して間違いないでしょう。

地の利を活かした八幡の証

古代社会において、八幡の地には交通網と政治の中心となるべく、諸条件が備わっていました。その象徴として聳え立つのが、八幡の南側に富士山のように頂上が平らな姿を誇示する皿倉山です。その西側には帆柱山があり、双方の山には神功皇后に纏わる言い伝えが複数存在します。帆柱山は、そこから神功皇后がお乗りになられた御座船を作るための木材が切り出されたと言われている山があります。皿倉山も神功皇后の言い伝えが残されている伝説の山です。その山頂から少し下がった東斜面の岩場に国見岩があり、神功皇后はその岩場に立ち、周防、筑紫、豊国を望見されたという伝説の名所です。そこからは今日でも八幡の全貌とその向こうに洞海湾を一望できるだけでなく、東を向けば足立山から周防灘の海岸線を見渡すことができます。また西側にはその背後に宗像を控える湯川山までの平野部全体を眺めることができ、遠賀川の遥か遠い先の地平線には沖ノ島を見ることができるのです。更に年に数日は対馬までも目にすることができるという絶好の展望地点である故、まさに「国見岩」という名前に相応しい名所です。

八幡が重大な戦略的拠点であるということは、一度、皿倉山の頂上に登ればすぐにわかります。国見岩では頂上を背にするため、南側まで見ることができませんが、さらに100数十mほど登ると頂上に至り、360度パノラマで北九州全域を見渡すことができるのです。そこからは国見岩と同様に湯川山から東海岸までを一望できるだけでなく、南側に並ぶ九州の美しい山並みも見渡せる絶好のロケーションです。そのような山の麓にある八幡は、国々を見渡す展望台となる山が隣接して聳え立つことから、行政上の戦略的拠点であり、まさに、東西の文化と人々が交流するメルティング・ポットになったのです。そして皿倉山の頂上に立つとき、今日でも八幡の存在がいかに重要であったかを、上からの目線で確かめることができます。

伊都の語源はメルティング・ポット

「伊都」の語源については諸説がありますが、どれも定説には至っていません。そこでまず、日本列島固有の古語であるアイヌ語で考察してみました。「i-to」という発音を前提で検証すると、アイヌ語では「イ」が「場所」を意味する言葉、もしくは単に発声の助辞であり、「ト」が「沼」、「湖」を意味することから、「大きい沼のある地」と解釈することができます。また類似した発音を持つ「etok」というアイヌ語もあり、これは「沼の奥」を意味する言葉です。いずれにしても、アイヌ語では大きな沼地に関わる土地柄の言葉と理解できることに変わりありません。

また「伊都」の「ト」の発音は、実際には中国語のtu、douに近い「トゥ」であることから、「伊都」の発音は「イト」よりもむしろ「イトゥ」に近いということに着眼することも重要です。その「イトゥ」という発音の言葉がヘブライ語でもあります。eetookh、イトゥ(eetookh、イトゥ)の語源には、「融ける」、「融合する」という意味が込めており、「メルティング・ポット」、すなわち異質のものが互いに合流して交わり、融合する、という言葉として用いられます。伊都国という場所は前述したとおり、その地域柄、海を離れた海外からの使者と倭国の民が出会い、異質の文化が交錯する中間地点のような存在であったが故、まさに「メルティング・ポット」という代名詞が合致する場所であったと言えます。

「伊都」の語源については定かではありませんが、古代八幡の地は確かに大きな沼地とも言える古洞海湾沿いにあり、また、そこは重要な政治や文化の「メルティング・ポット」となるに相応しい立地条件が揃っていたことから、アイヌ語とヘブライ語、双方の言葉がその語源として関わっていた可能性があります。

八幡の宗教的背景に潜む南ユダ王国

八幡周辺の地名を地図で見ると、京都の地名を彷彿させるさまざまな名称が目に付きます。八幡の北東には天神、南西には幸神、南には神山町、そして東には山王と諏訪、西には東王子、西王子、南王子町等、神への信仰に纏わる地名が盛りだくさんです。そして町の中心には祇園と天神町があります。京都の祇園と同様に、「ギオン」という言葉のルーツは、イスラエルのシオンであると考えられます。ヘブライ語ではシオンを「ジィオン」と発音することから、その言葉は祇園の発音と酷似しています。それだけでなく、祇園祭りそのものに、イスラエル文化との関連性を多く見出せることにも注目です。八幡には、イスラエルの南ユダ王国から渡来してきた民との関連性に繋がる、宗教文化的背景があるようです。

焦点はやはり、「八幡」(ヤハタ、ヤワタ)の読みです。その語源は、「八幡」とほぼ同じ発音を持つヘブライ語のyehuda、ヤフダ(yehuda,ヤフダ)であると考えられます。「ヤフダ」は「ユダ族」、または「南ユダ王国の民」を意味するヘブライ語です。つまり、八幡はイスラエルから渡来してきた南ユダ王国系の移民を象徴する言葉であったと考えられるのです。その結果、ユダ族の王系一族が倭国へ渡来した後、列島内にて拠点とされた地域の数々は八幡(ヤハタ)という名称で呼ばれたのでしょう。それらを代表する町が、北九州八幡、および京都の八幡市です。そしてユダ族の神を祀るため、大陸を横断してきたイスラエルの南ユダ王国系の民は、それぞれの拠点において八幡神社が造営し、いつしか倭国という新天地においても神を祀ることを大切な文化として継承していったのです。

豊山八幡神社
豊山八幡神社
その1つが北九州八幡に建立された豊山八幡神社です。神功皇后がこの地を訪ねてこられた際、八幡に本拠地を構えていた岡県主熊鰐が、宮にて真榊と呼ばれる祭壇の左右に立てる祭具の枝に鏡、剣、瓊の3つの宝を掛けて皇后をお迎えしたと言われています。そして神功皇后が三韓征伐の戦いを終えて後、応神天皇を出産された際に、熊鰐が応神天皇に御衣を献上したことを喜ばれた皇后が、天下豊成らんことを祈念され、豊山と名付けたとも言われています。その後、飛鳥時代より八幡大神が祀られるようになり、平安時代になると豊山八幡神社は現在の豊山の地に移されたのです。

ここで注目したいことは、鰐が生息することのない地域であるにも関わらず、八幡の岡県主の祖が「熊鰐」(ワニ)と呼ばれるだけでなく、「鰐」と同様に獰猛な「熊」という漢字を並べて、それを「ワニ」と当てて呼ぶことです。この奇妙な当て字の理由は何でしょうか。その答えはイスラエルにて祭司の務めを取り仕切っていたレビ族の民にあるようです。古代、日本列島に到来した南ユダ王国の民には、神殿にて仕えていたレビ族の子孫が数多く同行してきました。レビ族には神殿に関するあらゆる任務が割り振られていたことから、民が移動する場合は必ず一緒に旅をしたのです。旧約聖書の歴代誌上6章には、神の「契約の箱」が安置されてから、ソロモンがエルサレムに神殿を造営するまでの間、幕屋と呼ばれた神殿において詠唱者の任務に就いた聖職者と、その子孫が列記されています。その詠唱者として就任したのが前述したケハトとその子孫であり、その中に「バニ」の家系が含まれているのです。レビ族のバニは、ヘブライ語でbani、バニ(bani、バニ)と書きます。バニは、エルサレムの城壁を修復したり(ネヘミヤ3章17節)、神の律法を翻訳して民衆に説明するレビ人(ネヘミヤ8章7節)としても、聖書に登場します。その「バニ」というレビ族の名前が「ワニ」の正体ではないかと考えられます。

「バニ」は、ほかの南ユダ王国の部族やレビ族の兄弟らに先行して日本各地に拠点を設け、そこに「鰐」という地名を自らの拠点の証として残したのでしょう。例えば、対馬の北方、朝鮮半島に最も近い鰐浦もその一例です。こうしてレビ族は列島各地に「鰐族」の拠点を設け、「鰐」の地名をもってその存在が知られるようになったのです。こうしてユダ族の八幡(ヤフダ)と、ともに渡来したレビ族の熊鰐(バニ)のコラボレーションを、古代史の流れの中に垣間見ることができるのです。