1. ホーム
  2. イスラエル神宝と三種の神器
  3.  

聖書が証する神宝持出しの真実

預言者イザヤが神宝をイスラエル神殿から持ち出して、東方の島々に向かったという説は、聖書の記述からその根拠が理解できないわけではありません。イスラエルの歴史を聖書から辿ると、確かにイザヤは突然、南ユダ王国のエルサレムから姿を消して、どこかへ去って行ったように見受けられます。ヘゼキヤ王が病床に伏せた際、王と共に神に祈ったイザヤはその後、どこに行ったのでしょうか? また、エルサレム神殿に仕えていたイザヤにとって、そこに保管されていた契約の箱と神宝は、神の臨在を象徴するものであり、何よりも大切だったはずです。国家が滅びる預言を神から授けられていただけに、イザヤがその大切な神宝を置き去りにしてエルサレム神殿を去るとは考えられないのです。幸いにも、旧約聖書のイザヤ書8章には、イザヤがエルサレム神殿から神宝を持ち出すことを証していると思われる記述が潜んでいることがわかりました。

イザヤ書8章16節に注目しましょう。聖書には言葉遣いや多少の解釈の違いに応じてさまざまな翻訳が存在し、今日では複数の日本語翻訳が出回っています。そのうち、主な翻訳文から本節を抜粋しました。そこにはこう書かれています。

「證詞をつかね律法をわが弟子のうちに封べし」(文語訳) 「わたしは、あかしを一つにまとめ、教をわが弟子たちのうちに封じておこう。」(口語訳) 「このあかしをたばねよ。このおしえを私の弟子たちの心の内に封ぜよ。」(新改訳) 「わたしは弟子たちと共に証の書を守り、教えを封じておこう」(新共同訳) 「証を包み、私の弟子達の中で律法の周りに封印せよ!」(新世界訳)

この句には2つのテーマが含まれています。まずは、神の「証」であり、その証をまとめて束ねるということです。もう一つはイザヤの弟子達のうちに、その「証」を封じ込めることです。ごく一般的に、神の「証」はイザヤが語った神からの預言であると理解されています。しかしながら、イザヤによって大胆に語られ、周囲の人々にも知れ渡っている予言を何故、弟子達は心のうちに封じる必要があったのでしょうか。大勢の民が既にその言葉を耳にしていることからしても、神の預言を真摯に受け止めたイザヤの弟子らが、それらの言葉をあらためて封じる理由が見い出せません。

この聖句を正しく理解するため、まず、イザヤ書の8章から9章前半にかけて、その文脈の流れを振り返ってみましょう。まず8章の前半では、「速やかな略奪」という神から与えられた子供の名前に象徴される通り、もうじきダマスコが陥落し、北イスラエル王国の首都サマリアも占領下におかれるという預言について記載されています。しかしながら、たとえ国家が崩壊する最中であっても、神を信じ、「神が共におられる」という一大テーマのもと、他国との同盟なども考えずに神だけを頼れば、諸国の民がいかに連合しても、微塵に砕くことができることを、神は約束されたのです。ところが、イスラエルの民は南北ともに多くの国民が神の教えを拒絶してしまい、神聖なる場所に住まわれるはずの神がそこに訪れることはなかったのです。そして前述した8章16節の言葉へと続きます。そして8章後半から9章にかけては、神からの救いの道が語られています。そこにはまず、イザヤに委ねられた子供が、イスラエルの奇跡となることが約束されます。そして暗闇の中でも人々が光を見出し、一人の男の子が指導者としてダビデの王座に着き、王国を治めるようになると預言されたのです。イスラエルの不信仰にも関わらず、神は救いの道を残してくださり、たとえ国家が滅びても、神が約束されたダビデ王系の流れは途切れることがないことを示されたのです。

これまでの一般的なイザヤ書8章16節における解釈では、「証」をイザヤ書に記載されている預言とし、それを弟子達が封じるというものでした。しかしながら、その解釈では前後の話の流れからしても不自然です。国家の崩壊を間近にして預言が語られ、救いの道まで示されているのに、何故、予言の証をまとめて、弟子たちが封印する必要があったのでしょうか。イザヤの預言については既に公に語られた言葉であり、大勢の民が拒絶したこともわかっていることからしても、もはや封印する意味はなかったはずです。また、たとえ封印するにしても、その預言のどの部分なのかが不透明です。8章から9章にかけての裁きや救いに関する部分か、イザヤ書全部か、律法に関する事項か、等です。もし、神が約束された、幼子によるダビデ王系の継承についての預言を封印するとしても、それが実現するかしないかはすぐにわかることであり、さほど意味がありません。いずれにしても、預言を封印するということは、その言葉が語られずして、後世に委ねられるということに他ならないことから、イザヤによる預言の言葉を封じることとは考えづらいのです。

8章16節の原語であるヘブライ語を預言の話の流れに合わせて正しく解釈することにより、この謎が解けます。キーワードは「証」を意味するteudah、テウダ(teudah、テウダ)というヘブライ語です。この言葉はごく一般的に英語ではtestimony、日本語では「証」と訳されることが多いため、その証という言葉の通り、イザヤ書に書かれている預言を指していると考えるのが普通です。ところが原語のヘブライ語には、もっと深いニュアンスが込められています。つまり、表面的な意味は「証」であっても、それがどういう証であるか、どういう状況下で使われる言葉であるか、ということに注目する必要があります。

「証」という言葉のルーツには、edut、エドゥ(edut、エドゥ)というヘブライ語が存在します。この言葉は、旧約聖書の複数個所に見出され、証を意味する言葉として3通りの種類に分けて用いられていることがわかります。まず最初の意味は、モーセの十戒が印された「2枚の石の板」による聖なる神宝の証です。出エジプト31章18節、32章15節、34章29節に同じ言葉が繰り返し使われていますが、どれも「証の2枚板」、sheni lookhot edut、シェネィ・ルホッ・ヘェドゥ(sheni lookhot edut、シェネィ・ルホッ・エドゥ)という3つの単語からなる言葉の組み合わせが用いられています。次は、契約の箱による証です。出エジプト25章22節、26章33,34節や民数記4章5節、ヨシュア記4章16節等、多くの箇所に、aron edut、アロン・ヘェドゥ(aron edut、アロン・エドゥ)という「証の箱」を意味する言葉として使われています。3つ目の意味は「証の幕屋」です。幕屋とは前述の通り、神の契約の箱、「証の箱」が安置される移動式の礼拝所です。出エジプト38章21節、民数記1章50、53節、10章11節には、「幕屋の証」を意味するmishkan edut、ミシュカン・ヘェドゥ(mishkan edut、ミシュカン・エドゥ)という言葉が用いられています。

つまり、「証」と訳されているヘブライ語の原語は、聖書が書かれた時代において、聖なる神宝に関わる「証」に関連する言葉として使われていたのです。そして具体的には、モーゼの十戒が彫られた2枚の石の板、それらを収納する契約の箱、そして契約の箱を安置する幕屋という、3種類の神の聖所に関連した証の言葉として用いられていたのです。それ故、イザヤ書8章に書かれている「証」という言葉は、イザヤが語った「預言の証」と解釈するよりも、むしろ、「神宝の証」と理解した方が、より原語が持つ言葉のニュアンスに忠実な解釈であると言えます。

それではこの、「聖なる神宝の証」をどのようにして「束ね」、または「まとめる」ことができると解釈できるのでしょうか。そもそもこれまでは、「証」が「預言の言葉」を意味することを前提としていた訳ですから、それを「束ねて」「まとめる」、という表現でも何ら遜色はなかったのです。「束ねる」というヘブライ語は、tsur、ツ−ァ(tsur、ツ−ァ)です。英語ではconfine、bind、besiegeという意味となり、日本語では「閉じ込める」「束ねる」「包する」という意味で考えることができます。それ故、「証」を預言書の言葉とする場合、それらをBind Up、すなわち「束ねる」「まとめる」と解したのです。

ところが「証」という言葉の本来の意味は、「預言の言葉」ではなく、「神宝の証」と訳されるべきであることから、今一度、ヘブライ語の原語の意味を確認する必要があります。聖書における「ツ−ァ」の使用例を検証し、言葉の用法を理解した上で、正しい意味に解釈することができます。「ツ−ァ」には「まとめる」という意味の他に、英語のConfine、Secure、「しっかり閉める」「厳重に保管する」という意味もあります。その凡例が申命記14章25節に記されており、ここでは「ツ−ァ」は「(金を)包む」意味で使われています。また、エゼキエル5章3節でも同様に「(毛を着物の裾に)包む」という使い方が見られます。どちらも「包む」と訳すのが一般的であり、それは大事なものを包んで保管する、という意味に捉えることができます。すると、以前は「証を束ねる」と訳されていた言葉が、「神宝を包む」という意味になりますが、日本語ではあまり感心できない表現です。

そこで、「ツーァ」のもう一つの意味である、「保管する」「保護する」という意味に置き換えて考えてみました。するとイザヤ書8章16節の言葉は、「神宝の証を厳重に保管する」、「神宝を保護する」、「聖なる神宝を保管する」という意味になり、文脈の流れからしてもつじつまが合うようになります。イザヤ書に記されたメッセージの意味は、「神宝の証を厳重に保管し、弟子らは律法を封じ、それを守れ!」ということだったのです。イザヤ書の話の流れからは、イスラエルの民が聖所に住まわれる神を拒絶したため、もはや神殿には神が不在であったことがわかります。それは神の存在の象徴である契約の箱や神宝が取り除かれることを意味していました。国家が滅びゆく最中、これから破壊されると予言された神殿に、モーセの時代以来、何世紀にもわたり大切に保管されてきた契約の箱と神宝を、イスラエルの預言者、祭司、レビ人が置き去りにすること等、到底考えられません。大切な神宝だからこそ、神殿から持ち出して、厳重に保護する必要があったのです。そしてそれを実行する弟子たちは、その移設の事実については「封じる」、すなわち、口を閉ざすことが定められたのです。それ故、イスラエルの神宝がどこに移設されたかは歴史の謎となり、今日までその場所は秘められてきたのです。

このように解釈すると、イザヤ書8章から9章全体の流れがとてもわかりやすくなり、聖書のメッセージが明確になります。「北イスラエル王国の崩壊を目の当たりにし、神のみ頼るはずが、南北双方の民は共に背信行為に走った。よって国家は滅びる。それ故、神宝の証である契約の箱を厳重に保管できる場所に移設し、弟子たちはこの教えを(時がくるまで)封印せよ。その後、イスラエルの奇跡となる約束の子が現れ、彼に望みを託せよ。ダビデ王朝は復活し、民は大いなる光を見出す。」これが、イザヤ書が発した預言のメッセージの内容だったのです。このイザヤの預言により励ましを受けたイザヤの弟子達は、イスラエル王国の復活に希望を抱きながら、エルサレム神殿より契約の箱と共に律法が刻まれている2枚の石の板を持ち出し、その在りかと真実を、弟子達の内に封印したのです。

イザヤの導きにより、エルサレム神殿から神宝が持ち運ばれたことを、聖書は明確に証していたのです。その預言の言葉を信じ、実際に神宝を神殿から持ち出すという勇気ある行動をとったイザヤ、及びイザヤの弟子達より、神が約束されたダビデの王座は、新天地においても継続することとなりました。神の王国は、とこしえまで絶えることがないのです。