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疑問が尽きぬ邪馬台国の真相

遠い昔、日本列島のどこかに邪馬台国と呼ばれる王国が倭国の中心として栄え、その存在は海を越えた中国でも知られるようになりました。邪馬台国に属する民の出自は定かではありませんが、東アジアの歴史や文化的背景だけでなく、後述する地理的要因や日本列島に散らばる各種遺跡、祭祀跡などを総合的に考慮すると、前7世紀ごろに西アジアから到来した少数の南ユダ王国に属するイスラエル民族が、その背景に潜んでいた可能性が浮かび上がってきます。日本列島では何世紀もの間、少数のイスラエル民族と長年にわたり土着する縄文人らが、それぞれの領地を拡大しながら共存し、およそ穏やかに暮らしていたという前提で古代史を振り返ることにより、歴史の流れがより明確になります。

君子の国に合流する渡来人

前1〜2世紀、大陸では秦の崩壊を機に民族移動の動きがあり、朝鮮半島から日本列島に向けて、西アジア系の東夷を中心とする渡来人の流入が始まります。そして2〜3世紀にはその数はピークに達し、最終的には100万とも200万とも考えられる膨大な数の渡来人が海を越え北九州界隈から入国してきたのです。渡来する民族の中には南ユダ王国系に限らず、北イスラエル系や、そのほか、東夷に関わる諸民族も含まれていたと考えられます。三国志によると、倭国は前漢の時代「百余の国々に分かれていて、漢の時代には朝見して来る国もありました」と記されており、このように短期間に多くの国々が倭国に台頭した理由は、渡来人の存在なくしては語ることができません。

渡来人は安住の地を求めて日本列島各地を移動しながらも、特にイスラエル系渡来人の多くは、先祖代々、民族の憧れでもあり、東の島々にあると語り継がれてきた「君子の国」「長寿の国」を目指したことでしょう。やがて、それまで何世紀もの間ベールに包まれていた「君子の国」に辿り着き、そのお膝元とも言える周辺の地域に国造りをしました。そして、古代イスラエル文化を踏襲してきた「君子の国」につき従うように、いつしかともに国家形成を担うようになったのです。その結果、それまで謎めいていた「君子の国」の存在が徐々に浮き彫りとなり、邪馬台国の基となっていきます。日本の歴史が激変する新しい時代の幕開けです。

邪馬台国の台頭と卑弥呼

1世紀ごろ、諸王の長として大倭王が邪馬台国を治め、倭国の中からおよそ30国が中国と通好したことが後漢書に記されています。これら30国の首長は、「みな王と称して、代々その系統を伝えている」という記述から、そのルーツがかなり昔まで遡ることがわかります。家系と伝統を重んじる諸王が、複数の部族に分かれて倭国の統治に携わっていた背景には、戸籍と文字の存在があったに違いなく、血統を大事にしたイスラエル系の民族の流れをくんでいたと考えられます。

その後、2世紀後半から倭国は乱れ、長期間にわたり国内で騒乱が続きました。その大きな要因として、渡来人の波がピークを迎えたこのころ、現住民との緊張度が頂点に達しただけでなく、それまでとは異なる宗教文化を携えた部族も大勢渡来し、各地で対立が生じたことが考えられます。そして王位の継承や統治に関わる問題に加え、都の立地条件や宗教儀式、神宝の保管など、国家の尊厳と在り方そのものに関わる問題が浮上したことも、統制が著しく乱れる原因となりました。

大混乱に陥った倭国ではありますが、2世紀末に卑弥呼が即位して国を治めることにより、国家の混乱は一旦収拾し、平穏な時代を迎えることになります。膨大な数に上る渡来人の到来だけでなく、数々の地域紛争や、複雑な諸問題に対し、卑弥呼はその鋭い霊力をもって先頭に立ち、邪馬台国を導きます。三国志や梁書、晋書によると、卑弥呼が帯方郡に使節を初めて送ったのは魏の時代、景初3年、239年のことです。そして女王卑弥呼の存在は魏からも認知され、親魏倭王の封号を得ただけでなく、実際に国家の統治も規律正しく行われるようになります。

しかしながら邪馬台国の水面下では、新しい都の造営を目論む機運もあり、特に秦氏のように独自の宗教歴史観に基づき、着々と地盤を広げていく民もいました。そして卑弥呼は248年ごろ、狗奴国との戦いにおいて力尽き、死去してしまいます。その後、男王が王位を継承するも、再び国家は乱れ、台与(臺与)と呼ばれる女王が王位を継承するまで、混乱は続きます。そして266年、倭の女王の使者が朝貢したと伝えられる晋書の記述を最後に、倭国に関わる歴史の情報は中国の史書から1世紀半の間、途絶えることになり、およそ150年という空白の時代を迎えるのです。

疑問が尽きぬ邪馬台国の真相とは…

邪馬台国の存在は史実であり、古代日本史の中核となる重要な位置を占めています。ところが、主に魏志倭人伝や後漢書倭伝などの史書に残されている記述を頼りに邪馬台国を理解しようにも、その解釈には定説がなく、特にその場所については見解の相違が著しいことは周知の事実です。また、昨今の「卑弥呼の墓」の遺跡発掘調査の結果などから、これまで主流となってきた近畿説と北九州説の2大説の内、近畿説の方に、より分があるという方向性が見え始めているようです。しかし、例え卑弥呼の墓の場所が確認されたとしても、邪馬台国を探すための手掛かりにはなるものの、その場所を確定する根拠としてはいささか不十分であり、依然として多分に議論の余地を残すことになります。

一見、歩み寄りが難しそうな邪馬台国の論争ですが、史書をそのまま読み通して文面のとおりに解釈することで、糸口を見出すことができそうです。そのためには、まず日本列島を含む東アジアの歴史の流れを把握することが重要であり、史書に含まれる東夷伝の背景にある民族移動の流れを理解した上で、邪馬台国を構成する民の背景に注視することが不可欠です。

史書から浮かび上がる素朴な疑問

確かに史書の解釈は一筋縄ではいかず、疑問点は尽きません。その重要性の度合いに関係なく思いつくままに列記するならば、例えば以下の10項目などが挙げられます。

  1. 先祖代々にわたり王系を継ぐと言われる民族は元来、日本列島を起源に育まれてきたのか、それともアジア大陸から渡来してきたのか?
  2. 邪馬台国の王は元々男子であったが、何故、卑弥呼という女王を「相談の結果」立てるまで、互いに攻撃し合い、戦争が続いたのか。また、卑弥呼の後も、男王を立てると戦争になり、再度女王が立てられると平和になったのは何故か?
  3. 最後の女王、壹與が3世紀半ばに中国に対して朝貢したのを最後に、およそ150年もの間、史書から倭国に関する記述が見当たらなくなり、「空白の世紀」が生じる理由は何か?
  4. 邪馬台国の場所は、その長い歴史の中で常に同一の場所になければならないか、それともときには場所を移動することもあると考えられるか?
  5. 中国や朝鮮半島から遠く離れたはるか彼方という印象が強いが、九州というアジア大陸に直近する島という可能性もあるか。また、そこは山上の国か、平野部に広がる国か?
  6. 「海中の洲島の上に絶在していて、或いは絶え、或いは連なり、一周して戻って来るのに五千里ばかりである。」と記載されていることから、邪馬台国は、海に囲まれた大きな島の上に存在するのではないのか?
  7. 史書に記載されている距離感覚、地理感において、1里はおよそ何kmを意味するか、また、その当時の距離感や計測値は信頼できるデータと言えるか?
  8. 邪馬台国にたどり着くためには海を渡り、陸を旅するという、いわゆる水行と陸行を繰り返すことになるが、何故、一度船で渡り、そこから内陸に入り、再び海を渡る必要があるのか。また、そうしなければ目的地に到達することはできないのか?
  9. 何故、四季を通じて野菜が育ち、温暖であるはずの邪馬台国では、「牛・馬…羊など」の家畜が存在せず、邪馬台国の民は野菜を中心に食しているのか?
  10. 卑弥呼の高貴なイメージとは打って変わり、邪馬台国の人は「手づかみで飲食し」、「裸足で生活し」、衣服については「ただ結び束ねているだけで、ほとんど縫っていない」という原始的なライフスタイルなのか?

特に邪馬台国の場所に関しては疑問点が山積みです。これまでの諸説では、史書は古文書でもあることから、その記述には間違いがあっても仕方ないという前提に立ち、誤植に限らず、方角や距離の間違いや、難しい箇所は倭国を良く理解していないなどと解釈することで、辻褄を合わせる傾向が多く見受けられます。また距離の理解に関しても、九州説などでは放射説のような解釈を用いて、数字の流れに矛盾が生じないよう試みられています。しかし、不自然な流れは否めず、問題の根本的な解決には至っていないようです。そもそも楽浪郡の境界から1万2000里も離れていると複数の史書に明記され、中国よりはるか彼方に存在する神秘的なイメージの邪馬台国が、朝鮮半島の目と鼻の先である九州に存在する可能性があったのでしょうか。実際に北九州地域は、前2世紀から3世紀にかけて怒涛のごとく朝鮮半島からの移民が渡来した際に、最初に上陸する倭国の窓口であり、外国からの影響を受けやすかった場所です。しかも国家の防衛という見地から考えても利点があまり見当たらない九州に、古代文明人が貴重な神宝を保管し、そこで古代文化が長年、育まれてきたかと考えると、疑わざるを得ません。また、九州に邪馬台国の土台が育まれてきたとするならば、日本と中国との間で長年にわたりもっと緊密な交流があって然るべきですし、倭国に関する記述も後漢書や三国志の魏志倭人伝のような微量では収まらないはずです。

また、邪馬台国は海に囲まれている島の上にあり、山々が多いとされ、また水行、陸行を混ぜた渡航経路や、史書に記載されているままの方角、距離感覚からしても、それが近畿地方、奈良の盆地とは考えにくく、史書の誤植や識者の間違い、情報不足という前提で解釈しなければ説が成り立たないようでは、どうにも納得できません。ましてや、その女王国(邪馬台国)から東へ千里海を渡ると別の島に行けるという記述からしても、邪馬台国の東側には別の島が存在しなければならず、その点でも疑問が残ります。