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瀬戸内海が邪馬台国へ向かう通過点である理由

邪馬台国へ向けて国東半島から海を渡り、佐田岬を通って今治方面に航海を続けている内に、ふと気が付くと、瀬戸内の海原が広がり、多くの美しい島々が点在している光景が目に映ります。瀬戸内海こそ古代社会における最も重要な交通網であり、航海技術を有する海人族らは、持てる力を思う存分発揮して東西を行き交いながら、文化の発展に大きく貢献しました。そして海人族の助けを得て、多くの民は海を渡り住み、瀬戸内海は人と物が頻繁に行き交う古代の大動脈となったのです。

その瀬戸内海を東方に向けて舟で航海する先に、果たして邪馬台国が存在したのでしょうか。古代社会における瀬戸内海の文化的背景と人の流れ、そしてそれに伴う集落形成の在り方を見直すことにより、瀬戸内海の航海路が邪馬台国へと繋がる道中の通過点である可能性を探ることができるかもしれません。早速、その真相に迫ってみましょう。

瀬戸内海は古代社会の主要交通網

瀬戸内海は一見して、幅の狭い海峡が続く細長い海原であることから、およそ安全に航海できるものと思われがちです。ところが実際は海の難所が続き、航海には大変な危険が伴うのです。潮の流れというものは、広い灘で海底がおよそ平らな場所ではゆっくりと動き、逆に狭い海峡で、しかも海底に起伏の多い場所では急流となりがちなのです。その急潮の象徴が瀬戸内海です。例えば今治の沖、大島との間で知られる来島海峡は、その海峡の幅こそ4〜5kmしかないものの、日本三大急潮の1つとして知られています。その実態は、近隣の海辺で海水浴をするだけですぐにわかります。あっという間に数mも流されてしまう程、潮の流れが急なのです。また、漁業においては潮流が速いだけに網を使うことが難しく、しかも水深が深く、潜水にも適さない海域であることが、遠い昔から一本釣漁が瀬戸内で広まっている所以です。

オランダ商館付き医師として長崎に来られ、蘭学の発展に大きく寄与したシーボルト氏は、長崎と江戸を行き来する際に瀬戸内海の航海を体験し、その危険な海の旅について以下のように記しています。「(瀬戸内海)の海を形成する沿岸の地形は大変不規則であり、細長い岬や、山の斜面が突出して海峡に現れ、深い入江や湾岸も随所にある。周辺の島々は海の間に広がり海峡を随所に形成するが、外国船にとってはこのような迷路をくぐって瀬戸内海を航海することは極めて難しい」。シーボルトは、瀬戸内海の潮流が激しく、島々の周辺に見え隠れする岩礁や浅瀬などの障害物で、舟が破壊されてしまう危険性を見逃さなかったのです。

それ程までに危険な瀬戸内海の海原が、実は国生み神話の背景となりました。そして淡路を基点として瀬戸内海の島々が網羅され、いつしか東西を行き来する海路が海人族らによって見出されていくのです。古代の航海路は、海人の文化を中心に考えなければ理解しようがなく、その影響は瀬戸内海周辺に限らず、西は九州北部の宗像から壱岐、対馬方面、そして山陰の沿岸にまで至ります。また、古事記や日本書紀に記されている海人の拠点は、それに関連すると思われる海部、尼崎、阿万、阿摩、阿南等の地名と照らし合わせるだけで見分けがつくことから、特に淡路周辺には海人族の拠点が多く存在したと考えられます。こうして海人族の活躍により、東西を行き来する際に必ず通り抜けなければならない瀬戸内の航海路は、古代日本社会における主要交通網として発展し続けたのです。

しかしながら瀬戸内海の航海は、その危険度において、対馬、壱岐から宗像に渡る途中の玄界灘や響灘に劣るものではありませんでした。そのため、北九州では古くから志賀海神社が海神社、綿津見神社の総本宮として、そこに祀られた神々が海の守護神として厚く信仰されてきたように、瀬戸内海の東端、香川県では金刀比羅宮が象頭山の山麓に造営され、「金毘羅さん」という呼び名の元に、海上守護の神として古代から多くの人に親しまれるようになりました。そして讃岐地方を発端に、航海の神として知られる金毘羅信仰は盛んになり、舟に乗る者は、時には流し樽を海に流して、舟旅の安全を願ったものでした。

「金毘羅」信仰の由来は定かではありませんが、史書に登場する大物主命が象頭山にて祀りごとをした跡に、金刀比羅神社の元となる社が造営されたとも言われています。「金毘羅」という名前自体は、インドのバラモン教における神の1つである「クンピーラ」がその語源である可能性が高く、一般的に梵語で鰐を意味することから、鰐が竜王と同一視され、その外来の神が「コンピーラ」と呼ばれるようになり、それが竜王信仰、しいては海神信仰に繋がり、定着したと考えられます。前述したとおり、「鰐」という名称は、海人一族らの背景に潜むイスラエルの祭司レビ族の内、鰐(バニ)族がその出自である可能性があります。その鰐族は、日本各地に自らの拠点となる集落を設けるにつれて、場所ごとに鰐という名前を残したのです。そして西の志賀海神社の先、伊都国に拠点を設けたように、瀬戸内海を隔てた東方の四国でも、その沿岸に建立された金刀比羅神社において、鰐、すなわち「コンピーラ」の神を祀り、海人一族らは古代から日本の東西両端において、海上安全を祈願したのではないでしょうか。

また、金刀比羅神社のある香川県の西北部は、瀬戸内海周辺における重要な旅の拠点となっていたことから、必然的にそこから陸地の交通網も発展しました。古くから「四国の道は金毘羅に通じる」と語り継がれてきたとおりです。金刀比羅神社のある象頭山は、古代においては入江となっていた可能性もあり、西には伊予、南は高知、東は高松、丸亀、そして淡路方面まで通じる道が出来上がっていたのです。こうして海上交通の守護神である金比羅が祀られる金刀比羅神社は、陸上交通の拠点ともなり、各地に金毘羅信仰が広がりを見せながら、全国神へとその名声を高めるようになります。

突如として出現した高地性集落の謎

古代社会において海上交通網が徐々に発展していく弥生時代の最中、稲作の文化を携えた渡来人が、大陸から訪れ始めます。九州北部から流入した新しい文化の流れは、短期間のうちに広がりを見せ、東北地方までも含めた列島各地に弥生集落が見られるようになります。弥生時代の遺跡は全国各地から出土していますが、その分布図を時代ごとに検証することにより、渡来人が列島を移動する形跡を垣間見ることができます。

弥生中期後半の高地性集落、及び瀬戸内海中部、島出土の弥生銅器
弥生中期後半の高地性集落、及び瀬戸内海中部、島出土の弥生銅器

弥生時代でも中期後半に入ると、新しい渡来人の波が押し寄せ始め、北九州や近畿、東海だけでなく、日本海や太平洋沿岸でも至るところに集落が作られ、北海道までもその影響が及びます。そして徐々に沿岸と内陸、相互において人と物の動きが活発化するにつれ、列島各地に交通網ができあがりました。中でも主たる交通網は、北九州から瀬戸内海を渡り、東方へ向かう航海路でした。九州北部には多くの集落が発展しましたが、弥生時代における人の流れはそこに留まることなく、大勢の民は周防灘の沿岸から瀬戸内海方面に渡り、そこから四国、近畿、中部、東海等、他の地域へと向かう者も少なくなかったのです。

弥生時代に大勢の渡来人が瀬戸内海に到来したことは、周辺の地域に見つかった弥生遺跡の数からしても明らかです。しかしながら内海に浮かぶ島々の土壌は、稲作ができるような平地は少なく、例え存在したとしても狭く、海砂の堆積した土壌や湿地、そして背後には山しかないような場所が殆どでした。ところが、それら一見して居住に相応しくないと思われる海岸で出土した遺跡からも、弥生時代のものと考えられる木葉文壺や重孤文壺などの土器が多数発掘されたのです。つまり生活に不便な島々周辺の地域においても、古代の人々は舟を用いて島々を巡り渡り、砂浜が不思議と生活の場に関わっていたことがわかります。それにしても、瀬戸内海の沿岸には居住に適した平地が存在するのに、何故、わざわざ住みにくい島々に出向く必要があったのでしょうか。

更に不思議なことに、弥生集落が全国各地へ発展するのと時期を同じく、瀬戸内海中部周辺の地域に限り、人の流れが突如として高地に向かい出し、島の山頂周辺に住み始める人々が現れ始めたのです。その結果、特に芸予諸島から淡路島の間では、島々の山頂に多くの高地性集落が出現し、同様の集落は、瀬戸内海沿岸から一部、大阪湾沿いの山々にも広がりました。これらは、その年代がおよそ前1世紀から紀元2世紀の期間、すなわち弥生時代中期の後半にほぼ絞られていることがわかっています。それはちょうど、邪馬台国が台頭する直前の時代でした。

高地性集落の中でも、瀬戸大橋周辺に浮かぶ備讃瀬戸の島々の香川県側では、発掘された石器の量が畿内の大遺跡にも匹敵すると言われる紫雲出山遺跡(標高352m)、空海が堂を建てて山で修行したと伝えられる塩飽諸島、広島の王頭山に隣る心経山(標高300m)、小豆島の西、豊島(てしま)の檀山(標高340m)等が有名です。岡山県では貝塚や竪穴式住居、方形周溝墓を伴う遺跡が見つかった児島山頂の貝殻山遺跡(標高284m)や、倉敷市の種松山遺跡(標高180m)があります。また、今治の沖、愛媛と広島の間に浮かぶ芸予諸島でも発見されており、大島の八幡山、伯方島の宝股山、大三島の鷲ヶ頭山、岩城島の積善山、生名島の立石山等、多くの島々の頂上に高地性集落の跡が見つかっています。更に兵庫県側の播磨灘では、島全体が花崗岩質でありながら、弥生土器や石鏃、農耕具、漁撈具が出土した男鹿島(たんがしま)の大山神社遺跡(標高220m)が有名です。昨今では、淡路島において弥生遺跡の発掘が継続して進められており、石上神社周辺の舟木遺跡(標高150m)では、多くの弥生土器が出土しています。

これらの高地性集落の遺跡から出土した弥生時代の遺物の中には、銅鐸や青銅の剣、矛や、石を材料として作られた鏃のような武器、鉄製の釣り具だけでなく、時には吉備の児島にある貝塚遺跡からの遺物のように、鹿や猪などの獣骨が一緒に見つかる場合もありました。これは、伝統的な暮らしである漁撈生活を基軸とした生活手段を持ちながらも、人が住む居宅はその海辺から遠く離れた山の上に置き、しかもそこでは動物の生贄が捧げられ、何らかの祭祀的な宗教儀式が行われていた可能性を示唆するものです。また、淡路島の舟木のように、単に弥生遺跡が出土するだけでなく、信仰の対象となる磐座周辺には人為的に巨岩が並べられることがあり、そこで祭祀活動が行われていたと推察できるような遺跡も存在します。

舟木から南西6kmの場所で発掘された垣内遺跡(標高200m)からは、弥生時代後期の大規模な鉄器製造施設跡も見つかりました。平野部が少なく、山々が連なる特有の地形を持つ淡路島では、想像以上に遠い昔から青銅器が用いられていただけでなく、その後、製鉄技術も培われていたのです。青銅器については、淡路島の古津路遺跡からだけでも中細形銅剣が14個、銅鐸においては島全体から20個も出土しています。青銅器の需要がそこまであるとは考えられない淡路島で、これだけ多くの青銅器が出土すること自体、鉄器製造の前哨となる青銅器工場が淡路島に存在していた可能性を示唆しています。それは、中国大陸や朝鮮半島から運ばれてくる青銅の素材が、瀬戸内海経由で西から東へと運搬され、淡路周辺の地域において生産された後、物資や食物の代償として島外に運搬されたことを意味しているのではないでしょうか。弥生銅器は他の瀬戸内海の島々や沿岸からも出土しており、淡路島では鉄器製造工場まで存在したということからしても、古代社会における瀬戸内の航海路が物資の輸送において重要な役割を果たし、文化の発展に不可欠な一大動脈となっていたことがわかります。

また、弥生時代に広まる稲作を伴う農耕技術の発展により、魚だけでなく穀物も食するようになるにつれて塩の需要が高まり、土器製塩と呼ばれる古代の製塩技術が、瀬戸内海沿岸から普及し始めたことにも注視する必要があります。特に岡山県と香川県の間にある備讃瀬戸の海域周辺においては、おびただしい数の製塩土器の破片が各地で見つかっています。海水を煮ることで作られた土器製塩による塩の生産は、弥生時代の後半から古墳時代を超えて、奈良時代までも発展し続けました。そして生産された塩は、瀬戸内海沿岸周辺の集落で用いられただけでなく、全国各地の集落に向けて運ばれたと考えられるのです。ここでも瀬戸内海の航海路が重宝されました。

弥生時代中期より急増する大陸からの渡来人の波、そして瀬戸内海界隈にて突如として発展し始めた高地性集落の存在、遺跡から発掘される多くの青銅器や鏃などの武器、及び釣針や土錘等の存在は、瀬戸内海を中心として、人と物が、海と陸、山々を動いていた史実を証しています。ところが、全国各地に弥生集落が発展していく最中、瀬戸内海の中心部に限って局地的に出現した高地性集落の多くが、2〜300年という短い期間で歴史から姿を消していきました。そして集落の住民がどこに移住したか全くわからなくなったちょうどその頃、瀬戸内海沿岸から内陸の奥地へと向かう先には、古代の山上国家が息吹いており、やがて邪馬台国としてその雄姿を歴史に現すことになります。

謎めいた高地性集落の起源

弥生時代中期後半に突如として現れ、短命に終わった高地性集落には、多くの謎が秘められています。一番の問題は、それら高地性集落へのアクセスが容易ではなく、常識を遥かに超えた不便な山上に造られているということに尽きます。瀬戸内海周辺の高地性集落の実態を検証すると、集落の多くには何故かしら、ひたすら山の頂上周辺を目指した傾向が見受けられます。それが「山頂遺跡」とも言われている所以です。芸予諸島や香川県、岡山県界隈の島々で見つかった高地性集落からも、山頂付近には多くの遺跡が見つかり、その標高は200m前後から、高いものでは400m近くにまでなります。これらの集落は、時には山上の斜面や丘陵にも見つかっており、海岸線からは距離も遠く、場合によっては半日以上かけて歩かなければならない程、遠距離にある集落も少なくありません。何故、当時の民は、平野部や農耕地から遠くかけ離れ、居住するにも大変不便な山々の頂上近くにわざわざ集落を形成したのでしょうか。しかも、高地性集落が存在した地域は、瀬戸内海の中部周辺にほぼ限定され、その規模は一時的に拡大することはあっても、倭国王、そして邪馬台国が台頭する時代の前後から、早くも姿を消していくことになるのです。

高地性集落が造られた理由は定かではありません。視界の良い高所、または山頂周辺に形成され、周囲の海岸まで広く見渡して、地域情報を収集することができる立地条件が整っていることが多いことから、防衛的観点から集落を守り、社会的緊張から隔離する目的で、高地に集落が造られたという説があります(図参照)。その背景には、中国の史書にも記載されている倭国の乱れがあり、国内における地域の混乱に備えたのではないかと考える訳です。また、集落周辺では焼け土が発見されることも多く、展望の良い地でもあることから、焼け土は、狼煙の跡ではないかとも言われています。

防衛的機能が問われる高地性集落
防衛的機能が問われる高地性集落

ところが、島々の山頂といっても瀬戸内海の山々は急斜面が多く、陸上の交通に大きな困難が伴うことからしても、人が居住する集落を作るには、常識では到底理解することのできない高低差であることに違いありません。また、海岸線を臨む平野部や農耕地から遠く離れている場所に存在することから、単に行き来が不便なだけでなく、あまりに孤立している為、狼煙を上げることしかできないような場所で、どのような防衛的手段を講じることができたのか、疑問が生じてきます。更に、見晴らしを求めるという目的の為に、山頂まで頻繁に登り降りするという多大な労力を伴う場所に、果たして集落を構える必要があったかも疑問として残ります。しかも山頂には雲や霧がかかりやすく、見晴らしが妨げられる日が多いものです。見晴らしの良い地を求めるならば、もう少し海岸線からアクセスの良い場所に展望所を作ることができたはずですし、集落まで作る必要はなかったのです。

不思議なことに、山頂で見つかった集落の遺跡からは、石包丁や鉄製、及び骨角製の釣り針等が出土し、しかも貝塚まで見つかっていることから、高地性集落に住む古代人の食生活の基盤は、確かに海岸沿いの平野部にあったと考えられます。つまり、高地性集落の民は漁撈を中心とした生活を営み、舟で海を航海することもあり、時には農耕作にも携わり、陸海両方に生活手段の拠点を持ちながらも、その住まいだけは何故かしら、大変不便な険しい山の上に築いていたようなのです。交通の不便な古代の山麓において高地へと移り住み、集落の拠点を山頂に築いて、標高差を数百mも歩いて登り降りしながら、海岸沿いの平野部と山頂を毎日のように行き来するというライフスタイルは、極めて想像し難いものです。生活手段となる食糧の確保は海岸沿いの漁撈を主体としていた時代だけに、高地性集落の目的が防衛手段や、見晴らしの良い展望にあったという説明は、いささか不十分と言えます。

高地性集落の目的とその行方

高地性集落の目的を理解するために、今一度、その歴史的背景を史書の記述と共に、古代海洋文化の発展と照らし合わせながら振り返ってみました。すると7つの大切なキーポイントが浮かび上がってきます。

  1. 古代社会における海の交通網は、航海術を得意とする海人族により列島周辺に発展し、淡路から瀬戸内海を通って北九州周辺の海域まで、東西を行き来する航海路は、古くから存在した。
  2. 高地性集落が現れた瀬戸内海中部周辺の海域は、弥生時代中期以降の集落の発展において、人と物資を輸送するための主要航海路を提供し、交通網の基幹となっていた。
  3. 弥生時代中期後半、突如として渡来人の波が大陸から押し寄せ、北九州界隈だけでなく、近畿地方、そして、中部、東海、関東地方から本州の北部に至るまで、各地で人口が急増し始めた。
  4. 渡来人が大勢到来し始めた時代は、中国大陸において秦王国が滅亡した直後と重なり、中国史書にも記載されているとおり、秦から逃れて一時期朝鮮半島に滞在していた秦氏らが、日本に渡来し始める時期と合致している。
  5. 大陸の文化を携えてきた渡来人が列島各地に拡散し、居住しやすい平野部を中心に集落を築き上げている最中、瀬戸内海中部を囲む地域だけには、全く異質の高地性集落が誕生し、山頂付近に人々が居住した。
  6. 弥生時代において農耕地が徐々に開拓されるにつれて、穀物の消費に必要な塩の生産が瀬戸内周辺を中心に始まり、土器製塩の手法を用いた製塩方法が瀬戸内から全国に普及した。
  7. 高地性集落が徐々に姿を消し始めた時代は、倭国王が台頭し始める年代と重なり、その直後から、邪馬台国が歴史に姿を現すことになる。

これらの史実を参考にして高地性集落の成り立ちを振り返ると、渡来人の流入と邪馬台国の歴史がその背景に絡んでいた可能性が見えてきます。まず、大勢の渡来人が列島を訪れたのと時期を同じくして高地性集落が歴史に姿を現したという時代の一致から、これらの集落は渡来人による影響を多大に受けていたと想定されます。渡来人の到来は史書の記述からも明らかであり、古代社会における人口の推移や増加率を見ても、弥生時代中期後半から移民の波が押し寄せ始めたことがわかります。その渡来人の中心的な存在が秦氏でした。その一行の中には朝鮮半島に近く、居住に適した北九州周辺に留まることなく、そこから更に東の海、瀬戸内海方面に渡る者が少なくなかったのです。つまり、秦氏の中には自らの民族宗教的な価値観故に、九州を超えて、その東方にある瀬戸内海を渡ることを目指した民がいたようです。その結果、北九州地域だけでなく、瀬戸内海沿岸から近畿にかけても短期間に多くの集落が造られて人口が増加したことを、弥生遺跡の分布等を参考に知ることができます。

では何故、その瀬戸内海中部の山々に高地性集落を造る必要があったのでしょうか。一連の歴史の流れから察するに、弥生時代中期後半、山上に集落を形成するという特定の目的意識を持った民族が突如として大陸から訪れ、ひたすら各地の山頂に高地性集落を造成したとしか考えられないのです。その答えが前述した大陸からの渡来人、秦氏の宗教生活観に隠されていました。まず、秦王国から逃れた秦氏ら渡来人は、標高の高い地域に居住することに慣れていました。秦氏は長い年月をかけて大陸を東方に移動しながら、冬の厳しい遼寧省を通りすがり、時には気候の寒い山々に居住を強いられてきました。そして日本に渡る直前には、寒さが厳しく、山岳地帯の多い朝鮮半島の東部で居住していたのです。それだけに、高地性集落の山々が標高3〜400mあったとしても、秦氏一族にとっては何ら負担には感じられなかったことでしょう。

そして高地を目指した何よりも重要な理由は、秦氏の信仰でした。前述した秦氏の宗教的背景や、イザヤ書に基づく聖地に対する考え方を振り返ることにより、何故、秦氏らが東の島々を探し求め、そこに高地性集落を作ることを望んだのか、その思いを理解できるようになります。イスラエル系渡来人の中には秦氏のように、預言者イザヤが残した聖書の言葉を信じ、海を渡ってきた者が多く存在したのでしょう。その信条は以下にまとめられます。

  1. 神が約束された新しい地が東の島々にある(24章15節)。
  2. 神の神殿がある山は一番高く、神聖な場所である(2章2節)。
  3. 神の御手は、聖なる山の上にとどまる(25章10節)。
  4. 神は「岩なる神」である(30章29節)。
  5. 神の山にて神を祀り、犠牲の燔祭を捧げる(25章6節)。
  6. 神の民は高い山に登り、声をあげて賛美する(40章9節)。
  7. 神の栄誉を待ち望んでいる島々に、告げ知らせる(42章4、12節)。
  8. 神の山々は聖なる民によって引き継がれる(65章9節、57章13節)。

長い年月を経てもイスラエルの民族が忘れることのなかった大切なイザヤのメッセージは、神の国を求めて東の島々に到達した際に、成し遂げるべきことを明確に示していました。それは新天地の島々において、その山々の頂点に立ち、いつ、何時、神が訪れても良いように、民の備えをすることでした。その為、瀬戸内海周辺が「東の島々」の最終地点と見定められた暁には、島々の山頂に祭祀を司る聖職者が送り込まれ、山の頂点において聖なる儀式が執り行われたのではないでしょうか。祭祀らは高き山を管理し、それが小集落の形成に繋がったと考えられます。また、山々に潜む際立った自然の岩は「岩の神」の象徴として聖別視され、そこでも神が祀られました。そして山頂においては定期的に燔祭が捧げられ、その為に動物が頂上まで運び込まれて屠られたのです。それ故、その形跡である動物の獣骨が、今日でも発掘されることがあるのです。こうして、神の到来を待ち望んだ秦氏を中心とするイスラエル系渡来人の働きにより、短期間に高地性集落が建てられたのです。

ところが、山上にていくら燔祭を捧げても神は天から訪れることがなかったどころか、下界では、多くの渡来人が列島に流入した結果、現地人との領土争い等も各地で勃発し、国土は混乱し始めていたのです。そして渡来人のリーダーらは悩んだあげく、遥か以前、瀬戸内海の山々の更に向こうの奥地に聳え立つ高山の周辺に、自らの祖先が築き上げてきた大きな集落が存在する事実に遭遇し、統治争いによる国の乱れに見切りをつけるためにも、古来礎の元に息吹いていたその山上の国に信任を置き、倭国の中心とすることにしたのではないでしょうか。その結果、瀬戸内の山々に遣わされた高地性集落の祭祀らは、その山上国家に結集するべく、瞬く間に撤退することになったのでしょう。

高地性集落の背景には、山上にて神の到来を求め続けた古代人の姿がありました。そして瀬戸内海の島々から遥か遠くに見える古代いにしえの神の山が、聖地の本丸と位置付けられた後、多くの民は瀬戸内を経由してその山に結集し、国々を統括するリーダーが輩出される国家の土台が整えられていったのです。倭国王、そして邪馬台国が歴史に登場した背景には、このような神の山を目指す民の信仰心がありました。そして瀬戸内海の「東の島々」こそ、邪馬台国へ向かう古代航海路における最後の通過点であり、多くの弥生遺跡も、その人の流れを証していたのです。