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琉球諸島を一大拠点としたイスラエルの民

世界の古代文明には計り知れない英知が潜んでいます。最先端の科学技術を駆使して検証しても、到底理解することのできない古代の謎は今もって多く残されており、日本列島の地図上で一直線に並ぶ要所の存在、環状列石に見られるような夏至と冬至の日の出、日の入りの方角を重要視したと考えられる遺跡なども、決して例外ではありません。地勢図や詳細地図等が存在しない古代において、識者らは山や湖、岩石等を地勢上の指標とし、それらと集落の要所を同一線上に結び付けたり、同じ緯度上に重要な拠点を見出したりして一列に並べる術を知っていました。そして旅する先々で、島々や山、湖などの地勢との関連性を考慮しながら地の利を見極め、より優れた立地条件を備えた地域を選別しながら、古代集落や祭祀活動の拠点を増やしていったのです。

それ程まで古代人にとっては、人が居住する集落を形成する場所の位置決めは重要であり、正確な緯度や方角のデータに基づく村おこしは、自然界を敬う信心からしても大切でした。古代人の根底に潜む思考性と地勢に関するこだわりは、集落が築かれた場所の位置付けだけでなく、周辺の地勢、緯度、そして冬至、夏至の日の出や日の入りの方角等までもが綿密に考慮されている事実を検証することにより、理解することができます。それ故、列島上の目印となる指標や基点となる集落の存在と、それらの関連性を見極めることは、古代人が目論んだ拠点形成の軌跡を理解する上で重要です。

古代の指標となる目印とは

正確な地図やナビゲーションシステム、案内図が無い古代社会において、人々は何を見ながら海を渡り、日本列島の島々を巡り歩いたのでしょうか。そしてどのような手法をもって、旅する先々で目的地を見出すことができたのでしょうか。優れた天文学と航海術のノウハウが培われた古代文明の民だけに、闇雲に旅立つとは考えづらく、どこへ向かうにしても、その行き先の目安をある程度理解した上で旅をしたに違いありません。その為にも、天文学や暦の知識、方角の定め方等をある程度理解し、誰もが識別できる地勢上の指標を列島各地に見出す洞察力が不可欠でした。

それらの指標としてまず注目されたのが、島の存在そのものです。大海原を航海しながら島々を移動した古代人にとって、一目で島の全体像を見極めることができる大きさの島ほど際立つ指標はありません。遠くからその存在と形状を確認でき、徐々にはっきりと目に映ってくる島の姿は、航海者に希望と安堵感を与えたことでしょう。また、大きな山や巨石の存在も極めて重要です。陸地から離れた海上からでも海岸線の背後に聳え立つ山の姿は随所で散見でき、特に標高の高い山並みの形状は一目瞭然でわかりやすいことから、いつの日でも陸海双方の指標として用いられました。また、列島の各地で見られる巨石の存在も自然界が生んだ大自然の賜物として重要であり、巨石信仰に発展することこも多く、地勢上の指標として用いられる傾向がありました。

山の存在と同様に、岬も大事な指標です。海岸線から突出する岬の光景は、海を航海する者にとってわかりやすい目印であるだけでなく、岬のそばには船を接岸しやすい港の候補地が存在する可能性が高いのです。海岸線沿いを航海する際でも、航海上の目安として岬の位置を確認することは重要でした。また、陸地においては大きな湖の存在も大事な指標となりました。遠い昔から、水源を確保することは古代の民にとって生命を維持する為の最重要課題の1つであり、湖の存在こそ、究極の水源として重宝されたのです。

こうして古代の民は、周辺の島々や岬、山や巨石、そして湖の位置を見極め、それらの緯度や方角等の位置付けも考慮した上で、その中から地勢に準じた優れた指標を定めたのです。それらの指標は、列島内に拠点を見出す為の基点として用いられ、時には旅の指標としても活用されました。これらの指標を定め、日本列島の随所に自らの民族の拠点を設けた先駆者が、イザヤの一行に導かれたイスラエルからの移民です。

イスラエルから脱出した古代の旅人

日本列島には古代から大陸より海を渡ってくる渡来者が存在しました。前20世紀から前10世紀にかけては既に、中国大陸と台湾において船の行き来が盛んになり、アジア大陸の東岸沿いを北上して朝鮮半島から対馬方面に向かう航路もその後、徐々に認知されました。日本列島全体を網羅する古代の渡航経路は定かではありません。しかし縄文時代においては既に琉球諸島や東北、北海道、また本州中心部等、列島各地に集落が形成され、これらの民が南方から到来した可能性が高いことが昨今の研究により指摘されています。南方の島々や琉球諸島を経由して渡航してきた民が、古代から存在したことに違いはありません。

前722年に北イスラエル王国、前586年には南ユダ王国が崩壊した後、国家を失った何十万人ものイスラエルの民が祖国を離れ、新天地を探し求めて旅立ちました。その先行隊として、船でひたすら東方を目指した群れの存在に注目です。この集団こそ、預言者イザヤに導かれたイスラエルの集団であり、一行の中にはレビ族の祭司だけでなく、ユダ王朝を継続する目的で同行したダビデ王系の子孫も含まれていたことでしょう。イスラエルを脱出した一行には、大陸の延長線にあると考えられていた「東の島々」に向かう動機がありました。それはイザヤの預言を元に、新天地に向けて神宝を携え、そこに新しいエルサレム、平安の都を造営して神の訪れを待ち望むことです。神の約束を信じた一行は、大陸の東の端まで海岸沿いを船で渡り、そこから台湾を経て八重山列島へと航海を続けたのです。

「東の島々」の玄関となった八重山諸島
「東の島々」の玄関となった八重山諸島
台湾の東方に浮かぶ八重山列島は10の島々から形成され、台湾に一番近い手前の島は与那国島と呼ばれました。与那国の名前の由来は定かではありませんが、旧約聖書のヨナ書に由来している可能性があります。ヨナ書には、魚にのまれたヨナが一命を取り留め、その後、魚から吐き出されて陸地に辿り着いた話が記載されています。神の憐れみにより、国家を外敵にのまれて失ったイスラエルの民が、長い海の旅から吐き出されて到達した最初の島が与那国島であったと考えるならば、イスラエルからの渡来者とヨナと並行して考えることができます。神の言葉を信じて旅を続けてきたイスラエルの民にとって、「ヨナ」国とは安息の象徴であり、それは神が約束された東方の島々への玄関だったのです。

与那国島から東方の石垣島まで100km少々あり、この2島の間に八重山列島が広がります。一説によると八重山列島は元来、島々の稜線が8つの山により繋がり、それらが八重に連なっていることから八重山と名付けられたと言われています。しかしながら8島を同時に眺めて山の連なりまで見ること自体が困難であることから、単なる伝承にすぎないようです。「ヤーエー」はヘブライ語で神を意味することから、むしろ「八重山」を「神の山」を象徴する言葉として捉えてみてはどうでしょうか。つまり、「八重山」の名称には、約束された東の島々の山に神が降臨するという、イスラエル人の熱い願いが込められていたと考えるのです。この「八重」という言葉は、琉球諸島へ北上すると多用されるようになります。

八重山考古学の謎を解く渡来者の流れ

アジア大陸からの渡来者が八重山諸島を訪れ、周辺の島々に外来からの文化をもたらしたことは、八重山諸島に残されている多くの遺跡からも垣間見ることができます。「八重山考古学」と呼ばれる地元の郷土史に基づく遺跡の研究が長年、調査団や郷土史家によって行われてきていますが、その結果、琉球石灰岩を円形に配列した住居跡をはじめ、多くの貝塚、遺物が発掘され、中には石垣島のフルスト原遺跡や川平貝塚、石底山遺跡など、著名になった遺跡も少なくありません。

その八重山考古学の研究成果から歴史の謎が1つ浮かび上がり、今日でも明確な答えが出ないままでいます。八重山諸島から見出された遺跡の年代は、放射性炭素年代測定法による遺物の精査により、遅くとも紀元前3250年の有土器文化から始まり、その後、古代の文化はおよそ3つの期間に分類できることがわかりました。最も古い時代が赤色土器文化を基盤とする第一期であり、前2250年から前1250年頃までの1000年間にわたります。第二期は、前2世紀から11世紀までの無土器文化の時代、そして第三期はスク文化を基軸とした海外交易が盛んになる11世紀から16世紀までの間です。不思議なことに第一期と第二期をはさむ前12世紀から前2世紀の間、およそ1000年間に関しては、未だに遺物が発掘されていないため、歴史の空白が存在します。その期間だけ遺物が見つからないということは、当時、人が居住していなかったか、自然環境の変異で人間が絶滅したか、もしくは何らかの理由で人々が他の地域に集団で移動した可能性がこれまで指摘されています。たまたま、これまでの遺跡調査からは何も発掘されなかったという見解もありますが、1000年という長い期間に関わることでもあり、もはや偶然というには無理があるでしょう。

八重山諸島における空白の1000年という、人が存在しなかった時間が存在する理由は、イスラエル系渡来者の目的地意識と、それに伴う人の流れから、その答えを見出すこができると考えられます。遅くともソロモン王の時代、前10世紀頃にはタルシシュ船が東アジアまで到来して海原を行き来していましたが、中には八重山諸島にも訪れた西アジア系の渡来者が存在したことでしょう。その後、島々を探索するうちに八重山諸島の北東、黒潮の流れに乗って宮古島から約300km離れた所に、自然の環境に恵まれた大きな島を見出したのです。前7世紀には、「東の島々」に向かうという民族大移動の掛け声の元、西アジア方面から旅をしてきた多くの渡来者の群れが存在したこともあり、その結果、いつしか八重山諸島は、大陸から台湾に渡り、そこから沖縄に向かう途中に存在する、通過地点の島として捉えられるようになったと考えられるのです。そして元来、八重山諸島に居住していた少数の民も、おそらく大陸に民族のルーツを持つと考えられることから、共に沖縄本島の方に向けて八重山諸島を旅立ったのではないでしょうか。それ故、今日いくら遺跡を発掘しても、イスラエル系移民が到来し始め、沖縄から更に東の島々に向かおうとした時期に該当する時代の遺物が八重山諸島に見出されることがないのです。

イスラエルからの渡来者が大陸から台湾に渡り、そこから八重山諸島を経由して沖縄本島、そして日本列島の東の端まで移動したという前提で考えるならば、八重山考古学の謎も、解明することができます。八重山諸島とは、神の約束した東の島々の玄関口となる最南端の諸島であり、その重要性故に、神の山が連なる島、ヤーウェー山諸島と呼ばれるようになったのでしょう。

初代の一大拠点となる沖縄

「東の島々」の玄関となる八重山列島の東端、石垣島から東方向へ40km程航海すると多良間島があり、更に50km程、東へ向かうと宮古島に到達します。そこから北東方向に黒潮の流れに乗って、およそ270kmという長い距離を航海すると沖縄島に着きます。船の長旅は大変危険であり、八重山列島や宮古島からは全く見ることができない沖縄島へは、正に命がけであったと言っても過言ではありません。神への信仰心と強い目的意識があってこそ、初めて立ち向かうことができる冒険の船旅です。そして数日も荒波を乗り越えると、水平線の向こうに沖縄島が見えてきます。

南の端から北の端まで100km以上も広がる大きな沖縄島は、温暖な気候と自然の産物に恵まれ、大陸を横断してきた渡来者にとって、居住する集落を築く絶好の島国でした。特に沖縄島の南部、今日の那覇から沖縄市にかけては広大な平野部に恵まれ、陸上交通の発展に適した地勢と、港にも適した湾岸を有していたことから、島の中心として早くから栄えました。食産物も豊富に収穫できる沖縄島は、アジア大陸から渡来する古代の航海者にとって、体と心を癒す理想郷のように思われたに違いありません。そして沖縄島に長居するにつれて、いつしか沖縄がイスラエル系渡来者の一大拠点となっていくのです。

沖縄島の中心地は古くから「ナハ」と呼ばれました。「ナハ」はヘブライ語でnakha、ナハ(nakha、ナハ)と書き、「安息」、「安住」を意味する言葉です。正に一大拠点となった沖縄の中心地に相応しい名称と言えるでしょう。また、沖縄の南方にある八重山列島がヘブライ語で神を意味する「ヤエ」という言葉を含んでいるように、沖縄島周辺でも至る所において、「ヤエ」という言葉が地名に用いられました。例えば名護市の北西に聳え立つ山は、八重岳と呼ばれ、那覇の近郊には八重瀬町、そして八重島の存在など、「八重」という言葉が沖縄各地で多用されています。これらの地名の多くは由来が定かではありませんが、古くからの言い伝えがあったからこそ、各地の名称で「八重」という言葉が用いられてきたことに違いはありません。

琉球諸島に残るイスラエルの痕跡

前7世紀頃からイスラエルの民が沖縄を訪れ、那覇を中心として琉球界隈に集落を築いた痕跡を、琉球各地に伝承されてきた文化や言葉から垣間見ることができます。まず、沖縄では伝統的な行事はほとんどが旧暦で行われ、イスラエルの暦と類似点が多いことに注目してみました。1月14日は旧暦の大晦日、トゥシヌユルと呼ばれ、その日は夜になると豚の血を切干大根に混ぜたチーイリチーを祭壇にお供えしてから食べ、夜明けまで起きていないと災いにあうとも伝えられています。そして翌日15日にはお正月を迎え、御馳走を供えて餅を食べ、祝日は7日間続きます。イスラエルではニサンの月、14日の夕方に過越の生贄として動物を屠り、その血を家の2本の門柱につけました。そして15日から種なしパンの祭りが始まり、餅に類似する発酵してないパンを7日間食べました。古代イスラエルの過越祭りは7日間続き、沖縄古代の旧正月も同じであることから、暦にも共通点を見出すことができます。

また、沖縄では初物を神に捧げるウマチーの風習があり、2月には麦の初穂祭りが、5月には稲の初穂祭りが行われています。これらも小麦の刈り入れの際に収穫祭を行い、初穂の穀物を神に捧げたイスラエルの風習に類似点が見られます。その他、1年中の祭りを通して比較検証すると、トゥシヌユルは過越の祭り、16日は初穂の祭り、3月3日は七週の祭り、カシチーは復活祭、十五夜は仮庵の祭り、カンカ―は過越の祭り、そして柴指は大贖罪日と照らし合わせることができ、相互に類似点が多く見られます。イスラエルからの渡来者により培われた宗教文化の存在がなければ、これ程多くの共通点を見出すことは難しく、沖縄に潜むイスラエルのルーツを決定づける根拠となります。

これらの暦だけに限らず、イスラエル文化の影響を受けたと考えられる様々な風習が沖縄には残されています。古来の豊穣祭など様々な祭礼や宗教儀式はイスラエルのものと類似点が多く、特に動物犠牲の風習がイスラエルのものと酷似しています。イスラエルの民は聖書の教えに基づいて豚を食べませんが、琉球でも豚には悪霊が入ると信じられ、豚を3日間食べない風習が残されていただけでなく、家に入る前に豚小屋で豚を鳴かせてから家に入り、厄払いをしたという風習もありました。また、伝統的な琉球音楽ではパーランクーの太鼓と3本弦の三線を用います。聖書の記述によるとダビデ王の時代、民衆は太鼓を打ち、三弦琴を奏でていたことから(サムエル上18章6節)、お祭りの奏楽にも共通点があります。更に仮庵の祭りでは、イスラエルの民は小さな小屋に籠もり、神からの救いに預かった歴史を顧みながら神に祈りを捧げましたが、琉球でも昔は祭りの日になると、藁で作られた小さな小屋で月を眺める風習が一部の島で続いていました。

更に、聖書の創世記と沖縄の人類発祥神話に類似点があることにも注目です。聖書には人類の祖先としてアダムとイブの話が記載されています。同様に沖縄の離島、古宇利島でも裸の男女の子供が餅を食べて生活をし、その子孫から沖縄の人々が誕生したという言い伝えが残されています。また、沖縄には男はソーキブニ、肋骨が1本足りない、という言い伝えがあります。それは女性の為に男が愚になることを言い表していますが、イスラエルの民も聖書の記述から、女性は男性のあばら骨の1つから作られたと信じていました。沖縄に残された伝承の中には、イスラエルの風習に類似したものが多数、含まれていることがわかります。

御嶽(うたき)信仰のルーツとは

沖縄の宗教文化は御嶽(ウタキ)信仰がその根底にあり、古くは集落ごとに御嶽が存在しました。御嶽の場所は雨乞いできる岩石の下や岩間、泉や森の空間等に見出され、神が降臨する聖地として祭祀活動が執り行われてきました。今日でも御嶽では地域の祭事が催されることが多く、中には世界遺産として認知された斎場御嶽のように、王国時代では最上級の聖所として国家の最高神職により管理され、今日では観光地化した御嶽も存在します。これらの御嶽の多くは琉球文化のしきたりに従って、ノロと呼ばれる女性の祭祀らにより管理されています。

御嶽を「ウタキ」と呼ぶ所以は定かではありませんが、その言葉のルーツはヘブライ語のhodek、ホデッ(hodek、ホデッ)である可能性があります。日本語には無い発音を含むため明記はできませんが、実際には「ホダッ」、「オダキ」にも聞こえます。八重山地方では御嶽は「おん」とも発声することから、その頭文字は元来、「オ」に近い発音で呼ばれていたとも考えられ、「ホダッ」が徐々に訛って「オダキ」となり、最終的に「ウタキ」と発音されるようになった可能性があります。旧約聖書に何度も使われているこの言葉は、神の威厳や荘厳、栄光を言い表す言葉です。御嶽の多くは岩石を中心とする岩場ですが、大自然に育まれたその美しい岩の形状こそ、神の威厳を象徴するに相応しい容姿と考えられたことでしょう。よって、神が降臨すると古代から考えられていた自然の聖地を「オダキ」、「ウタキ」と呼ぶことは、神の尊厳と栄光を表現する言葉として最も相応しい選択肢だったのです。

沖縄本島周辺の古代遺跡
沖縄本島周辺の古代遺跡
斎場御嶽は知念村のサヤハ原に在り、「サヤハタケ」、「サイハノウタキ」とも呼ばれています。また、琉球の創生神、アマミキヨが最初に足を運んだ「ヤハラヅカサ」の拝所も、御嶽近くの南城市、百名の浜の海中にあります。どちらの呼び名にも、「神」を意味すると考えられる「ヤハ」という文字が含まれており、「ヤーウェー」「ヤハウェー」という神の名に由来している可能性が考えられます。「サヤハ」はヘブライ語で「喜ぶ」を意味するsas、サッ(sas、サッ)に「ヤ」の語尾が足された言葉であり、「神を喜ぶ」の意味になります。斎場御嶽の三庫理(さんぐぅい)
斎場御嶽の三庫理
今日では斎場御嶽の名称は「セーファ」と発音され、一般的には「最高位」を意味すると言われていますが、その根拠は定かではありません。むしろ、境界地帯やフロンティアを意味するsefar、セファ(sefar、セファ)というヘブライ語を本来の語源と考えた方が言葉のルーツをより良く理解できます。神が住まわれる天界と人間の属する地上界との境目が「セファ」であり、そこに神が降臨すると考えるヘブライ語の理解は大変わかりやすく、斎場御嶽が最高位である御嶽であることを見事に一言で言い表すものです。斎場御嶽では斜めに折り重なる三庫理(さんぐぅい)の巨大岩石が、その聖域を象徴しています。

また、「ヤハラヅカサ」の「ヤハラ」については、ヘブライ語で「山」、「台」そして「土塁」や「突き出した部分」を意味するhar、ハー(har、ハー)がそのルーツにあるようです。その言葉に神を意味する「ヤ」を足すことにより、「神の山」もしくは「神の立石」を意味するようになります。「ヤハラヅカサ」に立つ岩石の容姿を言い表すのに相応しい名称です。淡路島の神籬石や、大湯環状列石の中心石等も天を指して真っ直ぐに立っていますが、「ヤハラヅカサ」においても、同様の形状をした岩石が古くから聖なる指標として存在していることは、これらに何らかの因果関係がある可能性が高いことを示唆しています。

ニライカナイの語源を解明

沖縄古来の「ニライカナイ」信仰によれば、遥か遠い東の海の彼方に楽園があり、そこから沖縄の神はやってきたと信じられていたことにも注目です。イスラエルの民も、東の島々に約束の地があることを信じて琉球界隈まで到来しましたが、そこは単なる玄関に過ぎず、その先に更に目的地に繋がる島々があるという認識を持っていたのです。つまり、「ニライカナイ」信仰と同様に琉球諸島の先には、永遠の命に至る理想郷、約束の場所があるとイスラエルの民も信じていたのです。

「ニライ」はneer、ニー(neer、ニー)とi、イ(i、イ)という2つのヘブライ語を混合した言葉です。前者はイスラエルのキブツと呼ばれる集団生活の拠点を称する名前の頭3文字としても頻繁に使われる言葉です。原語の意味は「耕された畑」です。つまり、「ニー」、「ニラ」とは、穀物が収穫できる良地を象徴する言葉であり、それ故、イスラエルのキブツの名称に用いられています。また、後者の「イ」は島を意味します。すると「ニライ」とは、「耕された畑の島」、すなわち、食物が豊かで、居住しやすい楽園の島を意味することになります。

次に「カナイ」の語源を理解するために、ヘブライ語で「取得」を意味するkanah、カナ(kanah、カナ)の語尾が変化したkanooy、カヌイ(kanooy、カヌイ)という言葉に注目してみました。この言葉には土地や名声を手にするという意味があり、取得して後、その土地に永住するというニュアンスが含まれています。すると、「ニライカナイ」の意味がヘブライ語で明確になり、直訳すると「耕された畑の島を得て長く住む」という意味を持つ言葉であったことがわかります。すなわち「ニライカナイ」とは、食物に溢れ、長寿を全うできる「理想郷の島」で永住することを意味していたのです。それは正に、神がイザヤに約束した東の島々を意味するものであり、イザヤの一行が目指した最終の目的地を指していたのです。

クマヤ洞窟に潜む宗教文化の背景

古代、イスラエル系渡来人の手が掛けられたと考えられるもう1つ大事な史跡が伊平屋島に存在します。伊平屋島は沖縄島の北東方向41kmにあり、今日、沖縄県として有人島の中では最北端にある島です。沖縄島が那覇を中心とする憩いの島として渡来者に定着するにつれて、伊平屋島は久高島と共に琉球の聖地として認知されるようになりました。伊平屋は漢字表記では恵平屋とも呼ばれ、その漢字名を逆さに読むならば、「ヤへエ」、「ヤーヘイ」となり、ヘブライ語で神を意味します。古くから「神」を意味する名前が島の名称に付けられていることからしても、伊平屋島の位置付けの大切さを理解することができます。

島の北部には「ヤヘー岩」と呼ばれる巨大な岩石が海辺に隣接しています。天から滴り落ちてきたような岩石の形状は独特であり、古代の民は、この岩を聖なる目印として「神の岩」と呼んだのです。その「ヤヘー岩」のすぐそばに、藤原貞幹が江戸時代の後期、「衝口発」という論文にて激論を繰り広げたクマヤ洞窟があります。「衝口発」によると、神武天皇は伊平屋にて出生しただけでなく、このクマヤ洞窟が天の岩戸伝説の舞台であったとしています。「衝口発」には根拠が不透明な論説が多分に含まれていることから、発表当初から議論は尽きず、本居宣長を筆頭に多くの学者はこの論説を糾弾しました。クマヤ洞窟と岩戸伝説の関連性については定かではありませんが、洞窟の実態を確認すると、そこには安易に聞き流すことのできない不思議な様相を今日でも目の当たりにします。

まず、正面の形状を検証すると、洞窟全体を構成する巨大な岩石の前面部が最上段から落下した形跡を確認することができます。洞窟の正面側は、岩石がおよそ平らに切り落とされたような様相となっており、そこから崩れ落ちたと考えられる大きな岩石が、向かって左側に落下したまま残されていることを確認できます。人為的に崩された可能性さえ否定できないような不思議な切り口ではありますが、いずれにしても、遠い昔、洞窟の入口がその岩石によって一時塞がれたことがあったとしても不思議ではありません。岩戸伝説との関わりについては何ら立証する術はありませんが、しかしながら、これほどまではっきりとした落石の痕跡が残されている巨大洞窟の入口の存在は、他に例がありません。

クマヤ洞窟内の割かれた契約の岩
クマヤ洞窟内の割かれた契約の岩
また、実際にクマヤ洞窟の中に入ってみると、その中は意外に広いことに驚きます。そして奥にある祭壇の右側には、2つに割れた岩が左右に広がるように置かれ、その中間が通り道となっているようです。この2枚の岩こそ、古代イスラエルの民が神との契約のシンボルとして設置した、割かれた生贄の象徴であると考えられます。旧約聖書創世記15章には、アブラム(後のアブラハム)が生贄を真っ二つに裂いて、互いに向かい合わせて置いた後、アブラムの眠っている間に煙と松明に象徴される神がその間を通り抜け、神ご自身が約束の成就を契約をもって示したことが記されています。この象徴的な出来事から、古代イスラエル人は、1つの体を2つに割いてその間を通ることは、命をかけて約束の契りを結ぶ意味となることを知っており、神との契約を結ぶ儀式がそこで行われたと考えられるのです。このような割かれた岩の祭壇は諏訪大社の裏、守屋山の磐座等にも散見され、クマヤ洞窟の中にそれが人為的に作られていたこと自体、古来、イスラエルの民がその場所で祭祀活動を行っていた可能性が極めて高いことを示唆するものです。

後述する通り、クマヤ洞窟を有する巨大な岩石の容姿そのものは、四国剣山に向かう途中の山麓に存在する巨大な磐座に酷似しているだけでなく、海岸沿いの島にも同じ形状の巨石が彫り砕かれて残され、また、その形をモデルとしたミニチュア版の磐座も、諏訪大社の奥宮である裏山の守屋山の山麓上に見出すことができることからしても、クマヤ洞窟との関連性を匂わせています。特に守屋山は古代集落として名高い阿久遺跡のそばに聳え立つ名山であり、阿久遺跡と列島の中心である淡路島とは地理的な相関性があるだけでなく、琉球諸島との繋がりも指摘されていることから、これらの洞窟や磐座の存在と、その地理的な位置付けが相互関係を持っていること自体、古代人の知恵の結晶と考えられるのです。その背後に潜むマスターマインドが、イスラエルからの渡来人であったのです。

琉球はイスラエル文化の宝庫

イスラエルの信仰が古代からしっかりと根付いていたからこそ、琉球王国では遠い昔から祭政一致の政策が培われ、島々の各地において宗教行事が執り行われてきたと考えられます。それ故、琉球諸島には、八重という文字を含む多くの地名だけでなく、土着する祀り行事の数々や、古くからの風習の背景に、イスラエルの宗教儀式の痕跡を見出すことができます。神に仕えることを一心に願ったイザヤ一行らを中心とするイスラエルからの渡来者は、祖国で行われていた宗教儀式を新天地でも執り行い、それらの幾つかは長い歴史の中で伝承され続けました。その結果、沖縄界隈では、日本でも最も信心深い宗教観を反映した島の1つに挙げられ、霊媒者、霊能者が多いことでも知られています。

中でも、沖縄島の南東、久高島で行われてきたイザイホーの祀りは、その特異性とユダヤ教との類似性において際立っています。12年に一度行われてきたイザイホーは、1978年を最後に、祭儀を執り行う女性が不足した為、行われていません。このイザイホーこそ、旧約聖書のレビ記23章に記され、ユダヤの三大祭りの1つである仮庵祭の流れを汲む宗教儀式です。琉球の最も貴重な民族宗教文化の1つがまた消え去っていくことに、歴史の無情と寂しさを感じないではいられません。