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大和の新拠点を見据える三方五湖

国生みの始まりの原点として記紀に記されている淡路島は、その南方には聖山として名高い剣山、北方には六甲山脈と摩耶山を控え、これらの山々と淡路島の神籬石や伊弉諾神宮は、レイライン上において結び付いていました。日々の生活において宗教観と文化、自然との関わり合いが一元化し、天体の動きを観察しながら目的地を特定するような洞察力と地理感にも長けていた時代でした。それ故、同じ緯度、レイライン上にて地理的共通点を有する拠点や指標の存在は、場所の特定や検証がしやすいこともあり、重要視されました。

また、古代社会では列島各地に祭祀場が設けられ、特定の宗教観を持つ西アジアからの移民の流れが増加するにつれ、多くの貴重な財産が神宝と共に列島内に持ち込まれました。九州の北方に浮かぶ沖ノ島のような小さな離島にも祭祀場が造営されることは決して珍しいことではなく、むしろ神宝を外敵から守り、一時的に秘蔵する場所として重要視されていたことは注目に値します。多くの貴重な遺物が昨今、沖ノ島から発掘されていることからしても、離島の存在価値とその意義について再認識する必要があります。列島を囲む壮大な海原を舟で自由に行き来する優れた航海術を携えてきた西アジア系の海人族にとって、離れ小島こそ、外敵に対して圧倒的な優位性を保つことができる格好の戦略的な拠点であったのです。

真名井神社本殿裏に祀られる多くの磐座
真名井神社本殿裏に祀られる多くの磐座
古代の民は海に纏わる拠点を重要視すると共に、列島最高峰の富士山、西日本最高峰の石鎚山、剣山など、標高の高い山も大切な指標として用いました。そして多くの聖地が選別される最中、淡路島の北方にある六甲山地、摩耶山も剣山に匹敵する聖地として位置付けられるようになり、その真北に位置する真名井神社も日本海側の拠点として列島を守護する役目を担うべく、極めて重要な指標となりました。列島の中心として認識されていた淡路島や、人々が崇拝した霊山である剣山から見ると、真名井神社は、それを奥宮とする籠神社と共に北東の鬼門にあたります。よって真名井神社の磐座は古代の祭祀場としても重要な位置付けを占めたのです。籠神社が元伊勢と呼ばれた背景も、その奥宮が摩耶山を通じて剣山や伊弉諾神宮とレイライン上で紐付けられていたことを留意することにより理解を深めることができます。

真名井神社の石碑に見られたダビデの星が今では籠神社の三つ巴紋に変更されている
真名井神社の石碑に見られたダビデの星が
今では籠神社の三つ巴紋に変更されている
また、摩耶山、諏訪大社、沖ノ島と日前神社など、レイライン上において籠神社と関わる聖地は、そのどれもが神宝に絡んでいることにも注目です。古代より淡路島を基点として、列島の要所を見極める為に用いられたレイラインは、時代の流れと共にその主旨が変わっていきます。交通の要所や海岸近くの祭祀場、及び集落の造成地を特定するという初期の目的から一線が引かれ、むしろ神宝の存在と聖地の紐付けが重要視される時代が到来したのです。そして実際の地勢と照らし合わせながら、内陸にも聖地にふさわしい新拠点がレイラインを用いて見出されるようになり、新しい都と神宝を秘蔵する神殿を近畿地方に造営する目論みが現実味を帯びてきた結果、レイラインの中心はいつしか、淡路島から新世代の中心地となる奈良、大和の地にシフトしたのです。その発端となったのが籠神社のレイラインであり、そこから大和の地における聖地を特定するレイラインを見極めるために東方に向けて線引きされた結果が、三方五湖のレイラインです。

神宝の行方に絡むレイラインの重要性

三方五湖のレイラインを考察する前に、レイラインがなぜ神宝と絡んで用いられるようになったのか、その背景を振り返ってみましょう。西アジアからのイスラエル系の識者が当初、列島に渡来した際、まず淡路島を中心に島々が検証され、多くの山々や岬などの地勢だけでなく、港や祭祀場にふさわしい立地条件を有する場所が、列島の随所に特定されました。そして短期間に日本列島の各地に舟が着岸できる港の場所が選りすぐられ、列島全体を網羅しながら村造りが進められたのです。無論、港の存在そのものは、後の神社の造営にも繋がる重要な指標であり、港の近くに祭祀場が設けられたことも少なくありませんでした。

広大なデルタを作る吉野川
広大なデルタを作る吉野川
中でも広大な吉野川のデルタを誇る阿波国の発展は目覚ましく、淡路島に隣接している地域でもあることから河口の北側を中心として集落が発展を遂げ、その後、四国の東海岸沿いにも阿南、海部として知られる地域に古くから港町が興されたのです。琉球から北上してくる渡来者は、九州の南方から四国へと向かい、高知方面から逆時計回りに四国沿岸を北上してくる機会が多かったことから、四国の東海岸では港を中心として集落が発展しやすい環境にありました。それ故、淡路島に隣接する阿波国は、古代社会における列島の中心的な存在として、極めて重要な位置付けを占めるようになりました。

その結果、淡路島と阿波国の背後に聳え立つ西日本第二の高山、剣山も、比類なき聖地として一目置かれたのです。剣山が聖山として崇拝され、その山麓周辺に集落が徐々に造成された背景には、神の降臨を期待し、ひたすら高山に集落を造成することを願い求めたイスラエル系渡来者の存在があります。そして遠く西アジア、イスラエルから携えられてきた神宝である契約の箱や、それに纏わる各種神宝も列島内に持ち込まれ、一旦は剣山周辺の山麓に秘蔵された可能性も否定できません。イスラエルの歴史を振り返るならば、国家のリーダーと祭司が向かう新天地には、常に契約の箱の存在があり、それは神の導きの象徴でもあったからです。また、契約の箱は神の威厳が伴う聖櫃とも呼ばれ、決して紛失したり盗難にあったりするような物ではないことからしても、後世において時が来るまで、必ずどこかに温存されていたと考えられます。

大自然の山中にある石尾神社の鳥居
大自然の山中にある石尾神社の鳥居
剣山の麓、穴吹にある石尾神社では「金の鳥」が巨大な岩石の下に埋蔵されているという伝承が古くから残されています。古代、剣山に向かう民は、まず石尾神社にてお参りをしてから杖立峠に登り、そこから剣山に向かったと言われていることからしても、石尾神社が剣山の参拝に関わる重要な役割を果たしていたことは明らかであり、「金の鳥」は、あながちおとぎ話で終わるようなものではないようです。更に、日本各地では契約の箱に酷似した神輿が2本の棒によって担がれる祭りが行われていますが、その光景は旧約聖書に記載されている契約の箱の内容と酷似していることからしても、契約の箱が列島に持ち込まれた可能性は否定できないのです。

もし、神宝が剣山周辺の山麓に運び込まれていたとするならば、剣山周辺の集落において古代、祭祀活動が活発化するだけでなく、人口も急増し、いつしか神宝を取り囲む集落が巨大化して邪馬台国へと発展したという想定が現実味を帯びてきます。契約の箱がある所に神の民は結集し、都の造営がなされる傾向があったからです。ところが実際には邪馬台国の台頭と共に、状況が一変します。邪馬台国のリーダーである卑弥呼は、先祖代々の教えに背いて自らを神格化し、反イスラエルの勢力と化してしまったからです。

前7世紀、イスラエル系渡来者が当初、列島を訪れた時点では、高い山に神が降臨するという教理が普及していたこともあり、主力の集団は四国の阿波国から剣山の方向へと足を運びました。しかしながら当時、イスラエル系祭司の中には、神武天皇が拠点とした大和の地に注目する者も少なくはなかったのです。イスラエルの首都、エルサレムが遷都するべき新しいエルサレム、「平安の都」の場所は、険しい山々の頂上となる剣山のような場所ではなく、故郷エルサレムと同様に大きな湖が近くにあり、山々に囲まれた盆地ではないか、というイスラエル系聖職者らの認識があったからです。奈良盆地は東と南を山々で囲まれ、瀬戸内海を西に臨み、一見、イスラエルの首都、エルサレムに似た地形を有しています。それ故、古事記や日本書紀にも記されている通り、神武天皇の東征が行われた時代では既に列島の拠点として注目され、その後も長い年月をかけて奈良界隈を中心に集落は広がりを見せ、大和朝廷の前身となるべく着々と基盤が固められていたのです。

そして邪馬台国の台頭と共に、その滅亡を予知したイスラエル系のリーダーらは、満を持して都の改革を推進したのではないでしょうか。その為には剣山の山麓に秘蔵されている神宝を密かに取り出し、新しい都となる大和へ移設する必要がありました。新しい都の造営には、神の臨在を象徴する契約の箱の存在が不可欠だったからです。しかしながら、神宝の歴史は恐ろしい神の祟りがまつわる言い伝えが存在し、その行く末には多くの問題が待ち構えていました。旧約聖書には契約の箱について、その上に置かれたケルビムと呼ばれる向かい合った金の鳥の間に神が降臨されただけでなく、契約の箱を2本の棒で担いで移動する際でも、その箱に安易に触れるだけで罰せられ、命を落とした者がいたことが記載されています。

神の教えに従って、間違いなく取り扱わなければ死を招く神宝の存在であっただけに、祭司レビ族らは慎重に検討を重ねた上で、神宝の移動を試みたことでしょう。そして最終的には大和の地に神の社を造営するにふさわしい場所をレイラインから特定し、神宝をそこに移動する計画がたてられたのです。その結果、1?2世紀頃、四国剣山の山麓に眠っていた神宝は、イスラエル祭祀の血統を継ぐ民によって密かに本州へと移設された可能性があります。そして聖櫃という最も大切な神宝を失った邪馬台国は、梯子の足を外されたように精神的な抑止力を失い、神の恵みから遠ざかるように暴政に走り始め、崩壊の道を辿るのです。

神宝の移設については単なる仮説にすぎませんが、淡路島から大和へと中心点がシフトした新しいレイラインが存在することに気付くことで、にわかにそれが現実味を帯びてきます。レイラインが通り抜ける神社や聖なる山々には神宝に関わる伝承が多く残されており、時にはそれらに関連性を見出すことができるからです。もしかすると、大和を中心とする新しいレイラインの存在こそ、神宝の行く末を見守るべく、古代の英知が結集された結果であり、その内の1つが真名井・籠神社を基点として、そこから東方へと繋がる三方五湖のレイラインだったのではないでしょうか。そして三方五湖のレイラインは、石上神宮のレイラインへと発展し、大和の聖地をピンポイントで見出すことに貢献したのです。

大和の聖地を示す三方五湖のレイライン

三方五湖を一望する三方石観世音の裏山、第三展望所
三方五湖を一望する三方石観世音の裏山、第三展望所
若狭湾に面する福井県の三方五湖は、琵琶湖の北西方向に位置し、5つの湖からなる地名です。三方五湖は、大和に神殿を造営する場所を特定する役目を果たしたレイラインの原点となる重要な指標となりました。三方五湖のレイラインの主目的は、大和の中心となる聖地を特定し、神宝を秘蔵する場所を見出すことでした。その為にも、神宝に関連する聖地として名高い剣山や諏訪大社、そして摩耶山等とレイライン上でしっかりと繋がりを持つことが大事であり、籠神社のレイラインとも紐付けられていることが重要でした。

ところが新しい目的地である大和の聖地、奈良の中心地は淡路島よりも100km程東方にあり、そこを通り抜ける南北の線は、籠神社よりも更に東方に位置していたのです。それ故、奈良盆地を中心とする拠点をピンポイントで的確に見出す為には、レイラインの中心を淡路島から東方向に移動する必要がありました。古代レイラインの手法は、特定の指標となる土地を結び付けるか、もしくは同緯度、同経度の線を引くことに重点が置かれます。例えば、剣山の鬼門としてその北東に位置する真名井神社は六甲山地、摩耶山にも紐付けられ、既に日本海沿岸の聖地として要となっていることから、そこを基点として同緯度上の東方に新たなる指標を見出せば、その場所を分岐点としてレイラインの中心を東方に動かすことができます。実際に真名井神社から真東に向けて線引きをすると、最初に当たる陸地が若狭湾内の世久見湾沿岸であり、その東側の内陸には三方五湖が広がります。この三方五湖が、レイラインを東方にシフトするための指標として用いられたと仮定することにより、大和を中心とする新しいレイラインの存在が見事に浮かび上がってくるのです。

三方五湖のレイライン
三方五湖のレイライン

真名井神社と同緯度の東西線が三方五湖の沿岸にあたる地点から、真南に向けて線を引くと、奈良盆地を通り抜け、紀伊半島の最南端である紀伊大橋の最東端に繋がります。その南北の線と、真名井・籠神社と三方五湖を結ぶ線を交差させることにより、ほぼT字型に結ばれる新しいレイラインが構成されます。また、三方五湖そのものが、諏訪大社と沖ノ島を結ぶレイライン上に存在することに着眼することも重要です。それは単なる偶然ではなく、神宝に絡む2つの聖地と関連する拠点として、同一レイライン上に並ぶべく周到に検証された結果と考えられます。その結果、三方五湖のレイラインは、剣山、摩耶山、真名井神社に繋がるだけでなく、東は諏訪大社、西は沖ノ島や海神神社にも繋がり、その上で、目指していた大和の地とも南北に交差しています。これらの聖地の多くが神宝の存在と関わり合いがあることからしても、三方五湖のレイラインは神宝の行方を占う為に重要な指標であったと考えられます。

三方五湖のレイラインを通じて東西方向、同緯度に真名井・籠神社と三方五湖が紐付けられ、そこを分基点として南方へも線引きされ、大和の地を南北にレイラインが通り抜けるようになりました。それは、奈良、大和を中心とした新しい国家の創生にふさわしい、新時代のレイラインの始まりです。この三方五湖のレイラインを最初のステップとして、その後、石上神宮のレイラインや、後世では「太陽の線」とも呼ばれる重要なレイラインも考察され、多くの聖地が紐付けられることになりました。こうして三方五湖は、新しい都の造営だけでなく、神宝の移設さえも視野に入れたレイラインの基点として用いられ、それは古代、日本列島の中心が淡路島から大和に移行した証でもあったのです。

石観音の右手が未完成の理由

三方五湖の三方を「みかた」と呼ぶ理由として、古来では三潟と書き、五湖の沿岸には3つの潟が存在することに由来すると言われています。しかし実際には3つの潟がどの場所を指すのか不透明であり、何故それを三方と書くようになったのか、明確な理由が見当たりません。兵庫県の但馬国養父郡三方郷がそのルーツであるという説もあり、神社庁によると三方郷は馬方郷が転訛したものという説明もあります。

三方五湖から東方およそ3km離れた所には、標高460mのなだらかな矢筈山があります。矢筈山と言えば、徳島県三好市にある標高1849mの矢筈山が有名であり、剣山のすぐ北西に位置しています。四国の矢筈山は、弘法大師の生まれ故郷、東香川のお膝元でもあります。三方五湖の矢筈山は、真名井神社から東に向けて三方五湖の沿岸を通り抜け、内陸に更に進んだ個所に当たります。真名井神社は摩耶山を介して剣山とレイラインで繋がり、それらの聖山を通じて空海にも紐付けられています。それ故、三方五湖の矢筈山も弘法大師と深い関わり合いがあることは、単なる偶然ではないようです。

弘法大師が彫った石観世音が祀られている三方石観音御霊場の拝殿
弘法大師が彫った石観世音が祀られている
三方石観音御霊場の拝殿
矢筈山の頂上から三方五湖の湖畔に向けて、山麓を南西方向に2.8km程下ると、そこには空海が巨大な花崗岩の一面に彫ったとされる石観音の姿が残されている、北陸観音霊場第7番、若狭観音特別霊場があります。「石観音菩薩由来記」によると、弘法大師が唐を訪れる前に若狭を訪れた際、三方五湖の名勝を気に入り、山中に見出した花崗岩に観音像を一晩で彫ろうとしたところ、朝方、妙法石の上で一番鶏が鳴き、夜が明けたことを知った弘法大師は、右手首の先を彫り終えないままに下山したとのことです。それ故、今日では片手観音とも呼ばれています。しかしながら仏像は秘蔵され、33年に1度しか開帳されないため、次回は2026年まで見ることができません。地元の方に話を聞くと、花崗岩の正面に彫られた石観音の背丈は50?60cm程度と考えられ、ふっくらとした姿が印象的とのことでした。

それにしても何故、弘法大師は最後まで右手首を彫り続けなかったのでしょうか。弘法大師程の天才ですから、その行動には必ずそれなりの理由があり、一番鶏の話は後付けの説明にしかすぎないはずです。その答えのヒントが三方五湖の存在に隠されているようです。古来より三方、三潟と書かれていた「みかた」という言葉ですが、何故「サンポウ」ではなく「みかた」と読んだのでしょうか。その答えはヘブライ語の訳から見出すことができます。ヘブライ語では「神殿」を意味するミカダッシュ(meekdash、ミカダッシュ)という言葉があり、それが訛って「みかた」の語源になったと考えられるのです。また、この言葉にべッ(べッ、bet)を足すと、ベッ・ハミカダッシュ(ベッ・ハミカダッシュ)というエルサレム神殿を指す言葉になります。大和の地に新しいエルサレムの都を造営し、神宝を納める神殿も建造することを目的とした古代の民だからこそ、その都の場所を見出す原点となるレイライン上の三方五湖は、エルサレム「神殿」をも示唆するヘブライ語の、「ミカダッシュ」が名付けられ、その言葉に「三方」の漢字が当てられたではないでしょうか。三方とは、大和にて造営される新しい神殿、神宮をほのめかした言葉であったと考えられます。

さて、空海が石観音の右手を最後まで彫らなかった理由は、もしかすると三方五湖のレイラインに起因しているとは考えられないでしょうか。前述したとおり、「ミカダッシュ」というヘブライ語に「三方」という漢字を当て、同時に漢字の意味もかけたとするならば、三方五湖のレイラインは、3方向にわたるレイラインをもって、神殿、神宮の場所を見据える役目を果たしたと考えられます。石上神宮 拝殿
石上神宮 拝殿
そのレイラインとは、真名井神社と三方五湖を同緯度で結ぶ東西の緯度線と、三方五湖から南へ向かう経度線を主たる線とし、3方向に繋がるレイラインの中心に、神殿を意味する「ミカダッシュ」が存在することになります。実際、三方五湖から真南にむかうレイライン上には、奈良盆地に石上神宮が造営され、伊勢神宮と並び、記紀に記されている数少ない社の1つであることからしても、その存在は神宝の行く末を知る上でも極めて重要です。

つまるところ、漢字で「三方」とあてただけに、3方向に聖地が存在することが重要でした。確かに南方には石上神宮があり、緯度線上の西方には真名井神社が存在します。そして相対する東側にも格式高い聖地が存在することにより、3つの聖地をもって「三方」のレイラインが完結するはずでした。ところが三方五湖の東方にはそのような聖地が存在せず、背後の矢筈山の標高も低く、その南の雲谷山も同様です。どうにもならない自然の現実を目の当たりにした弘法大師は、苦肉の策としてその実態を暗黙のうちに云い伝えようとしたのではないでしょうか。そして三方五湖のレイラインにおいては、その東方にあたる右側には不備があることを後世に伝えるべく、意図的に石観音の右手首を未完成のままに放置したのです。それは、三方五湖のレイライン上、その東側の聖地は西の真名井神社に対して不釣り合いなものであり、聖地と呼ぶには不十分であったことを象徴するものでした。しかしながら、「三方」と呼ばれたとおり、それでも大和の地に向けて神殿を造営するための人々の熱い想いは貫かれ、大和朝廷の歴史は刻まれていくことになります。

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