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ストーンサークルにもレイラインが存在するか

長い年月に育まれた古代の日本文化は、様々な遺跡を検証することにより、その歴史の重みを今日でも感じとることができます。縄文遺跡や弥生遺跡の発掘調査は今日でも、全国至る所で行われており、定説を覆すような新たなる発見も少なくありません。そして土壌から浮かび上がる多くの遺物や古代の爪痕を通して、大昔の様相を多少ながらも垣間見ることができます。

縄文遺跡の中でも特異な事例が、環状列石と呼ばれるストーンサークルです。ごく一般的にはイギリスのストーンヘッジがその代表格として名高いですが、実は古代の日本社会においてもストーンサークルは大きな存在感を示していたのです。これまで公表されている日本のストーンサークルは、道路や鉄道工事などをきっかけに偶然、発見されたものが多いことから、未だに多くのストーンサークルが列島の随所に埋もれていると考えられます。

それらストーンサークルの場所を検証すると、中国の陽城が淡路島の神籬石に紐付けられているかのごとく同緯度上を結ぶレイラインを構成しているように、これらのストーンサークルの中には特異なレイラインを構成し、同一線上に存在するべく当初から目論まれていると推察されるものがあります。そして中には、淡路島の神籬石に結び付くものも存在します。多くのストーンサークルまでが、古代レイラインの構成に関わっていた可能性があるという不思議に大きなロマンを感じないではいられません。

ストーンサークルの意義

これまで日本列島で発見されたストーンサークルは、中心となる立石の周辺に石塊を環帯状に配列したものであり、それが環状列石とも呼ばれる所以です。直径は20−30m程度のものが多く、10m以下の小さなストーンサークルも少なくありません。円形に配石された環状石の内側には2重、3重に河原石が並べられることがあり、周辺には墓穴や土器棺が存在することもあります。

これらのストーンサークルは一種の天文台のように、太陽を用いたカレンダーの機能を果たし、そこで祭祀儀礼が行われることがあったと考えられています。古代社会において、太陽は時計の代わりをなし、人々は中央の立石から見て、列石のどの位置に太陽が昇り降りするのかを見ながら、神事の日を覚え、「時」と「暦」を刻んでいたのです。特に冬至と夏至、春分と秋分の観測は重要であり、古代の暦法では冬至の日、すなわち太陽の出入りが最も南による陰の極限の日が、1年の初めとするような考え方が存在したことからしても、太陽の観測は不可欠でした。それ故、古代の民が海を渡って日本列島に到達した際には、生活のリズムを刻み、季節を知るためにも、まず、ストーンサークルを築く拠点を厳選して環状列石を整備し、その場所を基点として周辺に集落を築いていったことでしょう。

日本列島のストーンサークル

ストーンサークルは東北の青森県と秋田県や、北海道で発見されたものが有名ですが、古いものでは本州中部にも複数発見されています。主たるストーンサークルを時代別に並べてみると、時代と共に列島を北上していることがわかります。まず、最古と考えられているのが長野県諏訪郡原村にある阿久遺跡です。その年代は縄文時代前期、およそ前3000年から前4500年と推定されています。その後、縄文中期では直径が30m以上もある大型のストーンサークルが諏訪盆地に近い静岡県、山梨県や群馬県付近で見られるようになり、中でも富士山の西南麓のなだらかな裾野に立地する千居遺跡や、山梨県都留市の牛石遺跡の存在は有名です。

縄文中期後半以降には、九州を除いた日本各地でストーンサークルが造られるようになり、後期前半、前1500-前2000年には、大型のストーンサークルが秋田県北部・青森県・北海道西南部に出現します。中でも秋田県鹿角市の大湯環状列石では、立石を中心にして川原石を何重にも囲んだ日時計状組石の存在が認められ、複数の環状列石から大規模なストーンサークルが構成されています。その内、万座環状列石は直径46mという国内最大級を誇ると共に、その日時計の立石から環状列石の中心方向は、夏至の日に太陽が沈む方向に合うことが確認されています。伊勢堂岱遺跡も縄文時代後期前半の遺跡として保存状態が良く、整備が急速に進められています。そこには4ケの環状列石と共に複数の日時計型組石が存在し、周辺には堀立柱建物跡や土杭墓、捨て場等も発掘されました。そして大湯環状列石と同様に、立石の中心と環状列石は、夏至の日没の方向を意識していると考えられています。青森県の小牧野遺跡も保存状態は良好で在り、その美しい環状列石のレイアウトには目を見張るものがあります。いずれも祭祀や儀礼が執り行われ、埋葬にも関与していたと推定されています。

縄文時代後期、十和田湖周辺に造られた複数のストーンサークルの立地条件を決める手掛かりは少なくとも2通りあったと推測されます。まず、日本列島北方の一大拠点として位置付けられた十和田湖の周辺に造ることが不可欠でした。あくまで豊かな水源の存在が、ストーンサークルと集落を形成する為の必須条件だったのです。次に、その十和田湖に向けて海岸から川沿いに上流まで上ることができる水路が重要視されたようです。それ故、小牧野遺跡は青森湾に注ぐ荒川沿いに、大湯環状列石と伊勢堂岱遺跡は日本海に注ぐ米代川沿いに、湯舟沢環状列石は三陸南部に注ぐ北上側沿いに、そして太師森遺跡も例にもれず、浅瀬石川沿いに造られています。十和田湖は見事な水源を提供しただけでなく、近隣の海岸周辺は漁撈の宝庫でもあることから、これら古代の集落は栄えたに違いありません。

これらの大規模なストーンサークルには諏訪湖の阿久遺跡も含め、幾つかの共通点があります。まず、いずれも海岸から離れた内陸にあり、遠くに山々を見渡すことができる盆地のような地勢を有していることが挙げられます。次に、盆地の一部ではあっても周辺の土地よりもかなり標高差のある高台の地に位置することを常としたことに注目です。ストーンサークルに達するには、小高い丘陵を登っていくことが多いのです。これはストーンサークルが方角の指標を見出しやすい地勢を四方に有することを大切にしていたからに他なりません。ストーンサークルは展望に恵まれ、どの方向からもアクセスしやすくわかりやすい小牧野遺跡の高台から眺める津軽半島と下北半島
小牧野遺跡の高台から眺める
津軽半島と下北半島
高台にあることが大切な条件となっていたのです。また、小松野遺跡のように山々だけでなく、真北の方向には陸奥湾をはさむ津軽半島と下北半島を一望し、天候の良い日は遠く海原の状態を一目で見極めることができるような素晴らしいビューを誇るストーンサークルもあります。小松野遺跡からは、半島の中間点を見据えるだけで、真北の方角を一目で知ることができたのです。更に、様々な祭祀活動が行われ、居住地の基点ともなっていたことから、近隣には川や湖などの水源が存在することも重要でした。それ故、ストーンサークルの周辺には川や湖が存在したのです。

古代の民が果たしてそのような深い洞察力を持ち、列島の地勢を検証した上で、ストーンサークルの場所を選別したのか、疑問に思われる方も少なくないはずです。しかしながら、現代人が想像する以上に古代の民は、優れた技術と地理感を持っていたと考えられます。もし、日本列島に渡来した古代人の出自が地中海周辺や西アジア周辺からであり、エジプト文化に匹敵するような高度な航海技術と天文学を携えていたとするならば、ストーンサークルでも多くの謎が存在したとしても決して不思議ではありません。

最も古い日本のストーンサークルとして知られている阿久遺跡の年代は、エジプトにおいて農耕や牧畜が始まった先王朝時代(前4500年)から、古代文明が開化する前3000年頃の初期王朝時代と一致します。エジプトではその後、古王朝時代へと発展し、前2500年頃にはギザに三大ピラミッドが建造されました。その優れた文明の真相は、今日でも多くの謎に包まれたままです。エジプトにピラミッドの文化が発展した時期と並行して、縄文中期では、本州以北の日本各地でストーンサークルが建造されるようになり、やがて縄文後期に入ると、大型のストーンサークルが東北、北海道に造営されました。エジプトにて驚異の土木技術が用いられ、ピラミッドが建造されたのと同様に、古代の英知を結集してこれらのストーンサークルが綿密に検証された場所に造られたという想定は、もはや論外な想定ではありません。同様に、複数のストーンサークルがレイラインの存在に絡み、それらの位置づけは綿密に検証された結果であると想定することさえも、あながち空想話ではなくなってくるのです。

レイライン上に見出された阿久遺跡

阿久遺跡と神籬石のレイライン
阿久遺跡と神籬石のレイライン

これら古代ストーンサークルの歴史の流れの中で注目すべき点は、一番初期のものと推定される阿久遺跡が、長野県諏訪郡に発見されたことです。八ヶ岳西麓にある阿久遺跡の規模は大きく、環状列石の長径は120mにも達すると考えられ、そこにおよそ20万個とも言われる河原石が並べられていると推定されます。また、700基を越える土墳墓が存在するとも言われ、周辺には竪穴式住居址が見つかっています。縄文時代前期に、長い年月をかけて造成された大規模な集落が形成され、そこで祭祀活動が活発に行われていたことに驚きを隠せません。諏訪盆地は太平洋岸より離れた距離にあり、その途中に多くの山岳が存在することからしても、内陸の奥地にある諏訪盆地に従来から大勢の人々が居住して人口が自然に増加し、大集落が形成されたとは考えにくいでしょう。生活に適した海沿いの広い平野部を離れ、諏訪湖そばの盆地まで山や谷を越えてでも旅をしなければならない何かしらの理由があったと考えるのが妥当です。

縄文時代前期と呼ばれる、ごく一般的には大変原始的な時代と考えられているその当時、大規模な環状列石を造成し、そこで天文学を有すると考えられる人々が祭祀活動を執り行っていたことから察するに、その集落を築いた古代人は大陸経由で渡来し、外来の文化を携えてきたと考えられます。古代の渡来者は列島に到達した際、まず新天地の地勢を綿密に調査した上で、諏訪湖周辺の景色に優れた盆地の高台を見出し、そこにストーンサークルを造ったのではないでしょうか。そして大規模な集落を長野県の八ヶ岳近郊に造成したのです。それにしても、どのような手段を用いて、その拠点を見極めることができたのでしょうか。

明確な答えを見出すことはできませんが、1つの可能性として、淡路島を基点に阿久遺跡の場所が見出されたと想定してみました。四季に恵まれた淡路島は、列島の中心的な存在として古代から認知されていたと考えられていました。その淡路島と陽城を結ぶレイラインは極めて重要な緯度線であるだけに、淡路島を基点とする新たなレイラインを創生することができれば、それなりの重要な意味を持つことができます。そして淡路島の神籬石を基点にして、新天地の方向性と場所が模索されたのではないでしょうか。その結果、神籬石から見て、ちょうど夏至の太陽が昇る方角に新天地が求められ、諏訪湖畔、阿久に見出しされたと推測されるのです。

古代人にとって夏至の日の出の位置は有無を問わず、最重要指標の1つでした。阿久遺跡の場所が、神籬石から見てちょうど夏至の太陽が昇る方角に存在することは偶然の一致とは言えず、大規模の集落を造る目的でストーンサークルの地を探し求めた結果と言えます。そしていつしか、諏訪盆地に阿久遺跡が造成され、淡路島の神籬石と阿久遺跡を結ぶレイラインは、夏至の太陽が昇るおよそ30度の角度で繋がり、そのレイラインは古代、陽城のレイラインとも結び付いていたのです。それが古代ストーンサークルのレイラインの始まりでした。

ストーンサークルのレイライン

淡路島に関与するレイラインは、同緯度線にある陽城と結ぶだけでなく、日本列島を沖縄から淡路島、そして八戸へと斜めに横切るレイラインも存在します。昨今のDNA研究結果が示唆するように、日本人の祖先は元来、台湾から琉球諸島に渡り、沖縄周辺に居住した民が少なくなかったと想定されることから、日本列島における古代人の貢献を考える際には沖縄に関する考え方が極めて重要になります。つまり、沖縄を経由して、大陸からの渡来者が列島を北上してきた可能性が高いという想定で、古代史の扉を紐解く必要があります。

その琉球諸島の中でも沖縄島の最南端、平和之塔が建造されている喜屋式岬から淡路島の神籬石を通過する直線を引くと、北方は青森県八戸市の北部の太平洋岸沿いにあたります。これが沖縄と八戸のレイラインであり、日本列島が海溝沿いに並ぶおよそ中心線を通り抜けます。その線が八戸の北で海岸線と交差する地点から西方を見ると十和田湖周辺にあたり、そこには縄文時代後期の小牧野遺跡や大森勝山環状列石、太師森遺跡などが散在しているのです。淡路島を列島の中心と考えるならば、その最南端周辺に浮かぶ沖縄島に相対して、古代の民は水源の豊かな場所を本州最北端の十和田湖周辺に複数のストーンサークルが造営されたことは大変興味深いことです。

何故、古代の民は九州をさておいて、東北や北海道にストーンサークルを築いたのでしょうか。その理由は定かではありませんが、沖縄と八戸のレイラインが絡んでいる可能性が考えられます。つまり、古代の民は列島の中心を淡路島と認識し、沖縄から北上する際には黒潮の流れに沿うように、およそ東北方向に列島を舟で移動したのです。その為、九州は自然にバイパスされることとなったのではないでしょうか。そして、沖縄と八戸のレイラインに通じる考え方が根底に存在し、尚且つ山々に囲まれた盆地と水源の重要性、そしてレイライン上の距離的なバランスも再認識された結果、沖縄とは正反対、淡路島の北側に自然豊かな十和田湖を見出し、湖周辺を一大拠点と定めた可能性があります。こうして沖縄と八戸のレイラインは、日本のレイラインの中でも最も古いものとして、重要な役割を果たしたのではないでしょうか。

十和田湖周辺、及び東北、北海堂には多くのストーンサークルが存在しますが、中には阿久遺跡のように、レイラインの一部を構成していると考えられる事例が複数あります。偶然とは考えられず、意図的な結び付きをもってレイラインを構成している可能性が高い4本のレイラインを以下に紹介します。最初に、大湯環状列石と小樽の西、余市を結ぶレイラインです。大湯環状列石は東経140度48分に位置しますが、そこから真北に線引きをし、函館を超えて更に北に進むと、小樽の西方15q程の海岸線にあたります。その付近には余市と忍路の街があり、それらを挟む5q程のエリアに、忍路環状列石(おしょろ)、地鎮山環状列石、そして西崎山環状列石と呼ばれる3つの環状列石が見つかっています。これらのストーンサークルが北海道の沿岸において、しかも互いに近距離で位置している理由は、大湯環状列石のレイラインとの結び付きがその背景にあったからではないでしょうか。大規模な大湯のサークルストーンと結び付けられ、その地の力を十分に引き継ぐためにも、同経度の位置で北海道にもストーンサークルを造ることは重要視されたと考えられます。

ストーンサークルとして日本の考古学史上最初に発見された北海道小樽市の忍路環状列石は、南北に33m、東西に22mと楕円形ながら規模も大きく、縄文時代後期のものとして有名です。忍路環状列石は集団墓地であったという説もありますが、環状列石の近くからは祭祀活動の跡とも考えられる巨大木柱が発掘され、また、周囲を展望するビューにも恵まれていることから、地の指標としての役割を果たしていたと考えられます。近隣の余市には地鎮山環状列石、西崎山環状列石などの遺跡が見つかっていますが、それら墳墓を目的としたストーンサークルとは一線を画しています。また、忍路環状列石の海岸から夏至の日の出が見える方向に遠く線引きをすると、そのラインは深川近郊の稲見山の山頂にて発掘された音江環状列石や、石狩川沿いの神居古潭(カムイコタン)を通りぬけます。つまり、石狩川沿いに存在する北海道内陸のストーンサークルは、忍路環状列石の界隈からおよそ30度の角度で引かれた夏至の日の出のレイライン上に存在し、小樽のストーンサークルと紐付けられていたことがわかります。また、忍路環状列石、地鎮山環状列石、そして西崎山環状列石は、東北の大湯環状列石ともレイラインで結び付いていることから、遠く離れた北海度石狩川沿いのストーンサークルも、それら環状列石の仲間として位置付けられるようになったと考えられます。

また、小牧野遺跡のレイラインも明確であり、これも大湯環状列石にそのルーツを見出すことができます。大湯環状列石と小牧野遺跡を直線で結び、更に北方に伸ばすと、その先には北海道の鷲ノ木遺跡が同一線上にぴたりと存在します。その結果、今日、北海度で発見された著名ストーンサークルの殆どが、レイライン上において大湯環状列石と繋がっていたことになります。それほどまで、大湯環状列石の影響力は強く、それがまた、ストーンサークルが南から北に向けて拡大していった証でもあります。

最後にもう1つ、注目すべきストーンサークルのレイラインがあります。それは富士山と西崎山環状列石を始めとする小樽の西方に並ぶストーンサークルを結ぶレイラインです。特に西崎山環状列石のレイラインは、北海道内浦湾に面する鷲ノ木遺跡と通り抜けることから、鷲ノ木遺跡の場所が内浦湾沿いのこの場所でならなければいけなかった理由を知ることができます。

ストーンサークルは、それぞれが古代の英知を秘めた不思議な存在ですが、それらが更にレイラインによって互いに結び付いていた可能性があるということは、ストーンサークルの意義を理解する上で、重要な鍵となります。

日本のストーンサークルとレイライン
日本のストーンサークルとレイライン