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日本列島を見出した古代人の流れ

アジア大陸を東方に移動する民

昨今のDNA研究によると、古代、日本列島に住み着いた人々の多くは、まず台湾や琉球界隈に居住し、そこから海を渡って北上してきた可能性が高いのではないかと指摘されています。北海道の北方、極寒のアジア大陸より移住してきた民も少なからず存在したに違いなく、また朝鮮半島から海を渡ってきた民もいたことでしょう。しかしながら人々の流れの主流は南方から北へ向かっていたという提言です。いずれにしても古代、大陸より海を渡って日本列島に移住するということは、何らかの目的意識がなければ到底、実行することができない程、危険の多い旅路でした。それでも海原を乗り越えて日本列島を訪れる民は後を絶たず、いつしか列島各地に集落が築かれていきました。古代の旅人は何を思い、何を夢見て、列島に住み着いたのでしょうか。

人類発祥の地はアフリカと言われ、そこから東方に向けて広大な土地をアジア大陸は提供しています。それ故、古代の旅人は自然と日の昇る方向へ移動する機会に恵まれ、東に向かって旅することを尊重する傾向にあったと考えられます。アジア大陸においても例えば中国の儒教では「天帝は北辰に座して南面す」という思想がありました。北極星を背にして南に向いて座ることにより、太陽は左手の東から昇ることになり、日の昇る東は沈む西よりも尊いと考えられていたのです。このような日の出る方角を尊ぶ思想は古代からあり、いつの日においても、日が昇る東方の最先端に向かって旅する動機付けとなったことでしょう。

また、古代の旅人は自らの拠点となる土地を選別する条件として、常日頃、豊かな水源を求めていました。よって川や湖の存在は極めて重要であり、そのほとりに集落を築くことが好まれたのです。また、太陽を中心に天体を観察しながらカレンダーを刻むという観点から、季節の変化も重要視された時代でした。それ故、夏至、冬至、そして春分、秋分の日柄や、それに伴う太陽の位置付けなどが注目されたのです。春夏秋冬の季節は人体に優しい生活環境を実現するだけでなく、太陽をベースにしたカレンダーを刻む上でも分かりやすいことから重宝されたに違いありません。

古代の旅人が住むにふさわしい土地を探し求めた結果、南北3000km以上に渡って広がる日本列島がいつしか見出され、徐々に注目を浴びるようになったことと思われます。日本列島の大半は温暖な四季に恵まれた地域であり、多くの水源も存在したことから集落の拠点とするに絶好の場所として古代人の目に映ったことでしょう。そしてある時点から特定の民族集団が大陸より頻繁に日本列島を訪れ始め、それまでにない新しい民の流れができあがってきたのです。

アジア大陸から日本列島へ旅する航海術

遠い昔の古代社会において、大陸経由の民が日本列島に渡来し、集落や重要拠点を見出した背景には、世界的な視野で地勢を見渡すことができる航海術を持つ民が存在していたという前提が不可欠です。一見、不可能と思える高度な航海技術であっても、日本で阿久遺跡が造られた縄文時代前期にあたる前30世紀頃、地中海周辺ではエジプトが初期王朝時代を迎え、それから200年もたたぬうちに古王国時代が始まり、ピラミッドの建造が始まったことを振り返れば、多くの可能性を秘めた時代であったことに気が付きます。そして前26世紀頃にはギザの3大ピラミッドが建造され、エジプト文化の優れた土木技術を世界に知らしめることとなりました。今日でもピラミッドの背景は多くの謎に包まれたままですが、確かなことは、当時の天文学や土木技術に代表される古代文明は極めて高度な技術を保持していたことからしても、古代の文化レベルは想像を絶する程高いものであったということです。その後、西アジアにおいてはメソポタミア文化が発展し、シュメール文化を中心とする極めて高い天文学の技術と航海術を持つ民族が一世を風靡していたことが知られています。

アジアを中心とする古代文明においては、遠い昔から航海術を駆使して海原を渡る民族が存在していました。そして全世界をくまなく行き来する過程において、アジア大陸の東の端にある日本列島が見出され、その中心にある淡路島を指標としたのではないでしょうか。淡路島の直下には列島を分断する程の潜在的な亀裂を持つ大きな断層が走っているだけに、古代の知者は、そこが地勢的に列島の大きな分岐点であることをいち早く悟ったのかもしれません。そして何よりも大切なことに、巨大な立石の雄姿がそこにはあり、岩を大切にした古代人だからこそ、その場所を一大指標とすることにためらいはなかったでしょう。そして中国大陸の中心となるべく「地中」をも同緯度に定めたのです。神籬石と「地中」が並ぶ34度26分の緯度こそ、古代文明の優れた英知を証していると言えます。

イスラエルの民が目指した東の島々

前7世紀初頭、国家の崩壊という危機に直面し、故郷イスラエルの地を離れて東方へと旅したイザヤを中心とする先陣部隊は、アジア大陸を海岸沿いに航海し、その東の果てから台湾へ向かったと考えられます。イザヤに与えられた神からの預言に明記されている「東の島々」を求めて長旅を続けてきた民だけに、台湾から先に浮かぶ琉球諸島を目にした時、目的とする島々の一端に到達したことを喜んだに違いありません。それ故、琉球諸島にて最初に上陸した島は、海から陸地に吐き出されて命拾いした旧約聖書ヨナ書の記述に比定され、与那国島と命名されたのではないでしょうか。そして一連の島々はいつしか八重山列島、つまり「神の山が連なる島々」という意味を持つ言葉で呼ばれるようになったと推測されます。

八重山列島を含む琉球諸島は、大陸から台湾経由で航海してくる民にとって「東の島々」の玄関の位置付けとなり、その中心的な存在が沖縄本島でした。琉球諸島の中でもひときわ大きく、温暖な気候と豊かな農産物に恵まれ、平野部が広がる沖縄本島は、住み心地の良さという視点からは、正に楽園として目に映ったことでしょう。そして次第に島の南側に存在する平野部を中心に古代集落が築かれ始め、その拠点はヘブライ語で「休息」を意味する「ナハ」と呼ばれるようになったのです。

しかしながら、多くの渡来者にとって沖縄は、あくまで一時の安息の場でしかありませんでした。なぜならば、イスラエルの使命は新天地にて神の都と聖所を造営することであり、その場所は緯度、地形、周辺の環境等、総合的な判断から、琉球ではないことが分かっていたからです。遊牧民族であるイスラエル人にとって、沖縄はあまりに温暖すぎるためライフスタイルに合わないだけでなく、羊などの家畜を飼育するにも適せず、また、海に囲まれてはいるものの、湖や川という水源に乏しかったことが悔やまれました。故郷の都、エルサレムの地と比較すると余りに緯度が低く、赤道に近い南国の島である沖縄だけに、仕方のないことでした。それ故、イスラエルからの渡来者は都を再建するためにふさわしい土地を見出す為、琉球諸島の先にも続く「東の島々」を巡り、地勢を検証する必要性に迫られたのです。そして神の命と導きに従うことを重んじた民は、琉球の優しい生活環境に甘んじることなく、未知の島々を探索する任務を背負って、列島を北方に向けて再び旅立つことになります。

約束の地を目指して列島を北上する民

木造の船体しか存在しなかった古代、黒潮の流れにのって北上し、未知の島々に向かって長い船旅を続けるということは極めて危険な冒険でした。更に列島に沿って北方へ向かう潮の流れが大変速いことから、一度旅立つと二度と戻ることができないことも覚悟する必要がありました。それ故、船員は海の旅に慣れた男性を中心に選別され、列島の島々を巡り渡った後、新たなる拠点となる島を見出し、そこに集落を形成することを目指したのです。

使命感に燃えた男性の一行が、琉球界隈より未知の島々に向けて北方に旅立つということは、多くの女性や子供、老人が琉球、沖縄本島に残されることを意味していました。こうして沖縄はイスラエル移民にとって、「東の島々」の玄関となる一大拠点として位置付けられるも、そこに残された女性らに島の管理が委ねられことになったのです。民を司る男性リーダーが不在となった結果、西アジアから到来したイスラエルの民にとって不可欠な祭祀活動については、前例のないことながらも、できるかぎり女性リーダーがそれらの行事を司るという異色の文化が古代から形成されたのです。こうして男性祭司が不在の沖縄宗教文化は、ノロと呼ばれる神と通じることのできる女性祭司を中心に育まれていくことになります。

八重山では「ツカサ」とも呼ばれる女性祭司のノロの語源は定かではありませんが、ヘブライ語に起因している可能性があります。ヘブライ語には先生を意味するmoreh、モレ(moreh、モレ)という言葉があり、その複数形が、モロ(morot)という言葉になります。民を導く先生方として「モロ」と呼ばれた女性リーダーらは、いつしか祭祀の役割を担うようになり、時代がたつと共に「モロ」が訛って「ノロ」となり、女性祭司の呼び名として定着したのではないでしょうか。

命をかけて沖縄を離れた者たちの多くは、行く先々で使命を全うし、家族の元に戻ってくることはありませんでした。そして彼らの帰りをひたすら待ち望む民は、「ノロ」に導かれる女性を中心としたグループだったのです。神を信じ、夫や子供、親族の帰りをひたすら待ちわびる女性達の思いは、沖縄の久高島で12年ごとに催されてきたイザイホーと呼ばれる祭り等からも、垣間見ることができます。