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沖縄と宮古島のレイライン

南西諸島の南方に浮かぶ宮古島や沖縄は、大陸から船で日本列島へ渡来する民が必ず通らなければならなかった海の通過点であり、これらの島々は規模も大きいことから、古代の集落が発展するにふさわしい島々であったと言えます。そして多くの渡来者が訪れ、これらの島を経由して遠く離れた次の離島へと旅立つことから、航海路を特定することは極めて重要な作業でした。島々の指標と国生みの対象となった本土を一直線に結ぶレイラインの存在は、時には旅の指標の助けともなり、重要な役割を果たしたと考えられます。沖縄だけでなく、宮古島にも島の中心となる高台を通り抜ける本土の拠点を結ぶレイラインが存在することは、古代社会において南西諸島が重要な位置付けを占めていたことを裏付ける資料の1つとも言えるでしょう。

宮古島と沖縄の重要性

大陸から日本列島へ航海する旅人にとって、八重山諸島を通過した後の宮古列島、そしてその遠い先に浮かぶ沖縄諸島に並ぶ島々は、極めて重要な航海上の拠点でした。アジア大陸の東、中国の南方から南西諸島海溝沿いに繋がる島々の群れは、大陸棚と太平洋深海の接点に位置し、例えば沖縄南東の海溝では、最深部が7500m以上にも至るのです。海底が突如として底が抜けたように落ちる南西諸島海溝からマリアナ海溝へと繋がる広大な太平洋だけに、その海溝が始まる分岐点に浮かぶ島々の存在には古代の民も注目したに違いありません。

中でも沖縄諸島は、最も重要視された場所となりました。その理由として、まず、沖縄諸島が東の島々、倭国へ向かう航海路の途中に浮かぶ安息に最適の島であることが、地理上、明らかであったことが挙げられます。台湾からの航海の旅は、渡る先の島々を先に見据えながら海を渡りますが、宮古島から沖縄諸島の間だけが例外だったのです。それまで一番長い距離でも台湾の東海岸から与那国島まで、100km少々しかなかったのが、宮古島からの航海距離は、北側に隣接する池間島から沖縄本島西方の久米島までの最短距離を渡航したとしても215kmもの距離があるのです。英語ではLeap of Faithという言葉がありますが、正に海を渡る確信にも満ちた信仰の飛躍が無ければ、旅立つことを躊躇する程の距離だったのです。船で少なくとも2日の旅を強いられる危険な信仰の船旅だっただけに、その先に浮かぶ沖縄に辿り着くということは、神が約束された「東の島々」という別世界への通過点に到達することを意味し、それは正に理想郷へと一歩近付くことを意味していたのではないでしょうか。

ここで留意するべきことは、古代社会における海人文化においては、国境などの概念が存在せず、民はおよそ自由に海原を行き来していたということです。よって、倭国の存在が強く意識される基点として沖縄諸島の存在は重要であったとしても、それは今日の国境のような位置付けではなく、あくまで大陸と東の島々を結ぶ航海上の拠点としての認識であり、国境のような固定概念にて島々の存在をすみ分けするようなものではなかったのです。

また、古代の民にとって黒潮という太平洋を取り巻く潮の流れの存在も重要です。その流れの北側に浮かぶ島々が最終的には「東の島々」とも呼ばれた倭国と認識されたのです。宮古島や沖縄諸島は、黒潮の流れの手前に浮かぶ島々であり、倭国の最南端となる境界線はその流れの北側に引かれたと考えられることから、これら南西諸島の島々は国生みの島々の中に含まれることはありませんでした。南西諸島が国生みから外された理由は、イスラエルからの渡来者の祖国が位置する緯度線からも説明することができます。(参照:国生みの神々)その前提で考えると、沖縄が国生みの外に位置する高天原であり、そこから神々が天下って国生みの島々へと航海していった説についても理解しやすくなります。

古代沖縄のレイライン

古代の民は、アジア大陸の東方の拠点として著名な中国の陽城と、日本列島の中心となる淡路島の神籬石が、同一の緯度上に存在していたことを理解していたようです。その繋がりは今日、レイラインとして理解することができ、淡路島が大切な指標の1つとして考えられていたことを知ることができます。例えば淡路島から夏至の日の出方向、長野県の諏訪湖周辺には阿久遺跡のような縄文前期の大規模な集落が存在し、また、淡路島を中心として、南西諸島三陸の八戸を結び、日本列島を斜めに横切る長いレイラインも存在しました。このようなレイラインの指標が存在したからこそ、古代の民は天体を観測しながら、行く先々の場所を見極め、海上を確実に移動することができたのです。

淡路島と共にレイライン上の位置付けとして重要視されたのが沖縄の那覇です。那覇という地名はヘブライ語で「安息」を意味し、古代の民が航海の途中に沖縄にて休息の時を持ったことがわかります。今日の那覇は沖縄本島の南西、海岸近くにある大きな町ですが、古代において基点となった那覇の地は、もしかすると奥武山公園周辺ではないかと考えられます。
埋め立て前のガーナームイ
今では埋め立て工事が進められ、奥武山総合運動場が造成されていますが、以前は大きな川が流れ、川の中心には「ガーナー森(ムイ)」と呼ばれる小島が存在したのです。今日でも公園に隣るコンビニの裏側に、「ガーナームイ」の小島の跡が残されています。港の奥まった川の真ん中に浮かぶ島として、地域の指標ともなっていた「ガーナームイ」は、その長い陸続きにも見える尾の存在からも、沖縄の天の橋立として地元では考えられていた時代もあったようです。

那覇には琉球8社の1つに数えられる沖宮(おきのぐう)が、「ガーナームイ」のすぐそば、奥武山運動場内に建立され、今日でも大勢の人が参拝に集います。先日、幸いにも沖宮の津嘉田宮司にお会いして、色々と話を聞くことができました。中でも興味深かったのは、沖宮と天橋立に隣る籠神社が古代より深く繋がっているという話です。無論、その話は精神面において、霊的に紐付けられていると理解できます。その根拠の1つにやはり、どちらも宮のすぐそばに水の中に浮かぶ島があり、そこが聖地となっていた、という古代の共通点があるそうです。籠神社の前には宮津湾が広がり、その中心を天橋立が南北に渡って陸地を繋いでいます。沖宮のそばでも遠い昔からガーナームイと呼ばれた小島が広い川の真ん中に浮かび、そこから陸地に向かって細長い土地が繋がっていたようでもあります。沖縄の那覇と本土との結び付きは、単に淡路島の神籬石と八戸のレイライン上だけに限らず、淡路島の北方にあたる籠神社とも何らかの絆で繋がっていた可能性がありそうです。

沖縄のレイラインの基本線は、沖縄から南西諸島沿いに日本列島を斜めに横切り、淡路島を通り抜けて東北の三陸海岸北、八戸まで至ります。そのレイラインは九州以南では琉球海溝とも呼ばれる南西諸島海溝の節目ともおよそ並行し、日本列島全体を縦断する基軸となる線です。沖縄のレイラインは、その基点は那覇周辺を中心とするのが一般的ですが、時には伊江島、伊平屋島などの離島の拠点を含むこともあります。レイラインの指標となる地点とは、島の高台や山の頂き、周辺の岬、奇岩の存在など、とにかく目印となる場所が重要だったのです。沖縄本島周辺は、それらの指標にとても富んだ地域だったのです。

基準となる沖縄のレイラインとは別に、前述した通り、沖縄のレイラインには、伊江島と伊平屋島のヤーへ―岩を結び、それらを出雲大社の裏山であり、禁足地の聖山として知られる八雲山まで一直線に結ぶレイラインの存在も認められます。このレイラインはスサノオの足取りに繋がる重要なデータを提供します。更に、南西諸島の最北端に位置し、標高1,936mを誇る宮之浦岳を有する屋久島の存在にも注目です。九州地方最高峰を有しながらも、屋久島は祖国における緯度線の範囲の南側に外れた位置に存在したことから、国生みの対象には入れられなかったのです。しかしながら、屋久島の重要性は見逃されることはありませんでした。国生みに含まれなかったものの、筑紫島(九州)に隣接し、しかも巨大な山を有することから、この屋久島が南西諸島の沖縄に結び付くシンボルとして見なされるようになったと考えられます。

古代、屋久島が重要な指標であったことは、沖縄のレイラインには屋久島を通りぬけるもう1つの重要な線が存在することからも理解できます。沖縄那覇と屋久島の頂上を結ぶと、その線は西日本最高峰の石鎚山に繋がるのです。もし沖縄が高天原の拠点であると仮定するならば、沖縄と、そのシンボルである屋久島、そして西日本最高峰の石鎚山がレイラインで結ばれているということは、神の国である倭国を創生するにあたり、極めて重要です。高天原という地の利、地の力を吸収した沖縄のレイラインが屋久島と繋がっていること自体が、屋久島を高天原のシンボルとして裏付ける役目を果たしたのです。沖縄のレイラインには、南西諸島海溝の海底に存在するとてつもなく巨大な岸壁に沿って、日本列島を通り抜ける中心的な指標線だけでなく、屋久島を通じて石鎚山に繋がる高天原のレイラインや、スサノオの軌跡を追う出雲へのレイラインも含まれていたのです。

淡路島と繋がる宮古島のレイライン

古代の渡航者が台湾から沖縄、そして本島へと向かう際に立ち寄ることを常としていた宮古島は、沖縄島の南西約280kmに位置し、その間には慶良間海裂と呼ばれる水深が1kmもある窪地が存在します。宮古島自体はおよそ平坦であり、一番高い所でも115mの標高しかありません。平坦な島ではありましたが、その位置付けは重要であり、古代では沖縄に向かう直前に休息をとれる最後の拠点となる島として重要視されたことでしょう。宮古島から次の沖縄諸島までは、南西諸島間でも最大の距離があるため、海を渡る渡航者は宮古島でまず、十分な休息をとる必要がありました。よって、宮古島は古代から渡航者の休息の地として認識され、そこで神に祈り、天候を見極め、再出発する力を蓄えてから沖縄方面へと航海を続けたのです。こうしていつしか宮古島には強い信仰心が根付くようになり、今日ではユタと呼ばれる霊能者らが庶民に教えを諭す神がかり的な島としても知られています。

また、宮古島周辺の海域は、太平洋側から流れ込む黒潮が北に向けて通り抜ける真っ只中にあり、その海流にうまく乗れば、宮古島からでも意外と早く本島にまで到達することも不可能ではありませんでした。その黒潮の流れが九州本土に注がれる分岐点に立ちはだかるのが鹿児島の南に浮かぶ屋久島です。屋久島は離島でありながら、その頂上となる宮之浦岳の標高は1,936mもあり、その高さは四国石鎚山、剣山に匹敵する程です。そして頂上からは九州や種子島だけでなく、トカラ列島も一望することができるのです。それ故、古代の民にとっても屋久島は天にまで届きそうな巨大な山からなる不思議な島として目に映ったに違いありません。

その屋久島の頂上と、宮古島の中心となる野原岳を結ぶと、淡路島の神籬石にぴたりと繋がります。宮古島のレイラインとも言える貴重な仮想線は、黒潮の流れに沿って久米島の西端、西銘崎を通り、途中、横当島、黒宝島の周辺に繋がるトカラ列島を航海し、屋久島の頂上を通り抜けます。そしてその仮想線は足摺岬を通り抜け、最終的に淡路島の神籬石に結び付くのです。単なる偶然の一致に見えるような宮古島のレイラインではありますが、天体を観測しながら方角を重要視して旅した古代の民にとって、宮古島から屋久島を目指し、そして淡路島まで到達する航海路を見極めることは、極めて重要であったのです。こうして、沖縄本島からだけでなく、宮古島からも淡路島という国生みの中心点を見失うことなく、日本列島を航海した古代の民は、列島各地の目的地を見極め、移動することができたのです。レイラインは、古代の民が旅の方向性を確認するための優れたツールとしても用いられたのです。

沖縄と宮古島のレイライン -南西諸島の重要拠点と国生みの島々を繋ぐ仮想線の存在-
沖縄と宮古島のレイライン
南西諸島の重要拠点と国生みの島々を繋ぐ仮想線の存在