1. ホーム
  2. 元伊勢御巡幸と伊勢神宮ゆかりの神社
2014/11/07

神宝遷座と天照大神、伊勢神宮ゆかりの神社として繋がる元伊勢

三輪山
三輪山

日本全国には8万以上の神社が存在します。その信仰対象は、記紀神話などに登場する国生みに関わる神々を中心とし、自然界、食物、大陸系の神など様々です。それら神社の中には皇大神宮とも呼ばれる伊勢神宮内宮のように、今日でも皇族をはじめ、大勢の人々が参拝に訪れる神社も少なくありません。そのような由緒ある神社の中でも、一際、目立つ存在が、奈良県の大神神社です。静粛で美しい境内と、隣接する三輪山の存在は、言葉では説明しがたい神聖な空間を演出し、訪れる人だれもが感動を覚えることでしょう。

日本書紀古事記、古語拾遺などの史書には、三輪山がどのようにして神より特別に選ばれ、古代の聖地として知られるようになったのか、その経緯が記されています。それらの記述を単なる神話として受け止めるか、それとも史実に基づいた不可思議な出来事として捉えるかによって、歴史の解釈は大きく異なります。いずれにしても何かしら、とてつもなく重要な事件が生じたからこそ、今日まで三輪山は、神が宿る特別な場所として聖別され、人々から崇め祀られてきたことに違いはありません。歴史の流れの中で三輪山は、いつの日も聖なる山として、不動の位置を占めることになります。

神が選ばれた三輪山の聖地

「三諸山」とも呼ばれる三輪山は、奈良盆地の南東部に位置する標高467mの小さな山です。一見、何の変哲もない、ごく普通の小高い山にしか見えない三輪山ですが、古代より神が宿る神聖な山として、特別視されてきました。ことの発端は、国造りが完成する直前、大己貴神(大国主神)が出雲国に着かれた際、神が海を照らしながら現れて、「私は日本国の三諸山に住みたい」と語ったことにあります。そして、「自分を倭の青垣、東の山の上に斎きまつれ」と語られ、神の宮が建てられることになりました。古代、神が「ミワ」と呼ばれることがあった理由は、「大三輪の神」が真の神と考えられていたからに他なりません。三輪山が聖山となる背景には、生ける神が直接、人間に語りかけ、神殿が造営されるべき場所が特定されたという重大な事件が潜んでいたのです。

大神神社 拝殿
大神神社 拝殿
神の鎮座する聖山として知られるようになった三輪山は、山そのものが御神体であると考えられたことから、古くから何人も踏み入れることのできない禁足地とされてきました。それ故、三輪山の麓には大神大物主神社が建立され、後に大神神社と呼ばれるようになります。そこでは当初から本殿は設けず、三輪山を拝してきたのです。今日でも、拝殿の奥にある三ツ鳥居を通して三輪山を拝するという、原始的な礼拝のしきたりが守られています。三輪山の禁足地にも三ツ鳥居が存在し、重要文化財に指定されていますが、その形式ができた年代や由来については誰も知る由がないようです。また、三輪山の祭祀遺跡としては、辺津磐座、中津磐座、奥津磐座と呼ばれる巨石群や、山ノ神遺跡、そして狭井神社西方の新境内地遺跡などが知られています。これら磐座の名称は、宗像三宮との繋がりを示唆しているようです。

三輪山は神が選ばれた聖地として、古代より磐座を中心に祭祀活動が執り行われていたこともあり、古くから山の周辺では集落が形成されました。そして神武天皇の時代では、既に地域の有力者が三輪山周辺に拠点を有していたのです。そのため、同じ三輪山の周辺を目指した天皇は、大和を平定して橿原宮を造営するまで、地元権力者との抗争に巻き込まれることになります。三輪参道から眺める三輪山
三輪参道から眺める三輪山
神武天皇は熊野の天磐盾(神倉山)から北上した際に、まず三輪山の東方に位置する菟田や、南方の吉野を訪れます。その後、菟田の高倉山を訪ね、そこで神武天皇は神と出会うのです。そして天香山の社の土を用いて土器の皿を造り、神を祀ることが、磐余邑(いわれむら、桜井市南西部)に広がる磯城の軍勢を打ち負かす鍵であることを悟り、それを実行します。天皇家の歴史は当初から三輪山の存在と深く関わり、奈良盆地中東部一帯が、大和平定の舞台であったことがわかります。

神武天皇の御代からおよそ5世紀以上経った後、日本国は大きな危機を迎えます。前1世紀、崇神天皇55年、疫病により国の人口が半減する程の緊急事態に陥り、しかも、その直後から百姓が離散して国に背く者が急増し、統治のしようがなくなるという状況に直面したのです。そして神宝を宮中で祀り、殿社を同じくすることに不安を感じて畏れをいだいた天皇は、神宝を宮から遷すことを決断したのです。宮中では護身用の御璽として代わりに、天皇が斎部氏に命じて造らせた新しい鏡と剣を祀り、本物の神宝は豊鍬入姫命に託され、倭の笠縫邑に暫くの間、祀られることになりました。これが元伊勢の始まりです。

ちょうどその頃、三輪山に祀られていた大物主神は、崇神天皇をはじめ多くの人々の祈りに応えられ、夢を通して天皇に、「もし私を敬い祀れば、かならず国内は平穏になるであろう」と語り告げられました。そして、三輪君の始祖であり、大物主神の子孫と言われた大田田根子を神主とし、八十万の神々を祀って天社、国社、神地、神戸を定めることにより、国家に平穏が訪れたことが日本書紀に記されています。その後、崇神天皇は国として初めての戸籍調査を行い、また、船舶を建造する詔も発し、天下は大いに平穏となりました。

三輪山 入山口
三輪山 入山口
崇神天皇は神の声を聞くことができた数少ない天皇の一人であっただけでなく、信仰に富み、思慮深く、また、新規事業にも熱心であり、多くの人から崇められた偉大な天皇だったと言えます。そして聖地として不動の位置を占めた三輪山を背景に、天照大神が「宝鏡を視まさむこと、吾を視るがごとくすべし」と語った八咫鏡と草薙剣は、後世において元伊勢と呼ばれる場所を転々と遷されることになり、謎めいた歴史の展開を繰り広げるのです。果たして信心深い崇神天皇であっただけに、大切な神宝を宮中から手放すとは信じがたく、その背景には何かしら重大な理由が秘められていたと推測されます。

崇神天皇が神宝を手放した理由

崇神天皇の時代、皇位継承のシンボルであった神宝は、豊鍬入姫命に託されて宮中の正殿を離れ、当初、三輪山にほど近い笠縫邑に祀られました。古語拾遺によると、遷された神宝とは天照大神、すなわち八咫鏡だけでなく、草薙剣も含まれていました。その際、天皇の命に従って新たに鏡と剣が鋳造され、これらレプリカが本物に代わり、護身用の御璽として宮中に置かれるようになったことも記されています。それから33年間、神宝は大和国の笠縫邑を離れることはありませんでした。

その後、神宝は豊鍬入姫命により、丹波国、倭国(大和国)、紀伊国、吉備国を遷り廻った後、半世紀以上の年月をかけて再び大和国に戻ります。そして、神宝の管理は倭姫命に託され、更に30余年にも及ぶ長い年月をかけて、理想の鎮座地を探し求めるように各地を転々とし続けます。最終的には八咫鏡は伊雑宮にもたらされ、そこから伊勢の地に遷されて安置されたことが、神道五部書のひとつである「倭姫命世記」に記載されています。こうして伊勢神宮に鎮座される前に神宝が一時的に祀られた多くの場は、元伊勢と呼ばれるようになったのです。

しかしながら、何故、伊勢神宮の聖地に辿り着くまで、皇位継承の印である神宝が宮中を離れ、多くの地を巡り渡らなければならなかったのでしょうか。その理由は歴史の謎となっています。確かに、史書に記載されている倭姫命の御巡幸に伴う神宝の遷座に関する内容には、多くの不可解な点が含まれています。

まず、神宝は元来、皇位継承の印として古来より天皇がお住まいになられる宮中に安置されてきたことから、皇室の大切な御璽として、不動の位置を占めていたのです。よって、信心深いことで知られた崇神天皇が、突然のごとく神宝の神威を畏れ、それらを手放してしまうとは考えづらいのです。日本書紀によると崇神天皇は幼少の頃、「雄大な計略を好まれ」、壮年に及んでは「御心廣く慎み深く、天神地祇を崇敬され、常に天子の天つ日継の大業を治めようとする御心をお持ちであった」と記載されるほど、聡明かつ信心深い天皇でした。生まれながらに善悪正邪をよく識別され、神を崇め奉ることを常としていたのが、崇神天皇の御姿のようです。そして天皇は詔をもって、天皇の存在意義を「人と神とを統御し、天下を治めるため」と自ら語り、日本国の平定を望みながら、真摯に国の統治に取り組んだのです。そのような敬虔かつ、優れた才能に溢れた崇神天皇が、果たして神宝を宮中に保管することを畏れ、先祖代々の教えを無視して宮中から遷してしまうでしょうか。

次の疑問は、神宝の神威を畏れたはずの崇神天皇が、神宝の模造品、すなわちレプリカの製造に着手したことです。神宝が皇居の外で祀られるようになった際、天皇の指示によりレプリカが製造されましたが、それらはあくまでも模造品にしかすぎませんでした。よって、レプリカを祀ることは偽物を祀ることと同じであると考えられ、信心深い崇神天皇が、果たしてそのような決断をするか疑問が残ります。また、神宝の神威を畏れた天皇が、本物ではないレプリカをわざわざ宮中に飾り、天照大神の元来の教えから乖離するリスクを背負うということも考えづらいのです。

更なる疑問は、八咫鏡と草薙剣のレプリカを造るために、大掛かりな集団が結成されたことです。崇神天皇は斎部氏に命じて、鏡作部と金工鍛冶の遠祖である2氏族を統率し、八咫鏡と草薙剣の模造品を鋳造させたのです。鏡と剣を一つずつ鋳るために、大勢の製造者が必要になるとは考えづらいことから、複数のレプリカを造るという指示により、2氏族が任命されたのではないかと考えられます。つまり、多くの模造品を早急に造る必要があったことから、それらの製造に必要な職人が大勢集められたのです。次の垂仁天皇の御代では、垂仁天皇の皇子により、剣が1000本も製造され、石上神宮に納められたことも特筆に値します。

石上神宮 拝殿
石上神宮 拝殿
そこまでして、何故、神宝のレプリカを造る必要があったのでしょうか。また、本物の神宝を長い年月をかけて、転々と広範囲の地域を移動させた理由も不可解です。神威を畏れたとするならば、見知らぬ土地にとりあえず鎮座させるのではなく、むしろ、新しい鎮座の地が示されるまで、神が住まわれる三輪山に神宝を奉納するべきでした。それどころか、崇神天皇は神宝を豊鍬入姫命に託した後、自らは八十万の群神を祀るという理由で、国々に社や神地、神戸を定めるのです。神威を畏れるあまりに神宝を手放し、それらを祀る聖地が定まらずに転々としているというのに、天皇自らが神地、神戸を定めて八十万の群神を祀るということは、理に適いません。

神宝が宮中から遷され、元伊勢となる場所を転々とした理由は、崇神天皇が神宝を畏れる余り、恐怖感から手放してしまったからではなく、むしろ、天皇の畏れという言葉には、神威を誇る大切な神宝が盗まれてしまうことを危惧する意味が秘められていると考えられます。神宝に秘められた神威の噂は海外にも伝わっていたと考えられ、それを欲する者は国内外に複数存在したことでしょう。そして国内情勢が不安定になってきたことを機に、神宝が略奪される可能性が高まってきたのです。

皇居が攻め込まれ、神宝が強奪されるという最悪の事態までも懸念した天皇は、神宝を安全な場所に保全するため、早急に対策を講じなければなりませんでした。その結果、多くのレプリカが製造されただけでなく、神宝は転々と各地を移動することとなり、いつの間にか、本物の神宝がどこにあるのか、わからないようにしてしまったと考えられます。これらの背景には、崇神天皇の「雄大な計略」が存在し、綿密な策が練られていたと想定されます。そして、本物の神宝を上手く歴史のオブラートに包み込み、安全な場所に秘蔵することが目論まれ、豊鍬入姫命と倭姫命による御巡幸という一大計画が決行されたのです。その謎を解明するために、まず、崇神天皇の時代背景を振り返ってみましょう。

神宝が元伊勢を遷座した時代背景

天照大神と草薙剣が宮中から遷され、豊鍬入姫命、そして倭姫命へと託されたのは、崇神天皇から垂仁天皇の時代、紀元前1世紀頃の話です。その時代の日本列島を取り巻くマクロの環境が、どのように変化していたかを知ることは、神宝が宮中から遷されたきっかけや、それに伴う元伊勢誕生の背景を理解するうえで重要です。そしてレイラインの考察という、地域ごとの拠点を結ぶ線の繋がりを検証することにより、元伊勢となる地がどのように特定され、なぜ、それらの拠点を転々としながら最終的に伊勢へ到達したのか、それらの理由が少しずつ見えてきます。

神宝が宮中から遷され、元伊勢の誕生するきっかけとなった要因は、国内情勢が不安定になったことにつきます。当時、アジア大陸の政変と、民族移動による大陸からの渡来者の急増により、集落の基となる人口構成が激変したのです。その結果、国内の社会情勢が不安定になったことは、想像に難くありません。特に大和国の東方には、朝廷に従わない勢力が拡大し始めている兆しがあり、対策を考える必要が生じていました。さらに同時期、大和国の西方では、海を隔てた四国の地において、邪馬台国の芽が息吹き始めていた可能性があることも、覚えておく必要があります。

まず、アジア大陸の政変を発端とする民族移動を考えてみましょう。紀元前210年、秦の始皇帝による統治が終焉を迎え、その後、多くの難民がアジア大陸を東方に向かって移動したと考えられます。中には、朝鮮半島にまで到来し、そこから海を渡り、日本列島まで到来してきた人々も少なくありませんでした。歴史人口学の見地からしても、弥生時代後期の日本列島における人口の急増は、アジア大陸からの渡来者なくては説明することができません。その渡来者の数は、弥生後期の数世紀にかけて累計150万人、もしくはそれよりも多くの群衆が、大陸から日本まで到来したと推定されるのです。その移民の流れの原動力となったのが、秦の時代において、始皇帝の治世を陰で支えた知識層を含む大勢の民であり、その背景には西アジアから大陸を東方に向けて移住を繰り返してきたイスラエル系民族の存在が見え隠れしています。

記紀にも当時、大勢の移民が大陸より到来したことが明記されており、秦氏のように、中国の魏志倭人伝に、名前まで記された一族もあります(「秦氏の正体」参照)。渡来者の大半は朝鮮半島から海を渡ってきました。中でも秦氏は、高度な教養と優れた文化、そして多くの富や財産を携えて列島に到来し、日本文化の発展に大きく貢献したのです。秦氏らは列島の随所に拠点を設けながらも、山城国周辺(今日の京都)を最も重要視し、そこを本拠地としました。秦氏はイスラエルのユダヤ系渡来者であった可能性が高く、その前提で考えるならば、朝廷と対立するのではなく、むしろその働きを擁護する立場をとりながら、短期間で国内の政治経済に大きな影響力を与える存在になったと考えられます。

これら渡来者の流入と時代の変化を崇神天皇も察知していただけでなく、時には大陸系異国民の存在を脅威に感じることもあったことでしょう。渡来者の中には権力者も存在し、その人脈と財力を用いて短期間に拠点を列島内に設けただけでなく、中には各地で権力闘争を巻き起こし、謀反を起こすような勢力にまで発展した部族も存在しました。日本書紀には崇神10年、天皇の詔に、「然遠荒人等猶不受正朔」というメッセージが含まれています。「広雅」と呼ばれる3世紀中国の訓詁書には、「遠荒」は「荒、遠也」と記され、それは天皇が天下を治めようとすることに従わない遠方からの人々を意味します。そのような反勢力が台頭し始め、各地で謀反の兆候が見られる最中、武埴安彦の乱のように都を襲撃する群れもあり、官軍との激戦が繰り広げられたのです。

渡来者の急増による人口構成の激変により、国内情勢は不安定になったことは言うまでもありません。その後、畿内はおよそ平穏となるものの、遠方の地域では騒動が止まらず、四道将軍と呼ばれる皇族の将校が、北陸、東海、西道、丹波の地を制するために出兵しました。騒動を起こした民は、日本書紀では戎夷(ひな、じゅうい)と呼ばれ、周辺の野蛮な民族を意味していました。古代中国では異国民を蔑視する意味で用いられていた言葉であることから、戎夷とは、単に朝廷に従わずに反旗を翻した住民を指すだけではなく、大陸より渡来してきた異国民の集団の意味も含んでいたことでしょう。日本列島各地に様々な緊張を生み出す要因をもたらした戎夷は、崇神11年に平定されます。そして、「異俗多帰国内安寧」と日本書紀に記されているとおり、大勢の渡来者が朝廷に帰順して、国内にやっと平穏が訪れたのです。

四道将軍が国内を制圧するために出兵した地域は北陸以南の本州に限られ、四国と九州は含まれていないことにも注目です。同時期、邪馬台国が日本のどこかで産声を上げ、その後、2世紀もかけずに日本を統治する巨大国家となり、海外にまでその名を知らしめることになります。四道将軍が派遣されず、彼らの目が行きとどかなかった四国については、記紀にもほとんどコメントがないだけに、当時の状況は知る由もありません。それだけに、邪馬台国の前身が誰も気がつかぬうちに、そこに息吹いていた可能性があります。そして四道将軍が戎夷を平定する5年前、不穏な空気がまだ国内に漂う最中、崇神天皇は重大な決断を迫られていたのです。

神隠しを演出した古代人の知恵

前2世紀頃から急増した大陸からの渡来者の波は衰えを知らず、渡来者の中には朝廷に対抗して反旗を翻す有力者も少なくありませんでした。その結果、国内では動乱の兆しが各地で見られるようになり、さらに国民の多くが伝染病で亡くなり、人口が急減するという危機的状況に陥りました。また、宮中で祀られていた神宝は皇位継承の証であり、国を治める権利の象徴でもあったことから、それを欲する反勢力による強奪事件がいつ発生するかもしれず、内政の舵取りが極めて難しい局面を崇神天皇は迎えていたのです。

社会情勢の激変を察知し、神宝の安否を危惧した崇神天皇は、神宝が盗難されるという最悪の事態を避けるための秘策を練ったと考えられます。まず、神宝の模造品を製造することを決めました。宮中では神宝のレプリカが祀られるようになり、本物の神宝は皇居から遷された後、三輪山麓の大和国、笠縫邑で祀られました。そして33年という長い年月が過ぎ去り、その間、さらに複数のレプリカが造られた可能性があります。また、聖地として名高い三輪山でさえも、不信心な掠奪者による攻略の危機に迫られていたと考えられたことから、笠縫邑と呼ばれた三輪山の麓の地域が、初代の遷座地として選ばれたのではないでしょうか。こうして崇神天皇は、大切な神宝を守るための「計略」を即座に実行し、神宝を笠縫邑に遷すと同時に、複数のレプリカを製造することにより、本物の神宝との見分けを難しくしたのです。

神宝を守る次なる手段は、朝廷の権力が行き届くエリアの中で、神宝を遷し続けながら、朝廷の勢力範囲を誇示すると同時に、神宝の行方をくらましてしまうことです。今日の航空地図に、神宝が遷座されたという元伊勢の場所を落とし込むと、三輪山を中心として南北に約150km、東西には約270kmも離れた広いエリアに拡散していることが一目でわかります。そして27か所もあると言われる元伊勢の内、7か所は三輪山から半径25km以内に存在するものの、残りの大半は遠方に広がっています。また、元伊勢のほとんどは平坦地にあり、さらに半数近くは、三輪山の東方を盾で守るかのごとく、琵琶湖の東岸から濃尾平野、そして松坂、伊勢に向けて南北に並んでいます。また、吉佐宮、奈久佐浜宮、そして名方浜宮は、北方や西方の海沿いの地に孤立していることにも注視する必要があります。海岸沿いの地で、しかも都から遠く離れること自体、神宝の防御という視点から見ると極めて脆弱であり、ましてや外来の渡来者がいつ襲撃してくるかもわからないような場所に宮を建て、果たして大切な神宝を守ることができるのか疑問です。元伊勢と呼ばれる地の大半は、神宝を守護するには不向きな、無防備な平野や、小高い丘に位置しているのです。

元伊勢御巡幸地 行程地図
元伊勢御巡幸地 行程地図

そのような無防備な場所であったにも関わらず、元伊勢の聖地となるべく御巡幸の対象地となった理由は、中国にて古代より伝承されてきた四神相応の思想が影響していたのではないかと推測されます。四神相応による理想の地とは、北に山あり、南に沢あり、東に南流する水あり、西に野あり、と解釈することができます。よって、三輪山を守護するためには、まず、その四方を守ることに重きが置かれたのです。三輪山は広範囲で見るならば、北方には日本海に向けて山が連なり、真南には熊野那智大社の大滝に代表される沢が存在し、東方は伊勢湾から南方の太平洋へと注がれる海が広がり、西方は瀬戸内海の湾岸に沿って野道が続いています。よって、三輪山は四神相応に基づく地勢を有しているという前提において、その東西南北に社を築くことが求められたと推測されます。そして御巡幸という名の元に、神宝は各地に祀られ、元伊勢と呼ばれるようになったと考えられます。

元伊勢の社となる場所を特定する方法としては、レイラインの手法が用いられることが多かったと推測され、他の聖地との結び付きを検討した上で、地の力を結集できる場所が厳選されたケースが少なくないようです。その結果、北の端では日本海沿岸にある天橋立のほど近くに吉佐宮と呼ばれる籠神社の地が、そして西の端には瀬戸内海沿いの岡山に、名方浜宮の地が特定されたのです。また、伊勢湾沿岸にあたる周辺地域も、三輪山から見て東方の勢力が脅威となりつつあったことから重要視されました。崇神天皇の1世紀後、景光天皇の時代、日本武尊が東夷の反乱を抑えるために伊勢から駿河へと向かった際、天皇が日本武尊に語った言葉、「東夷は性格が横暴であり、侵犯することを常とし、集落には長も存在せず、境界を奪って略奪をする」が、当時の状況を伝えています。そのような東方の脅威が迫りつつあった時代だったからこそ、多くの元伊勢となる拠点が伊勢湾沿いに設けられたのでしょう。そして三輪山の南方は熊野の聖地と那智の大滝によって守られていたことから、奈久佐神宮と呼ばれた日前神宮を拠点とするだけに止められたのです。

元伊勢の御巡幸ルート図
元伊勢の御巡幸ルート図
三輪山の四方を聖地で守った後、崇神天皇が最終的に望んだことは、神宝を安全な場所に秘蔵することではなかったでしょうか。そのための究極の策が、豊鍬入姫命から引き継がれた倭姫命の御巡幸であったと考えられます。神宝は御巡幸と共に祀られる場所が転々とし、元伊勢となる多くは、大和国から遠く離れた無防備な場所にありました。国内では不穏な動きもあり、長期間にわたり、防犯上の問題が多い場所で本物の神宝を祀るとは到底考えられないことから、神宝が遷座された際には、レプリカが用いられた可能性があったと考えられます。つまり崇神天皇の「壮大な計略」とは、どれが本物か、わからないようにレプリカを製造することだけではなく、神宝を遷座させる場所を複数選りすぐり、頻繁に移動しているように見せかけながら、実際にはレプリカも用いて、周囲の目を眩ますことを狙ったパフォーマンスであった可能性が見えてくるのです。

では、本物の神宝は当時、どこに秘蔵されたのでしょうか。後述するレイラインの検証から、一時期、四国の山奥に移設された可能性が見えてきます。実際、元伊勢の中には、四国剣山とレイライン上で紐付けられて厳選されたと考えられる場所が複数存在します。よって、御巡幸と四国剣山との繋がりも、安易に否定できないことがわかります。四国は人が近づくことのできない急斜面の際立つ山岳地帯が多く、石鎚山や剣山のように西日本最高峰の聖山が存在するだけではなく、剣山のように淡路島や紀伊国から見える高山も存在します。そして、何故かしら四国に関する史書の記述は限定され、話題にのぼることがほとんどないことも不思議です。これは、神宝を秘蔵する場所として早くから、崇神天皇に限らず、先人も注目していたからではないでしょうか。

また、元伊勢を回る御巡幸の直後から、邪馬台国が台頭してくることにも注目です。もしかすると、そのきっかけとなったのが、四国への神宝の遷座であったかもしれません。神宝が遷された場所こそ、国家を統治する権威をもつ方が君臨する場所です。よって、本物の神宝が一時期、四国剣山周辺に遷座された結果、一気に政治力を増したのが邪馬台国であった可能性が見えてきます(「邪馬台国への道のり」参照)。

豊鍬入姫命と倭姫命の御巡幸とは、神宝と共に三輪山を始点として、朝廷の影響力が及ぶ遠隔地を巡り渡り、最終的に伊勢の地まで辿り着くことにありました。果たしてこれらの神宝は、奇跡的に守られ、伝承のとおり、伊勢神宮に鎮座されたのでしょうか。それとも、元伊勢の地が無防備であることから、どこかでレプリカとすり替わったとは考えられないでしょうか。元伊勢の場所を特定するレイラインが示唆する方向性は、後者です。元伊勢の地が特定された背景に存在するレイラインのほとんどは、神宝に関わる聖地を結び付けることにより構成されています。そして、それらレイラインの多くが剣山を通り抜けることから、神宝の重大拠点として、剣山が特別視されていたことがわかるのです。言い方を変えれば、元伊勢のレイラインとは、神宝に関わる聖地のひとつとして、四国剣山が特定されたことを後世に証しているのです。それは、本物の神宝が人里離れた地に遷されて温存されるべく、綿密な計画が練られた結果とも言えます。元伊勢は、神宝の存在が上手にオブラートに包み隠されたことの証だったのです。

神宝の行方を示す元伊勢のレイライン

古代の聖地と地の指標を結び付けるレイラインを考察することにより、豊鍬入姫命と倭姫命が御巡幸された元伊勢の聖地が、どのように見出されたのか、その選別の基準や考え方を推測することができます。国生みは元来、淡路島から始まり、古代聖地の多くは淡路島の神籬石や、伊弉諾命が葬られた伊弉諾神宮を基点としたレイライン上に見出されました。ところがその後、神を三輪山で祀るという啓示があったことから、レイラインの中心も淡路島から東方へとシフトして、三輪山に移り変わったと考えられます。日本列島の中心は、大和国の三輪山と考えられるようになったのです。

崇神天皇の御代、その三輪山を中心とする地勢観に基づき、列島各地に三輪山と結び付けることができる神宝の拠点を見出すことが目論まれました。そして表向きには朝廷の権力を誇示できる範囲を広く保つため、神宝を宮中から移設して各地を遷座させるという構想が練られ、遠隔地においても神が祀られるように仕組まれたのです。そのために、神宝に関わる重要な聖地を結び付けるレイラインが交差する場所が、ピンポイントで列島各地に見出され、そこに神の社が建立されることになりました。そして、選別された一つひとつの場所へ神宝が遷座されることになったのです。その結果、神宝は新しく特定された社の拠点を順次移動することとなり、最終的には伊勢の地まで遷されることになりました。それが元伊勢誕生の所以です。

しかし、本物の神宝が果たして、無防備な海沿いの遠隔地にまで遷座されたかどうか、今日では知る由もありません。神威に守られていた神宝だからこそ、盗難のリスクを回避できたという見解もあります。また、途中でレプリカにすり替わり、本物の神宝は元伊勢とは違う場所に隔離されたと考えることもできます。いずれにせよ、神宝のレプリカも存在する時代であっただけに、本物の神宝はどこかに安置されたに違いないのです。それ故、元伊勢を遷座している間に、神宝が秘かにレプリカと入れ替わり、本物は遠い山奥に移設されたという可能性も見えてくるのです。

崇神天皇の御代、日本列島には既に多くの聖地や、地の指標が存在していました。それらは聖山、海の岬、そして人が定めた聖地の上に建立された神社の3種に分けられます。聖山の筆頭は、列島の最高峰である富士山であり、次に、西日本最高峰の石鎚山、淡路島からも見える剣山が含まれます。そして、出雲の八雲山、熊野の神倉山、高千穂、三輪山、天香山、諭鶴羽山も古代の聖山として、重要な拠点と考えられていました。岬については佐多岬、足摺岬、室戸岬が太平洋側の指標として際立つ存在感を示し、古代の海人にとっては必要不可欠な旅の指標でした。神が祀られた聖地としては、伊弉諾神宮、花窟神社、宗像大社(沖津宮、中津宮、辺津宮)、宇佐神宮、日前神宮、伊雑ノ浦に隣接する伊雑宮、熊野本宮大社の大斎原、熊野速玉大社、鹿島神宮、諏訪大社前宮と石上布都御霊神社、海神神社などが、名を連ねます。これらの古代拠点である神社や自然の聖地は、列島内の広範囲に拡散していることから、新しい拠点を見出すためのレイラインを構成する基点として、重要な存在となっていたのです。

元伊勢と呼ばれる神宝の遷座地のほとんどは、これらの聖山や岬、神社などの地の指標をレイライン上に絡めて見出されたと断定せざるをえないほど、拠点同士が一直線上に並ぶ、きれいなレイラインを構成しています。これは単なる偶然ではなく、むしろ、何らかの意図をもって、新たなる聖地がレイライン上に特定されたことを意味しているのでしょう。よって、それら拠点の地の利や歴史的背景の関連性を検証することにより、時には古代史の流れや、歴史の謎さえも理解する糸口を、掴むことができるようになります。元伊勢の謎をレイラインで解明する時がきました!

古代の聖地と地の指標 -前1世紀-
古代の聖地と地の指標 -前1世紀-

こちらの記事もおすすめ

コメントする