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元伊勢と甲可日雲宮のレイライン 大自然の恵みに育まれた御巡幸地での調査と休息

倭姫命御一行 行程地図
倭姫命御一行 行程地図
倭姫命の御一行は倭国の御室嶺上宮、今日の三輪山、大神神社周辺を離れて東方に向かい、宇陀の地にて4年の年月を経た後、宇陀山地と鈴鹿山脈の間を北東方向に進みました。そして伊賀国名張の市守宮、神戸の穴穂宮、柘植の敢都美恵宮に都合8年間滞在した後、近江国、今日の滋賀県の甲賀高原へ到達します。御一行は三輪山の北方にある琵琶湖の東岸を目指していたのでしょうか。山地山脈に挟まれたのどかな緑の生い茂る地を北上し、近江国の甲可日雲宮で4年という歳月を経ることになります。

候補地が連なる甲可日雲宮

琵琶湖の東方、近江国の甲賀郡に広がる丘陵の一帯は、のどかで緑が美しく、国内でも有数の自然豊かな景観を誇る場所です。今日では大規模な公園も随所に造成され、人々の憩いの場所になっています。倭国と伊賀国を結ぶ延長線の北方には、近江国を代表する理想の景観地が広がっており、元伊勢の御巡幸の際には、その甲賀の地が目に留まったことでしょう。その一角に甲可日雲宮が建立され、神宝は4年間遷座したのです。倭姫命世記には当時、「淡海の国造、地口御田を進る」と記されています。地口御田と称された田などが倭姫命に献上されたことからしても、御巡幸の旅が地元から祝福されていたことがわかります。
  甲可日雲宮については皇大神宮儀式帳に記載が見当たらず、倭姫命世記に記されているだけです。よって記述内容の比較検証ができないことが、比定地の選択肢が最多に分かれてしまう原因と言われています。しかも選択肢となる候補地の多くが、遷座地としての要素を十分に兼ね備え、どれも見劣りしないのです。実際、甲可日雲宮の比定地と言われる場所のほとんどは河川沿いにあり、由緒も兼ね備えています。主だった候補地の全てが、レイライン上において日本列島内の重要な拠点と結び付いていることにも注目です。これは古代社会において甲賀の地域が重要視され、その広大な草原の広がる丘陵地において、時を経ながら複数の場所が大切な拠点として厳選され、そこで神が祀られていたことを意味しています。そのうちのひとつが元伊勢であり、その他にも神を祀る大切な社が数々と建立され、巫女が宿泊された頓宮や、休息の地も造営されながら、地域全体が発展したのです。これらの比定地は、東西に渡り30kmほどに広がって散在していることからしても、地域一帯が古代の聖地として重要視されていたと考えられます。

由緒ある垂水頓宮のレイライン

垂水頓宮跡に建立された石碑
垂水頓宮跡に建立された石碑
最初に甲可日雲宮の比定地の中でも筆頭候補に挙げられることの多い垂水頓宮を検証してみましょう。柘植の敢都美恵宮から北方へおよそ10km向かうと、滝樹神社の北側にひっそりした自然に囲まれた森が目に入り、そこに垂水頓宮の聖地があります。そばには文字通り垂水の様相を見せる野州川が流れ、周囲には小高い丘が広がり、美しい自然の環境に恵まれた地です。垂水斎王頓宮跡は史蹟として特定され、そこには石碑が建てられています。また、頓宮周辺には高さ1mほどの土塁が正方形に築かれています。
  巫女として伊勢神宮に奉仕する未婚の内親王や親王の娘を斎王と呼び、斎王が宿泊された場所を頓宮と言います。皇女から選出された斎王を天照大神の御杖代として神々を祭る斎王制度は、平安時代から始まりました。そして京都から伊勢までの大道を群行するにあたり、勢多、甲賀、垂水、鈴鹿、壱志に滞在したことから、垂水の地においては垂水頓宮と呼ばれるようになったのです。また、垂水頓宮は実際に斎王が群行でお泊りになられたことが実証された唯一の頓宮跡地であり、国史跡にも指定されています。

ひっそりとした森林に囲まれた垂水頓宮
ひっそりとした森林に囲まれた垂水頓宮
垂水頓宮に隣接する滝樹神社の由緒には、倭姫命が甲可日雲宮に滞在された間、御饌(みけ)が調進されたことが記載されています。それが事実とするならば、滝樹神社は甲可日雲宮の近隣に存在したと推定され、すぐそばにある垂水頓宮が候補地として有力視されることになります。しかしながら御饌の調進については隣接するほど近距離である必要はなく、他の候補地である若宮神社でも滝樹神社から8km弱の距離しかないことから、確実視することはできません。また、頓宮に定められる条件としては元伊勢である必要はなく、あくまで群行の経路に位置し、立地条件に優れていることが大事です。また、よって頓宮であることや、滝樹神社の由緒は、比定地を判断する際の参考程度に留めておく必要があります。

垂水頓宮は、レイライン上においても重要な位置を占めています。その基本となる線は、諏訪大社と四国の足摺岬を結ぶ線です。諏訪大社は古代の聖地の中で大切な位置を占めています。その大社の下宮と足摺岬を結ぶ線上に垂水頓宮が存在します。驚くほどの精度で、3つの拠点がぴたりと一列に並んでいることは単なる偶然ではなく、南方から船で訪れる渡航者の視点から、足摺岬が地の指標として重要視され、そこから諏訪大社に向かう途中の拠点として垂水頓宮の地が一直線上に見出されたと推測できます。

諏訪大社の周辺には縄文時代から大規模な集落が形成されました。古代、イスラエルから移住してきた民も、ヒラバイ山と神籬石を結ぶレイライン上にあり、しかも同緯度線の太平洋沿岸に鹿島神宮を見出すことのできる諏訪大社の地域を重要視していたと考えられます。それ故、諏訪大社の裏山も族長アブラハムが我が子を神に捧げようとしたモリヤの地名にちなんで守屋山と名付けられ、地域周辺では旧約聖書の記述に類似した子供に纏わるミシャクジの伝説が、諏訪地方には今日まで伝承されてきています。毎年、神官が決まると、男児が人身御供として殺されるという伝説は、守屋の地名と共に、イスラエルの古代信仰に由来していることは間違いないでしょう。

また、鹿島神宮と宇佐神宮を結ぶレイラインも垂水頓宮のそばを通りぬけることにも注目です。神剣、布都御魂が宝蔵される鹿島神宮は、諏訪大社と共に、古代から神宝に纏わる由緒が伝えられている社です。そして宇佐神宮は八幡宮の総本山として、その創始には秦氏が深く関わっていたことで知られる由緒ある古代の社です。これら東西にまたがる2つの聖地を結ぶ線上に垂水頓宮が存在するということには、何かしら、重要な意味があるのではないでしょうか。さらに富士山と宗像大社の辺津宮を結ぶレイラインも、垂水頓宮のそばを通っていることにも注目です。日本列島の東西の最重要拠点を象徴するレイラインでもあり、その線上に並ぶ拠点は、富士山と宗像大社の地の力に紐付けられることになります。垂水頓宮はその線から2kmほど離れた位置に建立されています。

垂水頓宮は、諏訪大社、鹿島神宮、宇佐神宮、そして宗像大社という古代聖地に紐付けられる位置に建立されていたことを、複数のレイラインから確認することができます。その立地条件は由緒ある頓宮として申し分なく、垂水頓宮の名は後世にまで残されることになります。

甲可日雲宮(垂水頓宮)のレイライン
甲可日雲宮(垂水頓宮)のレイライン

見事なレイラインを構成する若宮神社

若宮神社の背後に流れる野洲川(松尾川)
若宮神社の背後に流れる野洲川(松尾川)
垂水頓宮に勝るとも劣らない甲可日雲宮の比定地が、野洲川ダム近くの大河原と呼ばれる山地の中腹に広がる丘陵の一角に建立され、大自然の中でもひと際目立つ若宮神社です。周辺は自然の恵みに囲まれ、今日では大規模な自然公園や天然温泉施設までもが整備されています。また、境内社には皇大神宮もあり、その真裏には野洲川の上流となる松尾川が流れ、北は山、西は野が続く、四神相応の地となっていることにも注目です。若宮神社を過ぎて東方に向かい、湯の山峠を越えると伊勢国に至ることから、古代から周辺地域は陸路の要所となっていました。

垂水頓宮に隣接する甲可日雲宮(若宮神社)
垂水頓宮に隣接する甲可日雲宮(若宮神社)
若宮神社は、市守宮(蛭子神社)、穴穂宮(神戸神社)と敢都美恵宮(都美恵神社)を、ほぼ一直線に結ぶ線上に位置しています。元伊勢の遷座地を特定する際に、市守宮から北方に向けて順次、拠点を見出し続けた結果、その延長線に若宮神社の地が候補地として浮かびあがった可能性があります。複数の元伊勢が一直線に並ぶことは、単に地理的な関係がわかりやすくなるだけでなく、拠点同士の潜在的な相互関係をより密接なものにする上で、古代の民にとっては重要であったと考えられます。また、若宮神社には、甲賀の山中という地勢のハンディを全く感じさせない眺めの素晴らしい要所としての存在感もあり、その東方には伊勢国の方面に通り抜ける湯の山峠が存在します。よって、若宮神社を元伊勢の比定地とするならば、その4年という年月の中で、近江国と伊勢国の行き来に用いられる陸路を整備し、管理下に治めることも重要視されたはずです。こうして倭姫命御一行の影響力は、ますます世に知れ渡ったと想定されます。
  若宮神社の地が重要な拠点であることは、複数の重要なレイラインがきめ細かく結びついていることからも説明することができます。基本線の筆頭は、四国の石鎚山と淡路島の神籬石を結ぶレイラインです。若宮神社の本殿
若宮神社の本殿
石鎚山の頂上は天狗岳と呼ばれ、そこから岩上神社の巨石として知られる神籬石を結ぶと、その延長線上にぴたりと若宮神社が存在します。国生みの原点となる淡路島の中心的な指標である神籬石と、熊野権現の歴史に絡む西日本最高峰の石鎚山が、若宮神社のレイラインの根底に存在するということは、若宮神社の建立地が特定された背景には、これら古代聖地への熱い想いを抱いた人々の存在があったと考えられます。

古代レイラインの重要拠点となる中津宮

宗像大社中津宮の境内
宗像大社中津宮の境内
もうひとつの重要なレイラインが、富士山と宗像大社中津宮を結ぶ線です。富士山頂の南方と宗像大社の中津宮を結ぶレイライン上に若宮神社が存在します。これは、もはや偶然とは言えず、前述した石鎚山と神籬石を結ぶ線との交差点を特定し、若宮神社の場所を見極めるための手段であったと考えられるのです。中津宮は玄界灘の沖、大島に存在する宗像三社のひとつです。沖ノ島の沖津宮と宗像大社の辺津宮があまりに有名であるため、話題に上ることが少ないようですが、古代においては宗像三社の中でも極めて重要な位置を占めていました。その理由は、中津宮の裏山にあたる大島の頂上から、九州北部の山々を一望することができたからに他なりません。
  宗像大社中津宮 本殿
宗像大社中津宮 本殿
宗像の神湊港から北西に7km程、海を渡ると、周囲約15kmの大島があります。港のそばには宗像大社中津宮が建立され、境内の近隣には標高224mの御嶽山の頂上に向かう登山道の入り口が設けられています。その山道を暫く登ると御嶽山展望台に到達し、そこからは玄界灘に面する九州の山々を、北九州から博多方面にかけて眺めることができます。東方から足立山、皿倉山、帆立山と、その手前に宗像の湯川山が、そして福智山、国見山、英彦山と続き、頂上を見渡せる山々の数は15以上にのぼります。これ程多くの山頂を見渡すことができる展望所は珍しく、しかも徒歩ですぐに到達できる標高にあることから、古代の民は中津宮裏の御嶽山を重宝したに違いありません。
  御獄山展望台から眺める 足立山 皿倉山 帆立山
御獄山展望台から眺める 足立山 皿倉山 帆立山
元伊勢御巡幸の時代の直後には邪馬台国が台頭してきますが、そこへ至る道のりの舞台の背景に存在していたと考えられる足立山、皿倉山、帆立山が全て見渡せることにも注目です。中津宮に紐付けられる形で若宮神社の地が探し出された後、その御神体とも言える御嶽山から一望できる北九州の山々が、邪馬台国へ向かう途上の国々と関連付けられることに、時代の自然な流れを感じないではいられません。御嶽山から見える九州の山々は早くから特定され、その周辺地域には率先して集落が形成される傾向があったのではないでしょうか。それが邪馬台国の時代では、国々と呼ばれるまでに発展したのです。また、大島の北方には沖津宮遙拝所があり、今日でも天気の良い日には、48km離れた沖ノ島を眺めることができるだけでなく、対馬までも見渡せます。こうして中津宮は、島々や山々を展望する古代の要所として位置付けられたのです。
  宗像大社沖津宮遙拝所
宗像大社沖津宮遙拝所
これら2本のレイライン上には、神籬石、石鎚山、富士山、宗像大社中津宮という重要な聖地が含まれていますが、中でも淡路島の神籬石は、沖縄の那覇と八戸を結ぶ日本列島最長のレイライン上の中心に位置するだけでなく、それに交差する形で、宗像大社中津宮と三輪山を結ぶレイラインを構成していることにも注目する必要があります。つまり、若宮神社のレイラインに存在する神籬石と中津宮を結ぶ線は、三輪山にも直結していることが確認できるのです。三輪山と宗像大社中津宮は、皇室の原点に深く絡む重要な社です。また、元伊勢御巡幸の原点は三輪山にあるだけに、中津宮遙拝所から眺める沖ノ島
中津宮遙拝所から眺める沖ノ島
これらの聖地とレイライン上で紐付けられることは、皇室の歴史と絡むことの象徴とも考えられ、重要な意味があります。さらに石鎚山と富士山を結ぶレイラインも存在し、その線上には奈良の石上神宮が位置しています。神宝と密接な関わりを持つ石上神宮がレイライン上に含まれるということは、それに絡む複数の拠点も同様に、神宝との繋がりが持つ可能性を秘めることになることから、注目する必要があります。

東西南北を網羅する若宮神社のレイライン

若宮神社を通るレイラインには、さらにもう2本の重要なレイラインが存在します。まず、紀伊半島における古代の拠点であり、元伊勢御巡幸の最終段にも含まれた伊雑宮と、日本海の三方五湖西岸を結ぶ線に注目です。そのレイライン上に若宮神社があります。また、三方五湖の西方、同緯度の場所に元伊勢の御巡幸に含まれた真名井神社があります。よって、このレイラインと三方五湖を通る緯度線をもって、甲可日雲宮(若宮神社)と吉佐宮(真名井神社)までが見事に紐付けられることになります。さらに三方五湖と石上神宮を結ぶ経度線の南方には、石鎚山と富士山を結ぶレイライン上に存在する石上神宮も存在し、経度線と見事に交差しています。その経度線の南方には、古代において船旅の指標となった紀伊大島があることも注目点の一つです。

古代の指標となる三方五湖
古代の指標となる三方五湖
伊雑宮も極めて重要なレイラインの拠点であり、六甲山と出雲大社を結ぶ線を構成することから、更に多くの聖地との関連性が見いだされます。中でも六甲山は、吉佐宮と呼ばれた真名井神社(籠神社)と剣山を結ぶレイライン上に存在することから、若宮神社も六甲山を介して剣山とも地の力で結ばれることになります。元伊勢に関わる遷座地の大半がレイラインを介して四国剣山と結ばれていることには、後述するとおり、大切な意味が含まれています。
  若宮神社を通る4本目のレイラインが、諏訪湖南方の守屋山の麓、諏訪大社前宮と九州日向に比定される一つの候補地である宮崎市の北、一ツ瀬川の河口付近を結ぶ線です。諏訪大社の重要性は前述したとおりであり、ヒラバイ山と神籬石を結ぶレイライン上にあることから、神籬石を介して多くの聖地や列島内の大事な拠点と紐付けられ、地の力を共有することになります。こうして複数のレイラインを介して多くの拠点と関連付けられた若宮神社は、石鎚山や三輪山、剣山、六甲山などの聖山だけでなく、国生みの原点に関わる宗像大社や諏訪大社とも紐付けられ、これらの地の力を余すことなく吸収することになります。

伊雑宮 本殿
伊雑宮 本殿
若宮神社の2kmほど南方には、もうひとつの比定地として知られる三上六所神社があります。その位置は熱田神宮と淡路島の石上神社を結ぶライン上に見出されることから、神宝を奉る大切なメッセージを念頭に、建立された神社であったと想定されます。しかしながら熱田神宮が建立された年代からして三上六所神社の建立時期は、若宮神社の時代以降であると考えられ、元伊勢の選択肢にはなりえないことがわかります。いずれにしても若宮神社の地域一帯は、古代の社会において重要な聖地とみなされていたことに違いはありません。

甲可日雲宮(若宮神社)のレイライン
甲可日雲宮(若宮神社)のレイライン

上乗寺(神明社)のレイライン

一戸建ての家のような上乗寺
一戸建ての家のような上乗寺
甲可日雲宮の比定地候補として、もう一つの有力な候補が、三雲駅近くの上乗寺です。日雲神社、日雲宮とも呼ばれる上乗寺の名前は、他にも複数あります。古くは雲野山天号寺、その後、17世紀に観音山上乗寺と改められ、境内の地は神明宮であることから、元来は神明社とも呼ばれていたようです。「皇大神宮史」には日雲宮の比定地が、「一説に三雲村」と記されていることから、元伊勢のひとつである可能性があります。社殿には、「伊勢両皇大神宮 日雲大明神」と書かれた名札が正面に飾られています。地名が三諸山と八雲山を彷彿とさせる三雲村という名前であり、「近江名跡案内記」や「大日本地名辞書」によると、三雲村は元来、日雲と言われ、それが訛って三雲になったと説明されています。すぐそばには群行祓所であった斎神社があることからしても、古代では重要な拠点であったことに違いはありません。
  上乗寺のレイラインは、交差する3本の基本線から成り立っています。まず、伊弉冉命を祀る花窟神社と同経度にあることに注目です。これは明らかに国生みの働きに結び付けて上乗寺の場所が当初、厳選されたからに他なりません。その垂直に伸びるレイラインに交差するもう一つのレイラインが、紀伊大島と熊野那智大社を結ぶ線です。古代、紀伊大島の基点は島の東岸にあったと推定され、そこと熊野那智大社を結ぶと、上乗寺をぴたりと通り抜けます。これら2本のレイラインにより、上乗寺の場所は特定することができたのです。

伊勢両皇大神宮 日雲大明神と書かれた名札
伊勢両皇大神宮 日雲大明神と書かれた名札
熊野権現と花窟神社に紐付けられていることから、上乗寺が建立された理由は、国生みの働きに関与していたと想定され、その歴史は大変古いものかもしれません。また、若宮神社のレイラインと同じ富士山頂と宗像大社中津宮を結ぶレイラインも上乗寺の近郊、2km前後離れた地点を通り、このレイラインも上乗寺の存在に関与していた可能性があります。しかしながら若宮神社と異なり、レイラインでの確実な繋がりが、熊野那智大社と花窟神社に偏っていることからして、建立の目的は元伊勢ではなく、むしろ熊野に纏わる黄泉の世界からの禊祓や、墓地に関連する働きが主だったのではないかと考えられます。

甲可日雲宮(上乗寺)のレイライン
甲可日雲宮(上乗寺)のレイライン

甲可日雲宮の比定地とは

若宮神社の参道
若宮神社の参道
選択肢があまりに多いため、比定地を特定することが困難と言われてきたのが、甲可日雲宮です。しかしながら、レイラインの検証から察するに、若宮神社の地こそ、抜きんでた候補地であることがわかります。具体的な理由として、まず、レイラインの精度が高く、拠点同士を結ぶ一直線上に若宮神社が位置することが挙げられます。遠隔地を結ぶレイラインだけに、通常は数km 程の誤差が生じることが多いものですが、若宮神社のレイラインは、例えば、石鎚山と淡路島の神籬石を結ぶ線や、富士山頂と宗像大社中津宮を結ぶ線のように、全て一直線上にぴたりと並びます。

また、若宮神社を通るレイラインの数が4本と多いことも重要な理由です。それだけ多くの拠点と地の力を共有することになり、若宮神社周辺の地域がレイラインの中心地として大切な場所であったことを地図上で検証することができます。さらに、レイライン上の繋がりを持つ拠点のほとんどが、元伊勢のモチーフにちなんだ天孫降臨や神宝に関わる由緒を持つ日本の古代聖地であり、諏訪大社や宗像大社だけでなく、富士山や石鎚山など多くの聖山も名前を連ねていることに注目です。レイラインの検証から、これまで閉ざされていた古代史のページが、新たに開かれてきます。

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