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元伊勢と霊峰、島々のレイライン 御巡幸地を定める為に用いられた重要な地の指標

神宝を携えながら各地を旅する元伊勢の御巡幸には1世紀近くの月日が費やされ、壮大なスケールの旅路へと発展しました。神が宿る霊峰、三輪山を中心とする倭国より始まった御巡幸は、当初、豊鍬入姫命によって導かれ、33年間、倭国に滞在した後、更に21年という年月をかけて丹波国、木乃国(紀伊国)、吉備国を回り、再び倭国に戻ってきます。そして倭姫命に御巡幸の責務が引き継がれ、御一行は倭国を再び旅立った後、今度は伊賀国、近江国、美濃国、尾張国を22年の歳月をかけて巡り渡ります。こうして伊勢国へ辿り着くまで、76年という長い年月が費やされたのです。

最終目的地である伊勢国に入った後も、桑名野代宮、奈其波志忍山宮、阿佐加藤片樋宮、飯野高宮へと御巡幸の旅は続き、12年が経過します。元伊勢の御巡幸は、およそ4年周期で近畿地方周辺の各地を巡るという傾向が見られ、伊勢国へ到達した後も、その流れは続きました。そして伊勢国の飯野高宮を出発する時点では既に、88年という長い年月が過ぎていたのです。

御巡幸が長期間になった理由

元伊勢の御巡幸が長期間にわたった理由は、少なくとも3つあるようです。まず、地理的な相互関係を検証しながら確実に御巡幸地を厳選する必要があり、そのため、各地の霊峰や聖地をレイライン上で結び付ける作業に時間を要したからと考えられます。特に四国の剣山と紐付けられる位置を特定することが重要であったことがレイラインの考察から理解でき、古代の天文学と地勢学を駆使して大変な苦労を重ねながら、ピンポイントで御巡幸地を定めようと努力したことが想定されます。

また、地域周辺の民を啓蒙するために時間を費やすことも重要でした。御一行が各地に滞在した際には、国家の安泰と平安を祈願するための神の宮が随所に造営されました。そして神を祀る重要性を庶民に示しながら様々な政策が布かれ、天皇を中心とした国家の体制を堅持することの重要さが、豊鍬入姫命や倭姫命の滞在を通じて古代の民に伝えられたことでしょう。

もうひとつの理由は、神宝の存在に絡んでいます。御一行が携えていた比類なき神宝は、外敵の略奪から守護するために細心の注意を払う必要がありました。新たなる御巡幸地に辿り着く際には神宝を安全に収蔵する場所を確保することが不可欠であり、その保管場所を厳選するためにも十分な時間を要したことでしょう。こうして各地を転々と移動する度に神宝を秘蔵する場所には工夫が凝らされ、いつしか語ることさえもタブーとされ、史書にも記されることもないまま真相は歴史のベールに包まれてしまうことになります。

これらの綿密な計画を遂行した結果、元伊勢御巡幸は長旅にならざるを得なかったと考えられます。そして伊勢国へと向かう最終段の御巡幸の旅は、川と海を船で渡ることとなり、大切な神宝は海人豪族により護衛され、最終目的地へと運ばれることになります。

御一行が五十鈴宮へと急がれた理由

伊勢国の飯野高宮を離れた後、御巡幸の旅はこれまでとは様相が一変し、そのスピードが一気に加速します。そして倭姫命の御一行は1年もかけずに、およそ6か所の御巡幸地を足早に移動し続け、最終目的地である五十鈴宮、皇大神宮へと向かったのです。飯野高宮から五十鈴宮へと何故、急がれたのでしょうか。

まず、これまでの御巡幸地がすべてレイラインによってしっかりと紐付けられ、五十鈴宮の場所もレイライン上で確認できたことから、もはやこれまでどおり、それぞれの御巡幸地においてじっくりと時間をかけて過ごす必要がなくなったことが考えられます。またレイラインの考察からは、御巡幸地の中心となる神の宮の場所が特定できるだけでなく、神宝を保管する秘蔵場所についても、その考え方や方向性においてヒントを得ることができます。それ故、御巡幸の旅を終盤で急がれた理由は、何かしら神宝に関わっていた可能性が残されています。

移動に緊急性を要するようになったもうひとつの理由が、列島内における政治情勢の激変です。倭姫命が御巡幸に携わった時代は、垂仁天皇の御代1世紀にあたります。当時、日本列島では動乱の噂が絶えず、大陸において秦の始皇帝による統治が崩壊した直後でもあり、多くの民が日本列島を目指し、大陸より流入し始めていました。それが政治情勢を不安定にする大きな要因となったのです。渡来者の中には秦氏のように、短期間で国内において政治的権力を持つまでに至る豪族も存在しました。そして列島内の随所に拠点を設け、その優れた大陸の文化と経済力により、瞬く間に内政にも影響を及ぼすようになります。また、大陸からの渡来者の急増により、各地で紛争が生じたことは想像に難くありません。大半の民は朝鮮半島を経由して対馬、壱岐から九州に渡り、そこから本州へと向かいました。その為、従来、日本列島の西方に居住していた民は、徐々に東方へと追いやられることになったのです。

これらの列島内各地における紛争の噂や不安定な政治情勢を背景に、倭姫命の御一行は五十鈴宮へと向かうことになります。歴史を振り返ると、元伊勢の御巡幸が終了した直後から政治的な危機は現実となったことがわかります。記紀にも記載されているとおり、垂仁天皇の孫にあたる日本武尊は、父である景行天皇の命により、九州における熊襲の叛乱を封じることを命じられます。その後、日本武尊は吉備や難波の征討にも貢献し、最終的には列島東方の討伐さえも命じられ、倭姫命から草薙剣を授けられたにも関わらず、命を失うことになります。これら、列島内の内乱は突如として起きたことではなく、その一世代前にあたる元伊勢御巡幸の時代には、既にその芽が出始めていたと想定されます。

さらに重要な問題が、三輪山から携えてきた神宝の存在です。中には八咫鏡のように高天原で製造されたものや、草薙剣のように大陸から到来した海賊を退治して奪い取ったと推測されるものも含まれていました。これらの神宝は祭祀活動の中心的な存在として大切に守られ、それぞれが当初、神の宮にて大切に安置されたことが史書に記されています。しかしながら国内情勢が厳しさを増す中、その治安が問題視され、神宝の安置場所が再検討される必要性に迫られることになります。

つまるところ元伊勢の御巡幸という長期的な計画が草案された理由は国家の安泰と新しい治世を実現することにあり、そのため各地を巡り回り、地域を統治する基盤を築きながら民衆を啓蒙するだけでなく、天皇家の象徴となる神宝を携え、その権威を知らしめつつ、神宝を守護することが目論まれたのです。そして三輪山を中心として東西南北へと広範囲に移動し続けることにより、いつの間にか本物の神宝がどこに収蔵されているのか、わからなくなるように工夫したのではないかと考えられるのです。その結果、八咫鏡と草薙剣は五十鈴宮へと遷されましたが、それ以外の神宝の存在について史書には記述が殆どなく、歴史の中に埋もれてしまうことになります。また、八咫鏡についてもレプリカが複数製造されていたことから、本物がどれであり、いつどこに遷されたのか、不透明になりました。

いずれにせよ、神宝の存在とその神威は国内外で注視されたに違いなく、その結果、大陸からの攻撃対象にもなりやすかったのです。特に草薙剣は外敵より奪い取った神宝であるだけに、それを取り返しにこようとする暴徒が存在したことでしょう。こうして時代が激変する最中、倭姫命の御一行は難を逃れるためにも、最終目的地である五十鈴宮を目指し、御巡幸の速度を一気に早めたのです。

御巡幸地を完結させる霊峰と島々

剣山 山頂の宝蔵石
剣山 山頂の宝蔵石
三輪山から始まった元伊勢御巡幸の旅は、当初から常に四国剣山を意識したものであったと考えられます。御巡幸地のほぼすべてが、レイラインの指標となる霊峰や聖地と結び付き、剣山とも繋がっていることを、地図上の線引きにより確認することができます。剣山は標高1955mを誇る西日本で2番目に高い霊峰であり、淡路島や紀伊半島の山々からも、その頂上を遠くに見ることができます。また、剣山の頂上へ行くためには、断崖絶壁が続く山々が連なることから、古代の民にとってはまさに、前人未踏の聖地と考えられていたに違いないでしょう。それ故、元伊勢の御巡幸地が剣山に紐付けられたということは、そこに何かしら重要な意味が秘められていたに違いなく、神宝の行方が絡んでいる可能性が見えてくるのです。

また、元伊勢の御巡幸に結び付けられる霊峰は剣山だけでなく、琵琶湖畔に近い伊吹山、そして御在所岳という2つの霊峰が存在することも見逃すことはできません。いずれの山も地域の頂点を極めているだけでなく、遠くを見渡すことができるという点において、剣山と同様に地の指標として古代より大切に見守られてきたのです。これらの霊峰は、相互がレイラインによっても結び付けられ、地の力を象徴する霊峰として、古代の民の間で認知されるようになりました。

伊吹山はレイライン上、列島最高峰の富士山、出雲の八雲山、そして剣山と結び付いているだけでなく、複数の御巡幸地を特定するためにも用いられた重要な霊峰でした。その伊吹山のレイラインから最終的に、伊勢神宮内宮の場所も、ピンポイントで浮かび上がってくることから、伊吹山も古代の重要な指標であったことがわかります。

御在所岳 頂上
御在所岳 頂上
御在所岳も伊吹山と同等に、霊峰として崇められるだけの存在感に満ちています。レイラインを通じて御在所岳は、剣山、諭鶴羽山、そして石鎚山や伊吹山、富士山、大台ヶ原山など、多くの霊峰を紐付ける存在として、古代から重要視されていたのです。それ故、御在所岳の頂上周辺には、人間の手によって形造られた複数の奇石が存在し、山頂周辺の貴重な目印として今日まで温存されてきました。特に、その頂上からの眺めは特筆に値し、そのほぼ真北には伊吹山、北西方向には琵琶湖、南東方向には伊勢湾、そして南西方向には鈴鹿峠を見渡すことができます。

その御在所岳から遠く、伊勢湾の向こうに見える島として古代、注目されたのが神島です。古代では防御体制がより安全な離島に神宝が隔離される傾向にあり、命をかけてでも絶対に守らなければならない神宝を確実に守るためには、陸地からのアクセスが難しい離島の存在が不可欠だったのです。それ故、例えば九州の北方に浮かぶ沖ノ島では多くの神宝が収蔵され、その結果、島自体が神聖化し、古代の海を自由に航海する海人豪族によって守られるようになりました。陸地から遠く離れているだけに海洋技術に長けた海人豪族の力を発揮して、神宝を略奪の危険から守ることができたのです。同様に神島も、陸地から10kmほどしか離れてはいないものの、太平洋に面する大海原に浮かぶ島として古代人の目に留まり、そこに多くの神宝が収蔵されることになります。

御在所岳と伊吹山のレイライン
御在所岳と伊吹山のレイライン

神島はレイラインの基点としても、極めて重要な位置付けを持っていました。まず、神島は元伊勢の原点となる三輪山と同じ緯度線上にあり、三輪山の真東を守護する離島として、聖地化される地理的要因を兼ね備えていました。それ故、古代より神島は三輪山に結び付く神聖な島として位置付けられ、人々が近づくことを禁じられ、そこに多くの神宝が秘蔵されることになったのです。また、神島と御在所岳を結ぶ線は、琵琶湖の西岸にある大宝寺山を一直線に通りぬけます。富士山と同緯度の線も大宝寺山にあたります。つまり神島のレイラインから台頭した大宝寺山は、富士山と御在所岳に結び付く2本のレイラインが交差する地点にあり、それ故、重要な霊峰として注目されたのです。この大宝寺山は後述するとおり、元伊勢の結末においても、指標として重要な役割を果たすことになります。

また、神島は徳島と和歌山の間の紀伊水道の真ん中に浮かぶ伊島と、神奈川の江ノ島を一直線に結んでいます。神島は古代、歌島と呼ばれ、その読みは「かじま」または「うたしま」でした。すると一直線上に「い」の島(伊島)、「う」の島(歌島)、「え」の島(江の島)が並ぶことになり、あいうえおのレイライン
あいうえおのレイライン
伊島の北には淡路島、江ノ島の南には大島が存在することから、不思議と「あいうえお」の順で島々が並ぶことになります。これらの島々は、すべて神宝に深く関わりを持ち、一時期、神宝を収蔵する待避所としても用いられた可能性があります。それ故、レイライン上に偶然並んでいるとうよりもむしろ、同一線上にある島々が関連づけられるべく、意図的に命名された可能性があります。
  伊島では、平安時代に空也上人が観音堂を建立し、島の頂上にある磐座の横には奥の院が建てられ、33か所の遍路までが島内に作られました。また、江ノ島では古代、島の中心部に向けて洞窟が掘られていたことがわかっており、神宝の収蔵に一時期用いられたと考えられます。また、神島に限らず、江ノ島、伊島も古代では、極めて神がかり的な離島として一目置かれた存在であったことがわかります。こうして元伊勢の最終段においては、神宝に関連する重要な指標として霊峰だけでなく、聖なる島々までも特定され、地域の全体像がレイラインの結び付きから把握されたのです。

倭姫命御一行が伊勢国に到達し、飯野高宮を旅立つ時点においては、既に最終目的地である五十鈴宮の場所が特定されただけでなく、時に政治情勢が急変し、大陸からの侵略の噂のみならず、国内においても動乱の兆候が見えていました。それ故、御巡幸の旅を終焉させ、神宝をかくまい、盗難の恐れのないところに秘蔵することは急務でした。その結果、伊勢国内の残りの御巡幸地を短期間で巡り渡り、五十鈴宮へと向かうことになったのです。倭姫命世記には、飯野高宮を経て「遂に五十鈴宮に向かうことを得たまえり」と記載されています。そのとおり、五十鈴宮がゴールであり、そこに向かって倭姫命は急ぎました。それでも途中の御巡幸地は無視することなく、着実に足を運び、それぞれの場所で神が祀られました。それだけに、飯野高宮の後に続く伊勢国の御巡幸地も重要であり、その理由をレイラインから検証する必要があります。