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元伊勢と矢田宮のレイライン 五十鈴河上を目前に到達した最後の宮処

元伊勢の御巡幸が大和国から始まった当初、最終目的地が伊勢国であることは、豊鋤入姫命をはじめ、おそらく誰も理解していなかったことでしょう。しかしながら、長い年月をかけて見出された多くの御巡幸地は、大和国の三輪山を中心として広範囲にわたるだけでなく、そのほとんどが不思議と四国剣山とレイライン上で結び付いていることが確認できます。それ故、当初から御巡幸地は三輪山と剣山を指標として特定され、長年にわたり神宝が遷座され続けていくうちに、鎮座地の最終的な候補地として伊勢国の名前が台頭してきたと考えられます。

御巡幸の責務は途中、豊鋤入姫命から倭姫命へと引き継がれます。その時点で伊勢国が最終目的地であることを倭姫命が御存じであったかは定かではありません。しかしながら倭姫命による御巡幸の後半、それまでの陸路の旅から一転して船を用い、美濃国の伊久良河宮、尾張国の中嶋宮から伊勢湾に向かって河を下り、伊勢国北方の桑名野代宮に御遷行する時点では、最終目的地が伊勢国にあることは理解されていたことでしょう。そして倭姫命御一行が伊勢国の領域に到達した後、情報収集は一層活発になり、伊勢国を巡りながら神宝を鎮座する場所が徐々に絞り込まれていくことになります。

今からおよそ20世紀前、90年近くの月日が費やされた元伊勢御巡幸こそ、伊勢神宮のルーツであり、倭姫命が伊勢国の五十鈴宮へと導かれたいきさつについては「倭姫命世記」(世記)の記述から察することができます。そこで今一度、「世記」の内容から、御一行がどのように伊勢国へと導かれたかを振り返ってみましょう。

倭姫命姫が伊勢国を目指した経緯

伊賀国 市守宮
伊賀国 市守宮
「世記」では大和国の笠縫邑から始まった御巡幸地が順番に説明されています。そして倭姫命の代における伊賀国隠市守宮の記述に至ると、その分注に伊勢国という文字が初めて登場します。そこには伊賀国が伊勢国の4郡から分けられて成り立ったと記載され、伊賀国が元来、伊勢国の一部であったことが説明されています。この分注は、先代旧事本紀の巻十の国造本紀、伊賀国造の項に由来するとも言われています。その伊賀国から淡海国、美濃国、尾張国と御巡幸の旅は続き、その後、伊勢国の桑名野代宮へと向かいます。それが「世記」に見られる2番目の伊勢という地名です。

桑名野代宮に到達してからの倭姫命世記の記述は一変し、それまでの簡単な概略と年代だけの記述とは異なり、出来事の詳細までも綴られるようになります。最終目的地である伊勢国に到達したということで、史実をきめ細かに確認しながら編纂する必要があったのかもしれません。また、元伊勢の御巡幸が始まってから既に80年近い年月が過ぎ去っていたこともあり、時代が新しくなるにつれて、より多くの史料を集めることができたことから、伊勢国の桑名野代宮
伊勢国の桑名野代宮
詳細まで言及しやすかったとも考えられます。
  特筆すべきは、桑名野代宮へ到達した時点から多くの県主が自らの国を紹介するために倭姫命を訪問されたことが、繰り返し記されていることです。例えば伊勢からの最初の訪問者である建日方命は桑名野代宮で参上し、「汝が国の名は何ぞ」と尋ねられると、「神風の伊勢国」と申し上げたことが記載されています。その後、伊勢国界隈を御巡幸された際にも、各地の県主や有力者が同様に倭姫命を訪問され、自らの国を紹介したのです。

こうして伊勢国に到達した後は来訪者が後を絶たないようになり、倭姫命の周辺は、にわかに慌ただしくなります。特に伊勢国の飯野高宮にて4年間奉斎した際は、多くの県主の祖や伊勢国の有力者が倭姫命の元に訪れます。そして未知の国々や地域が倭姫命に紹介された結果、櫛田社、兵名胡神社など、神を祀る新しい社が各地に建立されたのです。多くの県主の祖らが訪れた理由は単に、倭姫命に御挨拶をするだけなく、中には御巡幸地の最終地点となる遷座地として自らの国を提案した権力者もいたと考えられます。こうして多くの識者や県主など、神宝の行く末と祀りごとに関心を持つ人々との情報交換に時間をかけながら最終目的地の探索は進められたのです。そして飯野高宮を離れる時点では、「遂に五十鈴宮に向うことを得たまえり」と記載されているとおり、倭姫命は五十鈴河の上流が最終目的地であり、そこが五十鈴宮と呼ばれることを知ることとなりました。

そして次の御巡幸地である佐々牟江宮にて短期間滞在した後、伊蘇宮と瀧原宮に向けて伊勢湾から宮川を上流へと上り始めた際、どこからともなく現れた天照大神が倭姫命に、「神風の伊勢国は、即ち常世の浪の重浪帰する国なり…是の国に居らむ欲す」と告げられます。倭姫命は改めて、伊勢国が最終の鎮座地であることを確認し、御巡幸の旅は続けられたのです。そして最終的に倭姫命は、元伊勢御巡幸の最終地点、五十鈴河上流に斎宮と伊勢皇大神宮を建てることとなります。「その祠を建てたまう。因りて斎宮を五十鈴河上に興し立つ。是を礒宮と謂う。天照太神始めて天自り降ります所也。」と「世記」に書かれているとおりです。礒宮とは伊勢皇大神宮の古名です。この倭姫命世記に含まれる伊勢神宮の成り立ちに関わる分注は垂仁記25年3月10日条文と同一であり、天照大神の御神託に従って倭姫命が五十鈴宮を建立されたという歴史の結末を知らしめるために、垂仁記からそのまま引用されています。

しかしながら倭姫命が佐々牟江宮から伊蘇宮と瀧原宮へと向かう時点では、最終の鎮座地が伊勢国の五十鈴河上流沿いにあることは理解されていても、まだ、その場所が明確ではなかったと推測されます。瀧原宮は宮川の上流沿いにあり、その河口は現在の五十鈴河の北に3kmほど離れているだけでなく、五十鈴河とは上流で交差していません。また、五十鈴河の河口から5kmほど伊勢湾沿いを南東に向かうと五十鈴河の支流が伊勢湾へと放流していることから、古代、五十鈴河の河口周辺は広大なデルタを形成していた可能性があります。よって、五十鈴河の位置を確かめること自体が難しく、ましてや、その上流にあると言われた聖地を特定することは、困難を極めたに違いありません。

皇大神宮別宮 瀧原宮
皇大神宮別宮 瀧原宮
それ故、倭姫命が宮川を船で上流方向へと上り、瀧原宮に向かった時点では、その河が五十鈴河であるかどうかさえ倭姫命姫は知らなかったようです。それでも倭姫命は瀧原宮の場所を重要視するあまり、例えその河の名前を特定することができなくとも、そこが最終目的地である可能性を見据えていたようです。それほどまでに瀧原宮の聖地はレイライン上、極めて重要な位置付けを占めていることは前述したとおりです。結果として倭姫命は、「この地は皇太神の欲給う地にはあらず」と悟られたことが「世記」に記されています。つまり、瀧原宮に到達した時点でも、まだ、倭姫命姫は五十鈴河沿いの最終目的地を探し求めていたことがわかります。

では、いつ、どの時点で倭姫命は、五十鈴河沿いの皇大神宮の聖地を見出したのでしょうか。その答えも「世記」に記されています。瀧原宮が最終聖地ではないと悟られた倭姫命は、あきらめることなく各地を転々と移動しながら、地元有力者との出会いがあるたびに、「吉き宮処あるや」と声をかけ、聖地を探し求めていくのです。そして徐々に御巡幸の移動が加速することになります。まず瀧原宮から「大河の南へ宮処を求めて幸行」され、そこに見つけた美しい野原を和比野と名付けられました。直後、地域の有力者である久求都彦(くくつひこ)が宮を造営する場所を紹介するために訪れ、御宮処として久求社が定められただけでなく、更に「吉き大宮処有り」と、新たなる候補地が紹介され、倭姫命はすぐに行幸されたことが「世記」に書かれています。その後、大若子命も船で参上し、「宇遅の五十鈴の河上に、吉き御宮処あり」と倭姫命に新しい候補地を紹介します。倭姫命の熱心は止まることを知らず、どこへでも足を伸ばして現地を自分の目で確認することを大事にしたのです。その後も鷲取小浜、御塩浜など各地を船で移動し続けながら、御宮処の推奨地を巡り渡りましたが、いずれも天照大神を祀るにふさわしい聖地ではなかったのです。

ひたすら御巡幸を続けられた倭姫命は、次に五十鈴河後の江まで移動され、そこから歴史が大きく動き始めます。御塩浜から五十鈴河後の江に船で到達するまでは、倭姫命は五十鈴河の場所を存じてなかったようです。それ故、「この河の名前は何ぞ」と聞かれ、その河が五十鈴河であることを知った時、倭姫命はたいそうお喜びになられたことでしょう。その上流には御巡幸の最終目的地が存在することにもはや疑いの余地はなかったのです。直後、倭姫命を訪れた荒崎姫の紹介をきっかけに、「皇太神の御前の荒崎」と呼ばれた神前岬に神前社が建立されました。そして五十鈴河の上流に向けて河を上り、御津浦、鹿乃見、止鹿乃淵など、自らが命名した由緒ある場所を経由し、河上りの行幸を続けたのです。

口矢田の森のそばを流れる矢田川
口矢田の森のそばを流れる矢田川
そして到達した場所が、伊勢神宮から北東方向におよそ4km離れた神宮新田の東側を流れる矢田川沿いの口矢田の森にて奉られた矢田宮と、そこから1km少々離れた場所にある五十鈴河沿いの家田田上宮です。これらの宮に隣接する神宮新田とは、朝御饌・夕御饌処の御田を定め奉るために特別に選ばれた土地であり、神宮に奉る御料米を収穫する皇太神の御田ということからしても、最終目的地はもはや、目前に迫っていたことがわかります。

家田田上宮から次の御巡幸地である奈尾之根宮までは2km程しかなく、そこが最後の宮処となります。奈尾之根宮へ到達すると、そこでは大勢の有力者が倭姫命を待っていたのです。中でも猿田彦神の裔である宇治土公の祖、大田命との出会いは重要でした。その場でも、倭姫命は「吉き宮処あるや」と尋ねられ、そこで得た答えが最終目的地となる伊勢神宮の場所を決定づける言葉でした。「五十鈴の河上は、是れ大日本国の中に殊に勝て霊地に侍るなり. . . 定めて主の出現御坐さむとする時、献るべしと思いて、この処に礼ひ祭り申せり」という言葉に従って倭姫命がその場所をご覧になるために足を運ぶと、そこは確かに遠い昔、天照大神が誓願された豊葦原瑞穂国内の伊勢のかさはやの国であり、美しい宮処に最もふさわしい地だったのです。垂仁26年、倭姫命は満を持して、天照大神を度会の五十鈴河神に遷し奉り、遂に、元伊勢御巡幸の長旅が幕を閉じたのです。

矢田宮と家田田上宮のレイライン

矢田宮の傍らにある神宮新田
矢田宮の傍らにある神宮新田
伊勢市楠部町を県道37号線沿いに東方へと向かい、五十鈴河を渡ると右側に神宮新田が見えてきます。そこから更に500m程先、五十鈴河に繋がる矢田川沿いに口矢田の森へと続く小道があります。神宮新田の東南方向にあたり、御田ノ森とも呼ばれる小高い丘は、今日では随所に雑草が生い茂り、昔の風情を感じることは難しいですが、それでも倭姫命が行幸された大切な場所であることに変わりなく、そこに矢田宮が建立されたのです。

また、矢田宮の次に訪れた巡幸地は家田田上宮と呼ばれています。その比定地は五十鈴河沿いに建立された伊勢神宮皇大神宮の摂社、大土御祖神社です。地元の言い伝えによると、遠い昔、大土御祖神社の近くには船着き場があり、そこに倭姫命が来られ、家田田上宮にて時をすごされたとのことです。

矢田宮、家田田上宮、及び神宮新田は互いに隣接し、地図上でもほぼ同じ位置にあることから、レイラインを考察する際には、これら3つの聖地をひとつとして考えることにします。矢田宮をはじめとするこれらの聖地は複数の重要なレイラインが交差する地点に建立されています。まず、レイラインの指標として頻繁に用いられている日本最高峰富士山と四国の室戸岬を結ぶ線に注目です。その線と、淡路島の伊弉諾神宮と同緯度の線が交差する地点に矢田宮が存在します。それは矢田宮が富士山の地の力と結びつき、伊耶那岐神とも繋がりを持っていることを意味します。また、剣の神宝と深く関与する諏訪大社前宮本殿と、紀伊大島を結ぶ線、そして、伊雑宮と琵琶湖に浮かぶ竹生島を結ぶ線も、同様に矢田宮の地を通り抜けています。

更に注目すべきもうひとつのレイラインが矢田宮に絡んでいます。それが、伊島、神島(歌島)、江の島と呼ばれる3つの島を結ぶ線です。この線上には三輪山をはじめ、伊吹山、御在所岳、摩耶山、剣山などの多くの霊峰とレイライン上で重要な繋がりを持つ瀧原宮があります。その瀧原宮を介して列島各地の聖地と紐付けられることは、矢田宮の存在にとって極めて重要な事項であると考えられたことでしょう。また、徳島最東端に位置する伊島の北部沿岸は剣山と同緯度にあります。よって、伊島、歌島、江の島を結ぶレイラインと繋がることは、剣山とも結び付けられることを意味します。他の御巡幸地と同様に矢田宮の場所も、剣山を強く意識した上で見出された可能性を、レイラインの存在から知ることができます。

矢田宮のレイライン
矢田宮のレイライン

奈尾之根宮(宇治山田神社)のレイライン

宇治山田神社に至る参道
宇治山田神社に至る参道
倭姫命姫による御巡幸の旅は、奈尾之根宮を最後の宮処として完結します。その場所は矢田宮のある楠部から伊勢神宮内宮へ至る途中であると考えられ、全体の距離も1.5km程しかなく、いずれにしても伊勢神宮の近郊に存在したことになります。「神宮要綱」には「奈尾之根は一に納米(なうしね)と書し」と記載されていることから、その比定地の候補地として、内宮田社の那自売(なじめ)神社が挙げられています。諸説はあるものの、那自売神社は宇治山田神社に合祀されたという記録もあり、伊勢神宮の歴史と文化の総合博物館である神宮徴古館でも、那自売神社が宇治山田神社と表記されていることから、奈尾之根宮の比定地は宇治山田神社である可能性が高いと言えます。

宇治山田神社の厳かな境内
宇治山田神社の厳かな境内
宇治山田神社の境内はそれほど大きくはないものの、宗像大社を彷彿させるような厳かな雰囲気に包まれており、社殿の床下には神籬が置かれています。また、700m程西方に向かうと猿田彦神社もあります。レイライン上、特筆すべき点としては矢田宮と同緯度、すなわち、伊弉諾神宮を通る線上に並んでいるということです。それ故、矢田宮と同様に、多くの地の力に紐付けられた聖地と考えられます。宇治山田神社は、倭姫命が御巡幸された聖地である可能性を秘めた由緒ある神社として、今日まで大切に守られています。