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元伊勢と伊勢神宮内宮のレイライン 多くの聖地に結び付けられた伊勢の聖地

伊勢神宮 五十鈴川
伊勢神宮 五十鈴川
豊鍬入姫命より倭姫命へと引き継がれた元伊勢の御巡幸は、その後、34年という長い年月をかけて垂仁天皇26年、神宝の御鎮座地となる五十鈴河上に到達し、そこに五十鈴宮と呼ばれる伊勢神宮の内宮が造営されます。御巡幸の目的とは「大神の教に随ひて、国々処々に大宮処を求め給へり」と倭姫命世記(世記)に記載されているとおり、神宝の御鎮座地を大神の導きに従って捜し求めることでした。その結果、元伊勢の旅は大勢の人々の協力を得ながら、神の不思議なる導きによる空前の長旅となったのです。

振り返れば、元伊勢の旅路は三輪山を原点として笠縫邑から始まり、東西南北を網羅すべく各地を巡り渡りながら、重要地点に宮を造営して神を祀るという大変な労力を伴う旅でした。また、行く先々の場所は、何故かしらそれまでに訪れた場所や列島内の聖地と地理的な繋がりを持ち、レイライン上において分かりやすい場所に位置していました。その流れは御巡幸の最終段となる伊勢国に辿り着いた後も変わらず、飯野高宮以降の旅路においても、短期間に佐佐牟江宮、伊蘓宮、大河之滝原之国(瀧原宮)、矢田宮、奈尾之根宮などが、列島内の指標となる聖地同士を結ぶレイライン上に見出され、次々と新しい宮が建立されました。そして地域の協力者から様々な情報を得ているうちに最終の鎮座地が徐々に煮詰まり、遂に度会の五十鈴河上に、天照大神を遷し奉る場所が特定されたのです。

五十鈴河沿いの広大な野原は整地され、そこに天照大神が遷し奉られるための宮が建てられました。そして大勢の有力者らが五十鈴の河上に、神宮の造営を祝福するために船で到来したのです。その後、皇太神が倭姫命の夢の中に現れ、昔見て求めた国の宮処は「是の処にある」というお言葉が語り告げられ、倭姫命をはじめ、大勢の民が大いに喜んだことが「世記」に記されています。

元伊勢御巡幸は、この五十鈴宮の建立により完結すると思われがちですが、「世記」によると、倭姫命はそこからさらに伊雑宮へと向かうことになり、その道のりについても詳細が記されています。つまり、倭姫命の旅路は伊勢で終焉するのではなく、そこを越えて志摩まで続いていたのです。その後、倭姫命の引退声明があり、斎宮の造営、そして日本武尊による東征へと「世記」の記述は展開していきます。その歴史の流れを理解するためにも今一度、「世記」の記述内容全体を、振り返ってみることにします。

「世記」から学ぶ五十鈴河上への道のり

伊勢神宮 本殿鳥居
伊勢神宮 本殿鳥居
「世記」とも呼ばれる「倭姫命世記」は、五十鈴宮が創祀された背景となる元伊勢の御巡幸について記載されている大切な史書です。そこには、伊勢神宮の内宮である五十鈴宮の聖地がいかにして特定されたか、その聖地に至るまでの長い年月にわたる御巡幸の道筋や様々な出来事について、詳細が記されています。

その内容は天孫降臨から始まり、高天原についての簡単な記述が最初に見られます。その後すぐに、経津主尊と健雷命(武甕槌神)が大国主神より広矛を受け取り、国を平定したことや、天照大神に纏わる八尺瓊の曲玉、八咫鏡、草薙剣と呼ばれる三種の神器に関する内容に移ります。特に八咫鏡については、記紀に記されている「この宝の鏡を視ることまさに吾を視るが如くすべし、ともに同床共殿する斎鏡とすべし。」という天照大神の宣託が詳細まで引用されていることから、「世記」の根底にある重大なテーマが天照大神と神宝であることを察することができます。また、筑紫の日向、高千穂の串触の峯に天降り到った記述も含まれ、高千穂が重要な聖地として考えられていたことがわかります。それ故、元伊勢の御巡幸地を見定める際、高千穂もレイラインの指標となる聖地のひとつとして取り上げられることになります。

導入部分の最後には神武天皇の記述も含まれています。元年、神武天皇は日本国に向かって諸皇子の船を率いて東征され、8年の正月には橿原にて都の帝宅を経営し、天つ璽の剣と鏡を捧げ持ち賜いて祀りました。それ故、天皇家にとって「剣」と「鏡」は最も大切な神宝となったのです。「世記」によると神武天皇より開化天皇までに9帝あり、その「630余年の間、帝と神の際(境)は未だ遠からず、同殿共床を以て常と為す。」と記されています。また、導入部分を締めくくる最後の文章として、「故に神物と官物ともまた、未だ分別されず。」と書かれていることにも注目です。短い導入部分の中でも、神宝の存在が重要視されていたことがわかります。

9帝630年については、その信憑性を疑問視する向きもあるようです。神武天皇から開化天皇の御代は、その即位年数を合計すると563年になり、東征の年から数えても570年です。しかし神武天皇は52歳で即位されたことから、神武天皇がお生まれになった時から開化天皇の没年までは、およそ615年となります。つまり、神武天皇の誕生から数えると9帝の期間は大きく異なることはなく、15年という差異は、およそ誤差の範疇と考えることもできるでしょう。

その後、「世記」では、元伊勢御巡幸に関する記述へと進みます。そこにはまず、崇神天皇の時代における御巡幸の歴史が綴られています。崇神天皇6年、笠縫邑から始まった御巡幸は大和国から丹波国、紀伊国、吉備国へと続き、再び大和国の御室嶺上宮へと戻ってきた後、崇神天皇58年、豊鋤入姫命から倭姫命へと行幸の責務が引き継がれたのです。大和国を中心としておよそ6か国を御巡幸された豊鋤入姫命の尊い働きについては、338文字を用いて簡潔に書き記されています。

豊鋤入姫命から任務を引き継いだ倭姫命は、次に大和国の宇陀秋宮へと旅立ち、そこから伊賀国へ御巡幸されます。崇神天皇68年、天皇が崩御された後、垂仁天皇の御代においても御巡幸は継続し、近江国、美濃国、尾張国へと倭姫命の旅は続きます。美濃国の伊久良河宮からは移動手段として主に船を用いることになり、そこから最終目的地である伊勢国へ向かって南へと旅が続けられました。宇陀秋宮から伊勢国における最初の御巡幸地である桑名野代宮まで、およそ10か所を巡り渡る行程について、「世記」では631文字を用いて詳細を綴っています。特に桑名野代宮では、「神風の伊勢国」から来られた国造建日方命や、天日別命の子孫で渡会氏の祖神、後に伊勢神宮の初代神主となられた国造との出会いについても記載されており、歴史が新しくなるにつれて、より記述内容が濃くなってくることがわかります。「世記」の編纂には五十鈴宮と呼ばれる皇太神宮から発展した伊勢神宮全体の造営と管理において多大なる影響力を持っておられた渡会氏が関わっていたに違いなく、よって、その租先神に関する記述が含まれていることも、「世記」の内容が充実する理由のひとつと考えられます。

垂仁天皇18年、倭姫命御一行は伊勢国の阿佐加藤方片樋宮へと向かいます。「世記」では、この一つの御巡幸地だけでも、豊鋤入姫命による御巡幸の記述に匹敵する513文字を用いています。これは単に歴史が新しくなり、情報がより詳細まで記録されていたということだけでなく、最終目的地である五十鈴河上に近づいてきたことにより、史実として書き留めておかなければならない重要事項も増えてきたからに他なりません。ここでも以前、桑名能代宮にて倭姫命の前に現れた大若子命が、天皇の詔により再度遣わされ、荒振神を退治して地域を平定することとなり、その働きについての詳細が記されています。この大若子命こそ倭姫命と行動を共にし、最終目的地に至るまでの間、各地に神坐や神戸を定め、五十鈴河上へと御一行を導きながら御巡幸を完結させた陰の立役者だったのです。

阿佐加藤方片樋宮の次に訪れた御巡幸地が飯野高宮です。そこに4年間滞在している間、倭姫命は伊勢国の五十鈴河上に神宝の御鎮座地となる敷地が存在することを確信するに至ります。飯野高宮に関する記述は、阿佐加藤方片樋宮と同等の約500文字です。ところが、倭姫命は飯野高宮を旅立った後、伊蘇宮、瀧原宮、二見国、矢田宮、奈尾之根宮など、複数の御巡幸地を矢継ぎ早に訪れ、目的地の五十鈴河上に到達するまで合わせて1年前後しか経ていないにも関わらず、それらの経緯については1,500 文字以上が用いられています。御巡幸の最終段において多くの有力者との出会いがある中、複数の宮が造営され、五十鈴河上の聖地がピンポイントで定められていく過程を記すためには、必要な文章量であったとも考えられます。

飯野高宮を離れた後も、船による御巡幸の旅路が続きました。「世記」は繰り返しその船旅について言及し、飯野高宮から伊蘇宮、瀧原宮、久求社、二見国、矢田宮、奈尾之根宮を巡り、一同を五十鈴河上の地に導いた大田命と出会うまでの記述の中に、「船」という文字は12回も出てきます。倭姫命は天照大神の八咫鏡と共に多くの神宝を携えながら、河川や伊勢湾沿岸を船で移動し続けていたのです。それは、大切な神宝が陸地を離れ、水上にて海人豪族により守られていたことをも意味しています。

倭姫命に五十鈴河上を紹介した大田命との運命の出会いも重要です。猿田彦神を租とする大田命は、倭姫命御一行を五十鈴河上へと導きましたが、ちょうどそれは、大田命の祖である猿田彦神が天孫降臨の際に、瓊瓊杵尊を先導するためにお迎えに来られた史実に類似しています。世代を経ても同じ家系の偉人が、国家のために祖神と同様の働きを惜しまなかったことがわかります。こうして多くの人々の協力を得て、倭姫命は度会の五十鈴河上に遂に到達することができたのです。

垂仁天皇26年、天照大神は度会の五十鈴河上に遷され、その最終鎮座地にて宮が建立されることになりました。伊勢の荒野が整地され、天御柱、心御柱をはじめ、斎柱とも呼ばれる社の支柱が建てられ、地域一体は見事に開発されたのです。それから暫くして皇太神が再び、夢の中で倭姫命に現れ、「国の宮処は、この処にある也。鎮まり定まり給え」と語られました。皇太神の御旨を聞いた倭姫命は早速一同を集め、その夢の内容を「つぶさに教え知らしめ」ると、一同の喜びは頂点に達し、一晩中、神楽を舞い歌って、「五十鈴の河上に鎮り定まり坐す皇太神」をお祝いしたのです。

倭姫命が皇太神の夢を見たというニュースは早速、天皇の耳にも入り、これまで倭姫命御一行を導き助けてきた大若子命は、大幡主命として国造兼大神主に、そして中臣の祖と言われる大鹿嶋命は祭官に定められました。そして周辺には建物が建築され、そこに物部八十友諸人などが率いられ、神事が執り行なわれるようになります。また、五十鈴河上の大宮近くには斎宮も造営されました。こうして長年にわたる倭姫命の御苦労は、五十鈴宮と呼ばれる伊勢神宮の内宮という形となって現れ、多くの民が祝福を受けることになったのです。

五十鈴宮(伊勢神宮内宮)のレイライン

五十鈴河上に神の宮を建立する場所を定める際にも、レイラインの手法が導入され、宮を建てる地点がピンポイントに見出されたと考えられます。その詳細については、「伊勢神宮のレイライン」で解説していることから、ここでは概略だけにとどめておきます。

新たなる神の宮を造営する場所を探し求める際、古代の識者はまず、その場所が列島各地の聖地と地理的に繋がっている場所にあることを望んだことでしょう。五十鈴宮もその例に漏れず、複数の聖地と結び付けられるレイラインの交差点に位置しています。

まず、国生みの祖である伊耶那岐尊が眠る淡路島の伊弉諾神宮と同じ緯度線上に五十鈴宮が建てられたことに注目です。重要な聖地と同緯度に宮を建立するということは、その聖地との繋がりを象徴することから、伊弉諾神宮と同じ緯度線上に、伊耶那岐尊の娘である天照大神が祀られる五十鈴宮を並べることが重要視されたに違いありません。

その緯度線と交差するレイラインを、もう1本特定すれば、五十鈴宮を建立する場所を見出すことができます。そこで霊峰の指標として比類なき富士山頂に結び付くレイラインが検討されたと想定されます。古代では、夏至、冬至の日の出、日の入りの場所と方角が、地域の信仰や他の聖地との関係に絡むことは、ごく当たり前のことでした。五十鈴宮の場合も例に漏れず、夏至の日の出や日の入りの方角が重要視され、そこから見て夏至の日の出が上る方角が、日本列島最高峰である富士山の頂上と一致することが望まれたのです。宮を建立する場所が伊弉諾神宮と同緯度線上にあることを前提とするならば、その線上から夏至の朝、日の出が富士山頂上から上るのを拝めることができる地点は一か所しかありません。よって、これら2本のレイラインを用いるだけで、五十鈴宮の建立地をピンポイントで定めることができたのです。

伊勢神宮のレイライン
伊勢神宮のレイライン

伊勢神宮 鳥居
伊勢神宮 鳥居
例え富士山までの距離が遠く、直接その日の出を見ることができなかったとしても、レイライン上にて潜在的に繋がっていることが重要視された時代であり、天空を洞察しながら地勢を見極める古代の識者にとって、距離は問題視されなかったことでしょう。伊弉諾神宮と同緯度線上にある五十鈴宮、今日の伊勢神宮内宮からみて夏至の日の出は、そこから北東へ、およそ60度20分の方角になります。内宮から富士山の頂上へ線を引くと、その角度は頂上の中心点で60度30分です。そして頂上の北側は60度4分、南側は60度55分であることから、日の出の方角が確かに、頂上と一致することがわかります。

もう1本の重要なレイラインが、古代の指標として多用されている紀伊半島最南端の紀伊大島と、列島最古の集落とも言われる阿久遺跡近郊にある諏訪大社前宮を結ぶレイラインです。紀伊大島は、その東端にある樫野埼灯台の周辺が古代の指標ポイントとなります。そこから北東方向におよそ350km向かうと、守屋山の麓に諏訪大社前宮があります。諏訪大社は神剣に纏わる由緒が記紀にも記載されている由緒ある神社であり、諏訪祭祀の発祥地として、今日でも多くの参拝者が訪れています。諏訪大社には本殿が存在しないことから、その背後に聳え立つ守屋山を御神体とする伝承も残されています。守屋山の名称は、聖書にも登場するイスラエルのモリヤ山に由来する説が有力視され、アブラハムの子、イサクに関連するイスラエルルーツも噂されている由緒ある神社だけに、その諏訪大社と紀伊大島を結ぶ線が、ぴたりと五十鈴宮を通ることは、単なる偶然とは考えにくいのです。

さらに五十鈴宮のレイラインの中には、元伊勢の御巡幸地を含むレイラインが少なくとも3本、存在します。まず、元伊勢として最も著名な丹波国一の宮、籠神社の奥宮として知られる真名井神社と伊雑宮を結ぶレイラインに注目してみましょう。古代よりイスラエルのダビデの星を紋章として掲げてきた真名井神社と伊雑宮を結ぶ線上に、五十鈴宮と斎宮が並んでいます。「世記」によれば、五十鈴宮が造営された直後、志摩へと向かった倭姫命御一行の働きにより、伊雑の方上にて伊雑宮が建立されました。その宮が建てられる以前から伊雑の方上の地には沿岸に古代集落が発展し、農耕の環境に恵まれた地域一帯には稲作が普及していたのです。「伊雑」という地名は、国生みの神として知られる初代の渡来者、伊耶那岐尊に由来している可能性があります。それ故、伊耶那岐尊の頭文字である「イザ」または「イザヤ」をとって、「イザワ」という地名が生まれたのではないでしょうか。すると伊雑の方上の地は、伊耶那岐尊が船で本州に到来した際に見出した、最も古い上陸地点のひとつとなり、皇族にとって伊勢神宮の歴史を遡る先祖ゆかりの地であった可能性が見えてきます。それ故、「世記」を締めくくる元伊勢御巡幸の最終段では伊雑宮にスポットがあてられ、詳細が記されているのではないでしょうか。この伊雑の方上と真名井神社を結ぶレイライン上に五十鈴宮が存在するということは、太平洋と日本海に面する南北2か所の由緒ある地の力を五十鈴宮が継承することに繋がり、重要な意味を持つことになります。

御巡幸地に関わる2本目のレイラインは、吉備国の名方浜宮、今日の伊勢神社と三輪山を結ぶ線です。元伊勢は三輪山を起点として始まったことから、そこを通るレイラインにも、御巡幸に関わる大切な意味が込められることになります。その三輪山と伊勢神社を結ぶ線も五十鈴宮を通り抜けることから、伊勢の聖地を特定するための指標として用いられた可能性があります。それ故、この吉備国の社は、伊勢神社と呼ばれるようになったのかもしれません。3本目のレイラインは、伊賀国の御巡幸地である市守宮の比定地である蛭子神社と絡んでいます。その蛭子神社と、古代聖地として名高い出雲大社をレイラインで結ぶと、その線上に五十鈴宮が存在することがわかります。元伊勢御巡幸の歴史から察するならば、五十鈴宮よりも蛭子神社の創始が先となることから、伊勢の聖地を特定するための指標として、蛭子神社のレイラインも用いられたのではないでしょうか。

五十鈴宮を通るこれらのレイラインは、その数は5本と多くはないものの、そのレイライン上には霊峰や聖地が名を連ね、どれもが正確に五十鈴宮の地を通り抜けることから、すべて重要な意味を持っていると考えられます。伊勢神宮内宮となる五十鈴宮は、複数のレイラインが綿密に検証され、それらが交差する一つの地点が特定された結果、建立されたと考えても、何ら不思議はないのです。古代英知の奥深さに感銘を受けないではいられません。