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2015/09/24

元伊勢の原点となる三輪山のレイラインを検証

元伊勢の御巡幸に携えられた神宝とは

三輪山より始まった元伊勢の御巡幸という特異な歴史の背景には、崇神朝時代の国内外の政情不安と動乱の噂だけでなく、悪疫の流行がありました。時に神威を畏れた天皇は、宮中にて代々祀られてきた神宝を、笠縫邑に遷すことを決断したのです。その際、本物の神宝に代わる鏡や剣が新たに鋳造され、それらレプリカは護身用として、宮中で祀られるようになりました。レプリカが造られた目的は、単に本物と置き換えて祀るためだけでなく、複数の類似した神宝を混在させることにより、本物の宝蔵場所がどこにあるか分からないようにして、盗難の危険から守ることであったと考えられます。こうして世紀のイベントへの道筋が整えられ、神宝と運命を共にする元伊勢の御巡幸が決行され、最終的に神宝は、伊勢の五十鈴宮に鎮座することになったとされています。

元伊勢の御巡幸で遷座された神宝とは何でしょうか。「日本書紀」、「古事記」や「倭姫命世記」(世記)には、天照大神としても知られる八咫鏡についての記述しか見られないことから、その対象となる神宝は八咫鏡であると、一般的に考えられています。実際には八咫鏡だけでなく、スサノオ命が大蛇の尾より発見したと伝えられる草薙剣も宮中より同時に遷されていたことが、「古語拾遺」に記されています。草薙剣はその後、伊勢にて倭姫命から日本武尊に授けられたことからしても、歴史の辻褄は合います。つまり、豊鋤入姫命から始まる御巡幸史の原点には、少なくとも八咫鏡と草薙剣という2種の神宝が存在したことになります。

また、それらの神宝に加えて、新たに鋳造されたレプリカも一緒に運ばれたのではないでしょうか。外敵から神宝を守るための秘策として、本物と区別のつかないレプリカの存在が注目された可能性があります。結果として、元伊勢御巡幸の際には、多くの神宝が携えられたと考えられます。国家が幾つもの艱難に直面していただけに、神秘的な力の象徴となる神宝を堅持することは最重要課題であり、その行く末が、とかく注目される時代の幕開けでした。

歴史のベールに包まれた神宝の行方

ところが御巡幸の旅路の最中に、それらの神宝がどのように運ばれ、いつ、誰が、どこに宝蔵したかというような、神宝の取り扱いに関する記述がどこにも見当たらないのです。草薙剣に関しては、天孫降臨の際に、八尺の勾玉や鏡と共に瓊瓊杵尊に授けられた話から、倭姫命が日本武尊にお渡しになるまでの情報が、「記紀」では空白であり、神武天皇の即位に関する記述にも言及されていません。また、「古語拾遺」においても前述した内容以外は参考となる記述が見当たらないのです。「世記」でも三種の神器については天照大神と称される八咫鏡に関する記述が散見される程度です。

「世記」によると、五十鈴宮が建立されて元伊勢の御巡幸が完結した頃と時期を同じくして、新しく神宝が造られたことがわかります。そこには「采女忍比売(うねめのおしひめ)は天平瓮(ひらか)80枚を、天富命孫(あめのとみのみことのまご)は神宝鏡、大刀(おほとし)、小刀(をとし)、矛楯、弓箭、木綿(ゆふ)などを造り、神宝と大幣(おおみてくら)を備えた」と記されています。また、饗を奉る場所には、伊弉諾命と伊弉冉命が捧げた白銅鏡二面と日神月神の化れる鏡が置かれ、水火二神の霊物として崇められたことも記録に残されています。「古語拾遺」も含め、これら史書の記述から理解できることは、およそ1世紀を経た御巡幸の初めと終わりの時期には、レプリカの鏡や剣を含め、多くの神宝が鋳造されたということです。ところが、新たに鋳造された神宝については詳細が記録されていても、御巡幸において遷座された神宝についての情報がほとんど存在しないのは何故でしょうか。元伊勢の御巡幸とは、神宝を守り、天照大神の鎮座地を探し求めるための長旅であっただけに、その取り扱いに関する記述が御巡幸の最終段になっても史書に含まれていないことに、何か不自然さを感じないではいられません。

更に不思議なことは、天照大神の御鎮座地である五十鈴宮に到達した後も、倭姫命は御巡幸の旅を続けられ、供え物となる御饗を定めるための田を探しながら、志摩の伊雑宮へと向かったことです。御巡幸地の中でも最南端の地であり、しかも最後に訪ねられた伊雑宮ついては「世記」に詳細が記されていることから、伊雑宮が何かしら特別視されていたことがわかります。前述したとおり、伊雑宮が建立された場所は、多くのレイラインが交差する中心地として極めて重要な位置付けにあり、地域の歴史は大変古いことがわかります。伊雑宮が建立される以前から伊雑ノ浦の沿岸では港と古代集落が発展し、その歴史は伊耶那岐命の時代まで遡る可能性さえ否定できません。そしていつしか、国内の聖地を結ぶ基点として認知された伊雑宮は、五十鈴宮の創始にあたり、その元宮、遙宮として紐付けられたのでしょう。 

その後、倭姫命は伊勢まで戻られ、御巡幸の歴史は締め括られます。五十鈴宮は神宝の鎮座地として極めて重要ではあるものの、元伊勢御巡幸の全体像からすれば、伊雑宮への通過点として考えられていたのかもしれません。元伊勢の御巡幸における海上交通の原動力となった船木氏を中心とする海人豪族は、一族の拠点となっていた美濃国の本巣郡を離れ、伊勢国へと倭姫命御一行を海上で護衛しました。その際、伊勢国の渡会では船木氏の集落が設けられています。そして倭姫命らと共に志摩国の伊雑宮へ向かった後、少なくとも船団の一部は熊野灘を紀伊半島に沿って南西方向に航海を続け、紀伊大島から淡路島へと北上したようです。そして最終的には播磨国周辺に船木氏の拠点が広がっていくことになります。この船木氏の動向を検証することにより、神宝の行方に絡む最終的な結末が見えてきます。

古代国家の統治を担うリーダーにとって、建国の歴史に結び付く神々を篤く信仰し、天皇家の象徴でもある神宝を守護することは、国家が繁栄するための最重要課題でした。そして神宝を携えながら元伊勢を御巡幸するという一見、危険な秘策を実現し、歴史を大きく動かすためには、それなりの周到な準備が不可欠だったのです。特に神宝を外敵から確実に守る手段については、事前に十分な検討がなされたことでしょう。その結果、神宝の取り扱いについての言及は避けられ、史書に記されることなく、歴史のベールに包まれる結果になったと推測されます。

神宝の安置を脅かす倭国の内乱

元伊勢の御巡幸という歴史的イベントが始まる崇神天皇即位6年、前1世紀のはじめ、大陸では漢時代の栄華を極めた武帝による統治が崩壊し、各地で反乱や盗賊の横行が発生して民衆は困窮を極めていました。一方、日本国内においても当時、不穏な空気が立ち始め、歴史が大きく変わろうとしていました。前206年に秦王朝が崩壊した直後から、大陸より朝鮮半島を経由して日本に渡来する民が徐々に増加し、国内各地で様々な衝突が生じ始めていたのです。そして朝廷に敵対する勢力も各地で台頭し始め、政治情勢が不安定になってきました。さらに大陸からの渡来者の数は何万、何十万という膨大な数に膨れ上がり、中には大陸系の豪族も存在したことから、いつしか朝廷の統治が及ばない地域勢力が、列島各地に散在するようになったのです。実際、元伊勢御巡幸の直後から国内の動乱は激しさを増し、特に東方の反乱は際立っていました。そのため、日本武尊は2世記初頭、東方の征伐に向かい、命を落とすことになります。

倭国にて長期間にわたり騒乱が起きたことは、三国志を含む複数の中国史書に記されています。それらの記述によると、倭国は元来、男王により治められていましたが、ちょうど日本武尊が死去した頃と同時期の2世紀初頭から70~80年間という長期間にわたり騒乱が起き、その後、邪馬台国と呼ばれる国家が台頭し、女王が君臨して国中が服することになります。そして邪馬台国と狗奴国との戦いが生じ、卑弥呼が死去する248年頃まで、女王の治世は続きました。「後漢書」や「隋書」には、邪馬台国の成立時期は桓帝と霊帝の治世の間と記載され、それは146年から 189年頃であることから、元伊勢の御巡幸後の時代と一致します。「梁書」や「北史」でも同様に、後漢の霊帝の治世、光和年間において倭国が乱れ、その後、卑弥呼という女王が君臨することによって混乱が収まり、邪馬台国が勢力を増し加えたことが記されています。つまり、元伊勢の御巡幸が終わった直後の2世紀初頭から、倭国の大乱が始まり、国内が大混乱に陥る最中、邪馬台国が息吹いたのです。そして2世紀後半に邪馬台国は、遂に統治国家として台頭するまでに至りました。

そのような時代の激変を、元伊勢の御巡幸が始まる前から古代の識者らは察知したのではないでしょうか。そして治安が徐々に悪化する最中、天皇家の象徴である神宝が、標高467mしかない、およそ無防備な倭国の三輪山に安置されていることが危惧されたのです。それ故、国内の動乱が悪化する前に、大切な神宝を外敵による略奪から守護することが急務となり、その秘蔵場所が密かに協議されたと想定されます。内乱は長期化する可能性もあったことから、後世の人々でも理解し、探しあてることができる秘策が検討されたのです。

レイラインを用いた神宝隠蔽の秘策

伊勢神宮 本殿鳥居
伊勢神宮 本殿鳥居
天照大神と言われる八咫鏡は五十鈴宮、今日の伊勢神宮に祀られていますが、果たしてそれが本物の神宝であるかどうか、見分けることは困難です。例え伊勢神宮の八咫鏡を手にすることができたとしても、それを比較検討する手段がないのが実情です。いずれにしてもレプリカが存在したことは史書の記述から明らかであり、本物の神宝は、レプリカとすり替えられた可能性があります。

例えばエジプトのピラミッドにおいては、王のミイラを略奪の危険から保護するため、実際の埋葬室を別の場所に設けて、ミイラの場所を隠蔽した事例があることは周知の事実です。その場所はピラミッド内の王の間とはかけ離れた場所に存在し、古代人の知恵を振り絞って考え抜かれた奇想天外な隠蔽策の結果と考えられています。同様に、天皇家の神宝も人目に触れぬうちに、いつしかレプリカとすり替えられ、本物は全く別の場所に隠蔽されたとは考えられないでしょうか。暴徒の襲撃や略奪から長期にわたり神宝を守護するためには、ピラミッドの埋葬室隠蔽に匹敵する秘策が不可欠だったのです。

五十鈴宮は地理的に見ると、外敵の侵略から無防備な土地であることがわかります。特に国内情勢が不安定な時期、朝廷の防衛力が十分に及ばない地域において、新しく造営する宮の境内に大切な神宝を祀るということには、相当な危険が伴ったはずです。そのようなリスクを背負ってまで、伊勢の聖地に神宝を祀ったとは考えづらいのです。それ故、元伊勢を御巡幸される途中で、本物の神宝がレプリカとすり替えられた可能性が現実性を帯びてきます。もし、そうだとするならば、本物の神宝が秘蔵された場所が、別に存在し、そのメッセージを後世に伝えるために計画されたのが、元伊勢の御巡幸であったという見方が浮上してきます。

元伊勢の御巡幸とは、本物の神宝の行方を後世に伝えるべく、暗号のごとく綿密に仕組んだ計画であり、歴史に類を見ない壮大なスケールの皇族の旅であったとは考えられないでしょうか。しかしながら時代を超えてまで、神宝の秘蔵場所を後世に暗号メッセージとして伝えることなどできるのでしょうか。その手法として用いられたのが、元伊勢御巡幸地を、中心となる指標に結び付けたレイラインの構想です。列島内に広がる様々な地の指標と、神宝の秘蔵場所とを結ぶレイライン上に、全ての御巡幸地を見出し、それらのレイラインが交差する地点が神宝の安置場所として理解できるように仕組んだのです。その結果が元伊勢の御巡幸と考えられます。そしてレイラインの交差点には、四国の剣山が聳え立っているのです。

剣山と結び付く三輪山の不思議

四国の剣山が三輪山とレイライン上にて結び付く霊峰であることは、三輪山のレイラインを検証することにより明らかになります。元伊勢の基点となる三輪山と、天孫降臨の地、高千穂の中心地である高千穂神社を地図上で結ぶと、その直線上に剣山の頂上がぴたりと位置しています。剣山は大自然の指標であり、大物主大神の介入による三輪山の霊峰化は、瓊瓊杵尊による高千穂への天孫降臨より先立ちます。よって剣山と三輪山を指標として用い、これらの2つの霊峰を結ぶレイラインと四国足摺岬の緯度線が交差する地点を特定することにより、天孫降臨する高千穂の聖地をピンポイントで見出すことができたと推察できます。三輪山のレイラインの検証から、古代より剣山が三輪山や高千穂と共に天孫降臨に結び付けられた重要な霊峰として認識されていたことがわかります。

三輪山と剣山のレイライン
三輪山と剣山のレイライン

三輪山のレイラインに関与する聖地や地の指標には、「3」という数字が頻繁に登場することも注目に値します。古代では、「3」という数字が神への信仰に関連して用いられることが多く、三輪山がその発端であったかもしれません。三輪山とレイライン上で結び付いている日向国の高千穂においても、天照大神の孫にあたる瓊瓊杵尊が、三種の神器を携えて高天原から天下っています。さらに三輪山から真北へ向かい日本海に到達すると、その周辺に広がる5つの湖は「三方五湖」と呼ばれ、ここでも「3」がキーワードになっているのです。

「三輪」の語源については、古事記に三輪山伝説が記されている程度の史料しかありません。そこには男性の素性を知らずに身ごもった乙女が、麻糸を男の着物に刺して翌朝に辿ってみると三輪山の神の社に辿り着き、麻糸が3巻残ったことから「三輪」と呼ぶようになったと記されています。その後、「三輪」は神(みわ)とも表記されるようになり、神の代名詞にもなりました。大神神社の「大神」を「おおみわ」と読むようになったのも、大神神社が三輪山をご神体としているからに他なりません。そしていつしか「三」は聖なる神に関連する数字とみなされるようになりました。

三輪山では禁足地の中に、明神型の鳥居を横一列に組み合わせた形の3連の鳥居が、大神神社の拝殿と、その御神体である三輪山の禁足地を分ける場所に立てられています。三ツ鳥居とも呼ばれるこの鳥居の年代や由来については不明であり、「古来一社の神秘なり」と伝えられています。また、大神神社の摂社であり、元伊勢の御巡幸地のひとつである檜原神社にも同様の鳥居が存在します。この三ツ鳥居に関連すると考えられる三角形の鳥居が、三輪山からほぼ同緯度の西方、600kmほど離れた対馬にもあります。島の中央付近、対馬の西海岸沿いには、伊弉諾神宮や伊勢神宮に紐付けられた海人神社が建立され、その元宮である和多都美神社には、3つの鳥居が組み合わさって3角形を成す三角鳥居が建っているのです。
  この和多都美神社は、対馬の海に面していながら実は、山の神とも絡み、剣山にも紐付けられています。天孫降臨の直後、瓊瓊杵尊の子である火遠理命(ほおりのみこと)、別名山幸彦は、兄の釣針を無くし、綿津見神の宮(和多都美神社)へと導かれました。そこで山の神、大山津見神の娘である豊玉姫と結婚し、三柱となる3人の子供に恵まれ、3年の月日が流れるのです。山幸彦の孫が神武天皇となることから、この史話は極めて重要な意味を持っています。豊玉姫の父である大山津見神は、御巡幸地である吉佐宮、今日の籠神社・真名井神社と剣山を結ぶレイライン上の四国石立山頂にて祀られているのです。それは、剣山が古代から、元伊勢の御巡幸地だけでなく、天孫降臨に纏わる高千穂と綿津美神の宮とも紐付けられていたことの証ではないでしょうか。

三輪山から始まった元伊勢の御巡幸の原点には、聖なる「3」という数字に纏わる指標が多く存在し、それらを用いて剣山と高千穂を結ぶ三輪山のレイラインが考察されただけでなく、御巡幸地もレイライン上において、剣山と結び付けられながら見出されたと考えられます。その結果、地理的には元伊勢御巡幸の中心が三輪山であるように見えても、レイライン上の本質を探ると、意外にも倭国から遠く離れた四国の剣山が、元伊勢御巡幸の基点となっていたという実態が浮かび上がってくるのです。こうして、大切な神宝はいつしか伊勢から四国の沿岸へと運ばれ、略奪者の手が届くことのない四国の霊峰、剣山の山頂周辺へ遷されたと考えられます。

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