1. ホーム
  2. 日本のレイライン
  3. 古代日本の地勢観とレイライン

元伊勢と伊勢国のレイラインII 五十鈴河上を目前とした最終段の御巡幸地

藤方片樋宮(加良比乃神社)のレイライン

倭姫命世記によると、桑名野代宮(野志里神社)での滞在は垂仁14年より始まり、4年という月日が費やされています。そして垂仁18年には阿佐加乃藤方片樋宮へと遷られていることから、その途中に立ち寄られた奈其波志忍山宮(布気皇館太神社・忍山神社)での滞在期間は、数か月にも満たなかったと想定されます。倭姫命の御一行は、その奈其波志忍山宮を短期間のうちに立ち去り、引き続き船で川を下り、伊勢湾沿いを南へと移動したのです。鈴鹿川は北東方向に流れているため、今日の中ノ川や田中川、もしくはその南に流れる志登茂川を船で下ったのではないでしょうか。

阿佐加乃藤方片樋宮の場所は、三重県津市の藤方、かつての伊勢国一志郡阿坂に存在したと考えられています。その比定地の筆頭が加良比乃神社であり、「片樋」に「加良比乃」の文字が当てられ、加良比乃宮と呼ばれるようになったようです。今日、加良比乃神社は団地裏の住宅街の奥まった静かな場所にあります。海岸線からは1km少々離れており、古代では海に面し、西側の陸地も湿地帯で囲まれていたような細い陸地が連なる一角であったと推測され、そこに神社が建立されたのです。縁起書によれば、その片側の地形が辺鄙であったことから泉の水を引いてくる必要があり、それ故、片樋と呼ばれるようになったと伝承されています。儀式帳には御巡幸地が壱志郡片樋宮と記され、大神宮諸雑事記には藤方宮とも記されています。

緑が美しい阿射加神社の参道
緑が美しい阿射加神社の参道
もう一つの阿佐加乃藤方片樋宮の比定地候補として、松坂市駅から北西方向6kmほどの山麓にある、緑に囲まれた美しい境内を誇る阿射加神社が挙げられています。そこには猿田彦命と伊豆速布留神が祀られています。伊勢湾岸に近い加良比乃神社とは相対して、阿射加神社は鈴鹿山脈と紀伊山脈が繋がる山の裾野に建立され、周囲には今日、川らしい川が見当たらないことから、船で到達することができない場所です。その理由が倭姫命世記に記載されています。
  そこには阿佐加乃藤方片樋宮に関する記述がこれまでの御巡幸地中で最も長く、元伊勢の目的地が五十鈴川上の宮であり、「倭姫命をして五十鈴宮に入れ奉らしめよ」という天皇の詔も明記されています。また倭姫命御一行が旅をしている途中、阿佐加の山にて荒振神が出現し、交通を妨害するだけでなく、旅人の半数を殺しているという事態に遭遇したことも書かれています。そのため、倭姫命は五十鈴川上の宮に向かうことを一時断念し、自然に囲まれた阿射加神社の境内
自然に囲まれた阿射加神社の境内
藤方片樋宮にて4年間滞在することになりました。阿佐加の山周辺は元来、天日別命(度会氏祖神、天御中主尊12世孫)により平定された地であることから、天皇は詔をもって、その荒振神を阿佐加の山にて祀り鎮めることを命じ、その後、平和が訪れたというのが話の流れです。その阿佐加の山に建立された神社が阿射加神社であったと考えられます。御巡幸の目的の一つは国の平定であることから、旅の途中で内陸方面にて殺戮が行われている事態に直面した倭姫命は、阿射加神社の建立をもって暴徒を従えたのです。

阿佐加の山に建てられた神社は阿佐加乃藤方片樋宮とは異なることから、加良比乃神社が阿佐加乃藤方片樋宮の比定地と考えて間違いないでしょう。その加良比乃神社も、4本の重要なレイラインが交差する場所に建立されており、古代の民が重要視した聖地であることがわかります。まず、剣山と鹿島神宮を結ぶ線に注目してみましょう。その線上に加良比乃神社の場所が見出されただけでなく、そのレイラインは富士山頂の北側を通り抜けています。加良比乃神社が他の御巡幸地の多くと同様に、剣を祀る鹿島神宮と、神宝と深く関わりを持つ剣山とに紐付けられていることを、このレイラインは象徴しています。

石上神宮 拝殿
石上神宮 拝殿
加良比乃神社と淡路島の伊弉諾神宮を結ぶ線も、驚異的な精度を示しています。そのレイラインは、石上神宮の真上を通り抜けているのです。この2社も神宝剣と深く関わりを持っていることから、この2本のレイラインをもって、加良比乃神社が四国の霊山ある剣山だけでなく、鹿島神宮、石上神宮、そして伊弉諾神宮とも結び付けられていたことがわかります。

3本目のレイラインは石鎚山と與喜天満神社に隣接する長谷山口坐神社を結ぶものであり、この線が加良比乃神社を通り抜けています。長谷山口坐神社は伊豆加志本宮の比定地として挙げられている一社であり、初瀬川沿いに建立された著名な式内社です。祭神は元来、大山祗神でしたが、倭姫命の御巡幸を機に天照大神と深い縁を持つ手力雄神も祀られるようになりました。西日本最高峰と伊豆加志本宮の由緒を持つ長谷山口坐神社が加良比乃神社と一直線上に並ぶことの背景には、これら祭神の相互関係が秘められているように思えます。

最後に神倉山と紀伊大島を結ぶ線もレイライン候補の一つとして挙げておきましょう。紀伊大島は紀伊半島の最南端に位置するだけに、特にその島の東部はレイラインの指標として、古代では頻繁に用いられていました。新宮はもとより、熊野からも船で沖へ10kmほど船出するだけで、紀伊大島の東端を遠くに眺めることができたのです。その紀伊大島と神倉山を結ぶと、加良比乃神社を通り抜けています。これらのレイラインを振り返ることにより、加良比乃神社の御巡幸地がいかにして見出されたか、その見識を理解することができるだけでなく、古代社会における識者のこだわりと労苦を察するに余りあります。

藤方片樋宮のレイライン
藤方片樋宮のレイライン

飯野高宮(神山神社)のレイライン

倭姫命の御一行は、天皇の詔に従って阿射加神社を建立した後、阿佐加乃藤方片樋宮と呼ばれた加良比乃神社を出発し、船に乗って伊勢湾沿いを南下しました。そして櫛田川の河口に達した後、そこから川を上り、飯野高宮へと向かったのです。倭姫命世記の飯野高宮の項には、船に乗った際に魚が自然に集まり出でて、それを見た倭姫命が、たいそう喜ばれたことが記録されています。そして10kmほど、櫛田川沿いを南方向に進むと標高100m少々の小高い神山(こうやま)が見えてきます。その山麓と川の間に飯野高宮は造営されたのです。

神山神社 参道入り口
神山神社 参道入り口
飯野高宮の比定地は、松坂市山添町神山に建立された神山神社であるというのが定説です。境内の中間をJR紀勢線が横切り、多少の違和感を覚えますが、背後に神山を控えるだけに、石段を上りつめた後に広がる境内は美しく、その奥には神明造りの社殿が建てられています。祭神は猿田彦命、天鈿女命(あめのうずめ)であり、由緒によればこれら祭神の子孫により、倭姫命は天照大神を遷す目的地へと案内されることになります。
  倭姫命世記には「遂に五十鈴宮に向かうことを得たまへり」と書かれているとおり、飯野高宮へ遷座したことを機に、最終目的地である五十鈴宮の場所を定める準備が一気に進むことになります。そして飯野高宮に4年滞在した後、6か所の元伊勢を短期間に渡り巡り、五十鈴宮の皇大神宮に到達することになります。
  神山神社も複数のレイラインが交差する地点に見出されています。まず、直前の御巡幸地として滞在した布気神社(忍山神社・奈其波志忍山宮)と加良比乃神社(藤方片樋宮)を直線で結び、南方に伸ばします。次に、三輪山の麓に建立され、御室嶺上宮の比定地としても知られる大神神社と同緯度の線を引きます。神山神社の本殿
神山神社の本殿
この2本の線が交差する地点に神山神社が存在します。また、元伊勢のひとつである奈久佐浜宮として知られ、日前神宮の元摂社であり、豊鋤入姫御巡幸の際には神宝が祀られた濱宮(濱宮神社)と剣山を結ぶと、その線も神山神社を通りぬけています。さらに香川の金刀比羅宮と、古代から山岳信仰の聖地として名高い金剛山の頂上を結ぶレイラインも、神山神社の境内を通り抜けているのです。これらのレイラインは決して偶然ではなく、意図的に結ばれた指標同士の繋がりであることがわかります。

飯野高宮のレイライン
飯野高宮のレイライン