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元伊勢と伊賀国のレイライン 諏訪大社と結び付けられた三輪山東方の聖地

市守宮(蛭子神社)のレイライン

倭国から始まった豊鍬入姫命による御巡幸は、当初、北方の丹波国、吉佐宮(真名井神社)に向かい、一旦倭国の伊豆加志本宮に戻った後、南方の紀伊国奈久佐浜国(日前神宮)を目指します。その後、神宝は西方の吉備国名方浜宮(伊勢神社)に遷座されます。これは、三輪山の聖地を中心として、北、南、西の3方向に、天皇の実権と神宝の存在と神威が流布されることを目論んだ結果とも考えられ、残るは東方へ向けての御巡幸のみとなりました。

その後、豊鍬入姫命の御一行は再び三輪山の麓に戻り、倭国の御室嶺上宮(大神神社)に神宝を遷座して、半世紀以上に及ぶ御巡幸の旅を終えられます。そして高齢を迎えられた豊鍬入姫命は、「吾日足りぬ」と語られ、その時点から神宝の行く末の鍵を握る東方への御巡幸は、妹の倭姫命に委ねられたのです。倭姫命に託された神宝は6年の年月をかけて、過御室嶺上宮、宇多秋宮、佐佐波多宮の3か所に遷座され、倭国に留まりました。そして満を持して神宝は再び倭国を離れ、残された三輪山の東方へと向かいます。

蛭子神社の鳥居
蛭子神社の鳥居
最初の拠点が伊賀国、今日の三重県名張市にある市守宮でした。市守宮の比定地は幾つかあるものの、「隠市守宮」と刻まれた真新しい石柱が建てられている蛭子神社の周辺である可能性が一番高いようです。大型台風の際には名張市が一面、湖沼化し、川が氾濫することも頻繁にあり、蛭子神社の場所もかつては1kmほど離れた宮ノ木にあったという伝承も残されていることから、御遷幸地を特定することは難しいでしょう。しかしながら、そのような災害の歴史を繰り返したが故に、市守という名があてられるようになったのかもしれません。社伝には皇大御神が遷られた際に、一ノ瀬の鮎が神饌として祀られたことも記載されています。そして蛭子神社の祭礼エビス市が盛んになるにつれて、蛭子神社周辺は栄えたのです。

市守宮は、倭姫命の御一行が東方へと旅立った後の最初の拠点であることから、その位置決めについては事前に、十分な協議がなされていたはずです。そしてレイラインの検証が綿密に行われた結果、市守宮がレイラインの交差点に特定されたのです。その場所に建立された蛭子神社は、複数の線が神宝に関わる拠点を結ぶレイライン上に存在するだけでなく、元伊勢の御巡幸となる次の遷座地、穴穂宮とも結び付く要因を秘めていたのです。

蛭子神社 本殿
蛭子神社 本殿
市守宮(蛭子神社)のレイラインにおける中心線は、剣山と三輪山を結ぶ線です。この一直線上に蛭子神社も見事に並んでいます。そのレイライン上に神宝の遷座地が求められたということは、聖地三輪山に関わる神宝の拠点として、古代の民は剣山を重要視していたことがわかります。もう一つのレイラインは、剣の由緒を持つ諏訪大社前宮と室戸岬を結ぶ線です。この2本のレイラインの交差点に蛭子神社が建立されています。また、その場所は、出雲の八雲山と伊勢神宮を結ぶレイラインにも重なっています。それは、伊勢神宮の地を最終的に特定する際に、八雲山と市守宮を通り抜けるレイラインも検討され、その線上に伊勢神宮内宮が見出された可能性を示唆しています。こうして、倭国を離れた後、東方に向かう最初の遷座地となった市守宮は、レイラインを介して三輪山や神宝に絡む大事な聖地である諏訪大社と結び付いていただけでなく、それまで遷座地と同様に、再び剣山に紐付けられることになりました。

これだけの由緒ある聖地が見事に結び付けられたレイラインの交差地点に蛭子神社が建立されたということは、古代の識者がレイラインの原則に則り、熟考を重ねた上で、その場所を見出したという背景があったことに他なりません。蛭子神社が発行する案内書には、蛭子神社が古来より「市守宮(いちきのみや)」という別称で呼ばれていたことが記されてはいるものの、残念なことに、「倭姫命世紀」を伊勢遷宮伝説と称し、「架空の物語」としています。しかしながら、古代の英知は計り知れず、蛭子神社の創始と御鎮座の由来についても、レイラインの考察なくしては説明がつきません。そして「倭姫命世紀」の記述が史実であるという前提において、元伊勢の遷宮地に関わるレイラインを全て検証すると、後述するとおり、意外な真実が浮かび上がってくるのです。「倭姫命世紀」には、辺境の各地を巡歴された倭姫命の功績が記載されていますが、その背景には多大な苦労の積み重ねがあったことを市守宮のレイラインからも垣間見ることができます。

市守宮のレイライン
市守宮のレイライン

穴穂宮(神戸神社)のレイライン

神戸神社の鳥居
神戸神社の鳥居
倭姫命が6年間、伊賀国を御巡幸した際、2つ目の遷座地となったのが穴穂宮です。そこでは他の遷座地よりも長い4年という期間、神宝が斎祀られました。「倭姫命世記」には、穴穂宮の伊賀国造奉進地に関する記述が含まれ、記載内容も他の御遷幸地と比較すると多いことから、重要な拠点として考えられていたことがわかります。穴穂宮では元来、天照大日孁貴命(天照大神)と天児屋命、倭姫命、そして祭祀を司る神として知られる天太玉命が、祭神として祀られていました。

穴穂宮の比定地は神戸神社というのが通説です。神戸神社は明治時代に合祀される以前は穴穂宮と呼ばれ、伊勢神宮とも深い関わりを持っています。神戸神社の由緒によると、式年遷宮の翌年には神宮古材を拝領賜わり、本殿の造営を二十年毎に行っているだけでなく、神嘗祭には懸税として伊勢神宮内宮、外宮それぞれに米三俵ずつ奉納するそうです。さらに神宮神田での御田植祭や秋の抜穂の御奉仕も含め、古来より伊勢神宮に結び付く神事が継承されていることでも知られています。

穴穂宮のレイラインは、元伊勢に絡む数多くのレイラインの中でも特筆に値するほど、複数の聖地を一直線に結び付ける重要な三輪山のレイラインが含まれています。その線上には紀伊半島の西方沿岸から東に向かって、金剛山、橿原神宮、三輪山、穴穂宮、そして熱田神宮が並びます。三輪山を中心とするレイラインで、これだけ著名な聖地が一直線に並ぶことは珍しく、それだけ穴穂宮の位置付が重要視されていたことになります。金剛山は葛木岳、または高天原山とも呼ばれ、その山頂は神域として禁足地になっているだけでなく、高天原伝承地のひとつにも数えられている聖地です。シンプルで美しい神戸神社の境内
シンプルで美しい神戸神社の境内

  このレイラインの東端に存在し、草薙剣が宝蔵されることとなる熱田神宮は、穴穂宮の地を特定するにあたり、レイラインの指標のひとつとして用いられた可能性があります。しかしながら、熱田神宮の地が史書において話題に上るのは、日本武尊の時代になってからのことです。よって、穴穂宮の場所が金剛山、橿原神宮と三輪山を結ぶレイライン上に特定された後、同一レイライン上に熱田神宮の地が見出されたと考える方が、歴史の流れから察するに、よりわかりやすい解釈と言えます。いずれにしても、同一線上に置かれたこれらの聖地は、何かしら潜在的に熱田神宮の草薙剣と絡んでいると考えられ、それをレイラインが象徴しているのです。

この三輪山を通り抜けるレイラインと交差するレイラインが、さらに2本存在します。まず、元伊勢の御巡幸が始まった際、第3番目の遷座地となった伊豆加志本宮(與喜天満神社)と、諏訪大社前宮を結ぶレイラインに注目です。その線上に穴穂宮が存在することから、そのレイラインと三輪山のレイラインが交差する地点が特定され、そこが穴穂宮の建立地になった可能性があります。もうひとつのレイラインは、諭鶴羽山と二上山を結ぶ線です。このレイラインは奈良の石上神社近郊を過ぎると、穴穂宮の地をぴたりと通り抜けることから、このレイラインも穴穂宮の地を特定する為に用いられたのではないでしょうか。

これら3本のレイラインが交差する中心点に穴穂宮が存在するという事実は、その場所がレイライン上で繋がる拠点をベースに見出されたことを示唆しています。金剛山は高天原の伝承を残す聖地でもあることから、高天原で造られた八咫鏡などの神宝が思い起こされます。諭鶴羽山は、大陸から到来した外来の神と熊野権現の象徴です。二上山は古来より雄岳と雌岳の頂上周辺に太陽が沈む様子から聖山として崇められ、そのそばに聳え立つ三輪山は、神御自身が示された倭国の聖地であり、元伊勢の御巡幸が発祥した大本の地でもあります。また、橿原神宮は建国の始祖となられた神武天皇の皇居であり、そして諏訪大社と熱田神宮では神剣の由緒が語り伝えられてきています。

これらの由緒を総合すると、大和国を代表する重要な聖地の数々と穴穂宮は、レイラインを介して結び付いているだけなく、それらの背景には草薙剣を含む神宝も存在していたことがわかります。穴穂宮のレイラインとは、神宝に絡む由緒ある社と、古代の聖地を結びつけて構成された線引きの集合だったのです。それ故、穴穂宮は、そこから東方へと続く元伊勢御巡幸の行く末に大きな影響を与える大切な拠点となったのです。穴穂宮のレイラインは、その線上に存在する聖地の結び付きから、今日でも変わらず大切なメッセージを発信しています。

穴穂宮(神戸神社)のレイライン
穴穂宮(神戸神社)のレイライン

敢都美恵宮(都美恵神社)のレイライン

神社近隣に建てられた「敢都美恵宮遺跡」の石碑
神社近隣に建てられた「敢都美恵宮遺跡」の石碑
敢都美恵宮が位置する伊賀郡の柘植周辺は、その北方へは甲賀を経て山城国に、西方へは伊賀の国府を経由して大和国に向かうことができます。また、東方へは伊勢国を抜けて東海道に向かうこともできる、つまり交通の要所でした。そのような地の利を有する場所に、皇大神宮儀式帳には「阿閉拓殖宮」とも記載されている敢都美恵宮が建立されたのです。
  敢都美恵宮の比定地は、都美恵神社と考えられています。JR柘植駅から1km程歩くと、「敢都美恵宮遺跡」と記された石碑があり、その真横に記載されている由緒によると、倭姫命が垂仁天皇2年に御巡幸され、それから穴石社殿に遷られたとされています。その穴石神社が改称されて、都美恵神社になったのです。都美恵神社の名前は、「敢都美恵宮」から「敢」の文字をとったと考えられています。
  都美恵神社の祭神は、国生みに登場する高皇産霊神の娘である栲幡千千比賣命と、経津主命、そして布都御魂命であり、相殿には倭姫命が祀られています。経津主命と布都御魂命という祭神の存在から、都美恵神社の創始には、神剣が関わっていたことがわかります。そして、レイラインを検証することにより、その史実がさらに明らかになります。
  荘厳で広々とした都美恵神社
荘厳で広々とした都美恵神社
敢都美恵宮の比定地である都美恵神社を通るレイラインは、神宝の剣に纏わる聖地に直結しています。まず、倭姫命が御巡幸された穴穂宮に続き、熱田神宮がレイラインの指標として用いられていることに注目です。そして、熱田神宮と剣山の頂上を一直線で結ぶ線上に、敢都美恵宮が建立されています。熱田神宮の地は、後世においては草薙剣が秘蔵されることとなる比類なき聖地であり、神宝そのものである剣の名称で親しまれてきた剣山と、レイライン上で結び付けられることには重要な意味があります。これは正に、敢都美恵宮が、神宝である剣に関連する重要な拠点となったことを意味するだけでなく、剣山も、草薙剣の行方を占う大切な聖地として、その存在を知らしめることになるのです。

熱田神宮と剣山を結ぶ線と交差するもうひとつのレイラインが、足摺岬と守屋山を結ぶレイラインです。この2本目の線により敢都美恵宮の場所が、レイライン上に特定されることになります。足摺岬は古代有数の旅の指標であり、多くの拠点が見出されてきました。また、足摺岬と結び付けられた守屋山は諏訪大社前宮の裏に聳え立ち、諏訪大社の御神体ではないかとも語り継がれ、諏訪大社にも剣に関連する伝承が残されています。伊勢神宮に向かって拝む神宮遙拝所
伊勢神宮に向かって拝む神宮遙拝所
さらに守屋山の中腹にある守屋神社でも、剣が奉納されていたという謂れがあります。その足摺岬と守屋山を結ぶレイラインと交差する場所に、敢都美恵宮が建立されたのです。
  敢都美恵宮の聖地は、剣山、熱田神宮、そして諏訪大社の守屋山という、剣に纏わる由緒を持つ場所に結び付く象徴となるべく、元伊勢の聖地のひとつとして、その場所が特定されたのです。敢都美恵宮こそ、神宝の剣を大切に祀るべく建立された、古代の大切な神社であったのです。

敢都美恵宮(都美恵神社)のレイライン
敢都美恵宮(都美恵神社)のレイライン