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建国に貢献した船木氏の真相 卓越した造船技術を駆使して国家安泰に尽力した一族

崇神天皇から垂仁天皇の時代にかけて執り行われた元伊勢の御巡幸において、海上交通と港の要所を仕切り、倭姫命御一行の船旅だけでなく、神宝の遷座についても重要な責務を負っていた船木氏の働きは、極めて重要です。船木氏こそ、元伊勢の御巡幸を成功に導いた陰の立役者でした。そして歴史の重要な接点においては、天皇家と密に関わりを持ちながら、国家の発展に貢献を成し遂げました。船木氏の働きに伴う一族の動向に注視し、歴史の背景を探ることにより、卓越した海洋技術を携えていた船木氏の果たした軍事的な役割や、神宝との関わり、そして一族が拠点を移動しなければならなかった理由まで、少しずつ古代の謎が紐解かれてきます。

船木氏の優れた造船や海洋技術に支えられて完結した御巡幸の船旅は、倭姫命が伊勢の五十鈴河上に到達し、そこで天照大神を祀った後も続きます。事実、倭姫命は伊勢から更に紀伊半島を南下して伊雑宮がある志摩周辺にも出向き、そこで神々に捧げる御饌(ミケ)を収穫しました。その後、倭姫命の御一行は伊勢へ戻りましたが、船木一族は紀伊半島の最南端から西側を北上して淡路島の方へと向かったのです。船木氏の足取りを理解することは、直後に台頭する邪馬台国だけでなく、神宝の行方にも深く関係していることから重要です。

元伊勢の御巡幸が終焉した直後の景行天皇の御代では、今日の奈良に纒向珠城宮(まきむくのたまきのみや)と呼ばれた皇居がありました。その後、日本武尊(ヤマトタケル)が歴史の主役として登場し、東方の征伐に向かおうとされた際、倭姫命は伊勢にて草薙剣を献上します。そして次の成務天皇の時代では、日本武尊の父である景行天皇が晩年に行幸された船木氏の一大拠点である近江、今日の大津周辺に、皇居が遷都されました。大陸との抗争が迫っていたこともあり、船木氏の擁する巨富と海軍力のノウハウを駆使して、国家戦略を練ることが重要な時代だったからこそ、船木氏のお膝元に都を遷す必要があったのでしょう。

その後、日本武尊の子である仲哀天皇が即位します。その皇后は、史書にはオキナガタラシヒメとも記載されている神功皇后です。船木氏は国家戦略に沿い、海外との交戦に不可欠であった軍船を神功皇后に献上したことでも知られています。つまり、元伊勢の時代から2世紀近く経った神功皇后の時代においても、船木氏は国家を支える海洋豪族として、不動の軍事力を誇示していたのです。その間、船木氏は一族の拠点を伊勢から北西方向の播磨へ向けて、徐々に移していたことにも注視する必要があります。その動線から、船木一族が抱えていた重責を、垣間見ることができます。

伊勢から播磨へ移動する船木氏

元伊勢御巡幸の際、船木氏は倭姫命の御一行の海上交通を一手に担い、伊久良河宮から伊勢湾まで川を下り、海沿いを航海しながら御一行を護衛しただけでなく、倭姫命に複数の船を献上し、皇族の繁栄に大きく貢献しました。その後、天照大神が伊勢にて祀られ、元伊勢の御巡幸が終焉を遂げた頃には、船木一族は伊勢国の多気郡を本拠地としていました。多気郡には伊勢湾から宮川を介して川を上ることができるだけでなく、近隣には元伊勢御巡幸地のひとつでもある瀧原宮が存在し、更に古代レイラインの視点からも極めて重要な立地条件を有していたことから、船木氏の拠点としては絶好の環境が整っていたのです。

ところが海人豪族として名を馳せた船木氏は、御巡幸の責務を完了して伊勢国にしばらく滞在した後、主力部隊は紀伊半島の西海岸を北上し、紀の国の丹生川上や淡路、摂津へと移動を続けたのです。その船木氏の足取りを掴む手掛かりが「住吉大社神代記」に記されています。そこには、住吉大神の宮が所在した最も古い9社のひとつとして、今日の和歌山にある「天手力男意気続々流住吉大神」の名称が含まれています。伊勢の多気郡勢和村が丹沙の産地だったように、丹生川上にも造船に使われる塗料に不可欠な丹沙と呼ばれる硫化水銀からなる鉱物が存在しました。船木氏の足取りを辿ると、そこには必ずと言ってよいほど鉱物の存在があったのです。丹生川上の地域周辺には住吉大神にちなんだ上筒香、中筒香、下筒香という地名も見られ、近郊には神功皇后が丹生都比売を祀るために建立したと伝えられる丹生都比売神社もあることから、これらの背景には住吉三神と造船技術に絡む船木氏の存在があったと考えられます。

その後、元伊勢の御巡幸から1世紀少々を経た成務天皇の御代においては、船木氏の拠点は琵琶湖の南岸、近江の周辺にも広がりをみせ、そこに皇居が遷されることになります。琵琶湖界隈は、古くから船木氏が海上交通の要所として目を留めていた地域です。それ故、元伊勢を巡る際には、御巡幸地のひとつである坂田宮の地も琵琶湖の沿岸に特定され、その東方には元伊勢御巡幸の船旅が始まる伊久良河宮の場所も見出されたのです。水上交通の便に恵まれた琵琶湖周辺は、船木氏の拠点として発展するに必要な格好の条件が揃っていました。

元伊勢の御巡幸が完結して2世紀ほど経た仲哀天皇の時代、船木氏は一族の主たる拠点を播磨国周辺へと移動させ、そこを一族の中心拠点としました。播磨国の川上は、砂鉄が豊富に採取できるだけでなく、朝鮮半島と都を行き来する上での交通の要所であり、更にその真南には、元伊勢の御巡幸直後に移動して祀った淡路島舟木の巨石も存在することから、重要視されました。

住吉酒見神社の境内
住吉酒見神社の境内
播磨国にて船木氏の拠点が広がる様子については、複数の記述が「住吉大社神代記」に含まれています。明石郡の船木村、黒田村、辟田村においては、船木連が封戸や田を献上したと記され、播磨国においては、その川の上流に向かって船木氏の最終拠点が広がったことが読み取れます。そして神功皇后の時代には、賀茂郡にて住吉酒見神社が建立され、船木氏の拠点は今日の小野市や加西市の周辺にまで発展したのです。

伊勢から近畿へと移動する船木氏の拠点
伊勢から近畿へと移動する船木氏の拠点

「船木等本記」が証する歴史の真相

「住吉大社神代記」は、「胆駒神奈備山の本記」や「船木等本記」など、特定の題名に関する記述を主体とした複数の章により構成されています。船木氏については、例えば「胆駒神奈備山の本記」に、「大八嶋国の天の下に日神を出し奉るは船木の遠祖、大田田神なり」という記録が残されています。そして船木氏の遠祖である大田田神は、木製と石製の船を2隻造り、後世に証として残すために、「胆駒山の長屋墓に石船を、白木坂の三枝墓に木船」を納めたことも記載されています。

「船木等本記」にも、船木氏による造船関連の貢献について詳細が記されています。そこには神功皇后が新羅国へ討伐に向かった際に、大田田命と神田田命の所領から木材が伐り出され、船が3隻造られたと書かれています。当時、倭国は新羅国と戦争状態にあり、造船技術に長けた船木氏は、国政の中核となる存在として、船を造る責務を授かっていました。住吉大社 第一本宮の幣殿
住吉大社 第一本宮の幣殿
そして船木氏の遠祖が領有した杣山は住吉大社へ寄進され、そこから造船に相応しい良質の木材が伐り出されたのです。住吉大社の神領地となった杣山は、椅鹿山と呼ばれることもありました。造船技術だけでなく、多くの資産を保有していた船木氏は、国政においても重要な役割を担うようになり、住吉大社においては神官などの役職も務めながら、全国各地で船司、津司を任じられるようになります。

船木氏が単に船舶の技術に特化した職業一族でないことは明らかです。優れた船を造るだけの技術と資産、しいては軍事力も携えていた船木氏が、元伊勢の御巡幸だけでなく、神功皇后の時代でも皇族と密接に関わり合いを持ち、政治に直接絡む数多くの働きを成し遂げた理由は、船木氏の家系にあったのです。「船木等本記」には船木氏の家系について、詳細が記されています。注目すべきは、彦太忍信命の名前です。その系譜によると、彦太忍信命の父は崇神天皇の一代前、第9代開化天皇です。また、日本書紀に準じるならば、更に一代前の孝元天皇が彦太忍信命の父であり、武内宿禰の祖父にあたります。よって、彦太忍信命の娘として系譜に記載されている忍海部乃刀自は竹内宿禰の近親となります。つまり、船木氏は、天皇家と血縁関係にある渡来系の海洋豪族だったのです。

だからこそ、元伊勢の御巡幸という世紀のイベントが執り行われた際に、船木氏は天皇家のガード役として、皇族の御一行と一緒に携えられていた神宝をお守りする重責を授かったのです。そして神宝の安置をより確実なものにするために、神宝の運搬に関わる対策についても、船木氏に一任されたのです。天皇家より深い信任を得て、神宝を守るという重責までも与えられ、古代史における重要イベントの随所に船木氏の存在が浮かび上がってくることは、決して偶然ではなかったのです。天皇家と親戚関係にある渡来系の海洋豪族船木氏にとって、国家安泰のために尽力することは当然の責務だったのです。

「船木」の由来とヘブライルーツ

今日、日本列島各地に船木の地名は存在し、古代から船木部、または船木仰、船城仰と呼ばれている地域があります。ごく一般的に船木の地名は、「西条誌」に「船を造る木材を産出することから、船木という地名がついた」と記載されているように、木材を伐採して造船を手掛ける職業部に由来すると考えられています。例えば、神功皇后が朝鮮半島に向かわれた際に造られた48隻の船に必要な大きな木材を提供したことから船木という地名がつけられたことが、「前太平記」に記されています。そして「八幡愚童訓」には、それら48隻の船を造るために長門の船木山から船材が伐り出され、豊後宇佐に運ばれた後、船が造られたという詳細までも記載されています。

「勢陽五鈴遺響」では船木を船置の略と解釈し、河船が多数行き来する場所として捉えていました。このように、船木の由来として、船が来るから「船来」と呼ばれているうちに、「フナキ」と訛るようになったという説もあります。それは、湖の広い入江に造られた港に船が到来することを意味していたようです。1世紀初頭には既に、琵琶湖周辺に船木氏の拠点が存在し、伊久良河宮の比定地となる天神神社
伊久良河宮の比定地となる天神神社
そこを原点として元伊勢御巡幸の最終段における船旅の準備がなされたと想定されます。その働きが琵琶湖東方の御巡幸地である伊久良河宮の発展へと結び付きました。倭姫命御一行による元伊勢御巡幸の船旅の歴史が伊久良河宮から始まった根底には、船木氏の尽力により伊久良河宮の近郊にて船が造られ、そこから倭姫命御一行が乗船したという史実があり、伊久良河宮の近郊には船木山も存在します。「船木」という名称のルーツには、船を造るだけでなく、「船が来る」という意味も含まれていた可能性があります。

船木という地名は、海人豪族として知られる船木氏が、実際に木材を収集して船を造り、港の周辺に船木氏の集落を築いたことに由来するとも考えられます。海人豪族として島々を探索して支配下に治めるためには、自らの造船技術を駆使して船を造り、島々を航海することが不可欠でした。そのためにも、造船に適した木材や、必要不可欠な鉱山を確保することは船木氏にとって最重要課題であり、優良な木が茂る山々や、砂鉄、丹沙が採掘できる場所が探し求められたのです。その結果、船木氏は多くの杣山を所有し、造船に必要な木材を自ら調達するまで繁栄したのです。こうして国家の行く末を担う海人豪族の船木氏が向かう先では、資材が集められて船が造られ、地域一帯は船木と呼ばれるようになったと考えられます。

船木の意味は、ヘブライ語でも理解することができます。hunak、フナッ(hunak、フナッ)のヘブライ語は、授ける、贈られる、を意味し、その未来形はHunakti, フナッティです。もしかすると、天から授かった贈り物を意味する名前としてHunakti(フナッティ)が多少訛り、「ふなき」になったのでしょうか。また、ヘブライ語で「島」はki、キ(ki、キ)と言います。すると、「島々を授かる」という意味を持つ言葉が、「フナッキ」となります。「船木」、「フナキ」という発音のルーツには、「島々を授けられた民」、というヘブライ語の意味が込められていた可能性があります。

船木氏とは、古代イスラエルからの渡来者の中でも、日本列島を探索し、そこに拠点を設けて新国家の発展の礎を築くという天命を授かった部族と想定することができます。だからこそ、船木氏は建国のための縁の下の力持ちとして、単に船を造るだけでなく、そのために必要な木材を確保するための山々までも保有して管理しながら、皇族にお仕えしたのではないでしょうか。それ故、日本列島の随所に存在する船木の地は、そのほとんどが海岸や湖岸、もしくは大河川沿いに分布し、その近隣には鉱山が存在することが少なくありません。こうして船木氏は古代、海上交通を取り仕切る豪族として建国を支え、皇族と共に歴史の布石を担ったのです。

神宝を護衛した船木氏の働き

元伊勢の御巡幸においても倭姫命御一行を伊久良河宮から伊勢の地まで安全に導き、神宝を護衛するために主役として、船木氏は尽力しました。その後、船木氏は紀伊半島の最南端を越えて西方へと移動し、淡路島から近江、摂津、そして播磨周辺へと向かい、各地に船木の拠点を造成し続けたのです。船木と呼ばれる地域周辺には、船魂の守護神である住吉神を祀る神社が多数存在するのも、船木氏が海人豪族として、住吉三神を崇拝していたからに他なりません。

また、船木氏は伊勢を旅立った直後、近江や摂津に向かう途中、淡路島の舟木にも重要な拠点を設けたとことは、特筆に値します。淡路島の北方、東浦と北淡の中間に位置する舟木は島の高台に存在し、その集落の中心に古代、巨石が置かれて祀られたのです。その巨石は自然に存在したものではなく、明らかに人間の手によって移動されたものと見られることから、その場所を大切に祀る何かしら重大な理由が存在したと考えられます。石上神社の巨石
石上神社の巨石
その巨石は今日、石上神社の御神体として祀られ、三輪山や長谷寺、斎宮と同緯度に存在し、北緯34度32分線の太陽の道に並ぶことから、有名になりました。また、剣山と舟木の巨石を結ぶと、その中間には伊弉諾神宮が、そして延長線上には摩耶山と六甲山が並びます。さらに巨石から真北の方向にある播磨の川上に注目すると、川辺から広がる丘陵の周辺には船木氏の拠点が随所に造営され、多くの住吉神社が建立されていることがわかります。レイラインの視点から見ても、淡路島の舟木は極めて重要な位置付けにあったことがわかります。

淡路島の舟木は船木一族にとって特別な意味を持つ聖地であり、古代から祭祀活動が執り行なわれていた重要な拠点でした。主に海沿いに拠点を設けてきた船木氏が、元伊勢の御巡幸が終了した直後、摂津や近江、播磨へと向かう途中に淡路島に立ち寄り、島の高台の雑木林に、三輪山と同緯度の場所を特定し、そこに巨石を移動して祭祀活動を執り行ったというからには、それなりの大切な思いが秘められていたに違いありません。よって、その根底には神憑りとも言える、神宝の処遇に絡む何かしら重大なイベントが存在したとしか考えられず、船木氏が護衛していた天皇家の神宝の存在が浮かび上がってくるのです。

それらの背景を探る前に、今一度、日本列島の随所に残されている船木氏の軌跡を辿り、船木氏の出自や歴史的背景、そして拠点となる場所の地勢観などを振り返ってみましょう。一連の歴史の流れを理解するヒントを得ることができます。

大陸より到来した船木氏の軌跡

吹上町を流れる小野川の上流
吹上町を流れる小野川の上流
日本の各地に存在する船木と呼ばれる地域の中で、最も古い歴史を持つ場所は、おそらく鹿児島県の日置郡吹上町の船木と考えられます。吹上町を流れる小野川の上流には船木山とよばれる高さ20mほどの小山があります。現在では海岸線より4.2kmほど内陸にありますが、古代では周辺が海や湖水で囲まれ、扇状地の様相を呈していたことでしょう。その小山の麓に建立されたのが船木神社であり、祭神は猿田彦神です。伝説によると、この地で猿田彦神は船木氏に命じて船を造らせ、更に瓊瓊杵尊の先導を務めるという重責を与え、安全な航海を祈りつつ船出させたそうです。古代の民が、この船木山から木材を伐り出し、そこで船を造ったとするならば、船木神社の周辺は、古代造船所の跡地と言えそうです。また、猿田彦命が祀られる前から船木山では船が御神体として祀られていたという説もあり、村人は今日まで船木山を聖地として崇めています。

船木神社
船木山の麓に建立された船木神社
船木神社は吹上町伊作郷に建立された5社のひとつです。「伊作」という地名は、イスラエルの族長でありアブラハムの子として名高い「イサク」に由来していると考えられます。その神社にて例年催される船こぎ祭りでは、宝殿に納められた船の模型を氏子らが両手で1隻ずつ掲げ、「エンヤオー」と言いながら3度回して隣の人に手渡すという神事が行われています。また、小野川下流の吹上浜では、今日でも進水式の儀式が残されています。5色の旗を立てて祈祷を捧げながら船を持ち上げ、山と海の神に航海の安全と大漁を願い、「ヤエシー」と掛け声をかけながら船を波打ち際に持っていくのです。その船霊の名前は「ヤエ」と言われています。これはイスラエルの神の名、「ヤエ」、そのものの発音であることから、古代より船が神の象徴として祀られていたことがわかります。伊作郷の船木という地名の由来は、イスラエルに絡んでいる可能性が極めて高いと言えます。

日置郡吹上町の船木が鹿児島沿岸に特定された理由は、レイラインの存在からも説明することができます。古代、大陸より日本列島に到来したイスラエルの民の多くは、琉球諸島を経由して、船で北上してきました。台湾を経由して琉球諸島に渡った後、その中心となる拠点として栄えたのが今日の沖縄、那覇です。そして地域に浮かぶ多くの島々の指標として定められたのが、「神の岩」を意味する伊平屋島のヤへー岩と、沖縄本島に隣接する伊江島の城山です。2つの指標を結ぶ北方の先には日本海側に出雲大社が存在するだけでなく、その一直線上に、吹上町の船木神社が並びます。
  また、この船木神社と四国の剣山を結ぶと、北東方向の延長線上には諏訪大社が存在することも見逃せません。諏訪大社周辺には縄文時代から集落が築かれていました。また、国生み神話においては大国主神の御子神である建御名方神(たけみなかたのかみ)と、武甕槌命(たけみかづちのみこと)との争いにおいて、建御名方神が逃亡した舞台にもなった聖地です。諏訪湖の周辺は、日本列島を分岐する巨大なプレートが折り重なることから、地勢的にも極めて重要な場所です。古代の民は、そのような列島の地の環境までも知り得ていたのでしょうか。

さらに船木神社と室戸岬を結ぶと、その一直線上に伊雑宮が建立されているのも、単なる偶然ではないようです。鹿児島に到着した後、周辺の島々を巡りながら探索した船木氏をはじめ古代の識者は、すぐに室戸岬と足摺岬を結ぶ線が、夏至の太陽が昇るおよそ30度の角度となることに目を留めたことでしょう。鹿児島県の吹上町船木山から見て、夏至の日に太陽が昇る北緯29度38分の方向には室戸岬があり、室戸岬のビシャゴ岩
室戸岬のビシャゴ岩
その先には、伊雑宮が存在したのです。その夏至の日の出線上に拠点を定めれば、四国の岬を指標にして容易に行先を探すことができるのです。そこで、夏至の日の出方向に室戸岬が並ぶ線と、沖縄の基点となるヤヘー岩と出雲を結ぶレイラインが交差する地点を、鹿児島の拠点とすべく、船木山として定めたのでしょう。その結果、船木山の船木神社から夏至の日の出方向にまっすぐ進み、足摺岬と室戸岬を越えて更に直進すると、古代の聖地、伊雑宮に必ず到達することができたのです。古代聖地の多くは、こうしてレイラインによって相互に結び付けられながら特定されたのです。

これらの船木山を通り抜けるレイラインの検証から、猿田彦命に纏わる伝承はあながちおとぎ話ではなく、船木神社が古代海上交通の要所として位置付けられ、その港から船木氏が船出したことを証していたものである可能性を否定できません。また、鹿児島の南岸から船木氏が船出して列島の島々を東方に向けて航海したということは、船木氏が古代、大陸から台湾、琉球諸島を経由して船で北上し、まず、鹿児島の最南端に到達したことを示唆しているようです。優れた航海技術を既に携えていた船木氏だけに、古代、鹿児島から瓊瓊杵尊御一行を護衛することも厭わなかったのです。

琉球から南西諸島を経由して鹿児島に着岸した船木氏らは、その後、瓊瓊杵尊御一行を護衛して瀬戸内へと向かうかたわら、周辺の島々を探索しながら、大陸からの玄関となり、列島の最西端に位置する対馬を重要視したようです。大陸から日本列島に渡航する際には、琉球諸島経由だけでなく、朝鮮半島からも渡来者の流入が考えられたからです。対馬では最南端にある湾内に拠点が見いだされ、そこはいつしか豆酘(つつ)と呼ばれるようになりました。「つつ」と言えば、住吉三神、または筒男三神(つつのお)とも呼ばれる表筒男、中筒男、底筒男が思い起されます。住吉三神は国生みの時代、天照大神やスサノオ命に先立ち、対馬界隈を航海した先人です。そして周辺の島々にて海人族の文化を土着させ、地域の発展に貢献した結果、対馬では古代の祭祀遺跡が多数残っているだけでなく、今日、島内にある式内社だけでも29座も存在するのです。

「つつ」の語源はヘブライ語で説明することができます。古代イスラエルの民が用いた「神」を意味する言葉の中に、「つ」があります。「岩なる神」と言われるごとく、岩は神と考えられ、岩は「ツォー」と呼ばれていたことから、いつしか「ツ」は神を意味するようになったのです。それ故、「ツツ」と繰り返すことは、「神々」を語っていた可能性があります。また、「しま」はヘブライ語で「名前」を意味します。よって、「ツシマ」はヘブライ語で、「神々の名前」を意味していたと考えられるのです。イスラエルからの渡来者が古代、対馬を訪れて、島の名前を「神々の名前」を意味する「対馬」とし、筒男三神にちなんだ「つつ」という地名を対馬にて古くから定められのは、ごく自然の流れと言えます。豆酘の拠点を住吉三神が大切にされただけに、同じ海人豪族である船木氏にとっても、対馬は古代の重要な拠点となりました。

鹿児島県船木山のレイライン
鹿児島県船木山のレイライン

日本全土に広がる船木の地名と由緒

大陸から沖縄を経由し、南西諸島を北上して鹿児島まで到達した船木氏は、その後、瓊瓊杵尊を護衛しながら列島を東方に向かいました。その途中、対馬を経由して、日本海側は出雲を越えてまで探索し、太平洋側の沿岸も、そのほとんどを網羅したことでしょう。こうして日本列島の全体像をおよそ把握した船木氏の一行は、瀬戸内からは摂津を経由して内陸の琵琶湖へと向かい、列島の各地に船木の拠点を造成していきます。

その結果、船木の拠点は一部東北と北海道を除く全国に広がることになります。別章の「大八島国の領域」に記載したとおり、西アジアのイスラエルから到来した民は、現地での彼らの行動範囲である最南端のベエルシェバ(北緯31度14分)から、最北端のハラン(北緯37度12分)の間において、長年の天体観測に基づく地勢の調査が行われてきたことから、日本列島においても、同じ南北の緯度線の間を探索することが、中心的な働きとなりました。その結果、南は鹿児島の最南端、北は、北陸から福島周辺が限界となり、それよりも北方に移動することは、ごくまれなことでした。

また、船木氏は主に沿岸に集落を形成する傾向がありましたが、時には鉱山の採取や、レイラインの調査から聖地が特定されたことにより、内陸にも拠点を設けました。その際でも、できるだけ海や大河に繋がり、水上交通に恵まれた川上に拠点を持つことを常としたようです。船木氏が内陸に特定した拠点のすべては、レイラインの考察から、なぜ、その場所が重要であったかを知ることができます。

和名抄によると、船木郷は、下総国海上郡、遠江国蓁原郡、尾張国山田郡、美濃国本巣郡、近江国蒲生郡、安芸国安芸郡と沼田郡が列記され、相模国愛甲郡船田郷も船木田の略称と言われています。安芸国安芸郡は今日の呉市の周辺にあたり、これらの地域は古代から海上交通の要所として、造船も盛んに行われた地域です。和名抄で高田郡船木郷に当たる近郊の安芸国高田郡高宮町には船木、下船木の大字があり、その江ノ川上流では船が造られていました。呉とは主に朝鮮半島の百済国を経由して渡来してきた大陸系の民族の名称でもあり、時には百済人と重なって解釈されることもあります。古代、呉人は多くの技術を携えて日本に渡来してきたことから、呉人の文字に伎人とあてて読むこともありました。伎楽(呉楽)、呉服、呉織、呉竹など、呉人は多くの優れた文化を大陸から日本にもたらしました。そして和船とも呼ばれる日本特有の造船においても、呉人は重要な技術を提供した一族であると考えられています。それ故、呉人が得意とする古代の職の中には、船子、船長、船作などが含まれています。呉人は百済人と共に古代から、海上交通に関する重要な役割を果たし、その結果、今日でも呉市では造船が続いているのでしょう。

その他、船木、舟木の名称が残されている地域は、丹後竹野県弥生町、近江国高島郡安曇川町、淡路国津名郡仁井村、備前国赤磐郡吉井町、伊余、因幡国岩見郡津之井村、長門国厚狭郡楠町、肥前国東松浦郡には船木山などがあり、更に古書を見ると、武蔵国船木本庄、摂津の島上郡野身郷船木刀自女、讃岐国大内郡「船木小則女(美濃の船木家)など、今日の所在地は不明ではあるものの、古代では存在していた船木事例が文献に記されています。

これらのほとんどは海岸沿いか、河川の流域に存在します。しかし中には、内陸に位置する船木の地も存在します。播磨国加東郡小野市大字船名(旧船木)が、その一例です。神宮皇后の時代、船木連の遠祖、大田田命と神田田命がこの地に居住し、杣山の木を用いて船3隻を作り、皇后に献上した場所でもあります。当時、戦いに使用される官船は、川上でもかなり奥まった山中で造船されることがあったことが確認されています。大陸でも即晋書幸霊伝などに、山中にて官船が造られた記録が残されています。その他、吉井川の上流にある備前国赤磐郡吉井町字舟木、江ノ川の上流にある安芸郡高田郡高宮町大字船木、伊勢国度会郡大宮町舟木、美濃国本巣郡船木などは、いずれも内陸に存在する船木ではあるが、どれも川沿い近くに存在し、造船に携わっていた歴史的背景を持っています。

このように、全国に広がる船木の地名は、その多くが海岸線沿いに存在するものの、中には内陸の川上、山中に存在する町もあります。船木、もしくは舟木とも記される地名の共通点は、そこに船木氏が居住して古代、集落を造成したことです。そして、これらの船木の集落は、造船に使われる船材を産出する山や鉱山に関わる土地の意味を持つ場合と、それらの船材を採取して、実際に船を造る船木部の人々の集落を指している場合とに分かれながらも、船を造りながら船木郷、船木村は船木の拠点として栄えていったのです。

海沿いに現在も残る舟木の地名
海沿いに現在も残る舟木の地名