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夏至の日の出のレイライン

2015年6月21日、インドの首都デリー市の大通りに3万6千人が集まり、モディ首相と共に、大勢の人がヨガを実践しました。モディ首相が提言された「ヨガの国際デー」が前年の国連総会にて、夏至の日にあたる6月21日に制定されたことから、記念すべき第1回目が実施されたのです。インドで広く信仰されているヒンドゥー教では、太陽のエネルギーが最大級に肌で感じられる夏至の日は、精神的な鍛練をするに相応しい日として重要視されてきました。

夏至の日とは昼の時間が最も長く、夜が最も短い日を指し、北半球では毎年6月21日頃になります。日本最南端の有人島である波照間島のおよそ70q南方となる北緯23度26分の北回帰線上では、夏至の日に太陽が天空、すなわち、天の一番高いポイントを通り抜けます。よって波照間島を含む八重山諸島界隈では、例年夏至の日に、およそ天空を通る太陽を見ることができるのです。人類にとって、太陽の光と熱は生命体を維持するために不可欠であることから、古代より太陽は、生の象徴として大切に崇められてきました。それ故、太陽が最も長い時間、天を通り抜ける夏至の日が特別視されたことは言うまでもなく、太陽信仰に纏わる祭祀活動が世界各地で広まっていくことになります。

今日、インドに限らず、世界中で大切な祭りや催し物が夏至の日に執り行われています。北欧では夏至の日は白夜となり、古代から子孫の繁栄を願うとともに将来の伴侶を見つけるための祭りが開催されています。同様に、スラブ諸国でも夏至祭において子孫の繁栄と豊作が祈念され、各地で人々が集まり、神を祀っています。さらにアジア諸国でも夏至の日に祭祀活動が執り行われ、中国の雲南省墨江県では、ハニ族の人々が太陽神を崇める祭りを行っています。また、南米のペルーでは夏至の日に、インティライミと呼ばれる重要な太陽の祭りが催されています。そのルーツには太陽、すなわち「インティ」を、神として崇めてきたインカ帝国の存在がありました。そして古くから夏至の日に人々は町中を踊り歩き、太陽に生贄を捧げながら祈り、神の祝福を念じてきたのです。インカ帝国の歴史的背景には13〜4世記に栄えたクスコ王国が存在することが知られていますが、夏至の日に関わる信仰は、それ以前、古代より続いていたと考えられます。

夏至の日に祭事を行う風習は、遠い古代にまで遡ることができ、その事例を今日でも確認することができます。イギリスのストーンヘンジにある巨石の遺構では、中心にある祭壇石とヒールストーンと呼ばれる巨石を結ぶ線上に昇る太陽を崇めることができるよう、巨石の位置が綿密に設計されています。ストーンヘンジで見る夏至の日の太陽の日差しは、いつの時代でも多くの感動を人々にもたらしたことでしょう。今日でも大勢の人がストーンヘンジを訪れ、巨石から射す夏至の日の出を崇めています。

大陸より日本列島に到来した古代の渡来者も、同様に太陽の動きや天空の事象を細やかに検証しながら、新天地となる島々の位置付けを覚え、それぞれに拠点を定めていきました。それ故、夏至の日の出を示す方角は常に注目され、時には夏至の日の沈む方角も重要視されました。夏至の日には真東よりもおよそ30度北側の方角から太陽は昇り、真西よりもおよそ30度北側の方角に日は沈みます。夏至の日の出の方角とは、その線上の先にある地点から逆に見れば、およそ冬至の日の沈む方向であり、また、夏至の日没とは、その方角にいる相手側から見ればおよそ冬至の日の出の方角にあたります。日本列島に渡来した古代の民は、島々の随所に拠点を見定める際、特に夏至の日の出に注視して太陽の動きを観察しながら、それらの位置をわかりやすく関連付けるように工夫を凝らしたと考えられます。

八重山諸島から日の出の旅立ち

古代、「東の島々」を探し求めて西アジアからアジア大陸を海岸沿いに航海し、日本列島に到来した民にとって、大陸から台湾、そして八重山諸島へと向かうことは難しくありませんでした。何故なら、大陸の最東端から台湾までの距離は140q弱、台湾の東岸から与那国島まではおよそ100qであり、どちらも出発点から目的地を遠くに眺めることができたからです。古代の航海術を熟知した民にとって、目視で到達点が確認できる地へと旅することには安心感が伴ったことでしょう。そして与那国島から東方の竹富島へ向かうも70q弱の距離であり、そこから更に石垣島、多良間島へと島々が連なり、伊良部島や宮古島までも難なく到達できたのです。大陸から台湾を経由して日本列島の入り口に到達した後、およそ安全に船で行き来できる距離に8つの主だった島々が短期間で見出されました。神の恩寵に感謝を捧げる意味も含め、それらの島々はヘブライ語で「神」を意味する「ヤヘ」の発音にかけて「八重」となり、いつしか「八重山諸島」と呼ばれるようになりました。

ところが、大陸から渡来した人々にとって、八重山諸島は最終目的地に成り得なかったのです。西アジアから到来したイスラエルの民は、神が預言者イザヤを通して語られた「東の島々」を探し求めて旅を続けてきました。しかし最初に到達した八重山の島々は、あまりにも小さく、その後、大陸から後を追って渡来する何十万もの民が共に居住して国家を形成するには事足りなかったのです。また、居住環境も異なり、従来、住み慣れていた西アジアの気候とはかけ離れていました。八重山諸島は赤道に近く、太陽が天空近くを通り過ぎることから気温も通年高く、四季もなく、農耕作や家畜の飼育にもさほど向かない風土を有していました。よって、祖国と類似した天空の事象や気候を持つ新天地を求め、イスラエルから渡来した民は有無を問わず、八重山諸島から北方に向けて旅立つことになったのです。

しかるに、どんなに天気が良い日でも、宮古島の北東にある池間島から列島沿いに並ぶ次の久米島まで220qも離れており、その到達点を見ることができません。ましてや280qも離れた沖縄本島などは、到底見えないのです。そこで重要視されたのが、夏至の日の出方向をひたすら目指して船で向かう「信仰の船旅」です。そのため、八重山諸島内をくまなく行き来する中、まず、地域の指標となる一つの巨石が見出されました。海の中に浮かぶその巨石は、八重山諸島の重要な指標として大陸から到来する民により崇められることになります。それが、石垣島の北西に位置する御神崎です。岸壁沿いにぽっかりと浮かぶ巨大な岩は、自然の波によって削られたとは思えないような不思議な形状を持つ海の巨石として知られています。おそらく古代の民は、八重山諸島の指標として末長く認知されるように、この巨石の先端を意のままに伐り落とし、既存の形のようになるまで手を加え、それが長い年月を経て波に打たれつつ角が削られ、現在の形状に至ったのではないでしょうか。そしてこの巨石を、旅人を導く重要な地の指標とすべく、神の名を用いて「御神崎」と命名したと考えられるのです。

御神崎のレイライン
御神崎のレイライン
石垣島の御神崎は、日本列島内に指標となる拠点や聖地を見出し、それらを地理的に結び付けていく上で、極めて重要な基点となりました。御神崎から鹿児島の最南端までおよそ1000q、足摺岬までは約1270q、三輪山まで1600q、そして富士山までは1850q以上もの距離があります。このような長い距離のレイラインを想定しつつ、拠点同士を結び付けて山々を特定するということは、常識ではなかなか考えられないことです。しかしながら1本ずつ地図上に線を引いて確かめていくと、確かに御神崎を基点として、海上からも視認性の高い九州や四国の岬や、紀伊半島最南端の島を直線で結んだその先々には、富士山を筆頭に、三輪山、剣山、摩耶山、六甲山、伊吹山など、古代の霊峰が名を連ねているのです。これを果たして偶然と片付けてしまうことができるのでしょうか。古代人の英知はもしかして、私たちの想像を遥かに超えたものであり、その優れた地勢感と天文学に助けられ、御神崎と日本列島の特異な地勢を結び付けながら、その一直線上の先に指標となる霊峰を特定し、島々の地勢と土地感を短期間で習得していた可能性があります。

八重山諸島から先、日本列島に沿って北東方向へ向かう船旅は、行き先が全く見えないほど距離があることから、強い信仰心が求められたことでしょう。そして幾度となく海洋に浮かぶ島々の調査を経た結果、御神崎を八重山諸島の基点として、そこから夏至の日の出方向に浮かぶ沖縄本島の南方に隣接する小島を見出したのです。それが、後に「神の島」として知られるようになる久高島です。久高島から昇る夏至の日の出
久高島から昇る夏至の日の出
御神崎から夏至の日の出は、63度38分を指します。その御神崎から北東方向、およそ63度の方向に400q少々向かうと、沖縄本島の南岸近くを通り、更に直進すると久高島があります。八重山諸島からは行き先も見えず、神を信じて命をかけて旅立った者のみが、見出すことができた島だからこそ、正に「神の島」と呼ぶに相応しい神聖な島として、古代より崇められるようになったのでしょう。石垣島から427qもの船旅は、夏至の日に太陽が昇る方角に旅することで、最終目的となる久高島に到達することができたのです。

東の島々を貫く最長のレイライン

石垣島の御神崎から夏至の日の出方向に見出した神の島、久高島に到達した古代の民は、隣接する沖縄本島の大自然と恵まれた環境を目の当たりにし、喜び勇んで移り住んだことでしょう。沖縄本島は南の糸満市平和之塔から北方の辺戸岬まで100q以上もの距離があり、島は豊かな自然の恵みに溢れていました。その南方に位置する国場川の河口周辺は、八重山諸島から船で到来する民が最初に着岸しやすい地点であり、集落を形成するにも相応しい地勢を兼ね備えていたことから、古代拠点となる一大集落が出現することになります。そこは今日の那覇周辺であり、人々が安らぎを得た素晴らしい新天地であったことから、その町はヘブライ語で「安息」「休息」を意味する「ナハ」という名前で呼ばれました。また、「ナハ」はヘブライ語で「川」をも意味します。那覇の中心を流れる国場川は、大陸から「東の島々」に渡来した民が目にした、島に存在する最初の川だったのです。よって、那覇は川の流れる安らぎの地として知られるようになり、そこでも神が祀られるようになりました。

しかしながら、沖縄の那覇は最終到達点ではなく、その先にまだ、「東の島々」が続いていたのです。ところが沖縄から夏至の日の出方向を見ても、そこには太平洋の海原が広がるだけです。それ故、目的地を見定めて船旅を続けるためには、別の手段を講じなければなりませんでした。周辺の島々を調査してすぐに分かったことは、南北に広がる沖縄本島の細長い形状に沿って、那覇からおよそ35度の方角、北東方向に島々が連なっていることです。沖縄本島の25q先には与論島が見え、その先には沖永良部島、徳之島、奄美大島と続きます。そしてこの35度線を奄美大島から延長すると、四国を越えて淡路島の中心を通り抜けます。淡路島は35度線上に並ぶ島であり、その北方は本州の沿岸に突き当たることから、それ以上先には船で進めません。よって、古代の民は沖縄から黒潮の流れに乗って北上し、島々が連なる延長線の最後にある淡路島へと向かうことになります。

日本書紀や古事記に記載されている国生みの話の中で、伊耶那岐神による島々の探索が淡路島から開始された理由は、そこが日本列島の中心地と考えられたからではないでしょうか。実際、淡路島には古代の指標として大切に祀られた神籬石が、岩上神社の境内裏に存在します。この35度線を淡路島から更に本州の北東方向へ延ばすと、日本海の佐渡島沿岸を抜けて東北の青森、今日の八戸市にあたります。「はちのへ」は「ヤヘ」と読むこともできます。八戸市は馬淵川や新井田川のデルタが広がる河口周辺に造られた港町であり、那覇と日本列島中心の神籬石を結ぶ線上にある神に導かれた町として、いつしかヘブライ語で「神」を意味する「ヤヘー」と呼ばれるようになりました。そして後に「八戸」という漢字があてられ、「はちのへ」と読まれるようになったのでしょう。

那覇のレイライン
那覇のレイライン
沖縄那覇を発端とするこの35度線は、古代、極めて重要な意味を持っていました。それは「東の島々」の中心を貫く最長のレイラインであり、淡路島の中心である神籬石と、沖縄の那覇、そして東北の八戸を結ぶ、日本列島の基軸となる線だったのです。古代の民は、日本列島の島々が海面下に存在する深い海溝に沿って存在し、それらがほぼ平行して日本列島と連なっていることに気が付いていたのかもしれません。そして国生みの最北端となる地域の中心が「ヤヘ」と呼ばれたように、その原点となる南方の沖縄では、隣接する伊平屋島の海岸にある巨石も「ヤヘー岩」と呼ばれ、こうして国生みの原点となる南方の沖縄から北方の八戸に至るまで、新天地は「ヤヘ」という地名に囲まれた神の選民の島々として古代の民から認識されるようになったのです。

屋久島と結び付く聖地の数々

「東の島々」を探し求めて八重山諸島から沖縄本島を経由し、船を用いて南西諸島沿いに北上してきた民が最初に注目した島は、屋久島でした。奄美大島の北北東方向におよそ200q少々離れている屋久島は、南北には約27q、東西には28qほどしかなく、面積も淡路島より若干小さい程度であるにも関わらず、琉球に存在する島々とは異なり、標高1935mの宮之浦岳が島の中心に存在し、西日本最高峰である四国の石鎚山に匹敵する高さを誇ります。よって、天気の良い日は、遥か遠くの海原からでも屋久島を眺めることができます。屋久島は島全体が山々で覆われ、大自然の森林で育まれたヤクザルやヤクジカなどの野生哺乳類が生息し、洋上のアルプスとも呼ばれています。それらの山々は八重岳とも呼ばれ、日本列島最南端に連なる八重山諸島と同一の名を持つことからしても、南西諸島の中で重要な位置を占めています。

八重山諸島や沖縄方面から船で島々を渡りながら長旅をする民にとって、屋久島の存在は重要でした。それは沖縄界隈のように標高が低い島々とは違い、遠くから目視で確認できるほどの大きな山であっただけでなく、レイラインの繋がりにおいても重要な位置を占めていたからです。沖縄本島の基点は那覇周辺でも国場川の河口周辺にあたり、今日、琉球八社の一つである沖宮が建立されている場所の近郊ではなかったかと考えられます。西方の海岸には波上宮の巨石もあり、屋久島のレイライン
屋久島のレイライン
地域全体が集落を形成するに相応しい地形を有し、自然の環境に恵まれていました。その基点となる那覇と屋久島の中心点となる山頂を結び、そのまま北北東に真っ直ぐ伸ばすと、その線は西日本最高峰の四国石鎚山の山頂に繋がります。那覇の集落は、元来、石鎚山と屋久島に結び付くべく、レイライン上に並ぶように綿密に計算されていたのかもしれません。渡来者が日本列島に到来した初期の時代から、石鎚山は沖縄の那覇に結び付く山として一目置かれ、やがて霊峰として、その存在を極めていくことになります。

屋久島を通るレイラインが、もう一つ存在します。それが宮古島と淡路島の神籬石を結ぶ線です。八重山諸島の中でも、宮古島は古代から祭祀活動が盛んな島のひとつであり、島の至る所に御嶽と呼ばれる祭祀場が存在します。その宮古島の中心となる標高109mの野原岳からおよそ38度の方角に真っ直ぐ進むと屋久島があり、更にその線は、淡路島の中心に位置する岩上神社の神籬石にあたります。つまり、宮古島から屋久島の方角を見ることを想定すると、その先には神籬石が存在し、那覇からみると、屋久島の先には石鎚山が聳えたっているのです。淡路島と石鎚山は、国生みの話に登場する地名であることからしても、それらが屋久島を通じて大陸から日本列島の入り口となる琉球の宮古島と沖縄那覇と繋がっていることは興味深いことです。

屋久島から夏至の日の出を見ると、その方角はおよそ61度となります。その一直線上の先には伊豆諸島があり、神津島(こうづしま)と三宅島の中間を通り抜けます。神津島では石器時代から、人々が神津島と本州を船で行き来しながら、石器の原材料を輸送していたことが、様々な発掘調査などからわかってきました。神籬石と石鎚山に繋がる屋久島から見て、夏至の日の出方向に浮かぶ島であったからこそ、伊豆諸島の島々に由来する神々が集まる場所として神集島とも呼ばれ、その後、神津島という名称に落ち着いたのかもしれません。また、屋久島から真北に進むと、九州の北方沿岸近くの大島に建立された宗像大社中津宮にあたります。そこは屋久島の経度線と、足摺岬から見て夏至の日の入りとなる299度の線が交差する場所です。中津宮が屋久島の真北に存在し、足摺岬の夏至の日の入りとも繋がっていることは、どうやら偶然とは言えないようです。宗像大社の創設にも屋久島の存在が関与していたと考えられます。

中甑島から見る夏至の日の出の重要性

屋久島の北方、矢筈崎から九州最南端の佐多岬までは、およそ60qの距離があります。そこから先、西方には枕崎市を越えて薩摩半島があり、北東方向には大隅南部の海岸線が伸びているため、海上からの視界は遮られています。それでも古代の渡来者は有無を問わず、もう少々、北方を目指して船旅を続けたことでしょう。何故なら、西アジアから到来した民にとって、祖国イスラエルの神殿があるエルサレムと同緯度に並ぶ地域まで到達することが、旅の通過点としてまず重要だったからです。その場所から見る太陽は、エルサレムで見た太陽の動きと全く同じです。それ故、九州の南端に到達した後、まず、その西岸を北上して探索を続け、エルサレムと同緯度である北緯31度47分の地点にある中甑島に到達したのです。

中甑島の南端には、ヒラバイ山と呼ばれる標高156mの山があります。現地を見ても、周辺一帯は単なる丘陵の連なりだけにすぎず、山らしい山を見つけることができません。そのような島の様相の中でヒラバイ山が特定され、わざわざ「ヒラバイ」と命名された理由は、イスラエルのエルサレムと同緯度に存在する小高い丘であったからに他なりません。それ故、その山はイスラエルの民を意味する「ヘブライ」と呼ばれ、それがいつしか訛り、「ヒラバイ」として知られるようになったと考えられます。

ヒラバイ山から北北東に6qほど向かうと、上甑島西岸の岬に甑大明神と呼ばれる巨石が御神体として祀られています。甑島という名称の発祥の地とも言われ、自然に浸食したとは考えづらい巨石の容姿は、古代の目印となるべく人の手によって削られたものでしょう。甑大明神と四国石鎚山を結ぶ線上には高千穂峡の天岩戸神社や高千穂神社があります。高千穂は、沖縄本島に隣接する伊平屋島の古代指標であるヤヘー岩と桜島を結ぶ線上にもあることから、これらの聖地はヒラバイ山が見出された直後、桜島や沖縄のヤヘー岩などを指標として短期間のうちに特定されたと考えられます。

そのヒラバイ山から夏至の日の出を拝むと、その方角はおよそ61度となります。エルサレムと結び付く重要な指標であっただけに、ヒラバイ山から見る夏至の日の出は神聖なものだったに違いありません。ヒラバイ山から59度46分の方角には三輪山があり、同一線上には葛城山と大神神社が並びます。そして59度53分には橿原神宮、60度05分には金剛山と飛鳥寺、60度58分の方角には丹生都比売神社が建立されています。いずれもヒラバイ山から見て、夏至の日の出方向とほぼ一致します。ヒラバイ山に到達したイスラエルからの渡来者は、新しいエルサレムを東の島々にという悲願を達成すべく、ヒラバイ山からも夏至の日の出方向に船旅を続けながら日本列島をくまなく調査し、その結果、山々に囲まれた美しい奈良盆地を見出したのです。こうして古代、奈良の三輪山を中心として、日本国家の礎が築かれていくことになります。

夏至の日の出のレイライン
ヒラバイ山(中甑島)のレイライン

日置から日向へ繋がる夏至の日の出とは

中甑島のヒラバイ山にて祖国エルサレムを拝し、近くに甑大明神と呼ばれる巨石を削り、一大指標として見届けた後、古代の民は再び海を渡り、東方へと向かうことになります。九州西岸までは30q少々で辿り着くことができることから、まず鹿児島西岸を南下して桜島の南方から鹿児島県の東方へと向かう訳です。その際、鹿児島の沿岸に拠点を設け、そこを休息の地としたのではないでしょうか。島々の沿岸に到達した際、古代の民は必ずと言ってよいほど、船を停泊させる場所を綿密に計算し、わかりやすい場所で、しかも安全な港となる地を探し求めることを常としていました。決して考えもなく船を着岸させるようなことはなかったのです。

ヒラバイ山から逆戻りして鹿児島の南方へと船で向かう際、やはり太陽が昇り降りする方角が指標として検討されたことでしょう。船はヒラバイ山から鹿児島の南方に向けて東南方向に航海することから、鹿児島の西岸から見て、夏至の日に太陽が沈む日の入りの方角にヒラバイ山が存在する場所が求められたのです。すると鹿児島県日置市の南方周辺から見る夏至の日の入りの方角にヒラバイ山があることがわかります。

その地域からの夏至の日の入りの方角は、およそ298度30分であることから、日置市吹上浜東方、小野川の上流にあたる吹上町田尻という場所がピンポイントで探し出されました。今日では海岸より3qほど内陸に位置しますが、古代ではその周辺に海辺が広がっていたと考えられます。そこには船木神社が建立されており、古代、大陸より船で渡来した海洋豪族の船木氏が建国に関わるべく、国生みの御一行を船で導き、九州西岸に最初の港となる拠点を設けた結果、神社が造営されて、船木と名付けられたのでしょう。

ヒラバイ山に到達し、エルサレムと同緯度まで船で北上してきたということは、「東の島々」の探索が最終段に入ったことを意味していました。そして再び太陽を見ながら東方への船旅を続けることになります。太陽の動きを検証する基点としては船木神社が九州でも最西端の場所にあることから、そこが太陽を目視する基点として重要視されるようになり、船木神社周辺の集落は「日置」と名付けられたのです。

日置の船木神社から船出して東方に向かう際、船木神社の位置付けは、日本列島内に古代の港を造成する場所を見出すための「夏至の日の出のレイライン」を検証する基点として重要視されました。日置から夏至の太陽を見ると、その日の出はおよそ61度30分の方角にあたります。船木神社から61度19分の方角には四国の足摺岬があり、夏至の日の出方向とほぼ一致します。その夏至の日の出の線が宮崎県の沿岸と交差する場所が、九州東岸の古代拠点、日向ではないかと想定されます。船木神社(日置)のレイライン
船木神社(日置)のレイライン
そこは今日、一ツ瀬川の河口にあたり、古代、海岸線がもう少々内陸側に入り組んでいたことを想定すると、日の出の線と海岸が交差する地点は、本庄川と大淀川が交差する国富町の周辺だったかもしれません。いずれにしても、日豊本線の電車が通る日向住吉から日向新富間を南北の境とし、その近郊に古代の日向が存在したことは、複数の日本のレイラインが示唆していることでもあり、信憑性は高いと言えます。こうして九州南端の日の出の基点が「日置」と呼ばれ、その東岸にあたる場所は日が昇る方向として「日向」として知られるようになったのでしょう。

さて、船木神社から日向の港を越えて夏至の日の出方向に真っ直ぐ進むと、足摺岬だけでなく、その先、約61度の方角には室戸岬も見えてきます。本州に到達した後、その延長線を目指して紀伊半島の沿岸を進むと、その東方にある伊雑の浦にあたります。そして船木神社から見た夏至の日の出の線、すなわち船木神社と足摺岬、室戸岬を結ぶ線と、淡路島神籬石の緯度線が、伊雑の浦の沿岸にて交差する場所がピンポイントで特定され、そこに伊雑宮が建立されました。

鹿児島西岸の日置に造られた船木神社を基点として、九州の東岸には日向の港が、そして足摺岬と室戸岬を越えた延長線上にある伊雑の浦沿岸には、伊勢神宮の原点となる元伊勢屈指の古代聖地として名高い伊雑宮が建立されたことは偶然ではありません。沖縄から北上してきた古代の調査団は、短期間のうちに夏至の日の出と日の入りの方向を検証しながら、エルサレムと同緯度のヒラバイ山から日置の船木神社の場所を特定し、そこを基点として日向と伊雑宮の聖地を見出すことができたのです。そして伊雑宮と神籬石を結ぶ同緯度線上の西端では、対馬の沿岸に和多都美神社が建立されたことも特筆に値します。

さらには日置の船木神社は、日本海側に存在感を示す出雲の聖地ともレイライン上で結び付いています。日本列島を探索した古代の調査団は、最終的には日本海側へも船で回り、そこにも拠点を見つけなければなりませんでした。そして唯一、見出された船の着岸地が出雲だったのです。それは偶然、その場所に辿り着いたということではなく、太陽の動きを検証しながら見出されたのです。

淡路島の中心にある神籬石から夏至の日の入りはおよそ299度50分です。その日の入りの線は出雲を通り抜けています。また、日置の船木神社と沖縄界隈の指標である伊江島と伊平屋島のヤヘー岩を結び、北方に向けて一直線に延ばした線も出雲を通ることから、2本の線が交差する場所に出雲が存在します。そこには出雲大社の御神体とも噂される八雲山が聳え立ち、神籬石から見ると299度17分の方角に位置することから、夏至の日の入りとほぼ同じ角度にあることがわかります。出雲の八雲山は、神籬石を基点として夏至の日の入りの方角に見据えられただけでなく、沖縄と日置の船木神社ともレイライン上で結び付いていたことは、沖縄が日本列島への南の玄関であったと同様に、出雲の八雲山が日本海沿岸の玄関となるべく古代の重要港としてとても重要な位置付けにあることを知らしめる要因となりました。

夏至の日の出のレイライン
夏至の日の出 レイライン