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熊野の秘境、奥坊主のレイライン 人生の幕引きとなる最後の祈り場が奥坊主か?

日本は島国として知られていますが、実は山の国でもあります。「日本山名総覧」によると、2万5000分の1の地図上に載っている山の数は16,667にもなります。アメリカのカリフォルニア州ほどの大きさしかない日本に、なぜ、そんなに多くの山があるのでしょうか。これほどまでに細かく山々を命名するような事例は諸外国にはほとんどないようです。

剣山頂上から眺める馬の背
剣山頂上から眺める馬の背
例えば西日本で2番目の標高を誇る四国の剣山周辺の山々を探すと、その南方に向けておよそ10km、東西に16kmほどの枠の中に、少なくとも10の山が存在します。剣山から約1.5km東方へ向かうと一の森があり、同じ距離を南方に向かうと次郎笈があります。そこから2.5kmほど南を見ると新九郎山があり、その東方には折宇谷山、権田山、勘場山が、そして西方には中東山が存在します。さらに南へ進むと西から石立山、杉生山、西山と続きます。高い山の頂にはすべて名前があると考えても過言ではないようです。山々に名前が付けられるには、何等かの理由があるはずです。

古代から日本では高い山に神が居着くと信じられていたことから、山は神聖な場所と考えられていました。よって山の頂上周辺では神が祀られるようになったと考えられます。また、日本列島内に聖地を見出すためには、山や岬などの自然の地形が目印として用いられることが多く、それらを結ぶ線上に神社が建立されていきました。相互の位置づけを細かく確認するために、必然的に山々には名前が付けられたのではないでしょうか。また、時には山の頂だけでなく、なんの変哲もない丘陵や平地の一点でさえも、聖地や地表を結ぶ線が交差する地点は重要視され、その場所には名前が付けられることがありました。大台ケ原の東方、熊野の秘境にある奥坊主という場所も、その事例の一つと考えられます。

大台ケ原と奥坊主の不思議

大台ケ原 大蛇ー
大台ケ原 大蛇ー
大台ケ原山は三重県と奈良県の県境にある標高1,695.1mの山です。その最高峰は日出ヶ岳、周囲の山々に囲まれた東西5kmほどのエリア全体は、大台ケ原と呼ばれています。その東方は熊野の秘境に隣接し、西側には標高差が1,000mにも及ぶ巨大な断崖の谷間が形成され、大蛇ー(だいじゃぐら)、蒸篭ー(せいろぐら)、千石ー(せんごくぐら)と呼ばれる断崖があります。大台ケ原は太平洋側から湿った風が吹き上げることから降水量が大変多く、過去最大の年間降水量となる8,214ミリの雨量も記録しています。吉野熊野国立公園内にある日本百名山のひとつである大台ケ原は、トウヒ林やブナ林からなる森林を主体とした大自然に恵まれ、その原生林の中には、ニホンジカやニホンカモシカ、ツキノワグマなど多くの動物が生息しています。

大台ケ原 小川
大台ケ原 小川
大台ケ原では、その大自然の光景にちなんだ名称が随所にあります。最高峰は日出ヶ岳と呼ばれ、2km南にある堂倉山へと向かう山道の途中には正木峠があり、その先には広大な立ち枯れと笹原が目に映る正木ヶ原や牛石ヶ原もあります。また、西方の断崖は大蛇ーと呼ばれています。大台ケ原は降水量が多いことから、高山でありながらも頂上周辺には小川が多く流れ、その所々には小さな滝が存在し、それらにも東の滝、黒滝などの名前が付けられています。

大台ケ原を登山する際は、通常、大台ケ原ビジターセンターに車を止めて、そこを起点として入山し、最高峰日出ヶ岳を登ります。そこから堂倉山へと繋がる山道を南方へ向かうと、その途中には尾鷲辻があり、堂倉山の手前から尾鷲道と呼ばれる山道に合流し、尾鷲まで遠い道のりを歩いていくことができます。また、尾鷲道は堂倉山から東方へ向かうと熊野の原野を経由して伊勢方面へと繋がり、いったん堂倉山を過ぎると山道と言えるような人が歩いた形跡が残されている小道がほとんど見えなくなります。そして山の尾根は深い谷間と多くの枯れ木に囲まれ、まさに原始林の様相を呈しています。

大台ケ原ビジターセンターの東方7kmほど離れたところに花抜山があり、その中腹には花抜峠に向かう登山道入り口があります。その登山道からビジターセンターに向かうためには、深い谷を迂回しながら山の尾根に沿って直線距離の倍にあたるおよそ15kmを歩かなければなりません。一見、大した距離には見えませんが、熊野の秘境と言われるだけあり、実は大変な登山ルートです。まず、東西の高低差が1,000m以上あります。そして雨量が大変多いことから尾根づたいは深い谷がどこまでも続き、しかも枯れ木と倒木が大変多いことから自らの立ち位置を惑わされやすく、自分の居場所がすぐにわからなくなります。一度道を間違うと深い谷間に入ってしまい、Uターンしてまた尾根まで登らなければならず、体力の消耗に繋がります。しかも周辺にはクマが生息していることから、油断すると襲われることになりかねません。さらに危険なことは、天候の急変です。標高2,000mに近い高山だけに、思いもよらず天候が急変し、すぐに深い霧がかかり、強風にさらされてしまう危険をはらんでいます。よほどの健脚と登山経験を持ち、なおかつ準備を周到にしない限り、日帰りの登山でも遭難する危険性が常に伴う秘境の地なのです。

幸い、今日では携帯電話を使ってGPSを用い、衛星からのデータにより自分の居場所を地図上で確認することができます。しかしこれも携帯のバッテリーが続くまでです。7〜8時間を超える登山では予備のバッテリーがないとGPSも切れることになり、危険はつきません。大台ケ原の東方に広がる熊野の秘境は、そう簡単には入山できない場所と言えます。

その大台ケ原の最高峰、日出ヶ岳から東方に向かって直線距離で約5km、山道を経由して10kmほど歩き、尾根から谷を下り、熊野の奥地にある崖っぷちの終点にまで足を運ぶと、そこに「奥坊主」と名付けられた行き止まりのように見える小さな場所があります。地図上にてその地勢を確認しても何ら特筆に値することはなく、しかも人がなかなか足を踏み入れることができないような熊野の奥地にて名前が付けられていることからして、何故かしらその場所には大切な意味が秘められているに違いありません。

レイラインによる奥坊主との出会い

熊野から大台ケ原に至る広大なエリアには多くの地名が存在します。しかしながら何ら特徴もなく、ごく限られた人しか足を運ぶことができないような熊野の奥地が、なぜ、奥坊主と命名されたのでしょうか。奥坊主と言えば、江戸時代では江戸城の茶室を管理し、将軍家を接待した坊主のことを指します。坊主という言葉自体、本来は房主と書き、その房を管理する主のことを言います。よって奥坊主とはいつしか、お殿様に仕えるという重職を担う専門の給仕人であり、奥房の主としての責任者だったのです。その語源が江戸時代より昔、どこまで遡るかわかりませんが、いつしか熊野の原生林の一角も、奥坊主として知られるようになったのです。奥坊主はお殿様に茶をもって仕える意味であったことからして、大自然の中の奥坊主とは、そこで神様に茶をたてる、すなわち祈りを捧げて仕える場所であった可能性があります。そんな熊野の秘境にある小さな聖地の存在に、ある日ふと気が付くことになりました。

日本に存在する古代神社の建立地は、著名な霊峰や岬を結ぶ架空の直線にて繋がっているものが少なくありません。この聖地が一直線上に並ぶ状態をレイラインと呼びます。レイラインの存在を知るきっかけとなったのが、四国剣山との出会いです。GOOGLEマップを用いて四国の剣山や伊勢神宮の位置付けを検証していた時、ふとその2点を結ぶ線が高野山の地点をピンポイントで通り抜けることに気が付いたのです。高野山という山は存在せず、その中心地と思われる場所をGOOGLEマップでは特定していただけないのですが、偶然とは思えませんでした。それゆえ、聖地の数々を結び付けて線引きをしながら、果たして他の聖地も一直線上に並んでいるか確認するという、レイライン考察の旅が始まったのです。その結果、例えば伊勢神宮から京都御所と高野山までの距離はそれぞれ108kmと等しく、御所と高野山の中間にある石上神宮と伊勢神宮を結ぶ線を更に西北西に延長すると、神戸の再度山、生石神社の石の宝殿、そして記紀に登場する比婆山にまで一直線で繋がっていることがわかりました。

どうしても偶然の一致とは思えないレイラインの存在に思いを馳せ、さらに一歩踏み込んで考察を続けた結果、思いついたことは、伊勢神宮と高野山、京都御所の3点からなる二等辺三角形と全く同じ大きさの三角形を、今度は再度山を頂点に描くということでした。するとおよそ六芒星のような形が生まれるだけでなく、底辺2点の場所に位置する聖地を特定することができたのです。まず北側の角には皇大神宮とも呼ばれる若宮神社がありました。そして南側の角にあたる地点は大台ケ原に近い熊野の奥地を示していたのです。ところが地図を見ても地勢上、特筆すべき場所はなく、無論、神社もありません。そこで地図を拡大しながら検証しているうちに、何の特徴も見出せない熊野の山奥に「奥坊主」と呼ばれる場所があることを発見したのです。それをもって、伊勢神宮と再度山を頂点に持つ架空の六芒星が完結したのです。

六芒星のレイライン
六芒星のレイライン

琵琶湖に浮かぶ竹生島
琵琶湖に浮かぶ竹生島
熊野の山奥にある原生林の一角が奥坊主と命名され、古代よりそこに人が到来し、その場所を大切にしたのには、それなりの根拠と理由があったことでしょう。その謎は、レイラインの検証により解明できるかもしれません。最初に注目したのは、同じ経度にある聖地です。古代、琵琶湖では竹生島が聖地化されていたと考えられ、今日でも竹生島周辺の琵琶湖の底には多くの遺物が見つかっています。その竹生島の真南に奥坊主があるのです。次に同じ緯度線を引いてみると、奥坊主の西側、同緯度上に古代、海洋豪族が神を祀っていたことで知られる金刀比羅神社が存在します。日本の海原を行き来していた海洋豪族は、瀬戸内から内地の琵琶湖にいたるまで、古代は船で行き来していたことが知られています。よって、竹生島と金刀比羅神社が、奥坊主を通じて紐づけられていたことに何ら不思議はありません。次に奥坊主と富士山の山頂を結んでみました。するとその途中には古くから多くの神宝が秘蔵されていたと言われる神島が、伊勢湾の入り口となる伊良湖岬の沖に浮かんでいます。さらに四国の足摺岬と室戸岬を結ぶと、その先に奥坊主の場所を見つけることができます。

(元伊勢と竹生島のレイライン http://www.historyjp.com/article.asp?kiji=236参照)

奥坊主のレイライン
奥坊主のレイライン

急斜面が続く最終地点の崖っぷちが奥坊主
急斜面が続く最終地点の崖っぷちが奥坊主
奥坊主と呼ばれる熊野の奥地は、単に偶然にその場所が奥坊主と命名されたのではなく、どうやら周到な計画をもって、綿密にその場所が特定された可能性があります。しかしながら熊野の秘境となる山々は険しく、谷も深く、そこまでの道のりはあまりに遠いことから、いったん道に迷えば帰ってくることができなくなり、遭難死してしまうような場所なのです。それでも、奥坊主の場所が重要視されたからには、何かしら理由があるはずです。いつしかその謎に迫るため、実際に奥坊主を自分の足で訪ね、この目で確かめてみたいと思うようになりました。そして2018年の5月、遂に奥坊主へ登山するチャンスが到来したのです。

大失敗に終わった初挑戦の奥坊主!

砂利道を登山道入口に向かって走る
砂利道を登山道入口に向かって走る
2018年5月5日の「子供の日」、待ちに待った奥坊主へ登山するチャンスが到来しました。奥坊主に関する情報はほとんどないことから、地図と睨めっこを繰り返しつつ、運を天に任せてベストの登山ルートを探りあてます。最終的に決まったルートは、まず車で花抜峠登山道入り口まで行き、そこから花抜峠を経由して奥坊主に向かい、その後、更に西に進んで終点を大台ケ原ビジターセンターとすることでした。そのため、知人にお願いし、花抜峠で下車した後、ビジターセンターに迎えに来てもらうという段取りでプランを進めました。花抜峠からビジターセンターまでは車でも大台ケ原の南方を迂回して走らなければならず、その距離は100kmを超え、3時間近くかかります。そのような険しい山並みを登山する訳ですが、健脚に自信を持っていたからこそ、勇気をもって踏み出すことにしました。

幸いにもYAMAPという登山者向けアプリには最新鋭GPSのマップが搭載されたことから、スマホを携帯するだけで、電波の届かない山奥でも道に迷うことがなくなりました。それ故、安心しきって熊野の奥地へと入っていくことができるように思えたのです。しかしながら十分な下調べをしなかったこと、そして熊野の原生林を甘く見ていたことから、大きな挫折を味わうことになるとは、夢にも思いませんでした。

険しい斜面を汗だくでひたすら登る
険しい斜面を汗だくでひたすら登る
当初から誤算づくめでした。まず、スタート時間を11時と遅めに設定し、途中トレッキングの訓練も含めて走ることから、夕方5時までは終点の大台ケ原ビジターセンターに到達すると見込んだのですが、あまりに無謀な計画でした。また、スタートから終点まで1,000m以上もある高低差も把握しきれていませんでした。急斜面の所々に散在する枯れ木と倒木に囲まれ、極めて足場の悪い山々を15kmもの長距離にわたり登山しなければならず、その距離感覚も読み誤ってしまったのです。しかも、ほとんどの場所に山道がなく、尾根沿いから奥坊主へと抜けるためには急斜面を1km以上も下らなければならないことが、現地をみて初めてわかりました。その通り道は、奥坊主へ到達後、帰りには再び登らなければならない急斜面にもなることから大変な負担です。ましてや道なき道を探しながら足元に注意し、時間を気にしながら熊野の秘境の地を小走りで進む訳ですから、極度の神経戦を強いられるようなものだったのです。そのような環境下で、15kmもの原生林の中を5時間で走りきることを目論んだ自分が愚かでした。

これまで白山、立山、月山、旭岳、石鎚山など多くの山々を走り抜けてきたことから、まさか奥坊主でトラブルが待ち受けているとは思いもよらず、花抜峠登山道入り口から勇ましくスタートしたのです。すると、しょっぱなから雲行きが怪しくなりました。スタート直後から道に迷ってしまったのです。登山道入り口というのに小川が流れていて、やっと見えた尾鷲湾の景色にちょっと一服
やっと見えた尾鷲湾の景色にちょっと一服
その先、どこにも道らしき道が見えないのです。そして小川を行き来した際、うっかり川石の上で足を滑らせて転び、すぐさま靴がびしょ濡れです。その後も結局登山道が探せず、GPSを頼りに急斜面を花抜峠に向けて一直線に登ることにしました。しかしながら斜面は予想以上に険しく、また、原生林に囲まれてしまったことから方向性を間違いやすく、迷いながら急斜面を登ることで体力をひどく消耗し、峠の近くに来た時には既に午後1時20分を回っていました。まだ全体の6分の1にも満たない2km少々しか進んでないことに、一気に焦りを感じ始めました。

峠らしからぬ花抜峠にある標識
峠らしからぬ花抜峠にある標識
このままのペースで進むと、終点の大台ケ原ビジターセンターに着くのは夜の10時を過ぎてしまい、遭難する危険性が一気に高まります。しかも手持ちの食糧はなく、水を少々持ってきただけでした。そこで花抜峠を経た後は、傾斜もゆるくなったこともあり、一気に足を速めたのです。そして遂に奥坊主へ繋がる尾根沿いに辿り着き、そこから急斜面を下っていきました。ところが時計を見ると、すでに時刻は3時を回り、しかも尾根からの坂道は下り坂が半端ではなく、200mほど谷間を進んでも行先がわかりづらく、GPS上でも奥坊主はかなり先に見えました。と、その時2つの不安がよぎりました。まず携帯のバッテリーを見ると、もう残りが30%を切っているのです。すでに何度も道に迷い、行ったり来たりを繰り返していることから、熊野の奥地でGPSが止まれば遭難は免れません。そしてこの急斜面をどんどんと下りながら奥坊主に向かうということは、その後、その斜面を逆に登らなければならないということでもあり、このままいくと、既に消耗し始めた体力が限界に達し、夜になって遭難する可能性が高くなると思いました。しかも出発時は20度以上あった気温が3時になったとたんに急激に下がってきたのです。体感温度はすでに12〜13度を切ってきたように思いました。

どこもかしこも倒木の嵐だ。。
どこもかしこも倒木の嵐だ。。
奥坊主まであと、1kmもない地点まで汗水流して苦しい思いを我慢してきましたが、軽装しか準備してないこともあり、遭難を回避するため、人生で初めて目的地到達を断念。急いで急斜面をUターンして登り、そこからGPSを頼りに大台ケ原ビジターセンターへと向かいました。すでに4時間少々の時間を費やして6kmほど斜面を歩き通し、時刻は3時20分を回っていました。そこからまだ9kmの距離を残しており、何とか夕暮れまでに終点の大台ケ原ビジターセンターまで到達することを願って早足で進み続けました。

登山とトレッキングは我慢の連続です。すべてを耐え忍び、我慢して進み続ければ、いつしか最終地点に到達できます。しかしながら、携帯電話のバッテリーも切れかかっており、残りが10%台になっていました。そして迷うたびにマップの詳細を見ると一気にバッテリーが消耗することから、マップを参照することもままならず、精神的ストレスは極限にまで達していたのです。そして疲労困憊の中、夕暮れとなった午後6時半、やっとの思いでビジターセンターまであと2kmという場所にある尾鷲辻の休憩所に辿り着きました。ここまでくれば遭難の危険はもうありません。そこから急いでビジターセンターに向けて足を運び、終点に到着した時、既に夜の7時を過ぎており、辺りは真っ暗でした。初めての敗北経験となる登山であり、熊野の奥深さと難しさを思い知らされることとなりました。ビジターセンターで長時間待っていてくださった友人に感謝します。

(「奥坊主に到達できず!」YAMAP掲載)

2回目の奥坊主チャレンジも連敗!

大台ケ原ビジターセンターから出発だ
大台ケ原ビジターセンターから出発だ
奥坊主がいかに遠い熊野の奥地にあるかということを思い知らされた初チャレンジの大失敗から2週間後の5月20日、2度と失敗は許されない覚悟で改めてプランを立て直し、再度、奥坊主に登山することにしました。今回は自分で運転して同じ場所に帰還しなければなりません。花抜峠登山口は、周辺に何もない砂利道の先にあり、ひとりで行くにはあまりに無謀であることから、大台ケ原ビジターセンターを出発点とし、そこにまた戻ってくることにしました。そうすると、奥坊主までの歩行距離は往復で20kmを優に超えてしまい、道に迷いやすく足元も悪いことから、十分な時間を確保する必要がありました。といっても前日の夜は京都で仕事があり、日曜の早朝5時に出発して何とか9時までには大台ケ原ビジターセンターに到着できるようにと計画しました。2回目ということもあり、今回は携帯電話を2台持参し、食料も少量抱え、前回通った道を再び歩むことから不安はありませんでした。

人生にはアクシデントがつきものです。準備周到と思いきや、京都で仕事をしている時に何と、予備の携帯を新幹線に置き忘れていることに気が付いたのです。何と愚かな!そんな自分に嫌気がさすものの、仕方がないので1台の携帯で奥坊主の再チャレンジを決行することにしました。翌朝、京都から大台ケ原ビジターセンターまでの道のりは意外に遠く、センターに到着して登山を開始した時刻はちょうど10時になっていました。しかしながら夕暮れまで8時間あり、行く道と帰り道が同じということもあり、奥坊主まで十分に到達できるはずです。

奥坊主近くの小さな滝が美しい
奥坊主近くの小さな滝が美しい
スタート直後から元気に駆け足で、尾鷲道に向かって走っていきました。2週間前に一度通った道でもあることから、最初は楽しく、歌をうたいながら進んでいくことができました。その途中は倒木の嵐であり、まさに恐竜がなぎ倒したような様相の風景が続きます。無数の枯れ木が立っている姿は、普通では考えられない光景です。しばらく行くと、遠く東南方向に尾鷲の海が目に入り、心が弾みます。ところが昼過ぎくらいから周囲に雲がかかり始め、ガス(霧)が押し寄せてくるように見えたのです。天気図と予報を確認し、その日は快晴であることを確認して登山日和としました。いやな予感がします。そして尾根から奥坊主へと向かうため、急斜面を下がり続けると、その奥地には何と小川が流れており、そこには小さな滝があったのです。これはすごいな、と思うも、携帯のマップを見ても、どの方向に進めば奥坊主があるのかさっぱりわからないほどの急斜面に囲まれてしまったのです。周囲は一面、深い谷と斜面続きであり、どこも同じような様相に見えてしまい、初回の登山と同じ状況に陥ってしまいました。

奥坊主まであと500〜600mほどしかないはずですが、携帯電話を見ると残りのバッテリーが42%になっていました。そして周辺一帯はガスが覆いかかるように広がっていたのです。このまま行き先がわかりづらい奥坊主に迷いながら向かっても、1台しかない携帯のバッテリーが帰路の途中で確実に切れることになり、しかも霧にまかれて遭難する危険性が極めて高く感じられたことから、奥坊主の直前でまたしても断念することにしました。悔しさよりも、身の安全を優先したい一心での勇断です。

危うく遭難を免れ霧に包まれた駐車場に戻る
危うく遭難を免れ霧に包まれた駐車場に戻る
それから急いで霧にまかれながら、GPSだけを頼りに大台ケ原ビジターセンターを目指しました。そして予感は的中しました。3時51分、ビジターセンターまで後2kmの尾鷲辻休憩所にやっとの思いで戻ってきた瞬間、携帯のバッテリーは切れました。帰りがあと1時間遅くなっていたら、どうなっていただろうかと思うと怖くなります。そして午後4時半、終点の大台ケ原ビジターセンターに到着しました。駐車場は霧につつまれ、あたりは視界がほとんどない状態でした。もしあの時、奥坊主への道を断念していなければ、危うく遭難するところでした。登山にはあきらめも肝心です。

(「大台ケ原奥坊主への道は遠かった。。。」YAMAP掲載)

念願の奥坊主に3度目の正直で到達!

2度の登頂失敗を繰り返した後の7月15日、3度目の正直ということで、再び奥坊主の日帰りトレッキンングにチャレンジすることにしました。辛い体験を2度繰り返していることから、これが最後のトライになることは最初からわかっていました。よって、最善の準備を周到に行い、自信もってチャレンジできる体制を整えました。最も気をつかったのは、GPSを終始維持するためのバッテリーを保持することです。そこで、携帯用の予備バッテリーを2個用意し、さらに携帯はSoftbank, Docomo, AUの3台を準備しました。そして今度はスタート時間を更に前倒しして、朝8時から大台ケ原ビジターセンターを出発することにしたのです。つまり最悪でも10時間、片道5時間かけて奥坊主に到達すれば、十分に戻ってこれると目論んだのです。

木立の枯れ木は貴重な目印となる
木立の枯れ木は貴重な目印となる
3度目のチャレンジですから、原生林と深い谷、そして倒木、枯れ木が散在する山々でも、何となく見慣れてきており、およそ行く方向がわかってきました。それでもGPSがないと所々で曲がる場所を間違えるほど周辺の景色はどこもかしこも似たようなものばかりで、行ったり来たりの繰り返しがありました。そして11時45分、ついに尾根づたいから奥坊主へと向かって谷を下りる地点にまでやってきました。2回目のチャレンジでは小川や小さな滝を見つけましたが、その周辺は行き先がわかりづらかったことから、今度はアプローチの角度を変えて、GPSを見ながらもう少し直線コースで進むことにしました。

それにしても本当にわかりづらく、自分がどこにいるのかさっぱりわからなくなるばかりで不安がつのる最中、崖や岩場を避けながら足場の悪い急斜面を神経を尖らせながら斜めに進んでいくと、突然、枯れ木の広場が見えてきました。そして12時50分、ついに光明が見えてきたのです。それまで原生林を歩んできたのにも関わらず、奥坊主にかなり近づいてきたと思われるその小さな広場の先には、突如として人が歩き続けてきたと思われる山道が現れたのです。明らかに長年、多くの人が歩いてきた形跡のある山道が、奥坊主へ続く最後のアプローチにのみ存在していたのです。これは正に、古くから奥坊主には多くの行者が集っていたことの証ではないでしょうか。

新しい奥坊主の標識を打ち立てる!
新しい奥坊主の標識を打ち立てる!
山道の確認と共にその狭い道を早足で進んでいくと、徐々に両側の崖の幅が狭くなってきたことから、奥坊主が目前に迫ってきたことがわかります。もう迷うことはありません。あとはひたすら前に進むだけです。最後の上り坂を一気に進むと、ついに奥坊主と呼ばれる最終地点に到達しました!単に樹木に囲まれた10数坪にしか見えない小さなエリアですが、そこが古代の聖地かと思うと、何かしら熱い思いが込み上げてきます。そして持参した奥坊主の標識をリュックから取り出し、杭にねじ止めしてハンマーで地表に打ち付けました。新しい標識の打ち立てに成功!我、奥坊主にあり!

カモシカと出会いを実現した奥坊主の奇跡!

奥坊主にて天然記念物のカモシカと遭遇!!
奥坊主にて天然記念物のカモシカと遭遇!!
その後、すぐにUターンして戻ることとし、奥坊主から出発しようと立ち上がった瞬間、大きな黒い影がガサガサ、と目の前で動いたのです。まずい、熊か?と一瞬不安がよぎります。そしてそっと数歩、傾斜地を進むと、何と、自分をじーっと見ている大きな動物が、すぐそばにいるではないですか。初めてみる巨大な黒い動物。ところがどう見ても熊ではないのです。しかも馬のように大きく、牛のように体が太く、角はないが落ち着いた様相で立っているのです。自分からの距離は15mほどだったでしょうか。その正体は、天然記念物となっているカモシカでした。驚いたことに、奥坊主の頂上までカモシカが追いかけてきてくれたのです。というのも、その周辺には崖しかなく、いくら急斜面に慣れているカモシカとて、その頂上まで上ってくる必要はないはずです。とにかく、一生に一度の体験ですが、カモシカと挨拶を交わすことができて、ありがたき幸せと思いました。

3度目の登頂チャレンジが成功し、それから必死の思いで、ビジターセンターまで足を運びました。その途中、倒木の枝に足をひっかけ、すねの部分を10cmほど深く切ってしまい、痛い思いをしました。しかしそれよりもとにかく、奥坊主へ到達できた喜びの方が大きかったのです。ただ悔いが残ることは、3度目も携帯電話で失敗をしてしまったことです。まず、予備のバッテリーの使い勝手が悪く、結局は使えなかったこと。そして3台持ち込んでしまったため、GPSの機能がうまく連携できず、せっかく撮影した画像と地図がリンクせず、YAMAPというサイトにこれら感動のコメントを画像と共に掲載することができなかったのです。が、奥坊主の日帰り登頂に成功した感激の1日であることに変わりありません。

奥坊主の意味を考える

レイラインの考察から見出した奥坊主ではありますが、その場所の意義は、実際にそこに行ってみて、初めて理解することができました。奥坊主はどう考えても単なる修行の場所ではないようです。その場所は、一度行けば帰ってくることができない、一方通行の場所ではなかったかと考えます。現代のGPSを用いても健脚の人が、かろうじて日帰りで行き来できるような奥地にあり、一般庶民が行けるような場所ではないのです。しかも奥坊主がある熊野の奥地は日中と夜の温度差が激しいだけでなく、雨量も多く、高山であるだけにすぐに霧に包まれ、周囲が見えなくなってしまいます。つまり、奥坊主へ行くということは、熊野から抜け出すことができなくなる危険を常に孕んでおり、そこで死ぬ覚悟がなければ到底行けない場所のように思えてきたのです。

奥坊主とは、神様に祈りを捧げ、そこで人生の最後を遂げる覚悟をもった人のみ到達できる、行者の最終修行地であったと考えられます。古代の民は、その場所が富士山と神島、琵琶湖の竹生島、そして金刀比羅神社に結びついていることに安堵し、そこで生涯を全うするという思いを馳せて、熊野の秘境を訪れたのではないかと推測します。つまり、奥坊主は聖者の墓場でもあったのです。大勢の聖者の遺骨が、奥坊主の崖の先に埋もれているのではと思うと、熊野の長い歴史の重みを感じないではいられません。