1. ホーム
  2. イスラエル神宝と三種の神器
  3.  

秘宝が埋蔵された状況証拠 四国剣山に纏わる神宝の伝承を再検証!

平成31年、4月30日に天皇陛下が譲位された後、皇太子さまが新天皇に即位され、平成の元号が変わることとなりました。この皇位継承を国民とともに祝福し、皇室の伝統を世間に知らしめるため、践祚(せんそ)の儀、即位式、そして大嘗祭と呼ばれる3つのご大典が執り行われます。践祚の儀とは、新天皇が皇位の証となる三種の神器を先帝から引き継ぎ、天皇の位が正式に継承されたことを象徴する儀式を指します。践祚の儀は「剣璽等承継の儀」と「賢所大前の儀」と呼ばれる2つの儀式に分けられ、前者ではスサノオノミコトが大蛇を退治した際に、その尾から取り出したとされる草薙剣と、天照大神を天の石屋から誘い出すために作られた八尺瓊勾玉を、新天皇が受け継ぎます。後者は八咫鏡を用いた儀式となり、すでに鏡は宮中にて祀られていることから、その宮中三殿全体を受け継ぐことにより、儀式が完結します。今日の皇室典範には践祚の儀という文言が使われていないこともあり、その言葉は一般的ではなくなりつつあります。

践祚の儀が終わると、その直後、即位式を通じて新天皇は新しい元号による新時代の訪れを国民に告げることになります。そして皇位継承の儀式として最後に催されるのが一代一度の特別な宮中祭祀となる大嘗祭です。新天皇が執り行う最初の新嘗祭りが大嘗祭であり、その年の五穀豊穣に対し神に感謝を捧げます。大嘗祭では秋田や大分で収穫された新米だけでなく、和歌山と淡路の水産物、徳島産の麻織物などがお供えものとして献上されます。その他、各地からの産物も献上され、天皇御代と伝統の継承を国民が一体となってお祝いを申し上げるのです。

三種の神器の起源とは

日本三種の神器
日本三種の神器
皇室の行事には多種多様の儀式が存在しますが、中でも皇位継承の証となる三種の神器を受け継ぐ践祚の儀は極めて重要です。三種の神器は古事記と日本書紀によると、天照大神が新天地を統治せよと孫の瓊瓊杵尊に対して命じた際に、天孫の地位を象徴するべく授けた宝物です。それ故、古代より皇室の歩みとともに、三種の神器は常に存在することとなります。では、それら神器は何に由来し、どこで作られ、用いられることになったのでしょうか。今日では神宝の現物を見ることができないことから、様々な文献の内容を検証しながら推測することになります。

真名井遺跡 ひすい製曲玉
真名井遺跡 ひすい製曲玉
(提供 島根県立古代出雲歴史博物館)
八咫鏡と八尺瓊勾玉については、どちらもその出所が記紀に記されています。これらの神宝は、天照大神を石屋から誘い出す際に作られたものです。鍛冶工は鏡、玉の職人は八尺瓊勾玉を複数作り、それらは天の香山から切り出した真榊にかけられたのです。その後、天照大神は天孫降臨の際、新天地に向かわれる民に三種の神器をお添えになり、御自身の姿を写された八咫鏡については「この鏡はひたすら私の御魂として、私を祭るように祭り仕えなさい」と語り告げたと古事記は伝えています。それを機に、八咫鏡は神聖化されることとなります。天照大神を石屋から誘い出すために用いられた八咫鏡と八尺瓊勾玉は人間の手によって同時期に作られ、神宝となったことが記紀の記述からわかります。それら神宝の名称には神を象徴する「八」という文字が含まれていることも、神宝との関連性を証していると考えられます。

草薙剣の出所に関しては、八岐大蛇という化け物の存在を神話の内容から理解する必要があります。海を渡って列島に到来する怪物が人々を拉致し、苦しめていたということからして、八岐大蛇とは海賊船のようなものであり、海の無法者達がスサノオと戦ったと想定されます。そしてスサノオがその天敵を退治した際に、大蛇の尾から剣が見つかったということは、すなわち船の後尾から神宝の剣が見つかったことを意味し、その史実について記紀が記したものと解釈できます。国宝「直刀」金銅黒漆塗平文拵 附刀唐櫃
国宝「直刀」金銅黒漆塗平文拵 附刀唐櫃
(提供 鹿島神宮)
よって草薙剣の出所は日本ではなく、むしろアジア大陸、すなわち外来のものであり、大陸より船によって運ばれてきた神剣だったと考えられます。そしてスサノオが戦いに勝利した際、船の後尾にて発見されたその剣は神宝として大切に収蔵され、天照大神に献上された後、天孫降臨の際には瓊瓊杵尊に授けられました。その後、日本武尊は東征においてその神剣を振るったことから、草薙剣と呼ばれるようになります。

三種の神器は何処に

八咫鏡の模写
八咫鏡の模写
日本書紀によると、瓊瓊杵尊に授けられた三種の神器のうち、天の石屋事件の際に作られた八咫鏡は伊勢神宮に祀られています。「これがすなわち伊勢に斎き祀る大神である」と記載されているとおりです。その鏡には、石屋に入れた際につけられた小さな傷跡があり、「その瑕は今もなお残っている」ことも記されています。伊勢神宮にて祀られる前段においては、元伊勢の御巡幸と呼ばれる過去に類を見ない壮大なスケールの長旅が計画され、最終的に1世紀近くの年月をかけて元伊勢として厳選された聖地の数々にて、八咫鏡は順次奉斎されました。その後、御一行は伊勢神宮の聖地にたどり着き、神託により皇大神宮が伊勢に創建され、八咫鏡は天照大神として祀られたのです。伝承や記紀の記述から察するに、八咫鏡の形代(レプリカ)も古くから作られており、同じ名前で呼ばれる鏡を皇室も保有しています。

参拝者が絶えない熱田神宮
参拝者が絶えない熱田神宮
草薙剣については、最終的に愛知県名古屋市にある熱田神宮に移され、それが御神体として祀られました。「この剣は今尾張国の吾湯市村にある。つまり熱田の祝部がお守りになっている神がこれである。」と日本書紀には書かれています。草薙剣という名前の由来は、景行天皇の皇子である日本武尊が野原に火を放たれて殺されそうになった時、その剣をもって草を薙ぎ払うことにより、生き延びることができたからとされています。ところが崇神天皇の時代になると国家情勢が悪化し、海外からの渡来者が海を渡って大勢押し寄せてきただけでなく、列島内で国々は分裂し、内乱の噂が絶えなくなります。そのような社会情勢を背景に、草薙剣や八咫鏡の形代(レプリカ)が作られ、それら形代は宮中にて皇族により祀られ、本物の草薙剣と八咫鏡は伊勢神宮に移されることとなりました。景行天皇の時代では、東征を託された日本武尊に草薙剣が与えられ、その後、尾張の熱田神宮にて草薙剣は、その御神体として秘蔵されることとなりました。

伊勢神宮 本殿鳥居
伊勢神宮 本殿鳥居
では今日、本物の三種の神器はどこに秘蔵されているのでしょうか。八咫鏡が伊勢神宮にて祀られ、草薙剣は熱田神宮に移された、というのはあくまで記紀に記された伝承であり、実際にそれらの神宝がどこに秘蔵されているかは、定かではないようです。今日、皇室にて保有している三種の神器は「剣璽の間」と呼ばれる部屋に安置されています。八尺瓊勾玉は古くから皇居に存在し、八咫鏡と草薙剣の形代も皇室は保有してきました。つまり皇居で祀られている三種の神器はいずれも形代であり、伊勢神宮と熱田神宮にて保存された神宝と同等の形代であるかどうかも定かではありません。また、草薙剣においては、源氏と平氏との最後の合戦である壇ノ浦の戦いにおいて安徳天皇とともに水中に沈み、失われてしまったという伝承がありますが、その失われた草薙剣でさえも形代であったのではないかと語り継がれています。

簡単にまとめてみましょう。まず、本物の八咫鏡と八尺瓊勾玉は国内で作られています。そして草薙剣は、おそらくアジア大陸から持ち運ばれた外来の神宝でしょう。その後、渡来者の数が激増し、国内の紛争が悪化して内政が不安定になったことから、神宝を保護するために、多くの形代、すなわちレプリカが作られることになりました。その結果、本物と形代がどこかですり替えられたと想定され、神宝がどこに秘蔵されているか、いつしかわからなくなったのです。これらの世情を背景に、崇神天皇から垂仁天皇の時代、神宝を携えて皇族が各地を行脚するという、歴史に類を見ない画期的な構想が実現したのです。それが元伊勢の御巡幸です。

豊鍬入姫命から倭姫命に引き継がれ、1世紀近く続いた元伊勢の御巡幸は、あてもなく各地を転々とする旅ではありませんでした。皇居近くの霊峰、奈良の三輪山を起点とし、近畿地方を中心に年月をかけて神宝とともに移動し続けた御巡幸は、最終的に伊勢を終点として完結します。日本書紀には垂仁天皇25年、倭姫命の御一行は神風の伊勢国に到達し、大神のお教えのままに「その祠を伊勢国に建て、そのために斎王宮を五十鈴川のほとりに建てられた」と記されています。そして「伊勢国は天照大神が初めて天より降臨された所」として知られるようになりました。

これら一連の元伊勢御巡幸には、後世に伝えるべき重大なメッセージが秘められていた可能性があります。御巡幸の主目的は、外敵から神宝を守るためにその在処を隠すことであり、確実な保全方法が模索されたと考えられます。そして御巡幸という長旅を続けて各地で神を祀ることにより、三種の神器がどこに移動し、どこで収蔵されているか、世間にはわからないようになりました。しかしながら巧みな構想によって厳選された御巡幸地の場所には、共通の条件が秘められていたのです。すべての御巡幸地は、ある一つの地点と地理的に結び付けられ、国内の地理を細部にわたって検証し、御巡幸地と全国にある聖地や霊峰との繋がりを精査するならば、その事実が解明できるようにしたのです。そして、その中心となる一つの地点が、神宝の秘蔵場所であったと考えられるのです。元伊勢の御巡幸により、神宝の在処が密かに示されることになりました。その秘蔵場所は、思いもよらず四国の剣山だったのです。

元伊勢御巡幸地 行程地図
元伊勢御巡幸地 行程地図

神宝の行方を示す状況証拠の数々

紀元前後、倭国が多くの小国家に分裂し、天皇による統治が困難な局面を迎えていた時代、国の威厳を守り、神国たる存在を人々に知らしめるためにも、先代から受け継がれてきた神宝を保全し、外敵から護衛することは、国家の最重要課題でした。当時の社会情勢と、その歴史的背景を振り返ってみましょう。

まず、紀元前2世紀頃より大陸からの渡来者が急激に増加し、日本列島各地で人種間の歪みや社会的な混乱が起きていたことが、倭国の統治が困難に陥った最も大きな理由として挙げられます。大陸では秦の始皇帝による国家采配が紀元前210年には終焉を遂げ、その後、前漢、後漢の時代へと突入し、中国大陸全体が混乱の時期へと向かいました。始皇帝が死去した後、政治的混乱や迫害などを理由に、大勢の民が中国から東方へと逃亡し、その多くが朝鮮半島を経由して海を渡り、日本列島に渡来したと考えられるのです。歴史人口学的にみても、その当時、数世紀にわたる日本への渡来者の数は少なくとも100万人から150万人とも言われています。3世紀、応神天皇の時代になると、秦氏の先祖とされ、融通王とも呼ばれた渡来人、弓月の君が「自分の国の人夫120県分を率いて帰化」したことが日本書紀にも記されています。これら膨大な数に上る渡来人の到来により、政治情勢がさらに不安定になっただけでなく、皇族の存在すら脅かされるようになりました。その結果、神宝そのものが盗難の危機にさらされたのです。

三輪山
三輪山
国家体制がまだ整っていなかった崇神天皇や垂仁天皇の御代、神宝を護衛することは極めて困難であったに違いありません。神宝が収蔵された各地の神社周辺の地勢を検証するだけでも、それらがいかに無防備な場所であったかがわかります。古代の霊峰として記紀にも明記されている聖地、三輪山を例にとれば標高467mしかなく、平地からものの30分歩くだけで頂上に到達してしまいます。しかも周辺は山と丘に囲まれているだけなので、外部からの攻撃を防ぎようがありません。また、草薙剣が宝蔵された尾張の熱田神宮についても、ごく平坦な場所にあることから無防備に等しいのです。同様に、伊勢神宮を見ても、ゆるやかな丘陵が連なるだけの広大な地であり、神宝を秘蔵するにも、その術に限度があります。

これらの状況を見る限り、神宝を真に敬い、大切にする民ならば、人々の手の届かない全く違う場所に本物を秘蔵することを考えるのではないでしょうか。ちょうどピラミッドが一見、王族の墓のように見えても、実際の墓は別の場所に存在し、上手に隠されていたのと同様です。それ故、皇居に収蔵された神宝においても、それらはすべて形代であったと考えられ、当初は本物の神宝が収蔵された熱田神宮や伊勢神宮においても、いつしか本物が形代とすり替えられたのではないかと推測されます。

そのような不安定な国内外の情勢を背景に、元伊勢の御巡幸という奇想天外な計画が遂行されたのです。一見、とめどもないような複雑な旅路を示す御巡幸地の数々ですが、実はそれらすべては地理的に重要な意味が秘められていました。すべての御巡幸地は、レイラインと呼ばれる聖地や地勢上の著名な拠点を結ぶ直線上において、四国剣山と結び付いていたのです。よって剣山こそ、古代、神宝が秘蔵された場所であったと考えられます。元伊勢御巡幸の目的は、神宝が秘蔵された剣山の場所を暗示することであり、御巡幸地のレイラインが交差する場所を見出すことにより、神宝の行方を理解することができるようにしたのです。古代英知の結晶が元伊勢御巡幸であり、剣山と一直線上に結び付けられていた御巡幸地の存在が明らかにされました。今日、地図を実際に見ながらレイラインの存在を確認できることからしても、古代、剣山が重要な基点であり、そこに神宝が携えて行かれたであろうことを想像するに難くありません。(「日本のレイライン」参照)

三輪山と石上神社のレイライン
三輪山と石上神社のレイライン

倭姫命による元伊勢の御巡幸において、今日の岐阜県、美濃国、伊久良河宮から川を下り、尾張国(愛知県)、伊勢国(三重県)への船旅をガイドした古代海洋豪族の船木一族の存在にも注目です。元伊勢御巡幸も半ばを過ぎた琵琶湖の東、坂田宮に近い美濃国からの旅路は、船による移動が大半を占めました。その船旅も海洋豪族の強力なサポートと護衛があったからこそ、倭姫命御一行は安心して川を下り、海岸沿いを伊勢に向けて移動することができたのです。「倭姫命世紀」の記述からも、船の存在が当時、いかに重要であったかを垣間見ることができます。

その船旅を取り仕切ったと考えられる船木一族は、元伊勢御巡幸の後、紀伊半島を旋回して吉野川上流に拠点を設け、船の塗料となる原材料として不可欠であった辰砂、水銀を発掘しながら地域の周辺に、仁生都比命神社をはじめとする神の参拝場所を造営しています。その後、淡路島の北部、今日の淡路市山奥の小高い丘に一族の拠点を置き、その場所を舟木と呼びました。そして中心地には巨石を置き、周辺には環状列石を並べ、そこでも神を礼拝したのです。それが今日の石上神社です。

元伊勢御巡幸の延長線として、一見何の目印もない淡路島の舟木が重要であった理由は明確です。まず、その場所は元伊勢御巡幸の始点となる奈良の三輪山だけでなく、伊勢神宮の斎宮とも同緯度にあります。また、国生みの創始者である伊弉諾尊を祀る伊弉諾神宮と、剣山頂上とを結ぶ線上にもあり、その延長線上には、北東方向に摩耶山と六甲山が存在します。つまり、淡路島の舟木は、元伊勢御巡幸を締めくくる意味においても、御巡幸の始点である三輪山と、その最終到達点となる伊勢、そして神宝が秘蔵されることとなった剣山をレイライン上で結び付ける重要な拠点だったのです。

美濃国〜近畿 船木氏の拠点
美濃国〜近畿 船木氏の拠点

淡路島の石上神社が祀る巨石
淡路島の石上神社が祀る巨石
神宝を秘蔵し、外敵から完全に守るためには、人里離れた山奥の場所を選ぶしかなかったのかもしれません。いずれにしても、古代の民はその英知を結集して神宝が秘蔵される場所を探し求め、それを剣山と定めた後、その場所を暗黙のうちに元伊勢の御巡幸で示したのです。その後、三輪山、伊勢と剣山を結び付ける淡路島、舟木の拠点には巨石が置かれ、その石上神社で神が祀られることにより、神宝埋蔵の秘策は完結したのです。そして元伊勢御巡幸の直後、垂仁天皇の御代では一千個の剣が作られ、それらは奈良の石上神宮に宝蔵し、物部一族が治めることとなりました。多くの形代や神宝の創作により、真の神宝が秘蔵された場所が歴史の中に埋もれることになります。

一見、妄想のようにも聞こえる剣山宝蔵の信ぴょう性が高いことを示す決め手が、元伊勢御巡幸後の1世紀後に台頭した邪馬台国の存在です。本稿「邪馬台国への道のり」においては、中国史書の記述に従って邪馬台国への道を辿ると、その場所は四国剣山の周辺になることを解説しています。邪馬台国を剣山周辺の山地と想定することにより、史書の記述を何ら矛盾なく読み通すことができます。これは、元伊勢御巡幸の結果、神宝が剣山に持ち込まれたことを裏付けています。何故なら、神宝があるところには神の崇拝と聖地化の動きが見られ、その聖地にて祈り求める民の中には霊力が養われ、不思議な力を誇示する人も存在したと考えられるからです。そして神宝が埋蔵された剣山においては、2世紀後半、神宝を追い求めて山を登られた卑弥呼が霊力を養い、霊媒師として徐々に歴史の表面に台頭し、国家を統治する権力まで持つようになったのです。

剣山 宝蔵石
剣山 宝蔵石
剣山こそ、神宝を秘蔵する場所として、古代の識者が見初めた霊峰だったのです。だからこそ、元伊勢の御巡幸が綿密に計算され、レイラインの原則に基づいて諸々の聖地が剣山と紐づけられように仕組まれたのです。そして歴史の流れとともに神宝が秘蔵された剣山周辺にて巨大な集落が形成され、卑弥呼が邪馬台国を統治するまでに至ったと想定するならば、多くの歴史の謎が紐解けてきます。

剣山と絡む元伊勢のレイライン
剣山と絡む元伊勢のレイライン

古代から注目されてきた剣山とは

古代、日本列島では特に瀬戸内を基点として、その周辺の山々に高地性集落が築かれました。せっかく平地があるのに、わざわざ不便な山の上に集落を作ったのは、古代の民が神を崇拝してやまず、しかも神は山の頂上に訪れるという信仰があったからに他なりません。それ故、古代の民は海を渡り、日本列島に居住の基点を見出す際、周辺の地勢をしっかりと研究しながら、まず、一番高い山の場所を見定め、その山の頂上周辺にて祭祀活動を行ったことでしょう。高地性集落における祭祀活動の痕跡は、今日でも列島各地で確認することができます。

西日本で2番目の標高を誇る剣山は、紀伊水道、淡路島、そして熊野の山々からも、その頂上を遠くに眺めることができます。「終わりの日に、主の神殿の山は山々の頭として硬く立ち、どの峰よりも高くそびえる」という記述が旧約聖書のイザヤ書にあります。淡路島や紀伊水道の海原からも望むことができる剣山は、この聖書の言葉にふさわしく、他の山々の峰より高く聳え立ちます。古代日本にて、イスラエルからの渡来者が日本を訪れたとするならば、まず、周辺の島々をくまなく船で巡り渡り、一連の「国生み」ともよばれる島々の探索に没頭したことでしょう。そして遠くに見える山々の姿を確認しながら標高の高い山を島ごとに特定し、それらの山々にて神を祀り、新天地の祝福を祈り求めたと考えられます。

淡路島から望む剣山
淡路島から望む剣山
同様に元伊勢の時代においても、淡路島からだけでなく、奈良の南方、熊野の山頂からも遠くに見える剣山が注目されたことでしょう。剣山の頭がひとつ抜きん出ていることからしても、聖山と考えられたに違いありません。しかも四国のおよそ中心に位置し、その山頂に到達するためには極めて困難な山道を1か月近くかけて登らなければならないのです。よって神を崇め祀るに最もふさわしい秘境の山と考えられたに違いありません。大切な神宝を安心して収蔵することができた剣山の存在があったからこそ、山の麓周辺には多くの集落が形成されたと考えられます。

実際、四国や山陰、山陽地方などには高地性集落が広範囲に存在していたことが知られています。特に剣山の周辺では、西側には祖谷、奥祖谷から、その東北側は木屋平から焼山寺周辺の神山に至るまで、広範囲に高地性集落が古くから存在していたようです。また、剣山近くの奥祖谷周辺の山々には、明治時代まで大規模な牧場が山の高台に存在していました。剣山頂上周辺の緩やかな斜面
剣山頂上周辺の緩やかな斜面
その後、牧場を管理する若手の人々が都市部へ流出し、働き手が不足して経営が成り立たなくなったことから衰退を続け、最終的にはそれらの牧場の跡地には国の政策により、杉の植林が盛んに行われるようになったのです。そして瞬く間に、多くの古代集落や牧場の跡地に杉の木が育ち始め、いつしか牧場の姿は、跡形もなく消え去っていきました。これらの消滅した牧場の過去には、高地性集落の存在があったのではないでしょうか。それは遊牧民族の名残とも考えられ、元来、アジア大陸より訪れた渡来人によって構築されたものであるかもしれません。剣山周辺の山々では杉植林の場所を見極めることにより、牧場や高地性集落が存在していた可能性のある場所を知ることができます。それら杉植林は剣山を中心に、その西側は三好市から美馬郡、そして東側は焼山寺そばの神山から勝浦郡に及ぶまで広範囲に広がっていることからしても、剣山周辺には高地性集落が多く形成された時代があったと考えられます。

湧水が溢れる剣山頂上周辺
湧水が溢れる剣山頂上周辺
また、四国の高地には豊かな水源が多数存在し、剣山周辺も例外ではありません。剣山では頂上周辺から麓に至るまで随所に水が湧き出ており、水源に恵まれていることは一目瞭然です。これほどまでに十分な量の水源があるからこそ、古来、山頂から麓周辺にかけて大勢の人が居住できる集落が作られていったことでしょう。特に祭壇や神殿の周辺では、様々な清めの儀式を執り行うためにも十分な水を供給する必要があります。よって、豊富な水量が確保できる剣山では、色々な工夫が施されながら水源が要所にて確保されたと考えられます。

剣山に纏わる神宝の伝承

剣山の山頂にある注連縄
剣山の山頂にある注連縄
剣山は山岳信仰の霊場として名高い山です。つい昭和の初めまでは、女性が近づくことさえ許されない女人禁制の霊山だったのです。剣山の周辺地域では、古来より剣山に纏わる様々な伝承が残されています。中でも剣山にはイスラエルの「契約の箱」と、それに纏わる神宝が埋められているのではないかという話は根強く地元で語り継がれてきており、今日、三好市の役場で管理されている祖谷の観光案内にも、それらの伝承についての記述が見られます。例年7月に行われる剣山祭りで、契約の箱に酷似している神輿を担ぎながら剣山頂上まで登る風習は、イスラエル文化の名残ではないかと考えられます。また、近郊にある神明神社では、古代イスラエルの祭祀場に類似した形状の遺跡も存在します。そこで、剣山に纏わる神宝の伝承について、これまで囁かれてきている内容をまとめてみました。

剣山の麓、奥祖谷周辺の地域では、古くから安徳天皇の剣が隠されているという言い伝えがあります。安徳天皇の剣とは、草薙の剣、もしくはそのレプリカを指します。つまり三種の神器のひとつである草薙剣が、剣山のどこかに隠されているのではという言い伝えがあり、剣山の麓集落にて語り継がれてきているのです。

志谷奥出土 銅剣集合
志谷奥出土 銅剣集合
(提供 島根県立古代出雲歴史博物館)
また、ソロモン王の秘宝が剣山に埋蔵されているという伝説が祖谷地域に残っていることにも注目です。ソロモンの秘宝と限定されている宝は特にないことから、おそらく契約の箱、またはそれに纏わる宝のことを指していると考えられます。イスラエルの契約の箱に関わる神宝は3つあります。まず十戒が刻まれた契約の石板、次に芽を出したアロンの杖、最後にマンナと呼ばれる天からの食べ物を入れた金の壺です。記紀に書かれている三種の神器とイスラエル神宝の類似点は、その形状にあります。十戒の石板は薄い板であることから八咫鏡の形、アロンの杖は細長いことから草薙剣、また、マンナの壺は丸い容器であることから八尺瓊勾玉の形に類似しています。前述したとおり、八咫鏡と八尺瓊勾玉は国内で作られたものであることから、ソロモン王の秘宝にはなり得ませんが、草薙剣については外来の神宝であると想定できることから、それがイスラエルから運ばれ、剣山に埋蔵されたという可能性は否定できません。もしソロモンの秘宝が剣らしきものと仮定するならば、それは草薙剣としてスサノオが八岐大蛇から勝ち取った剣か、もしくは契約の箱に収められていたアロンの杖、いずれかが剣山に埋蔵されたとは考えられないでしょうか。

岩の裂け目が参道 石尾神社
岩の裂け目が参道 石尾神社
剣山の麓にある穴吹と呼ばれる村の近くには石尾神社と呼ばれる巨石を拝する神社があります。南北120mを超える巨石の景観は見事であり、その巨石の上にはコウヤマキと呼ばれる高野山に生息している樹木が何故かしら茂っています。古代、四国吉野川周辺の平野部から剣山に行くためには、人々はまず、石尾神社にてお参りしたと言い伝えられています。そこから杖崎峠を越えて、剣山頂へとひたすら長い道のりを歩いたのです。よって、石尾神社と剣山とは古代から深い繋がりがありました。また、石尾神社の御神体となる巨石には大きな割れ目があり、遠い昔から「金の鶏」がそこに秘蔵されたという伝承が残されています。「金の鶏」といえば、契約の箱の上に向かい合って据え付けられたケルビムと呼ばれる2匹の羽を広げた鳥が思い浮かびます。よって剣山は「金の鶏」、そしてイスラエルの契約の箱とも関係している可能性があります。

さらに剣山のある徳島県、高知県境にある竹ヶ島の西側に浮かぶ小さな二子島にも、熊野権現である「金の鳥」が飛来したという伝承が残されています。その「金の鳥」を祀るのが近隣の熊野神社です。二子島に隣接する竹ヶ島神社では、古くから海中神輿の祭りが例年執り行われています。神輿の形状は契約の箱に酷似していることからしても、海中神輿のルーツには、契約の箱の存在があるかもしれません。古代、海を渡って到来した外来船が契約の箱を船に載せて日本列島まで辿り着いた際、それを陸地に運ぶには海中から大勢が契約の箱を担ぐ必要があり、その記念すべき行事を祝して、海中神輿の祭りが始まった可能性があります。そのようなきっかけがないと、わざわざ大切な神輿を担いで海の中にまで入り、塩水につけるという考えには至らないでしょう。大陸より持ち運ばれてきた契約の箱のケルビムは、四国竹ヶ島の近郊を経由して石尾神社に運ばれ、さらには剣山にてソロモンの秘宝として埋蔵されたことが、数々の伝承の起源なのかもしれません。

かごめかごめの謎を解明!

剣山頂上 馬の背
剣山頂上 馬の背
剣山に神宝が埋蔵されたという説は、「剣山」の名称と「かごめかごめ」の歌をヘブライ語で解釈することによっても裏付けられます。まず、剣山という名前を振り返ってみましょう。剣山の頂上は「馬の背」とも呼ばれるように、とても緩やかな尾根が続きます。剣のような様相を呈する自然の景色は、頂上周辺には見当たりません。よって山の存在自体が神剣と何らかの関わりを持っていたことから、「剣山」と呼ばれるようになった可能性があります。山頂近くには、古代から鶴石、亀石と呼ばれる2つの巨石があります。その名称はどちらもヘブライ語で理解することができるだけでなく、「かごめかごめ」の歌詞とも結び付いているのです。

まず、剣山の「つるぎ」という言葉の意味をヘブライ語で検証してみました。まず、「ツルギ」の「ツ」tsuru、ツー(tsuru、ツー)は岩を意味するだけでなく、「神」そのものの名称ともなります。岩なる神とはまさに「ツー」と発音するだけで表現できます。今日でもイスラエル人にとって、「ツ」という言葉は「神」を意味しています。ki、キ(ki、キ)は「壁」を意味する言葉です。すると、「ツルキ」と合わせて、「壁の岩」「壁の神」という意味になります。神宝に纏わる聖地として、そこに剣が埋蔵されたとするならば、漢字では剣を意味するも、ヘブライ語では、壁の岩で囲まれた頑丈な場所を指していたとは考えられないでしょうか。いずれにしても、「ツルキ」という名称がヘブライ語を語源として付けられ、剣山が神宝と絡む存在であるとするならば、単に神宝が秘蔵されただけでなく、剣山は「壁の岩」のような場所とも神宝を介して関わっている可能性があります。

剣山を象徴する鶴石と亀石
剣山を象徴する鶴石と亀石

次に、「かごめかごめ」の歌詞について検証してみました。その歌詞の中には「鶴と亀」という言葉が含まれています。前述したとおり、「鶴」は「ツー」に漢字をあてたものと考えられ、ヘブライ語の「神」を意味するものと考えられます。「亀」はヘブライ語でお守りを意味する「カメァ」です。すると、「鶴亀」は「お守りの神」「お守りの岩」と解することができます。その「鶴」と「亀」がモチーフになっている「かごめかごめ」だからこそ、歌全体がヘブライ語で書かれていると考えられるのです。果たしてそれが、頂上に鶴石と亀石を有する剣山の秘密について歌われている可能性はあるのでしょうか。「かごめかごめ」の歌詞全体をその発音どおりにヘブライ語によって解釈すると、日本語ではおよそ不可解な歌詞さえも意味が明確になり、歌詞全体の主旨がわかります。

何が守られているのか?
誰が守られているのか?
守護されて封印し、安置して
閉ざされていた神宝を、取り出せ!
そして、火を付けろ、燃やせ!  神の社を根絶せよ。
水際にお守りの岩を造り、
無人の地に水を引いて支配せよ!

古来より歌われてきた「かごめかごめ」の歌詞は、実は神宝について歌っていたのです。ところが、その神宝は何故かしら取り出され、それまでの安置場所一体が燃やされてしまうようなのです。そしてすべてが根絶した後、いつしか人気のない水際の岩場にて神宝が守られていることが歌われています。もし「かごめかごめ」が剣山に絡んで歌われているとするならば、そこに埋蔵された神宝は、剣山が焼かれる直前に取り出され、遠く離れた水際にある別の場所に隠蔽されることになったのではないかと解釈できます。それは、神宝が宝蔵されている邪馬台国が全焼して消滅し、歴史から姿を消すことを意味するのではないでしょうか。その破滅を察知した古代の信仰者らは、邪馬台国から神宝を取り出し、海辺の別の場所に移動したことが、「かごめかごめ」の歌詞から解釈できます。

日本語とヘブライ語をブレンドして編み出された「かごめかごめ」の作者は、その内容と時代背景から察するに、空海の可能性が高いと考えられます。2つの言語を見事に絡めながら、誰の心にも残る日本の童謡として庶民に定着させ、しかもその内容はヘブライ語においてはイスラエルの神宝について語る、という神業的な作詞ができる能力を持つ人間は、空海以外には考えられないでしょう。また、空海の出身地は四国の讃岐であり、元伊勢の真実に触れた空海にとって、剣山は大切な聖地と考えられていたに違いありません。その剣山に古代、神宝が秘蔵され、邪馬台国が崩壊する直前に神宝は取り出されて別の場所に隠されたことを知った空海は、ひたすらその場所を探し求めたのです。

空海にとって、剣山は神宝に纏わる聖地であり、神の裁きが起きる前に神宝が取り出される原点となる場所でもありました。よって、その大切な山を遠くから囲むように行脚する遍路を定め、通りすがりの要所を礼拝所として選別し、その数を神隠しの象徴である数字の八十八としたのです。88という数字こそ、剣山に纏わる神宝に結び付く貴重な暗号とも言えます。それは神宝が八重桜の花びらの下に隠されるように、いつしか歴史の中に埋もれ、神が隠してしまったことを象徴しているかのようです。