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若杉山遺跡の歴史的背景

2019年3月1日、徳島県の山奥にある若杉山遺跡(阿南市水井町)がNHKニュースや各種メディアで取り上げられ、話題となりました。若杉山遺跡からは赤色顔料である水銀朱の原料、辰砂が採掘されただけでなく、そこには人工の坑道跡があり、発掘された土器片は、弥生時代後期から古墳時代初頭1〜3世紀のものと確認されたのです。奈良時代8世紀の長登銅山跡(山口県美祢市)が国内最古の坑道というこれまでの定説が覆され、それから5世紀も遡った時代に、辰砂の坑道が徳島で掘られていたことになります。それ故、阿南市と徳島県教育委員会は、プレスリリースを通じて若杉山遺跡が日本最古の坑道である可能性が高いことを公表しました。

史跡 若杉山遺跡
史跡 若杉山遺跡
しかしながら若杉山遺跡を訪ねて実際に検証してみると、疑問はつきません。何故、徳島県の山奥にて辰砂が採掘されたのでしょうか。人里離れた何ら目印もない山奥で、どのようにその岩場を探し当てたのでしょうか。1〜3世紀の時代背景と辰砂のニーズは、どのような関連性があるのでしょうか。レイラインの検証からそれらのヒントを見出すことができるだけでなく、歴史の流れが見事に浮かび上がってきます。

若杉山遺跡の歴史

太竜寺へ続く四国の道
太竜寺へ続く四国の道
徳島県の小松島市と阿南市の中央を流れる一級河川、那賀川の上流を四国霊場二十一番札所の太龍寺近くまで20qほど上ると、若杉山に繋がる支流にあたります。そこから「四国の道」と称される遍路に沿って太龍寺を目指し、南方に1q少々歩くと、標高147mの若杉山の山腹に立てられた若杉山遺跡の看板と休憩所が目に入ってきます。その背後に流れる小川を渡り、山の斜面を登ると、目の前に突如として段々畑のように石が積まれた大きな階段層と杉林が見えてきます。そこが若杉山遺跡です。

若杉山遺跡は1950年代に発見され、1980年代から徳島県立博物館により発掘調査が始まりました。1997年には「辰砂生産遺跡の調査−徳島県阿南市若杉山遺跡−」という調査報告が発表され、遺跡から出土した水銀朱精製用の石器類などについて、詳細が記録されています。若杉山遺跡からは辰砂に限らず、辰砂の精製に使用する石杵(いしきね)だけでも40点以上、石臼(いしうす)については300点以上、その他、石器や勾玉なども多く出土しています。全国的に見ても辰砂を採掘する遺跡としては、前例のない大規模な遺構が徳島県に存在していたのです。

2017年に始まった遺跡調査では、標高245mの若杉山の山腹にある岩場から、坑道跡と思われる横穴が存在することも確認されました。若杉山遺跡の坑道は、高さ0.7〜1.2m、幅は最も広い箇所で3mほど、そして長さはおよそ13mもあります。その後も遺跡調査は継続して行われ、2019年2月、この坑道の入り口からおよそ3mの場所から出土した土器片数十点のうち、少なくとも5点については弥生時代後期、1〜3世紀頃のものであることが特定されました。その結果、弥生時代では地表から掘削しながら辰砂を掘り当てていたという従来の定説が覆されることになったのです。既に弥生時代では、硬い岩盤をトンネル状に坑道を掘り、辰砂を採掘するという高度な技術が進み、徳島県の那賀川上流から辰砂が掘削されていたのです。また、石杵や石臼などの石器も多数、発掘されていることから、辰砂を用いて顔料に加工する作業も若杉山遺跡で行われていたと推測されます。

弥生時代後期、1〜3世紀と言えば、中国大陸においては秦の始皇帝没後、およそ2世紀後に台頭した後漢から三国時代へと内乱が続く時代です。三国時代は戦乱の幕開けであり、その三国のひとつが日本でもよく知られている魏です。当時、隣国の日本でも国家情勢は不安の坩堝にあり、大勢の渡来者が大陸から移住し続ける最中、天皇を中心とする国家の統治が難しい局面を迎えていました。紀元1世紀を迎える前後、国内では倭姫命による元伊勢御巡幸が終盤を迎え、垂仁天皇26年には伊勢神宮が建立されました。それから2世紀も経たないうちに、卑弥呼を女王とする邪馬台国が突如として歴史に台頭しました。その詳細については魏志倭人伝などの中国史書に綴られています。その文中には「其山有丹」という記述があります。倭国(日本)には、丹、すなわち辰砂からできる水銀を採取できる山が存在し、女王卑弥呼は、その丹を中国に献上したのです。よって、邪馬台国の時代、辰砂が採掘された地域は、その比定地の近くであった可能性が高いと考えられます。

高く積み上げられた石垣
高く積み上げられた石垣
邪馬台国と若杉山遺跡は辰砂という特殊な資源に共通点があり、弥生時代後期の1〜3世紀という時代にも一致することから、若杉山遺跡からさほど遠くない場所に、邪馬台国が存在したとは考えられないでしょうか。3世紀、女王卑弥呼が統治した邪馬台国の時代に辰砂が産出された可能性がある場所は、いまだ、この若杉山遺跡しか見つけられていません。今後も坑道内の調査が進められ、辰砂の発掘方法だけでなく、若杉山遺跡から発掘された遺物や辰砂の検証から、それらの時代背景が、さらに詳しく特定されることが期待されます。

海洋豪族が辰砂を欲した理由

辰砂は丹(に)とも呼ばれる資源です。中国湖南省の辰州が主産地だったことから、一般的には辰砂として知られるようになりました。色が赤いことから、朱砂とも呼ばれています。その鉱石を砕いて採取した粉が主成分となり、本朱の顔料になります。辰砂を加熱して発生する水銀蒸気と二酸化硫黄を冷却すると、水銀が精製されます。古代より水銀は大切な資源であったことから、十分な辰砂を確保することが重要視されたのです。また、辰砂の本質は硫化水銀であり、毒性が強く、採掘の際は粉塵により多くの健康被害が生じることもありました。若杉山遺跡は、その辰砂を採取する遺跡だったのです。

日本では、およそ弥生時代から辰砂の採掘が始まったと考えられています。しかしながら辰砂の掘削は一般的な想定より、もっと早い時期から始まった可能性があります。紀元前10世紀、ソロモン王の時代、遠い西アジアにおいてはタルシシ船が世界中を航海していました。船による渡航時代の始まりは、それよりもさらに時代を遡ることからしても、古代の民は今日、私たちが想像する以上の優れた航海術や造船の技術を習得していたと考えられます。

ソロモン王の時代から3世紀ほど過ぎた頃、北イスラエル王国が滅び、南ユダ王国も崩壊の危機に直面した時、王朝を支えてきた南ユダ王国の豪族らは神宝を携えながら預言者らとともに船に乗り込み、東方へと向かいました。それらイスラエルから逃れてきた王族や預言者の一行が、台湾から八重山諸島、琉球諸島を経由して日本列島に渡来して神々となり、皇族の元となる歴史の土台を作った可能性があります。弥生時代後期、日本列島を船で行き来していた海洋豪族は、その末裔と考えられ、優れた航海技術、天文学や地勢学の知識を持っていました。だからこそ、日本列島をくまなく探索しながら、辰砂をはじめとする必要不可欠な資源を探し当てることができたのです。中でも辰砂は、最も重要視された資源でした。

辰砂の使用目的の中でも、船底の塗装は最も歴史が古いだけでなく、耐久性に優れた船を造り上げるためには不可決な資源でした。しかしながら、往々にして鉱山は山奥に存在し、その場所を掘り当てることは困難を極めました。しかも掘削された鉱山や鉱石の粉を山奥から運搬することは容易でなかったことは想像に難くありません。それ故、辰砂を含む鉱山を見つけるため、西アジア系の海洋豪族は、それまで培ってきた天文学的知識と経験をもって鉱山を掘り当てることに努めたことでしょう。こうして海洋豪族自らが主導しながら、辰砂の鉱山場所が特定され、そこに坑道が掘進されるようになったのです。

若杉山遺跡そばを流れる一級河川 那賀川
若杉山遺跡そばを流れる一級河川 那賀川
それらの鉱山は、主に近畿地方から四国にかけて古くから存在しました。特に歴史の古い辰砂の鉱山は、和歌山県や三重県、徳島県に流れる大きな河川、もしくはその支流沿いにあります。辰砂が河川沿いの山々にて掘削された理由は、その採取に携わった主人公が、川を船で行き来することを苦にしない古代の海洋豪族であったからに他なりません。よって資源の運搬には船が多用されただけでなく、海洋豪族自ら辰砂を探し求めた結果、辰砂を含む鉱山の多くが河川に近い山々に見出されたと考えられます。

辰砂には優れた耐水効果があります。辰砂を顔料とした本朱の塗料をしっかりと船底に塗ることにより、船底の腐食や貝殻の付着による被害が緩和し、船の耐久性が見違えるように向上することが知られるようになりました。そのため、いつしか海洋豪族は辰砂を求めて日本列島内でも特に、近畿地方と四国を中心に探索を進めました。その海洋豪族が複数の船舶を用いて歴史を大きく動かしたドラマが、元伊勢の御巡幸です。

船木氏に代表される海洋豪族は、弥生時代後期にあたる1世紀となる直前、伊久良河宮(今日の岐阜)から伊勢まで向かう最終段の元伊勢御巡幸にて、倭姫命御一行と神宝を護衛する任務を担い、複数の船を先導しながら無事、御一行を伊勢へと送迎しました。その後、船木氏ら海洋豪族は伊勢に自らの集落を築いただけでなく、紀伊半島を西方へと海岸沿いに播磨方面へ移動し続け、その途中、集落を築きながら、辰砂の鉱山を見出すことに努めたのです。その結果、伊勢国の丹生、今日の多気町や、和歌山県の吉野川上流、丹生都比売神社周辺の紀伊山地、そして徳島の若杉山などが、辰砂の掘削に纏わる場所として知られるようになりました。

丹生都比売神社 楼門
丹生都比売神社 楼門
「丹生」には「辰砂が採取できる地」「辰砂を精製する氏族」という意味があることからしても、丹生都比売神社は辰砂と深く関わっていたことがわかります。丹生都比売神社の由緒によると、「魏志倭人伝には既に古代邪馬台国の時代に丹の山があったことが記載され、その鉱脈のあるところに「丹生」の地名と神社があります」と書かれています。丹生の名称を含む神社や地名は紀伊半島を中心に広がっており、その背景には常に辰砂の存在がありました。今日、丹生都比売神社は世界遺産「紀伊山地の霊場と参詣道」にその名を連ねています。

1世紀前後の時代、船を建造する造船所は主に琵琶湖の周辺や、伊久良河宮などにあり、政治は奈良を中心として大陸に目が向いていたことから、海上交通のアクセスを考えたうえでも、辰砂の採取場所は紀伊半島、四国に絞り込むことが望まれたと考えられます。海洋豪族により仕切られ、船舶建造のために不可欠な資源となった辰砂であったからこそ、それら鉱山は海上交通の便が良い、紀伊半島や四国の大河川沿いに見出されたのです。

古代社会における辰砂の重要性

辰砂の用途は造船における船底の塗装に限りません。水銀の元となる辰砂には多くの優れた効用があり、古代から顔料、染料、朱肉、薬などに幅広く活用されてきました。船底を塗装して耐久性を向上させることに長年用いられてきた辰砂は、その後、古墳においても多用されるようになります。元伊勢御巡幸の後、海洋豪族の主導により、紀伊半島や四国各地に辰砂の鉱山が発見されました。その後、いつしか邪馬台国が歴史に台頭します。そして卑弥呼による女王国家が崩壊した後、3世紀半ば頃から古墳時代が到来し、いつしか辰砂は朱色の顔料、死者を弔うためにも使われ始めたのです。そして石室や棺、古墳の内壁や壁画の彩色など多用されたのです。つまり、古墳にて人体が埋葬される際、辰砂を大量に使用するようになったのです。若杉山遺跡が位置する阿波(徳島県)では矢野古墳からも辰砂が産出されたことから、これらの辰砂は船によって輸送され、古墳を造る際にも積極的に使用されたと想定されます。

朱色の顔料として重宝された辰砂は、古墳に限らず、由緒ある建造物や重要文化財にも多用されました。辰砂は防腐剤の役目も果たすことから、神社の鳥居を赤く塗る際に使われただけでなく、貴重な神殿の壁面などにも使われることがありました。また、古代では辰砂を含む赤土を顔や身体に塗ることがあり、これが化粧の始まりであったという説もあります。丹生都比売神社の由緒には、「播磨国風土記によれば、神功皇后の出兵の折、丹生都比売大臣の宣託により、衣服・武具・船を朱色に塗ったところ戦勝することが出来た」と記載されています。

若杉山遺跡の上方には巨石が連なる
若杉山遺跡の上方には巨石が連なる
いつの日も、歴史の中で辰砂は重要な役割を占めていました。それだけ高価なものであり、様々な用途において、効力を発揮する資源だったのです。だからこそ、海洋豪族は辰砂を探し求めて紀伊半島、四国の川を行き来し、レイラインの考察から重要な拠点を見出しては、そこに辰砂を掘り当て、坑道を掘進したのです。何の目印もない山の中腹に若杉山遺跡の場所が見出されたのも、偶然ではありません。それには確かな根拠がありました。

若杉山のレイライン

高くそびえる石垣に圧倒される
高くそびえる石垣に圧倒される
那賀川支流沿いの小さな山の中腹に連なる岩場の一角に若杉山遺跡があります。人気の全くない山奥でもあり、何ら目印も見当たりません。広大な四国の山岳、山々の中からいったいどのようにして若杉山を選定し、しかもその斜面に露出する多くの岩の中から、どのようにして特定の岩を選別し、掘削することができたのでしょうか。レイラインの考察から答えを見出すことができます。

レイラインとは、霊峰と言われる山々や大きな岬、神社などの聖地が一直線上に並んでいる状態を言います。一直線上に結び付けられると、たとえ山奥に新しく神社を建立した場合でも、他の指標を参照しながらその位置が見つけやすいだけでなく、同一線上の拠点同士が地の力と利を共有するという意味合いを持つことになります。そして神社など新たな拠点を設立する際には、複数のレイラインが交差する場所であることが重要視されたのです。神を祀る聖地や都を造営する場所など、大切な場所を見知らぬ新天地にて探し出す場合、古代ではレイラインの交差という構想が積極的に活用されました。若杉山遺跡も例に漏れず、複数のレイラインが交差する地点に見出されたのです。

石垣の段上には杉植林が行われている
石垣の段上には杉植林が行われている
若杉山遺跡の年代は1〜3世紀と特定されたことから、古代、元伊勢の御巡幸が終焉し、邪馬台国が台頭する時代に重なっていると考えられます。その時代背景を考えながら、レイラインの指標となる可能性の高い聖地や山を思い浮かべてみました。まず、多くのレイラインにおいて日本の最高峰である富士山が大切な指標となります。次に元伊勢御巡幸の基点でもあり、神が住まわれたとされる三輪山と、天照大神が祀られた伊勢神宮の存在が挙げられます。この2つの聖地も、レイラインの指標として多用されています。神宝と海洋豪族の歴史に纏わる神社としては、鹿島神宮も重要です。

また、神社の中でも1世紀という時代を振り返るならば、丹生都比売神社の存在を忘れることができません。元伊勢御巡幸が終わった直後の時代、その船旅を先導した船木氏らは紀伊半島の随所に一族の拠点を設けただけでなく、辰砂を求めて紀伊水道から吉野川を上り、その上流に辰砂の鉱山を見つけました。辰砂が発掘された場所は丹生とよばれ、その近郊には丹生都比売神社が建立されたのです。若杉山遺跡が辰砂の掘削場所であったことから、丹生都比売神社との関係があっても不思議ではありません。さらには元伊勢御巡幸が示唆する神宝の秘蔵地として、御巡幸地のレイラインすべてが交差する剣山の存在にも注目です。剣山には元伊勢御巡幸で祀られた真の神宝が一時期秘蔵されていた可能性があります。

段々の層を上るための石の階段
段々の層を上るための石の階段
これらの神社や霊峰を指標として結ぶレイラインの線上に若杉山遺跡が存在するか、見てみましょう。まず、霊峰なる三輪山から見て、冬至の日に太陽が沈む方角、およそ240度の方向に線を引いてみました。すると若杉山遺跡に当たります。これは、若杉山遺跡から見れば、夏至の日に太陽が昇る方向に三輪山が存在することを意味しています。夏至の日の出となる方角はレイラインの構想において、極めて重要な位置付けを持っています。次に富士山の頂上と鹿島神宮を結ぶ線を紀伊半島まで延長してみました。すると丹生都比売神社を通ることがわかります。丹生都比売神社の建立地を特定する際、富士山と鹿島神宮の延長線上に、その聖地が見出された結果と考えられます。しかもそのレイラインを西方に伸ばした延長線上に若杉山遺跡があるのです。つまり若杉山遺跡の場所は、辰砂を掘削する紀伊半島の丹生と、富士山、鹿島神宮の地の力と結び付いていただけでなく、そこから夏至の日が出る方角に三輪山を拝することができたのです。

さらに、西日本最高峰の石鎚山と剣山を結ぶ線を東方に延長すると、若杉山遺跡にあたります。これは若杉山が剣山と関わりを持っていることを示唆しています。また、元伊勢御巡幸にも含まれた瀧原宮と伊勢神宮を結ぶ線は、山上ヶ岳と生石ヶ峰の頂上を通り、若杉山遺跡に当たります。

様々な形に切られた石が積まれた石垣
様々な形に切られた石が積まれた石垣
これらレイラインの考察から、富士山、剣山、石鎚山、そして三輪山という日本屈指の霊峰と、伊勢神宮、鹿島神宮などいくつもの著名な社が結び付けられたレイラインが交差する場所に若杉山遺跡が存在することがわかります。若杉山遺跡の地は、山奥の中を何の考えもなく探し求めた結果、辰砂が出てくる場所が見つかった訳ではありませんでした。その場所は、古代聖地と霊峰、そして辰砂の象徴となる丹生都比売神社に結び付けられる場所を綿密に計算したうえで、ピンポイントに特定された場所だったのです。

若杉山遺跡のレイライン
若杉山遺跡のレイライン

レイラインから見えてくる歴史の流れ

今一度、歴史の流れを振り返ってみましょう。1世紀の初頭は前述したとおり、元伊勢の御巡幸が終焉し、伊勢神宮が建立された時代です。元伊勢の御巡幸は意外にも、神宝を守るだけでなく、後世にその秘蔵場所が四国の剣山であることを示唆するべく、迷路のように御巡幸地を転々と渡り巡ることでした。レイラインの考察から、すべての元伊勢と言われる御巡幸地が、四国の剣山に結び付いていることがわかりました。(「日本のレイライン」、17-44章参照」)。一見信じがたい構想ですが、地図に線引きをして確認できるだけでなく、剣山に神宝が持ち運ばれたと想定することにより、歴史の辻褄が合います。

元伊勢の御巡幸後、船舶で御一行を先導した海洋豪族の船木氏らは、伊勢より剣山へ向けて船旅を続けます。その途中、紀伊半島の西岸から吉野川を上り、上流にて辰砂を掘削し、丹生都比売神社が建立されました。その後、紀伊水道を徳島の方に渡り、那賀川から剣山へ向かって川の上流へと向かう途中、若杉山の地点を見出し、そこで掘削を行ったと考えられます。その場所が、今日の若杉山遺跡です。辰砂は造船を手掛ける海洋豪族にとっては不可欠な資源であったことから、大きな河川を上り下りしながら紀伊半島では丹生に、そして四国では若杉山にて辰砂の掘削が行われたと考えられます。

石上神社の巨石
石上神社の巨石
その後、神宝は剣山周辺に運ばれたと考えられる2つの理由があります。まず、その後の船木氏の動向を追ってみましょう。船木氏は徳島を離れた後、船で淡路島へと向かい、島の北方に上陸した後、今日の淡路市舟木まで山を登り、そこに巨石を移動して祀ったのです。船木氏が河川から遠く離れた場所に自らの拠点を設け、巨石を祀るからには、それなりの重大な理由があったと考えられます。その場所は、三輪山や斎宮、長谷寺と同緯度にあることから「太陽の道」とも称され、今日、巨石を御神体とする石上神社があります。しかも石上神社は、剣山と伊弉諾神宮を結ぶ一直線上にあり、その延長線には摩耶山も並んでいたのです。石上神社の地が船木氏の拠点となり、その三輪山と剣山を結び付けるレイラインの交差点上にて巨石が祀られたことからして、元伊勢の御巡幸に続く神宝の旅が、剣山を最終地点として完結したものと考えられます。

もう一つの理由が、元伊勢の時代からおよそ2世紀後に突如として台頭する邪馬台国の存在です。女王卑弥呼が神懸った背景には、神宝の存在があるのではないでしょうか。神宝のある所に信心深い人々が集まり、そこで祈りを捧げるうちに、霊力を付けたと想定されます。剣山に神宝が秘蔵されたとするならば、その山奥で卑弥呼が祈り、霊力を養ったと考えて何ら不思議はありません。よって、中国史書は、陸地から30日も歩かなければ到達しない奥地に邪馬台国があったと記載されています。そのような秘境は剣山しか存在しないでしょう。若杉山遺跡から辰砂が採れたことも、中国史書の記述と合致します。その河川の上流には剣山の存在がありました。

若杉山遺跡のレイラインから、歴史の流れを見直す多くのヒントを見出すことができます。

元伊勢御巡幸に続く海洋豪族の辰砂探索
元伊勢御巡幸に続く海洋豪族の辰砂探索

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