1. ホーム
  2. 日本のレイライン
  3. 古代日本の地勢観とレイライン

「石の宝殿」のレイライン 益田岩船とのつながりから垣間見る海洋豪族の不思議

日本列島各地では古代より、多くの巨石が御神体として祀られ、人々から崇められています。「岩なる神」という信仰心が古くから土着した最中、いつしか宮城県鹽竈神社の「塩竈」、鹿児島県霧島神宮の「天逆鉾」、そして兵庫県生石神社の「石の宝殿」は「日本三奇」として知られるようになりました。中でも「石の宝殿」の豪快なまでに巨大で特異な形状と、きめ細かな仕上げの美しさは、今日まで多くの人を魅了し続けてきました。パワースポットとしても知られる「石の宝殿」の魅力は、訪れる参拝者の心を揺るがします。

500トンを超える巨大な石の宝殿
500トンを超える巨大な石の宝殿
これまで「石の宝殿」の背景と歴史は、多くの謎に包まれてきました。宝殿が存在する生石神社の由緒には、その成り立ちについての記述はあるものの、史実としては曖昧であり、歴史の流れを特定するには至りません。その他、神代から弥生時代後期、飛鳥時代に関わる複数の伝承も残されていますが、古代の不透明な時期ということもあり、それらも十分に吟味されることはなかったのです。よって、「石の宝殿」はいつしか神秘化され、「日本三奇」のひとつとして、計り知れぬ存在となりました。その不思議な巨石の謎を、レイラインの検証から紐解いていくことができます。

「石の宝殿」の形状と祠の背景

池中に浮かぶように見える浮石
池中に浮かぶように見える浮石
「石の宝殿」は兵庫県の加古川市に近い生石(おうしこ)神社にあります。古くから村の名前は生石と呼ばれ、その読みは正式には「おうしこ」ですが、「おいし」、「おいしこ」と呼ばれることも多いようです。そこに巨石を御神体とする生石神社が建立されています。「石の宝殿」は「鎮の石室」とも呼ばれ、三方を岩壁に囲まれた巨岩からなる宮殿ともいわれる岩石の空間に、ほぼ正方形に近い巨石の塔がすっぽりと入っているのです。奈良時代初期に書かれた「播磨国風土記」印南郡(いなみのこおり)の条には、「石の宝殿」について以下のとおり記載されています。「原の南に作石あり。形、屋の如し。長さ二丈(つえ)、広さ一丈五尺、高さもかくの如し。名号を大石といふ。」

「石の宝殿」としても知られる神社の御神体は、横幅が約6.4m、奥行きが約7m、高さは約6mに削られた巨石の塔であり、その総重量は500トンとも700トンとも言われています。風土記の伝承によれば、神聖化された巨石は「作り石」とも呼ばれています。壁面四方には垂直に幅の広い溝状のへこみがきれいに削られ、とても美しい仕上げとなっています。その精工な職人技による溝状の跡は、奈良にある「益田の岩船」を彷彿させます。これは「石の宝殿」と「益田の岩船」という多くの謎に包まれた巨石が、古代では何等かの理由で結びついている可能性を示唆しています。

「石の宝殿」を囲む3辺の削られた岩石
「石の宝殿」を囲む3辺の削られた岩石
「石の宝殿」の底部は中心に向かってきれいにえぐられ、足のような芯の部分によって全体が支えられています。よって、周辺から見ると池中に浮くような様相となっています。それ故、「石の宝殿」は「浮石」とも呼ばれるようになりました。その池の水は霊水と考えられ、いかなる干ばつにおいても渇することなく「海水の満干を表し、また万病に卓効あるもの」、と古くから言い伝えられています。また、横一面には、屋根型に突出する特殊なデザインが施されています。正面には祠が設けられており、中心部分が生石神社の拝殿となっています。その拝殿の両側にて祭神である大己貴命と少彦名命が祀られています。

「石の宝殿」建造に纏わる由緒の数々

生石神社の御神体として古代より崇められてきた「石の宝殿」の成り立ちに纏わる複数の由緒を辿っていくと、およそ歴史の流れが見えてきます。「石の宝殿」が造られた経緯は、3つのステージに分けられます。まず神代のステージでは、国家の安泰を願いつつ列島内をくまなく旅しながら国造りに専念した二神により、「石の宝殿」となる巨石の場所が見出され、そこで石を削る作業が行われたのです。作業は未完成に終わりましたが、場所と巨石の特定ができました。

2つ目のステージは紀元1世紀、崇神天皇の時代に移り変わり、未完成のまま断念されていた巨石を祀るため、そこに生石神社が創建されることとなります。第3のステージが6世紀後半の飛鳥時代です。時を経て台頭した物部守屋一族らの働きにより、「石の宝殿」の整備が一気に進み、今日の見ることのできる形に近い状態まで修復されたと考えられます。

生石神社の「石の宝殿」へ向かう階段
生石神社の「石の宝殿」へ向かう階段
まず、神代のステージにおける成り立ちを振り返ってみましょう。生石神社の由緒によると、鎮の石室(いわや)とも呼ばれる「石の宝殿」が造られたきっかけは、国生みが始まった直後の神代、大己貴命(大国主神)と少彦名命による国造りに起因します。二神は八十神を平定し、人々に農業や医術を教えて生活の基盤となる日本の礎を築いたことで知られています。ある時、荒ぶる列島を鎮めることを願い、二神は生石の地にて「国土を鎮めるに相応しい石の宮殿を造営せんとして一夜の内に作業を進めた」のです。ところが作業半ばで反乱が生じ、夜明けまでに宮殿を起こすことができませんでした。それでも二神は、「たとえこの社が未完成なりとも二神の霊はこの石に籠もり永劫に国土を鎮めんと」と言明したと記されています。

境内の案内板には、もう少し踏み込んだ解説が記されています。その沿革によると、大己貴命と少彦名命の二神は「天神の勅命で国土経営のため出雲から当地に立ち寄りになり、この宝殿山に仮宮を造って御滞在された時、この石宝殿を刻まれた」とのことです。つまり神代において、スサノオ命が拠点とした出雲から旅された孫の大己貴命ら二神は、国家安泰のために、生石に「石の宝殿」の基となる巨石を見出し、それにノミをあてて加工したのです。それが「石の宝殿」の原点となりました。

しかしながら作業途中で反乱が生じ、「石宝殿造りの作業は捨てられたので未完成に終わりました。夜明けとなり、この宮殿を正面に起こすことが出来なかった」と由緒では説明しています。一見不可解な文章ですが、その意味は「播州石宝殿略縁起」を読むと明らかになります。そこには、夜が明けて時間がなくなった結果、生石大神を祀る宮殿は、「横倒しのまま起こすことができなかった。」と書かれています。つまり、当初「石の宝殿」は、その巨石を精巧にノミで削るため、巨石を横に寝かせながら石を削ったと考えられるのです。そして最終的にはその巨石を再び起こし上げて、まっすぐに立たせることが目論まれたことでしょう。だからこそ、古くから「石の宝殿」の底石は切られているという伝承があり、「浮石」とも言われているのです。つまり歴史のどこかで、倒れていた巨石が起こされて、今の形になったと推測されます。

こうして神代に創建された「石の宝殿」の原型は未完成でありながらも、その後、弥生時代から飛鳥、奈良時代にかけて、「石の宝殿」「鎮の石室」として人々から崇め祀られるようになります。

生石神社創建の歴史

神代から何世紀も経た紀元前後、崇神天皇の御代、それまで倒れたまま起こされることがなかった「石の宝殿」の巨石を御神体とする生石神社が創建されることとなります。これが2つ目のステージです。当時、国内各地では疫病が流行し、海の向こうからは敵国来襲の噂も流れ、大勢の渡来者が朝鮮半島を経由して日本列島に移住してくる最中、国家は分断の危機に直面していました。由緒によると、その時「二神が天皇の夢枕に現れ、吾が霊を祭らば天下は泰平なるべし」とのお告げがあり、それを機に生石神社が創建されることになったのです。

生石神社 四社殿
生石神社 四社殿
崇神天皇の時代といえば、大和朝廷において元伊勢の御巡幸が始まった時です。1世紀近くにわたり続いた御巡幸は豊鋤入姫命から倭姫命へと引き継がれ、垂仁天皇の時代まで続きます。奈良の三輪山から始まった元伊勢の御巡幸の目的は、表立っては伊勢神宮を建立するまでの旅路を世間に知らしめることでした。しかしその背後には、外敵の来襲から神宝を守るため、各地を転々としながら敵の目をくらまし、神宝を敵の手が届かいない遠い場所に秘蔵してしまうという壮大なスケールのプロジェクトが秘められていたのです。それ故、生石神社の創建は元伊勢御巡幸と共に、国家安泰という願いの元に考案された事業だったのです。

「石の宝殿」の創建について、「播州旧社寺記」には「二神顕われ坐す時、天女降り社を造らんとす。既に黎明に及び起し立つ暇あらず、即ち上天して去る。今石宝殿也。」と記載されています。この内容からは、二神が夢で現れただけでなく、直後、天女が降臨し、社を造られたことがわかります。その天女とは、崇神天皇の皇女である豊鋤入姫命ではないでしょうか。元伊勢ご巡幸が始まってからおよそ半世紀後、和歌山から吉備国(岡山県)へと向かう途中のルートにある「石の宝殿」にて、生石神社は創建されましたが、御巡幸の途中ということもあり、御一行は社だけを建立するのみに終始し、すぐに去らなければならなかったことが「播州旧社寺記」の記述から理解できます。

伊勢神宮 五十鈴川
伊勢神宮 五十鈴川
元伊勢ご巡幸の最終段は、豊鋤入姫命から使命を引き継いだ倭姫命が、伊勢の五十鈴川周辺に伊勢神宮を建立することにより終焉すると考えられています。ところが、ご巡幸の詳細について記されている「倭姫命世記」を見ると、実際には伊勢に到達した後にも船旅が続いていたことがわかります。そして御一行を船で導かれたと考えられる海洋豪族の船木一族は、紀伊半島を西方向に回り続けて紀伊水道へと向かい、最終的には紀伊国の丹生や吉野、海を隔てた四国の若杉山、淡路の舟木、そして播磨界隈などにも船木氏の拠点を設けることとなります。この船木氏の働きにより、元伊勢御巡幸はその目的である神宝の秘蔵を達成することができただけでなく、海洋豪族の印として益田岩船のみならず、「石の宝殿」の整備も行われたのです。船木氏の最終拠点は播磨であり、その高台からは淡路の舟木だけでなく四国の剣山、「石の宝殿」も見届けることができたのです。

これら一連のシナリオが単なる憶測ではなく、史実である可能性が高いと推測できることは、御巡幸地と他の聖地との繋がりを明るみにするレイラインと呼ばれる線引きの考察により確認することができます。例えば御巡幸の最終目的地となる神宝の秘蔵場所が四国の剣山であったことは、元伊勢の御巡幸地につながる多くのレイラインを考察することにより明らかになります。だからこそ、御巡幸における船旅の主導者である船木一族は、海洋豪族とは縁のない淡路島の高台に舟木の拠点を設けたのです。その場所は三輪山と同緯度にあり、剣山と伊弉諾神宮を結ぶ線が交差するピンポイントの地点だったのです。

元伊勢ご巡幸の終焉とともに1世紀少々経つと、神宝が秘蔵されたと考えられる四国の山上にて邪馬台国が産声をあげます。そして日本の歴史を大きく動かす国家として台頭するのです。つまり「石の宝殿」の存在とは単なる生石神社の御神体だけでなく、実は元伊勢の御巡幸や神宝の秘蔵、そして海洋豪族による国家への貢献とも深く繋がっていたのです。

物部氏による「石の宝殿」の整備

生石神社 拝殿
生石神社 拝殿
最後のステージが、物部氏による生石神社と巨石の整備です。「播磨国風土記」には「石の宝殿」について、「聖徳の王の御世、弓削(ゆげ)の大連(物部守屋)の造れる石なり」と記されています。物部氏の一族である物部守屋が弓削大連と称されたのは聖徳太子の時代である6世紀後半ですが、既にその時期には「石の宝殿」が造られているのは前述したとおりです。よって、新たに「石の宝殿」を創建したということではなく、古代、建造されながらも未完成のまま倒れていた巨石を立ち起こすため、物部守屋一族が尽力されたと解釈できます。

物部守屋とは、イスラエルにて祭祀を司っていたレビ族の血統を継いでいる可能性が高い一族です。その優れた宗教的感性は、まさに古代イスラエル人のものに酷似しています。その前提で推察すると、物部守屋が母方の姓である「弓削」(ユゲ)を名乗り始めた理由が見えてきます。何故なら「ユゲ」は、ユダヤ人を意味する言葉であると考えられるからです。別章にて解説しているとおり、中国史書である東夷伝に記載されている「九夷」は、中国語でJiu-yi(ジウィ)と発音し、「イスラエルの民」を意味すると考えられます。その「九夷」をヘブライ語で逆さ読みすると、JとGの子音はヘブライ語では同じことから「ユゲ」と読むことができます。よって「弓削」という当て字の背景には、「イスラエルの民」という意味が盛り込まれていた可能性があります。

物部守屋は国家権力を担うまでになった豪族であり、また物資の供給や兵器、輸送体制にも当時、大きな力をもっていました。よって、その物部守屋一族が聖徳太子の時代に「石の宝殿」を整備して立て起こす、ということは十分に考えられることです。したがって6世紀から7世紀にかけて、「石の宝殿」は現在の様相にまで整備され、生石神社の御神体となるべく、池中を浮いている「浮石」、そして「作り石」と言われるようになったのでしょう。この500トンを超える巨石をどのようにして立て起こしたかは世紀の謎です。不可能を可能にする古代人の英知に驚嘆するばかりです。

大己貴神と少彦名命の歴史的背景

生石神社の由緒に記載されている伝承が正しいとするならば、石の宝殿が最初に手掛けられた時代は、神代でも最も古い時代まで遡ります。大己貴命(大国主神)と少彦名命により国造りが行われた時代は初代神武天皇の時代よりも古く、瓊瓊杵尊が九州の高千穂に天孫降臨した時代の直前になります。それは伊耶那岐命と伊邪那美命が南西諸島から船で北上し、淡路島を中心として日本列島の島々を見出し、その後、子である素戔嗚尊が日本海側の出雲を拠点として、国の開拓に貢献された直後の時代でもあります。

素戔嗚尊は主に出雲と韓地(からくに)と呼ばれた朝鮮半島を行き来しながら建国の働きに大きな貢献を遂げました。八岐大蛇と呼ばれる外来の敵船との戦いはあまりに有名であり、いつしか神話化されてしまいましたが、これは実際にあった海上での戦争を神話に例えているにすぎません。海を渡って日本に渡来した海洋豪族の子孫である素戔嗚尊は、造船技術に長けていただけでなく、日本列島という新天地において船を造ることの重要性を熟知していました。それ故、子である五十猛命に命じて、宮殿を造るための檜に加えて、船を造るための杉を植林させ、同時に食料となる木の実を九州の筑紫から大八洲国(本州)までくまなく種を蒔き、列島をことごとく青山にされたのです。その結果、五十猛命は「木国」ともいわれる紀伊国に住まわれました。

こうして樹木や食料となる植物が生い茂り、日本列島の地が居住しやすい環境が整えられてきた時、素戔嗚尊の孫にあたる大己貴神と少彦名命は大和国を整備するために船に乗り、日本列島に到来したのです。古事記によると、少彦名命は天乃羅摩船(アメノカガミノフネ)に乗り、波の彼方より列島に辿り着いたと記載されています。少彦名命の名前が登場するのは記紀以外には主に山陰、四国、北陸の地方伝承であることから、素戔嗚尊と同じく2人は出雲から上陸し、そこを起点として力を合わせて列島内を巡り歩き、島々に住む人達のために病気の治療法や、災害を払い除くための祈祷の方法などを定めたのでしょう。そして少彦名命は亡くなられる直前、熊野の最先端にある岬に行き着き、そこから淡路へと向かったのです。

出雲大社 本殿
出雲大社 本殿
その後、一人になった大己貴神はそれでも列島内を巡り歩き続け、国造りを完成させるために全力を振り絞って働かれました。そして最後に出雲へと戻ってきたのです。その時、大己貴神は「この国を平定したのは、この私ただ一人である。私と一緒に天下を治める者はいるだろうか」と、独り言を語っていたちょうどその時、遂に神が現れ、「私がいたからこそ、あなたは国を平定するという偉大な功績を立てることができたのだ」と大己貴神にお告げになりました。そして神は「日本国の三諸山に住みたい」と語られたことから、大三輪の神として、今日の三輪山に神の宮殿が造られたのです。

これらを背景に考えると、大己貴神ら二神が活躍された国造りの時代における日本列島の状態が、うっすらと見えてくるようです。列島は未開の地に生い茂る樹木に囲まれていたようです。その雑林をかいくぐりながら、全国をくまなく整備して歩き回るという、とてつもない作業に大己貴神は携わっていたのです。しかも未踏の地であったことから、どこに何があるかわからない、という状態です。よって、列島の周辺や、その内地にも目印となる拠点を設け、恒久的な指標とすることは極めて重要な作業であったと考えられます。それ故、大己貴神と少彦名命は、列島内各地に目印となる拠点を見出していく最中、まず、「国土を鎮めるに相応しい石の宮殿」を造るに至ったのです。西アジアから渡来したと考えられる大己貴神らの先祖にとって、岩は神の象徴でした。いつの日も、岩なる神を崇めるという伝統が守られてきたことも、石の宮殿を手掛けた背景にあるようです。

レイラインを構成する指標とは

最古のレイラインを検証する際、認識しておかねばならないことは、建国に携わった神代の神々とは大陸から船を用いて海を渡ってきた渡来人、かつ海洋豪族であるということです。大陸から日本列島を目指して訪れた民は、優れた航海技術を携えてきただけでなく、天文学の知識に長けていることから、地勢観の見極めに特に敏感であったと考えられます。それ故、天体と地の指標を見ながら、ピンポイントで方角や距離を特定し、目的の地を探しだすことができたと想定されます。

「石の宝殿」が造られる場所を特定された経緯を理解する手掛かりは、レイラインの検証からヒントを得ることができます。大己貴神ら二神の時代は、国造りが始まった直後ですから、まだ列島内にはレイラインを構成するために必要な指標の地がほとんど存在しません。記紀に記されているストーリーの中でも、伊耶那岐神による国生みの時代から孫の代々、大己貴神に至るまでの間、出雲以外に特筆されている地名は以下のとおり。

  • 熊野有馬村の花の窟
  • 阿波の鳴門海峡や明石海峡
  • 淡路国
  • 筑紫の宗像
  • 沖津宮、中津宮、辺津宮)
  • 宇佐島
  • 天香山
  • 熊野の岬
  • 日前神(紀伊国)

三輪山
三輪山
大己貴神ら神代の人々は当初、船に乗って九州北部から日本海へと渡り、出雲から上陸しました。よって、古代では出雲までの船旅の途中にある宗像周辺や対馬、壱岐などの離島は、ごく自然に渡来者の拠点となりました。その後、国造りをはじめるにあたり、まず淡路を中心とする阿波の国周辺と紀伊国にスポットがあてられたようです。そして本州の中心となるべく紀伊国の北方、奈良の盆地にある三輪山が聖地と定められ、そこに大和国の朝廷が設立されたのです。

大己貴神ら二神にとって、国造りをはじめた直後は、上記程度の地名しか知る由もなかったはずです。それでも国家を鎮めるための「石の宝殿」の場所を見出すことができたのは、レイラインが交差する重要な拠点があることに気が付いていたからに他なりません。どのようにして列島内に「岩なる神」となる巨石を見出し、そこで神を祀ることができたのか、古代史の流れを振り返りながら、レイラインから見出せる拠点を検証してみましょう。

益田岩船のレイライン

大己貴神と少彦名命の二神が出雲から旅立ち、そこから列島内の各地を巡り渡るためには、列島の地勢を理解するための目印となる指標が不可欠でした。そこでまず、基点となる場所を天香山周辺に見出したと想定されます。素戔嗚尊の時代、紀伊国の日前神により、天香山の鉱物を用いて日矛が製造されました。天香山は奈良盆地の中にある標高152mの小高い丘であり、遠くから見てもわかりやすい場所にあり、内地で名前が知られていた唯一の拠点だったことから、その周辺に基点を置くことが最善策と考えられたことでしょう。そこで見出されたのが、天香山から南西方向におよそ4kmの場所にある、今日では益田岩船と呼ばれる巨石です。ではどのようにして、益田岩船の巨石を特定できたのでしょうか。

益田岩船
益田岩船
二神はまず、紀伊半島の最南端にある紀伊大島の出雲を指標としたと考えられます。紀伊大島は半島の先に突出する島であることから、海、陸地、双方から見てすぐにわかる場所といえます。その紀伊大島の東方にも出雲という地名が存在することに注目です。出雲はヘブライ語で(itsumo、イツモ)を語源とする言葉と考えられ、「頂点」、「最大限」、「最果て」を意味します。よって、紀伊大島の最南端も出雲と命名されたのでしょう。そこから真北に向かい、淡路島の伊弉諾神宮と同緯度の線と交差する場所を拠点とするならば、いつの日でも一目瞭然にその場所を特定できます。そこが益田岩船の聖地となりました。

益田岩船と同緯度の線上には伊弉諾神宮だけでなく、その後、西方の対馬には和多都美神社が、東方の伊勢には猿田彦神社が建立されることになります。よって益田岩船は、これら聖地の場所を奈良の中心から見定める上でも、極めて重要な位置付けとなったのです。

益田岩船のレイライン
益田岩船のレイライン

生石神社のレイライン

益田岩船を彷彿させる直線の切込
益田岩船を彷彿させる直線の切込
奈良盆地の中心に見出された益田岩船は、さっそく大己貴神ら二神により、列島の指標として用いられたと考えられます。二神は国家安泰のため、「石の宝殿」となる場所を探し求めていました。それが益田岩船を介したレイラインの検証から、生石であることが確認できたのです。その結果、生石において巨石にノミがあてられ、前代未聞の巨大な建造物が造りあげられたのです。生石神社の由緒に記されていることが作り話でないことは、レイラインの検証から推測できます。

益田岩船 上面の溝
益田岩船 上面の溝
まず、奈良に見出された益田岩船の巨石がある地点と、日本海側の基点である出雲の八雲山を一直線に結びます。八雲山は出雲大社の北側に聳え立つ山であり、出雲大社の御神体であると古くから囁かれています。その直線上に「石の宝殿」を創建する場所を見出すものとします。次に兵庫県の六甲山に目を留めてみました。大阪近郊にあるにも関わらず、六甲の山々は急斜面に囲まれ大変険しいことで有名です。その六甲山の最高峰から同緯度になる水平の線を引き、益田岩船と八雲山を結ぶ線が同緯度の線と交差する場所を特定します。そこが「石の宝殿」となる場所です。これらの因果関係もあってか、今日では六甲山最高峰そばにも六甲山神社と共に、六甲山の「石宝殿」があります。

「石の宝殿」が造られた時を同じくして、大己貴神(大物主命)は四国香川の琴平山ともよばれる象頭山を訪れ、そこに金刀比羅宮を建てられました。その奥宮は今日、厳魂神社と呼ばれています。金刀比羅宮は海上交通の守り神として古くから篤い信仰を集めているのは、海洋豪族である大己貴神ら創建者の働きによるものです。金刀比羅宮の周辺は古代、入江が近くまで入り込み、海辺に面していたと考えられます。ではどのようにして金刀比羅宮となる場所が特定できたのでしょうか。

八雲山を遙拝する「石の宝殿」の祠
八雲山を遙拝する「石の宝殿」の祠
金刀比羅宮の奥宮となる厳魂神社は、四国の霊峰、石鎚山と「石の宝殿」を結んだ線上にピタリと位置しています。石鎚山は崇神天皇の御代、石鎚の峯に神が勧請されたと伝承されています。それは「石の宝殿」が造られたのと同じ時代です。しかもその地点は、出雲の八雲山と四国剣山を結ぶ線がちょうど交差する場所にあります。金刀比羅宮厳魂神社も大己貴神の働きにより、「石の宝殿」が造られた時代に創建され、四国、中国、九州地方を統治するための一大拠点となった形跡を窺えます。古代から言い伝えられてきた由緒の内容は確かであったことをレイラインの検証から確認することができます。

「石の宝殿」は、その後も大切な指標として用いられることになります。大己貴神の時代、一連の国造りが進んだ後、三輪山に神が降臨され、そこに大神神社が建立されました。その大神神社と「石の宝殿」と結ぶ線上に、海上交通の神々を祀る住吉大社が建立されることになります。また、石上神宮と「石の宝殿」を結ぶ線上には後世において、和気清麻呂や空海が重要視した神戸の再度山が並びます。レイラインの検証を通して、「石の宝殿」の場所がいかに、古代より重要視されていたかを知ることができます。

生石神社のレイライン
生石神社のレイライン

何が目的で「石の宝殿」が造られたか?

「石の宝殿」が造られた理由には諸説があります。江戸時代には地元出身の学者が、「石の宝殿」は未完成の石棺であったという説を発表しました。周辺の地域には古代、石棺制作地として有名な竜山(たつやま)石切場が存在し、竜山石切場で造られた石棺は、東は滋賀県、西は山口県まで数多く運ばれた形跡があります。また、それらは畿内の大王家の首長墓で使われた長持型石棺と同形であることから、石切場そのものも畿内勢力によって開発されただけでなく、その工作物は「石の宝殿」にまで及んだと推察するのです。その他、天文観測用の占星台説や、火葬の骨臓器を置いた外容施設、供養堂のような新しい形式の石造物という説などがありますが、いずれも信憑性に欠けます。

出雲に向かって突出する石の一面
出雲に向かって突出する石の一面
「石の宝殿」の目的はあくまで、国家の安泰です。そのため、元伊勢の御巡幸を引率した海洋豪族を中心に聖地が定められ、神々が祀られたのです。その岩の形状は何かを示唆しているようですが、いまだに特定はできません。しかしながら、「石の宝殿」が益田岩船と関連していることはレイラインの考察からも明らかです。また、「石の宝殿」の背景には元伊勢御巡幸と海洋豪族の働きがあることから、神宝秘蔵との関連性も否定できません。確かなことは、「石の宝殿」の祠は、ぴたりと益田岩船と向き合っていることです。そして「石の宝殿」を拝することは、出雲の八雲山を遥拝することになる、ということです。レイラインの検証から、古代のミステリーが少しずつ紐解かれていきます。

写真ギャラリー