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巨石文化 益田岩船の不思議 イスラエルのマサダ要塞と金田城に由来する可能性を探る

益田岩船へ続く山道
益田岩船へ続く山道
古代から日本列島の各地では巨石信仰が広まり、神仏が宿る聖なるスポットとして、多くの巨石が崇められてきました。岩には神が宿る、すなわち「岩なる神」という宗教感は自然崇拝の賜物であり、時には大陸より渡来した移住者により巨石文化の思想が持ち込まれることもありました。多くの巨石に古代の民が注目する最中、時には巨石に人の手が入れられて岩が切られ、不思議な形状を醸し出しながら石造物として名乗りをあげることもありました。橿原市にある益田岩船は奈良の酒船石や亀石に匹敵する、まさに奇石と呼ばれるにふさわしい不思議な作品です。

益田岩船は樫原ニュータウンの西側、白樫南小学校裏に隣接する岩船山とも呼ばれている小高い丘の斜面に存在します。人の手が巧妙に入れられた巨石の作品でありながら、その歴史的背景はこれまで何ら特定することができず、真相は多くの謎に包まれています。また、何故かしら知名度も低く、地元の方々でもこの比類なき幾何学的なデザインを誇る巨石を、まだ見たことがないという人が多いようです。

角度を変えてみると船のようにも見える巨石
角度を変えてみると船のようにも見える巨石
益田岩船の美しい仕上がりと、その異様なデザイン、そして巨石が存在するそのロケーションそのものには、何かしら重要な意味があるはずです。それら古代の謎を解明する扉を、レイラインの考察から検証していた矢先、ふとしたきっかけで対馬の金田城の頂上まで登山する機会に恵まれました。そして頂上近くの山道沿いにある石造物を見た瞬間、目が釘付けになりました。そこには益田岩船に酷似した2つの正方形の穴が造られていたのです。レイラインの検証とともに、益田岩船のデザインに類似した石造物を比較検証することにより、古代の謎を紐解くきっかけを得ることができるかもしれません。

益田岩船の巨石デザイン

奇石とよばれるにふさわしい益田岩船のデザイン石
奇石とよばれるにふさわしい益田岩船のデザイン

花崗岩からなる益田岩船の大きさは、東西に約11m、南北に8m、高さは4.7m、形は台形の様相を呈しています。岩船の上部には、東西方向に幅およそ1.8mの溝が切られ、その内側に縦横1.6mの正方形となる2つの大きな穴が、深さおよそ1.3mに彫られています。これら2つの穴は互いに1.4m離れています。花崗岩の巨石に切り込まれた幾何学的なデザインの仕上がりは見事であり、古代の造作物とは思えないほどの美しさを誇ります。

益田岩船の南側は、岩の表面が綺麗に磨かれたような仕上げとなり、北側も上半分は手が入れられ、スムースな表面になっています。また、北側の下部から東西方向の側面にかけては、網目のような格子状のデザインが表面に彫られており、その不思議なデザインに一瞬、目が留まります。深さ10pほどにもなる格子状の切込みは整然と並び、何等かの目的をもって彫られたようにも見えます。

格子状の切込みに関する最も有力な説は、益田岩船の岩石表面をきれいに仕上げるための製造過程に必要とした加工の痕と考えることです。磨かれた部分と格子状になっている部分との接点が乱れて見えることから、格子状に切り込みを入れながら表面加工を進めていくにあたり、巨石全体を最後まで完結できなかったと想定されます。上部にある2つの穴のうち、ひとつにはクラックと呼ばれる小さな隙間が生じ、たまった雨水が漏れて流れてしまうことが原因で、プロジェクトが頓挫したのかもしれません。

考古学的資料から復元された古代ギリシャのトライリム
考古学的資料から復元された古代ギリシャのトライリム
しかしながら表面を加工するために、最初からわざわざ格子状のデザインを全面に渡り整然と切り込むでしょうか。それもいささか考えづらいことから、これら格子状の整形痕は、何かを象徴する意図的なデザインであったと主張する説もあります。例えば、益田岩船と呼ばれるだけに、古代の船をモチーフとして彫られたものとは考えられないでしょうか。

紀元前10世紀以上にもなる遠い昔の時代から、西アジアを中心に人類は船で遠洋まで航海していたことが知られています。イスラエルではソロモン王の時代、すでにタルシシ船がアフリカ大陸からアジア大陸に向けて航海を繰り返していました。その後、紀元前5世紀、古代ギリシャでは三段櫂を搭載したトライリムと呼ばれた戦艦も歴史に姿を現しました。トライリムの漕ぎ坐は3段になっていることから、船の横には三段に櫂が飛び出し、船底に向けて海面に近い箇所から四角形の窓が積み重なっていたのです。考古学の資料分析から描かれた古代トライリムの図を参照すると、その升目状にデザインされている三段櫂の有様は、多くの格子状デザインが積み重なったようにも見えます。もしかすると、船の櫂が出る窓を思いおこしながら格子状のデザインを用いて切り込みを入れ、益田岩船の表面を上部から削って磨いたのかもしれません。

益田岩船の年代と位置付け

益田岩船の巨石は、異なる場所から人の手で運ばれて置かれ、そして現在の不思議な形になるまで手が加えられたのでしょうか。岩の重量は400〜500tは超えると想定され、今日の技術をもっても、移動することは極めて難しいことです。しかも小高い丘の上まで運ぶわけですから、大変な労苦と技術を要するはずです。よって、今日では自然石として従来、その場所にあったのではないかという考えが主流になってきています。

しかしながら、周辺には類似した岩石もなく、何の変哲もない斜面に唐突に存在する巨石であることから、人為的に動かされた巨石であるという説も否定できません。古代人の英知は想像をはるかに凌ぐ優れたものであり、エジプトのピラミッドにしても何千、何万という巨石をどのように積み上げたのか、その方法さえも今日まで特定することができていません。よって重たいから元々その場所にあったであろう、という想定は安易にできません。

伊弉諾神宮 本殿
伊弉諾神宮 本殿
また、益田岩船の場所が、ピンポイントで重要な位置づけを占めていたことにも注視必要があります。レイラインの考察から、益田岩船の場所は伊弉諾神宮と同緯度のラインと、紀伊半島の最先端となる紀伊大島出雲の真北にあたるラインが交差する地点にあたることがわかります。指標としてわかりやすい場所にあるだけでなく伊弉諾神宮とも結び付く地点であることから、古くから奈良地方において、地の力を宿す中心的な場所となっていた可能性があります。そのクロスポイントに目印となる岩を置き、美しい石造物を彫ることにより、何らかの大切なメッセージを人々に伝えようとしたのではないでしょうか。それ故、人為的に巨石がその場所に持ち運ばれてきたという説も、安易に否定することはできないでしょう。いずれにしても、益田岩船の場所、そのものに重要な意味があることに違いはありません。

では、この巨大な石造物はいつ頃造られたのでしょうか。一説によると、益田岩船のデザインは大和時代に普及した高麗尺と呼ばれる、ものさしの基準を用いて採寸されているということです。それに加え、益田岩船の表面加工の技術が、古墳時代末期から飛鳥時代に造られた奈良界隈に存在する他の石造物と類似点が多いことから、益田岩船は7世紀前後に造られたのではないかと考えられています。益田岩船の年代を考えるにあたり、少なくとも2つの視点から見極める必要があります。まず、巨石そのものが発見された、もしくは移設された時代がいつであったか。そしてその後、石造物の作品として手掛けられたのはいつだったかということです。それらの時代を検証するにあたり、レイライン上の位置づけからヒントを得ることができます。

益田岩船の巨石が奈良の中心に見出され、その場所が大切な指標として認識されたのは、古代でも、かなり時代を遡るものと考えられます。何故ならば、益田岩船は紀伊半島の最南端に突出する紀伊大島出雲と同じ経度にあり、その線が淡路島の伊弉諾神宮と同緯度の線と交差する場所にあるからです。紀伊大島出雲は紀伊半島の先に突出する島であり、海、陸地、双方から見てわかりやすい場所となっていることから、古代の指標として用いられやすかったのです。また、紀伊大島の東部は、島根県の出雲に紐づけられて紀伊大島出雲と呼ばれていることにも注目です。出雲(イズモ)はヘブライ語で「最果て」を意味する言葉です。紀伊半島でも突出した最果て、最南端となる紀伊大島出雲から見て真北に、益田岩船が存在します。

益田岩船を東側から見る
益田岩船を東側から見る
また、益田岩船は、国生みが始まった淡路島の中心にある伊弉諾神宮と同緯度の位置に存在します。伊弉諾神宮は、伊耶那岐神が葬られた古代最古の聖地のひとつです。その伊弉諾神宮と同緯度の線が紀伊大島出雲からみて真北となる線と交差する地点に益田岩船があるのです。このように古代でも最も古い歴史を誇る場所や、紀伊大島出雲のようにわかりやすい自然の指標のみを用いたレイライン上にある拠点は、年代の古い史跡の特徴となっています。こうして益田岩船の巨石は古代、現在の場所に発見されたか、そのピンポイントの場所に巨石が運ばれ、そこが重大な指標として認識されるようになったと考えられます。

500トンを超える巨大な石の宝殿
500トンを超える巨大な石の宝殿
この益田岩船が指標として存在したからこそ、益田岩船と出雲の八雲山を結ぶ線上に、後世において兵庫県にある生石神社の「石の宝殿」が見出されたと推測されます。日本三大奇石の一つにあげられる「石の宝殿」は、崇神天皇の時代に手がけられた石造物と推定されています。その場所を特定するためには、出雲の古代聖地である八雲山と奈良の益田岩船、そして古代の霊峰石鎚山と金刀比羅宮厳魂神社が選別されたことがレイラインの検証からわかります。そして八雲山と益田岩船、石鎚山と金刀比羅宮を結ぶ線が交差する地点が重要視され、そこに「石の宝殿」が建造されたと推定することにより、これらの聖地がすべて古代では紐づけられて考えられていたのではないかと推測できるのです。

八雲山はスサノオが活躍した国生みの時代まで、そして金毘羅宮は神話に登場する大物主命の時代まで歴史が遡ることから、霊峰石鎚山と共にレイラインの指標としては最も古いものにあたります。また、益田岩船の場所も、伊弉諾神宮と紀伊大島出雲を介して、古くから特定されたと考えられます。その益田岩船の場所を指標として用いて、「石の宝殿」が出雲の八雲山につながる線上に見出されたということは、金刀比羅宮奥社 厳魂神社
金刀比羅宮奥社 厳魂神社
これら指標のすべてが海に結び付いていることを示唆しているようです。出雲はスサノオが日本海から上陸した古代の聖地です。紀伊大島出雲も海に面した紀伊半島の最南端です。香川の金刀比羅宮は海上交通の神々を祀っています。そして伊弉諾神宮にて葬られた伊耶那岐神は、国生みにあたり、日本の島々を船で巡り渡った人物です。よって、奈良の拠点となる益田岩船に海上交通のモチーフが絡んでいることに何ら不思議はなく、これらレイラインの指標を用いて見いだされた「石の宝殿」も例外ではありません。

益田岩船のレイラインに関係するこれら指標の相互関係から察するに、「石の宝殿」が造られる以前、すなわち崇神天皇の時代よりも古い時代から益田岩船の場所は大切な拠点として認知されていたと考えられます。その場所に益田岩船の巨石が見出され、もしくは運ばれた後、時代を経て、その巨石に手が加えられ、益田岩船の形状になったと想定されます。

益田岩船のレイライン
益田岩船のレイライン

「益田岩船」名称の由来

古代の巨石がなぜ、益田岩船と呼ばれるようになったのかは定かではありません。一説では822年に完成した奈良の益田池との関わりが指摘され、古代からその地域が益田と呼ばれていたことに由来するのではないかといわれています。しかしながら、その場所が益田と呼ばれていたとしても、古代ではまだ、そこに池が造成されていたわけでもなく、「岩船」という名称をつけるにはいささか不可解です。

「益田」という名称は、名前の響きが殆ど一緒であることから、イスラエルのマサダ要塞に由来し、「マサダ」の当て字として漢字で「益田」にしたとは考えられないでしょうか。名前の一致だけでなく、驚くことに岩の形まで同じに見えることに注目です。益田岩船は、見る角度によって様々な顔をもっています。中でも南側からの綺麗な表面の姿は美しいものです。マサダ要塞も東西双方から見る角度によって、様相、形が全く異なりますが、その東方から見る様相は益田岩船に似ています。筆者がマサダを訪れた際には多くの画像をカメラで撮ることができました。それらの画像と比較しても類似点が多いことに気が付きます。双方の頂上がフラットなこと、右側の斜面は緩やかで、左側の斜面が急であること、そして裾野が大きく広がっているように見えることなどがキーポイントです。

益田岩船とマサダ要塞が関連するという前提で考えると、西アジアから到来したい古代の海洋豪族によって益田岩船が造られた可能性も見えてきます。奈良盆地の中心となる場所に古代の識者らは巨石を見出し、その後、岩を削ってマサダ要塞の似姿に合わせて造り上げたと想定すれば、益田岩船がマサダ要塞の形に酷似していることも理解することができます。

また、「岩船」としての海上交通に紐づけることができることにも注目です。益田岩船は出雲の八雲山と生石神社の「石の宝殿」とレイライン上で繋がっているだけでなく、海上交通の神々を祀る金刀比羅宮の奥宮とも紐づけられています。「石の宝殿」は元伊勢御巡幸が行われた崇神天皇の御代に造営されたと言われています。一世紀近く続いた元伊勢御巡幸では、その最終段において海洋豪族に守られながら、琵琶湖の東方、美濃国(岐阜)の伊久良河宮より船で川を下り、海岸沿いを航行しながら伊勢まで到達することができたのです。石上神社の御神体石と正面の祠
石上神社の御神体石と正面の祠
その後も船木一族を主体とする海洋豪族は紀伊水道に向けて渡航を続け、一族の拠点を各地に造成しただけでなく、各地で造船に必要な塗料の原料となる辰砂をも発掘しました。そして淡路島の舟木には多くの聖地を結ぶレイラインの交差点となる重要スポットを見出し、そこに巨石を置いたのです。その流れに沿って、船木一族の最終拠点となった播磨の近郊にある「石の宝殿」も手掛けられたのではないかと推測されます。

古代の海洋豪族の様々な働きによって元伊勢御巡幸が完結し、伊勢神宮が建立されただけでなく、その延長線には海洋豪族の存在を世に知らしめる複数の巨石を用いた石造物が残されることになりました。それらの指標のひとつが、益田岩船の場所であった可能性があります。そして時代を経て、その巨石に白羽の矢があてられ、マサダ要塞を追憶するかのごとく「益田岩船」が綺麗に彫られて誕生したと推測すると、時代の流れが見えてきます。

建造された目的は何か?

益田岩船の上部
益田岩船の上部
益田岩船の巨石が削られて、現状の形をとった目的は何だったのでしょうか。なぜ、岩を綺麗に磨く必要があったのでしょうか。上部にある2つの正方形の穴は、何の目的をもって造られたのでしょうか。諸説はあるものの、いずれも理解しがたい部分があり、定説に至っていません。簡単にまとめると、以下の通りとなります。

  1. 建造途中の横口式石槨説まず、未完成の一石二室の横口穴式の石槨(せっかく)として、遺体を収める石棺や副葬品を収納する古墳のような役目を果たしていたという説があります。通常の石槨は横向きに口が開いていますが、益田岩船の場合は横口が天井を向く形に回転したと考えます。益田岩船の近くに発見された牽牛子塚古墳の横口式石槨の開口部における形状と、益田岩船の2つの穴の形状が類似していることから、同等の目的をもって造られたのではないかと推測するのです。
  2. 石碑を載せるための台近隣に築造された灌漑用貯水池である益田池の建造を記念する石碑の台坐とする説もあります。空海が造成した讃岐国の満濃池の技術を取り入れたと伝えられている奈良の益田池は、822年に完成しました。その際、空海は「大和州益田池碑銘并序」を碑文として記し、益田池の完成を讃えています。その石碑を載せる台として益田岩船が加工されたというのです。益田池を称賛する碑を載せる台坐として「益田岩船」と命名されたと考えると、つじつまが合います。
  3. 火葬墳墓説横口式石槨説に似ている考えとして、穴の中に火葬した遺骨を入れて石の蓋をするために穴が彫られたという説があります。
  4. 星占いのための天文台説占星術を駆使した天体観測を行うために、益田岩船を台坐として、その2つの穴に柱を立て、そこに横柱を渡して、天体の動きを検証することが目論まれたとも考えられています。
  5. 物見台説遠くを見渡すために高い台を設置する必要があったことから、益田岩船をその台座として用い、物見台を造成したという説もあります。
  6. ゾロアスター教の拝火台説7世紀に即位された斉明天皇により、火を焚きながら儀式を執り行うゾロアスター教がもたらされ、その拝火台として用いられたのではないかという説も出されています。
  7. 石の宝殿との関係益田岩船と「石の宝殿」とが同一目的で造られたものと想定し、本来は石の宝殿が益田岩船の側に運ばれて神殿となるはずだったが、石の宝殿が途中で放棄されたことから完成しなかった推測します。

上記いずれも信憑性に乏しく、にわかに信じがたいのではないでしょうか。最も有力視されている横口式石槨説においても、どことなく牽牛子塚古墳の横口式石槨と似ているというだけであり、所詮、横向きと上向きでは違いが大きく、しかも益田岩船は地上に巨石がまるごと露出し、その岩石を削っている、ということからしても、同じ用途には考えられません。また、石槨とするならば、益田岩船の表面を加工し、きれいに仕上げる必要もなかったはずです。墳墓とする説も、なぜ、巨石の上にそれを造らなければならないかがわかりません。何らかの台座と考えたとしても、その上に載せる碑の実物もなく、また、なぜ、2つ穴があるかも説明がつきません。

これらの疑問を解明するヒントを、対馬の金田城から得ることができるかもしれません。

金田城の歴史からヒントを得る

益田岩船のに類似したデザインの金田城ピット
益田岩船のに類似したデザインの金田城ピット
2011年7月、対馬を初めて訪れ、和多都美神社や海神神社を訪ねた際、国の史跡に指定されている金田城(かねたのき)にも行ってみることにしました。想像していたよりも長い山道を登り、山頂近くの砲台跡に辿り着く直前、ふと目にしたものが人の手で岩に彫られた3つの穴でした。そのうち2つはほぼ正方形に見え、となり同士に並んでいます。そしてもう一つの穴は長方形に隣接し、3つの穴をもって、ほぼ正方形を成しているように見えました。

同年の1月、既に奈良の益田岩船を訪れていたこともあり、その上部に造られた2つの正方形の穴を有するデザインがずっと頭に残っていました。金田城の頂上で見かけた地中の升目は、それと全く同じ形状のように見えたのです。

金田城と益田岩船に何らかの関係があるのでしょうか。同じ時代に造られたものなのでしょうか。どういう目的で造られたのでしょうか。その用途は一緒なのでしょうか。双方とも船や海に関係する石造物なのでしょうか。そして8年を経た2019年7月、多くの謎に包まれている益田岩船の真相を理解する手がかりを得ることができるかもしれず、再度、対馬の金田城に向い、その石造物を採寸することにしました。結果は以下のとおりです。

外周淵の全体は縦、横、共に255p。正方形の穴は内側の一辺が95p。大きい方の長方形の穴は長辺が222p、短辺が92p。内側の仕切りは縦、横、共に24p。また、穴の周辺を縁取る切込みもあり、合わせて外周の一片が255pになっています。

これら正方形のデザインを基軸とした金田城の石造物と益田岩船の類似点に注目です。まず、金田城でも益田岩船と同じように2つの正方形の穴が綺麗に彫られて並んでいることです。一片の長さは益田岩船が160p、金田城は95pと違いはあり、中間の仕切りの幅も大きく異なりますが、見た目の雰囲気は大変良く似ています。次に、蓋が置かれるような形で穴の周囲に淵がとられているのも一緒です。これら直線状に造られた外周の淵には、何か上蓋のようなものを置くような目的があったと考えられます。その淵は、益田岩船においては片側だけにしかありません。金田城の方も長方形側の方にはしっかりとした淵が刻まれているのですが、正方形側の方にはほとんど内側に淵が存在しないのです。この点においても共通したデザイン性がみられるようです。

もしかすると、これら石造物の穴の中には、大切なものを保管する意味があったのかもしれません。益田岩船と金田城の場所における共通点は、どちらも戦略的に重要な拠点であったということです。益田岩船は御所と三輪山に近い場所にあり、レイライン上でも重要な位置づけとなっています。日露戦争時に要塞化された城山砲台跡
日露戦争時に要塞化された城山砲台跡
金田城の場所は、朝鮮半島に向けた最前線の砦であり、山の頂上近くにあることから、戦略的にも重要な場所です。よって、これらの穴に何かを保管するとするならば、それは遺物や故人の墓に関するものではなく、戦争に勝つためのお守りや神宝の類ではなかったかと推察されます。もちろん、そのまま中にいれてしまうと、雨が降る度に水びたしになってしまうことから、保管する容器にいれたうえで、上から蓋をしたのではないかと想定されます。これらも憶測にしかすぎませんが、2つの正方形の穴の用途を解明する手掛かりになるかもしれません。