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2023/09/18

アジア大陸を東方に目指したイスラエルの民 失われた10部族の足跡に繋がる日本列島

イスラエル10部族の行方

古代史の解釈には推測の余地が大きいものです。特にイスラエルの失われた10部族に関しては、その後の行方について、直接言及している文献が少なかったことから、これもまた推測の域を出ないと言われてきました。紀元前722年に北イスラエル王国が崩壊し、そこに居住していたイスラエルの10部族は、どこかに逃れていったに違いありません。しかし、それら民族の軌跡に関するデータがほとんど残されておらず、多くが謎に包まれてきたのです。

フラウィウス・ヨセフス
フラウィウス・ヨセフス
およそ1900年前、フラビウスという歴史家が、「10部族は今でもユーフラテスのかなたにおり、膨大な民衆となっている」と書き記しています。また一部の少数ユダヤ系民族の間では、「10部族は大陸を横断して中国の先にある神秘的な国に移住した」と語り継がれてきました。しかし、これも単なる伝説にしかすぎず、明確な根拠が記されている訳ではありません。

失われた10部族について言及する際は、イスラエル民族の移動に関するデータや文献が大変少ないという事実を鑑みて、リサーチを進めていく必要があります。よって、失われた10部族が大陸を横断して、東方の彼方に浮かぶ日本列島に移住したという説を検証する際も、限られたデータとさまざまな状況証拠から、詳細を推測していくことになります。

イスラエルの民族移動について言及する文献

それでも古代、イスラエルの民が日本に渡来したという説が長年にわたり語り継がれてきたのは、それなりの十分な理由と根拠があったからと考えられます。注目すべきは、ユダヤ人の中にも日ユ同祖論について肯定的な見解をもっている人が少なくないということです。そして多くの学者や歴史研究家らが、これまでさまざまな文献を出版してきました。

最も有名な著書は、ウクライナ生まれのユダヤ人であり、イスラエル国防軍の陸軍少佐を務めたヨセフ・アイドルバーグ著の「大和民族はユダヤ人だった」です。この本は日本国内の書店で販売され、日ユ同祖論に関して最も注目された一冊となりました。また、日本ユダヤ教教団のラビであるM・トケィヤー氏による「ユダヤと日本 謎の古代史」も、多くの方に読まれています。

イスラエルでは失われた10支族の研究と探索活動に従事するアミシャーブという団体が1975年に設立されています。この団体のリサーチにより、世界各地で10支族の末裔が発見されたことが細かに報告されています。その創始者であるラビ・エリヤフ・アビハイル氏は、「失われたイスラエル10支族 知られざるユダヤの特務機関「アミシャーブ」の調査報告」という本を日本でも出版しています。そこではイスラエル10支族がどのようなルートで世界に離散し、その一部が日本にまで辿りついたか、という民族移動の軌跡について記されています。そして最後の章は、「日本におけるイスラエル10支族研究」と題し、「日ユ同祖論」「神道用語になったヘブライ語」などを詳しく解説して締めくくっています。

昨今では、公立アリエル大学の元教授であり、現在イスラエルに在住しているアビグドール・シャハン博士が出版した「失われた十部族の足跡 古代日本に辿り着いたユダヤ人」という本が話題になっています。そこには「イスラエルの地から日本まで」というテーマにおいて、その歴史的な証拠や文献も含め、さまざまな史実に纏わる証言について、つぶさに記載されています。その他、多くの日本人ライターも、日ユ同祖論に関する本を出版しています。川守田英二氏が執筆した「日本の中のユダヤ」は、ヘブライ語と日本語の共通点から、さまざまな論説を提言し、後世に大きな影響を与えました。

古代、イスラエル民族が日本に渡来した、という説については、確実な証拠がないと言われつつも、これまで多くの状況証拠や史実に纏わるデータが集められてきています。日ユ同祖論、及びイスラエル民族の軌跡を検証するにあたり、日本書紀や古事記、中国史書を含む多くの文献を参考にするだけでなく、離散したイスラエル10部族に関して世界各地から収集されている膨大な資料にも目を通し、それらと日本とのつながりを見極めることが重要です。さらには宗教文化的な背景や言語の類似点なども含め、さまざまな観点からデータを見直し、十分に検証する必要があります。

アジア大陸に残存していたユダヤ集落

アジア大陸における古代イスラエル人の動向に関しては、確かにイランやアフガニスタン、中国など、アジア大陸の各地において、離散した10部族のイスラエル人が形成したユダヤ集落の軌跡を確認することができます。

例えば中国の開封市では、19世紀に洪水で村が壊滅状態に陥るまで、ユダヤ教の規律に従って生活をしていた部落が前3世紀から存在し、ユダヤの会堂が建てられていたことでも有名です。またアフガニスタンにも前5~6世紀ごろにはユダヤ集落が存在し、11世紀ごろまでには数万人規模の在留異国人として知られることになりました。

東の島を目指すイスラエル民の渡航ルート
東の島を目指すイスラエル民の渡航ルート
そしてアジア大陸には、山岳や砂丘などを含む途方もなく広大な大自然の中に、いつのまにか東方へと向かう道が定まり、大勢の民がその道を歩んだが故に、それが後のシルクロードへと発展していくのです。その東方への道を歩んだ民の多くがイスラエル人であったと推測されます。その結果、いつしかシルクロードにはヘブライ語の道標も立てられ、ユダヤ系の商人を中心として貿易が営まれるようになりました。これらの史実からも、失われた10部族の多くが東方へと向かったことがわかります。

東の島々に向かうイスラエルの民

国を失ったイスラエルの民の多くが東方に向かった理由は、少なくとも2つありました。まず、北方にはアッシリアの大軍が駐留し、北イスラエル王国を滅亡させました。西側は地中海の海、そして南方は砂漠です。また、エジプトへの逃げ道も存在しましたが、エジプトへ向かうことは神からの御告げによって厳重に禁じられていたのです。すると国家を脱出する抜け道は、東方しか存在しなかったことになります。また、アジア大陸を東方へ向かう旅は、内陸を徒歩で進むだけでなく、イスラエルの南に位置する紅海から船を使って移動することも可能でした。よって王族や祭司、有力者らは船を用いて旅したとも考えられます。

イスラエル王国
イスラエル王国
もうひとつの理由は、イスラエルの民が信頼を寄せていた神の預言者による言葉です。当時、イザヤという預言者が国王に仕えており、神からさまざまな言葉を授かっていました。国家を失ったイスラエル人にとって、預言者の言葉に耳を傾け、それに従うことは重要でした。そしてある日、「太陽が昇る東方にある海の島々にて神を崇めよ」、というが言葉をイザヤが授かったのです。その言葉はイザヤから発せられ、多くの民に伝えられたのではないでしょうか。北イスラエル王国は既に崩壊し、南ユダ王国も壊滅の危機に直面していた時です。

国家の悲劇を目の前にして、多くの民は救いを求めて、逃避する先を探し求めていたことでしょう。そんな時だからこそ、イザヤの言葉を信じた民は、大陸を横断してでも東の島々を探し求めて長旅をする決意を固めたのではないでしょうか。一部の民は預言者イザヤと共に、先発隊として旅の途中から船舶で海を渡り、東へと向かったことでしょう。そして残りの無数の民は、大陸を徒歩で横断したと推測されます。

皇歴に繋がるイスラエル国家の歴史

それではいつごろ、イスラエルの10部族は日本に移住してきたのでしょうか?まず日本列島への渡来が始まった時期は、イスラエルの国家の崩壊という歴史の流れを踏まえ、北イスラエル王国が崩壊した紀元前722年前後から、南ユダ王国のヒゼキヤ王が亡くなる紀元前687年までの間と推測できます。

預言者イザヤは北イスラエル王国が滅びる以前、紀元前740年頃から預言者として台頭し、北イスラエル王国、南ユダ王国双方が滅びることを預言し続けていました。よって、国家の崩壊を目の当たりにした北イスラエル王国の10部族は、紀元前722年を境目として世界各地へと離散し、その多くはアジア大陸を東方へと逃れたと考えられます。

エルサレム神殿に収蔵されていた契約の箱
エルサレム神殿に収蔵されていた契約の箱
その後、ヒゼキヤ王が南ユダ王国の王として紀元前715年に即位した後、イザヤは王の側近として暫くの間、エルサレムで仕えることになります。南ユダ王国も崩壊することを理解していたイザヤは、国の宝である聖櫃などの神宝を守護するため、それらを携えて国家を脱出するタイミングを窺っていたことでしょう。そしてヒゼキヤ王が重い病にかかった際、イザヤの祈りにより、奇跡的に病気から快復して、ヒゼキヤ王には新たに15年の命が与えられたことを神より告げられたことを機に、イザヤは歴史から姿を消し、行方がわからなくなります。

預言者イザヤは、ヒゼキヤ王が重病から癒された直後の紀元前702年頃、満を持して国家を脱出したのではないでしょうか。そして国家崩壊の危機に直面していた南ユダ王国の2部族の中から共に旅立つ祭司や王族の民を厳選し、約束された東の島々を目指して神宝と共に、神の預言を信じて船に乗り込んだと思われます。その脱出劇のすべてを導いたマスターマインドこそ、イザヤ本人でした。

イザヤがイスラエルのエルサレムを脱出したのが紀元前700年前後と想定すると、それからおよそ40年後、日本列島では天皇家の歴史が始まります。イザヤの父は「アモツ」と聖書には記載されています。日本書紀に記載されている国生みの父、伊弉諾尊の父も「面足尊」(オモツノミコト)と記されていることから、同一人物である可能性を否定できません。その前提で歴史の流れを振り返ると、預言者イザヤの子孫から神武天皇が即位し、皇紀元年として国家の歴史が始まる流れが見えてくるようです。歴史の接点におけるタイミングが見事に一致することから、国生みの歴史とは、伊耶那岐神、すなわちイザヤから始まった船旅による日本列島の開拓が、記紀には神話化されて記されたものと考えることができます。

すると、最初に日本列島に到達したのは、イザヤに導かれた南ユダ王国の2部族と祭司を中心としたレビ族であったと想定されます。イザヤが先導した集団は、神宝を携えていただけでなく、国家の配慮により船を用いてアジア大陸の南岸を東方に向けて航海したことから、先にアジア大陸を徒歩で東方に向かった民よりも早く、日本列島に上陸することができたのです。その後、失われた北イスラエル王国の10部族も、アジア大陸を横断し、日本に到来することになります。

日本列島からはじまる新たなる歴史

剣山山頂のしめ縄
剣山山頂のしめ縄
しかしながら、大陸間におけるイスラエル民族の移動は、部族に分かれて長い年月をかけて徐々に進展しただけでなく、実際には大陸の横断は困難を極め、島々への渡航も小規模でしか行うことができなかったため、この貴重な史実は記紀に記されている以外、ほぼ歴史の水面下に葬られてしまったようです。また、何故かイスラエルの民は、自らの渡航の足跡を残さず、そのアイデンティティーも語ることなく、ひたすら東の島々を目指すか、もしくは途中で現地の人々と同化する民も多かったと想定されます。よって、今日、その軌跡を辿ることは困難を極めます。

それでも、イスラエルの民が残した痕跡を、今日でも日本文化の随所に垣間見ることができます。日本に渡来した古代イスラエルの民は、とても信心深い、神を崇める民でした。その民は、聖なる山に神が住まわれると信じたことから、高い山を大切にし、神を祀る祭祀場を至る所に設け、そこで燔祭を捧げていました。そしてエルサレム神殿に宝蔵されていた神宝を大切にし、神宝を移動する際は聖櫃とも呼ばれる契約の箱を2本の長い木の棒に乗せて運び、その箱の上には黄金の鳥が2羽、向かい合って大きな羽を広げていたのです。

剣山山開き
剣山山開き
日本人は古くから、山には神が住まわれるという信仰を持っていました。今日でも、日本には多くの霊山、霊峰と呼ばれる山が存在し、至る所に神社が建立され、人々が祈りを捧げています。また、日本人は神宝を大切にし、崇める民族として知られています。何故か、日本人の心の中には、信心深い思いと共に、神々を祀る信仰心が息吹いているのです。そしてイスラエルから聖櫃が持ち出されて日本に持ち込まれたからこそ、日本では同じ形をした神輿を担いで神を称えるお祭りをする文化が古くから執り行われてきました。

こうして新たなるイスラエルの歴史が古代、日本という新天地において見事に衣替えしてスタートしていたようです。暦を大切にしていた民族ならではの一貫した歴史観を基に、新天地にて新たなる神国の歴史が始まり、それらはイスラエルの宗教文化をベースに繋がってはいるものの、日本固有の文化として瞬く間に土着し、今日まで代々継承されてきました。

イスラエルの民にとって、聖櫃なる契約の箱と神宝の存在は、神の臨在を意味します。だからこそ、信心深い民は、常にその周辺に集まり、神に祈り続けてきたのです。それはまさに古代から全国各地で神を祀り、三種の神器をはじめとする神宝を大切に祀ってきた日本人の心と同じです。そして日本においてもイスラエルの信仰が息吹き続け、人々の思いがエルサレム神殿に向けられていたからこそ、時を経て新天地の中心となる場所において新しいエルサレム、ヘブライ語で「平安の町」を象徴する都、「平安京」が造営されることになります。

[参考文献]

  • 失われた十部族の足跡 古代日本に辿り着いたユダヤ人 アビグドール・シャハン博士 NPO法人神戸平和研究所 2014年
  • 日本の中のユダヤ イスラエル南朝二族の日本移住 川守田英二 たま出版 1992年
  • ユダヤと日本謎の古代史 マーヴィン・トケィヤー 産能大学出版部 1975年
  • 失われたイスラエル10支族 ラビ・エリヤフ・アビハイル 学習研究社 2005年
  • 大和民族はユダヤ人だった ヨセフ アイデルバーグ たま出版 1984年
コメント
  1. かおまま より:

    コーチングの宿題のための調べ物をしていてこのページにたどり着きました。今まで私は日本に産まれ落ちたことが嫌で仕方ありませんでしたが、全く違う視点を与えられました。ありがとうございます。

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