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アジア大陸を東方に目指したイスラエルの民

古代史には推測の余地が大きく、特にイスラエルの失われた10部族と日本に関して直接言及している文献は皆無で決定的な証拠が何も存在しないため、この手の話はいかんせん極論や盲信に走りやすい傾向があります。およそ1900年前にフラビウスという歴史家が「10部族は今でもユーフラテスのかなたにおり、膨大な民衆となっている」と書き記していますが、実際その程度のデータしか存在しないのです。また一部の少数ユダヤ系民族の間では、「10部族は大陸を横断して中国の先にある神秘的な国に移住した」と語り継がれてきていますが、これも単なる伝説でしかすぎません。それ故、ユダヤと日本の関係については、さまざまなデータを集め、十分に検証する必要があります。

アジア大陸におけるイスラエル人の動向に関しては、確かにイランやアフガニスタン、中国など、アジア大陸の諸国に離散したイスラエルの民がユダヤ集落を形成した軌跡を確認することができます。例えば中国の開封市では、19世紀に洪水で村が壊滅状態に陥るまでユダヤ教の規律に従って生活をしていた部落が前3世紀から存在し、ユダヤの会堂が建てられていたことでも有名です。またアフガニスタンにも前5〜6世紀ごろにはユダヤ集落が存在し、11世紀ごろまでには数万人規模の在留異国人として知られることになりました。そしてアジア大陸には、砂漠というその途方もなく広大な大自然の中にいつのまにか、大勢の民が東方へと向かう道が定まり、それが後のシルクロードへと繋がっていくのです。そして後世においてはヘブライ語で道標も立てられ、結果としてユダヤ系の商人を中心として貿易が営まれたという事実があります。

2700年前に国家を失ったイスラエル人にとって、救いの道は預言者が語った東方の島々にあり、それが砂漠の大陸を横断するモチベーションとなったと推測できます。一部の民は預言者イザヤと共に、旅の途中から船舶で海を渡り東に向かいました。そして残りの無数の民は、大陸を徒歩で横断したのです。それではいつごろ、どの程度の規模で、どの部族が日本に移民してきたのでしょうか?まず日本列島への移民は、イスラエルの国家の崩壊という歴史の流れを受けて、北イスラエル王国が崩壊した後、それから数十年以内のヘゼキヤ王の末期に始まったと推測できます。皇紀元年のタイミングはまさにその時期の直後、と一致しており、暦を大切にしていた民族ならではの一貫した歴史観を基に、新天地にてあらなたる神国の歴史が始まり、それが見事に皇紀に反映されているのです。しかしながら、大陸間における民族移動は部族に分かれて長い年月をかけて徐々に進展しただけでなく、実際には大陸の横断は困難を極め、島々への渡航も小規模でしか行うことができなかったため、この貴重な史実は歴史の水面下に葬られてしまったのではないでしょうか。無論、イスラエルの民は、自らの渡航の足跡を残さず、そのアイデンティティーも語ることなく、ひたすら東の島々を目指したと考えられることから、その軌跡をたどることは困難を極めます。

最終的に日本に到来したのは、後述するとおり、失われた北イスラエル王国の10部族は少数であり、むしろイザヤに導かれた南ユダ王国の2部族とレビ族の方が圧倒的に多かったと推定できます。なぜなら預言者イザヤが仕えていたエルサレム神殿は南ユダ王国に存在し、イザヤを中心とする聖職者に導かれながら契約の箱と神宝が神殿から持ち出され、それらが新国家のどこかに奉納された可能性が高く、そのために、大勢の仕え人がイザヤと共に日本に到来することになったからです。イスラエルの民にとって、契約の箱、神宝の存在が神の臨在を意味し、信心深い民は、常にその周辺に集まってきたのです。それ故、南王国の首都エルサレムは「平安の都」という意味がありますが、新天地においては、新しいエルサレムとして、「平安京」が造営されることになります。