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2013/12/16

アジア大陸に残されたイスラエルの痕跡 シルクロードの発展とイスラエル集落との関係

日本の古代史を散策するということは、時には日本人の祖先を探し求めながらアジア大陸を巡り歩くことにもつながります。そして歴史を辿りながら寄り道をしているうちに、ふと気がつくと古代史を4000年以上も遡り、文明の発祥の地と言われるメソポタミアに至る歴史の道を歩いていることに気付きました。人類発祥の地はアフリカであるといわれており、古代アジア大陸における人の流れは、およそ西から東へと向かいました。やがてメソポタミア周辺に文明が芽生え、中国では黄河文明や長江文明等の古代文明が開化し、アジア大陸の東西に世界有数の古代文明が栄えたのです。それから長い年月を経た後、多くの人々が東西を行き来するにふさわしい大陸横断の道が定まり始め、いつしかアジア大陸の文明の命綱とも言えるシルクロードの存在が浮かびあがってきたのです。

シルクロードとイスラエル集落の存在

旧約聖書外典のエズラ第2書第13章には、イスラエルから離散した民が、「異教徒の群衆から離れ、人がかつて住んだことのない地へ行き、故国では守ることができなかった律法を守る為」、大陸を東方へと横断したことが記載されています。そしてユーフラテス河を越え、「1年半という長い道のり」を経て、新天地に辿り着いたというのです。聖書の外典についてはその信憑性について疑問視される場合がありますが、この記述はあながち間違いではなさそうです。前7~8世紀、北方からアッシリアの攻撃を受けた北イスラエル王国は、その西側が海、南西は天敵のエジプト、東南は砂漠であるが故に、逃げ道は東にしかなかったのです。その後、南ユダ王国も崩壊の危機に直面し、大勢の民が逃げ場を求めていたのです。その当時、預言者イザヤは、東の島々に救いの道があることを知り、国家の一大事の中にも希望が残されていることを同胞に対して語り告げたのです。その言葉を伝え聞いたイスラエルの民の多くは、アジア大陸を東へ移動したに違いありません。特にイザヤを熱く信望していた南ユダ王国の民は、新天地においても王国の復権を期待してやまず、イザヤの言葉に聞き従った民が少なくなかったに違いありません。

その結果、膨大な数のイスラエルの民が前8世紀後半から前7世紀にかけて祖国イスラエルを離れ、アジア大陸という未知の世界に向かって横断を開始したのです。その大勢の民の足跡から、やがて大陸を横断する道筋が明確に見え始め、それが後世のシルクロードへと生まれ変わっていったと考えられます。その後、シルクロードを介した交易で財を蓄えた商人の中にイスラエル系の民が多く存在したと言われていることからしても、シルクロードの主人公がイスラエル人であったと想定して間違いないでしょう。

中国には、大陸を横断してきたイスラエルの民の痕跡が各地に見られます。中国の史書によると、前漢時代に訪れたイスラエルの民は、割礼と呼ばれる宗教的な儀式を行うことから刀筋教民と呼ばれていました。また、中国にはイスラエルにルーツを持つ集落が複数存在したことも知られています。中でも開封(カイフォン)は有名であり、遅くとも宋代(10~13世紀)に中央アジアから渡ってきたイスラエルの民が集落を築き、そこに19世紀頃まで居住していたのです。また、それ以前にも、イスラエルの民が中国の寧夏(現在の甘粛省)に居住し、土着民族との混血を繰り返していったという伝承があります 。

1955年、中国による開封の調査において、その集落に住む、艾(Ai)、石(Shi)、高(Gao)、金(Jin)、李(Li)、張(Zhao)、趙(Zhan)の一族を、政府の役人が訪問しました。その際これらの姓は、明代(14~17世紀)に皇帝よりイスラエルの民に授けられたものであり、イスラエル人の氏族の名前であるEzra、Shimon、Cohen、Gilbert、Levy、Joshua、Jonathanにちなみ、その発音に準じた中国名であることが確認されました。中国では既に、イスラエル民族の存在が公に認知されていることがわかります 。シルクロードの延長線にイスラエル民族が長い年月をかけて旅を続け、その末裔が中国に限らず、アジア大陸全体に離散したことは、もはや疑いもない事実なのです。イスラエルの失われた10部族の行方を調査する機関である「アミシャーブ」によると、離散したイスラエルの末裔は、アフガニスタン、パキスタン、インド、ミャンマー等に今日も住んでいることが判明しています。そして中国の東にある日本にも、イスラエルの民が渡ったのではないかと推測しているのです。

コメント
  1. 河村 開 より:

    お世話になっています。BC17~18世紀にエジプトを支配した民族ヒクソスの時代が終わったあと、イスラエルは使役されていたので、離散はなかったと思っています。当時、シュメ-ル人とユダヤ人とは同族ですが、律法は知らなかったと思われるのです。律法を持ち込んだのは、BC660年のスメラミコトで、ユダ族の誉れ高い人たちだったと推察します。

  2. 河村 開 より:

    再度、コメントしたいと思います。シュメール人は倭国の成立に重要な存在と思うからです。アブラハムがウルを出たのは飢饉があったからと推察できます。そのころ、(BC2000年頃)シュメ-ルは滅んでいることから、彼らが東アジアに逃れたと考えるのは無理がありません。ヒクソスは、シュメ-ルがBC2000年頃滅んでおり、全員エジプトに逃れたと考えることもできます。逃れてエジプトでファラオとなったのかも。よって、中島さんの最後の結論と同じになります。では、倭国でシュメ-ル人の痕跡はどこにあるのか? これは、日本の文化のオリジンが全部ではないにしても中東にも目を向ける必要があることを意味していると考えます。

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