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古代史の謎を紐解く「東夷伝」

日本の古代史を散策するということは、ときには日本人の祖先を探し求めながらアジア大陸を巡り歩くことにもつながります。そして歴史をたどりながら寄り道をしているうちに、ふと気がつくと古代史を4000年以上もさかのぼり、文明の発祥の地と言われるメソポタミアに至る歴史の道を歩いていることに気付きました。人類発祥の地はアフリカであるといわれており、古代アジア大陸における人の流れは、およそ西から東へと向かいました。やがてメソポタミア周辺に文明が芽生え、中国では黄河文明や長江文明等の古代文明が開化し、アジア大陸の東西に世界有数の古代文明が栄えたのです。それから長い年月を経た後、多くの人々が東西を行き来するにふさわしい大陸横断の道が定まりはじめ、いつしかアジア大陸の文明の命綱とも言えるシルクロードの存在が浮かびあがってきたのです。

シルクロードとイスラエル集落の存在

旧約聖書外典のエズラ第2書第13章には、イスラエルから離散した民が、「異教徒の群衆から離れ、人がかつて住んだことのない地へ行き、故国では守ることができなかった律法を守るため」、大陸を東方へと横断したことが記載されています。そしてユーフラテス川を越え、「1年半という長い道のり」を経て、新天地にたどり着いたというのです。聖書の外典についてはその信憑性について疑問視される場合がありますが、この記述はあながち間違いではなさそうです。前7〜8世紀、北方からアッシリアの攻撃を受けた北イスラエル王国は、その西側が海、南西は天敵のエジプト、東南は砂漠であるが故に、逃げ道は東にしかなかったのです。その後、南ユダ王国も崩壊の危機に直面し、大勢の民が逃げ場を求めていたのです。その当時、預言者イザヤは、東の島々に救いの道があることを知り、国家の一大事の中にも希望が残されていることを同胞に対して語り告げたのです。その言葉を伝え聞いたイスラエルの民の多くは、アジア大陸を東へ移動したに違いありません。特にイザヤを熱く信望していた南ユダ王国の民は、新天地においても王国の復権を期待してやまず、イザヤの言葉に聞き従った民が少なくなかったに違いありません。

その結果、膨大な数のイスラエルの民が前8世紀後半から前7世紀にかけて祖国イスラエルを離れ、アジア大陸という未知の世界に向かって横断を開始したのです。その大勢の民の足跡から、やがて大陸を横断する道筋が明確に見えはじめ、それが後世のシルクロードへと生まれ変わっていったと考えられます。その後、シルクロードを介した交易で財を蓄えた商人の中にイスラエル系の民が多く存在したと言われていることからしても、シルクロードの主人公がイスラエル人であったと想定して間違いないでしょう。

中国には、大陸を横断してきたイスラエルの民の痕跡が各地に見られます。中国の史書によると、前漢時代に訪れたイスラエルの民は、割礼と呼ばれる宗教的な儀式を行うことから刀筋教民と呼ばれていました。また、中国にはイスラエルにルーツを持つ集落が複数存在したことも知られています。中でも開封(カイフォン)は有名であり、遅くとも宋代(10〜13世紀)に中央アジアから渡ってきたイスラエルの民が集落を築き、そこに19世紀ごろまで居住していたのです。また、それ以前にも、イスラエルの民が中国の寧夏(現在の甘粛省)に居住し、土着民族との混血を繰り返していったという伝承があります 。

1955年、中国による開封の調査において、その集落に住む、艾(Ai)、石(Shi)、高(Gao)、金(Jin)、李(Li)、張(Zhao)、趙(Zhan)の一族を、政府の役人が訪問しました。その際これらの姓は、明代(14〜17世紀)に皇帝よりイスラエルの民に授けられたものであり、イスラエル人の氏族の名前であるEzra、Shimon、Cohen、Gilbert、Levy、Joshua、Jonathanにちなみ、その発音に準じた中国名であることが確認されました。中国では既に、イスラエル民族の存在が公に認知されていることがわかります 。シルクロードの延長線にイスラエル民族が長い年月をかけて旅を続け、その末裔が中国に限らず、アジア大陸全体に離散したことは、もはや疑いもない事実なのです。イスラエルの失われた10部族の行方を調査する機関である「アミシャーブ」によると、離散したイスラエルの末裔は、アフガニスタン、パキスタン、インド、ミャンマー等に今日も住んでいることが判明しています。そして中国の東にある日本にも、イスラエルの民が渡ったのではないかと推測しているのです。

アジア史の謎を紐解く東夷伝

イスラエルの民がシルクロードを歩み、彼らが中国の集落に実際に居住していたとするならば、中国の史書に、イスラエルの民に繋がる何らかの記述があるはずです。その歴史の謎を紐解く鍵が「東夷伝」にあります。中国の史書として著名な「後漢書」、「三国志」、「梁書」、「魏書」、「随書」の東夷伝には、東アジアの民族に関する記述があります。東夷伝は、280〜290年ごろの三国志において初めて編纂されました。きっかけは、魏(220〜265年)の時代に東夷に向けて出兵したことにあると言われています。三国志には、日本で「魏志倭人伝」と呼ばれる「三国志魏書東夷伝倭人条」も含まれています。

東夷とは、古代中国の東方に居住する異民族の総称です。そして東西南北の四夷の一つを指します。東夷には9種類あり九夷とも呼ばれています。また東夷には、追い払うべき部外者という意味も含まれており、元来、忌み嫌われていた民族であったことが伺えます。しかし、東夷の意味は、時代によって変化しています。例えば、5世紀初めに編纂された後漢書では、東夷の意味として、「東方のことを夷という。夷とは根本の意味であり、それは命を大切にすることにより万物は土地に根ざしてできるもの」と美化されて解釈されています。孔子(前5世紀)が「これらの九夷とともに居住しようと望んだ」と語ったと記されており、孔子自身、「古い朝鮮を中心とした東夷を儒教的楽土と賛美」し、東夷に憧れていたことをうかがわせます。

また、東夷には君子の国があるとも記載されています。山海経によると君子の国は「衣冠をつけ、剣を帯びて獣肉を食べ、2体の飾りの虎をいつも傍らにおいている」とあります。日本の神社にある狛犬のように、守り神として2体の虎の飾りをいつもそばに置く民族であったことが伺えます。さらに山海経には「その人は色が黒く、長寿でなかなか死なない。君子国も不死国もともに東方にある」と書かれています。イスラエルでは、アブラハムからはじまる族長の時代においても皆、長寿であり、イスラエル建国の父であるヤコブも、140歳以上の長寿を全うしました。つまり、この東方にある君子の国や不死の国とは、イスラエル民族である可能性が高いのです。いずれにせよ、当初忌み嫌われていた東夷が、実態が明らかになるにつれて、いつしか孔子でさえも憧れる民族として認知されるようになったことがわかります。およそ秦の時代を境に、東夷に対する中国の見識が大きく変化したのです。

九夷の真相とはイスラエルか?

東夷には9つの部族が存在し、畎夷・于夷・方夷・黄夷・白夷・赤夷・玄夷・風夷・陽夷をまとめて九夷と呼びます。279年に中国の河南省で発見された「竹書紀年」という前7世紀後半の史書においても、「九夷」の名称が確認されています。そこには夏の時代、8代目の帝である槐の即位後3年目に九夷がそろって夏を訪れ、天子の傍らに侍ったとあります。九夷は、前20〜21世紀前後に初めて中国を訪れ、秦の時代には山東省、江蘇省の淮水流域に居住し、秦の時代以降は朝鮮半島に隣接する吉林省や遼寧省、および、朝鮮半島や日本にも移り住んだと考えられています。

九夷が、どこから来たのかは定かではありませんが、その謎を解くヒントとして、後漢書や三国志に後年の東夷諸民族の特徴が記載されています。例えば、「道義が行われ」、「弁(かんむり)を冠り、錦の衣を着」、「みだりに盗む者もなく」、「(法が)7〜800年も続き」、「心に慎むことを慣習」とする民族であり、この「慎み」こそ、ほかの3方に存在する「蛮夷」とは異なることが明記されています。さらに礼服や、俎豆(ソトウ)と呼ばれる供え物を盛る器を用いて礼を重んじ、その上、「儒教の経典を学ぶことが好きで、文学や史書を愛読する。」(隋書列伝)とまで記載されています。これらから、九夷のルーツは優れた文化圏の出であることがわかります。

そこで、古代中国史に突如として現れた九夷の出自が、イスラエルにあるとは考えられないでしょうか。旧約聖書によれば、ヨセフがエジプトを統治していたころ、大規模な飢饉がカナンを含む西アジア地域を襲いました。イスラエルの11人の兄弟と父親ヤコブは飢えに苦しむあまり、食糧が豊富にあるというエジプトを訪ね、食料を買い付けることにしました。そのエジプトの統治者は、昔兄弟たちが奴隷として売り飛ばした弟のヨセフだったのです。そうとは知らぬ兄弟たちは、弟のベニヤミンを父に預け、兄弟10人でエジプトを訪ねました。ところがヨセフは兄弟の中からシメオンを人質に取り、しかもベニヤミンを連れてくるという条件を付けたのです。9人の兄弟は故郷に戻って父親に報告をするも、ひどく落胆した父親はベニヤミンを行かせることを拒み、兄弟は途方に暮れてしまうのです。窮地に追い込まれた9人の兄弟は、食料を求めてエジプトとは逆の方向である東方に旅し、中国まで到達したとは考えられないでしょうか。片道1〜2年の旅ですが、決して不可能ではありません。また、ヨセフの年代は前18〜19世紀ごろと考えられますが、中国の夏王朝の年代と重なっています。

九夷がイスラエルの民ではないかと考えるもう一つの根拠は、その言葉自体の発音です。九夷は中国語でjiu-yi(ジウィ)と発音します。これはユダヤ人を意味する英語Jewとほぼ同じ発音です。元来Jewは、ユダ族を意味するヘブライ語のyehudah(イェフダー)が語源であると言われています。それが4世紀に、ギリシャ語ではIoudaios、ラテン語のIudaeusとなり、18世紀に英語で記述された聖書において最終的にJew(ジュー)という言葉になりました。ギリシャ語訳の聖書である70人訳(セプトアギンタ)が登場してからおよそ2000年という長い年月をかけて、ラテン語のIudaeum、ギリシャ語のIoudaios(ユダイオス)が、古フランス語ではguieu、giu、英語ではgyw、giu、ieweと転化し、最終的にJewとなるのです。注目すべきは、古フランス語訳であるgiuからの流れであり、基になるギリシャ語のIoudaiosとの関連性が明確ではありません。中世の言語では「i」と「y」は同様の発音を持ち、「i」は後に「j」文字に枝分かれしたことがわかっていますが、何故、「ユ」または「イ」に近い発音となるIoudaiosの頭文字が古フランス語で「g」に付け替えられたのか、その理由が不透明です。

もしかすると、「gyu」や「giu」と訳された背景には、「九」の中国読みが潜んでいるかもしれません。つまり、長い年月をかけて中国を訪れたイスラエルの部族が、いつしか中国の地では九夷(jiu-yi)と呼ばれるようになり、この言葉が、 その後も各地で語り継がれた結果、いつしかイスラエルの民をjiu、giu、またはguieuと呼ぶようになったと考えられないでしょうか。実際、中国語の九夷(jiu-yi)の発音と、古フランス語のgiu、guieuの発音は酷似しているだけでなく、その後の英語のieweも、iとjを差し替えるだけで、同じ発音になります。Jewのルーツにある語源は、ヘブライ語のyehudahですが、そのアルファベットの綴りは、中国語のjiu-yiに由来している可能性があるのです。

九夷はシュメール系ヒクソスか?

イスラエル説以外にも、メソポタミアから脱出したシュメール人が、九夷のルーツであるという考え方があります。当時、ウル第三王朝においては、農耕、医学、天文学、貿易、造船技術、楔型文字による文学など、幅広く文化が栄えていました。ところが大規模な飢饉の発生や異民族の侵入により、都市国家は弱体化し、前2006年、エラム人によって滅ぼされてしまいます。その後のシュメール人の行方については、歴史の謎に包まれたままです。おそらく、シュメール人の多くは、王朝が崩壊する直前に国家を脱出したと考えられます。注目すべきは、ウル王朝が崩壊したころと時を同じく、九夷が中国を来訪していることです。最初に中国を訪れた九夷は畎夷(Chuan-Yi)と呼ばれましたが、シュメールの発音にちなんで畎(Chuan)と命名された可能性があります。また、シュメール人は航海技術を携え、インドと交易を行っていたことから、東アジアの海岸まで航海することも可能だったはずです。勿論、大半の民は徒歩で、アジア大陸を横断したと考えられます。こうして大勢のシュメール人が中国を訪れた可能性があるのです。

また、前17〜18世紀から1世紀以上にわたり、エジプトを支配した異国人として知られる「ヒクソス」の存在も見逃すことができません。ヒクソスのルーツも不明ですが、西セム語を使う、イスラエル民族と同じセム系の流れをくむ人種であることがわかっており、優れた文化を携えてきていることから、シュメールとイスラエルの混血ではないかと考えられます。そもそも、イスラエル民族の先祖であるアブラハムの故郷はウルであり、シュメール文化の出身であることから、イスラエル民族とシュメール人は親しい間柄であると想定できます。よって、そこからヒクソスと呼ばれる人種が現れても何ら不思議ではありません。ヒクソスという名前は、エジプト語でheku shoswet、「異国の支配者」を意味し、九夷(khoorYee)、「異国のイスラエル」と意味が似ています。そして古代エジプトにおいて、イスラエル人ヨセフが国家を統治しましたが、その時期は、ヒクソスがエジプトを支配したと言われる初期とほぼ重なっていることからして、シュメールとイスラエルをルーツに持つヒクソスが、ヨセフの統治を引き継いで、エジプトの歴史に台頭したと考えられます。

つまり、離散したシュメール人は、東方では中国において九夷と呼ばれるようになり、西は小アジア、シリア、エジプト方面へ向かい、長い年月を経てヒクソスと呼ばれるようになった可能性があります。そして、いずれの地域においても、親戚のような存在であるイスラエル人と出会い、共存し、ときには混血を繰り返しながら、アジア大陸の両端において歴史を塗り替えていく役割を担ったと考えられるのです。