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2012/06/13

倭国の最南端、奴国が歴史に残る要所である理由

古代社会における主要都市であった伊都国は、女王国の北に位置し、一大率をおいて周辺諸国を取り締まっただけでなく、代々の王は「女王国に統属する」と魏志倭人伝に記載されています。女王国における統治、統属とは、後述するとおり、国家の宗教的メッカとして位置付けられてきた邪馬台国にて、神の御告げを聞き、それを民に伝えるシャーマンの働きに似た役目を果たした預言者の長である女預言者が、その突出した霊力をもって一躍権力を握ったことに象徴されています。そして山上から周辺の同族諸国に対して、宗教的な拘束力を持つメッセージを送り続け、国々を取りまとめていた様子を指していたと考えられます。倭国における国々の王が、卑弥呼の宗教的支配下に置かれていたありさまを垣間見て、魏志倭人伝の作者は卑弥呼を女王と称し、卑弥呼が在住する地域を女王国、すなわち邪馬台国と呼んだのです。

諸国を取り仕切る卑弥呼とは

邪馬台国がいつ建国されたかということを今日、検証する術はありませんが、前身にはイスラエルからの渡来者による国家創建の働きがあったと考えられます。前7世紀、イスラエル系移民がアジア大陸の東に浮かぶ日本列島を見出し、列島の中心地を基点として、そこから周辺の海洋を巡り回り、約束の島々を特定したのです。そして、その基点から目に映る一番高い山を新天地の聖なる神の山として識別したことにより、邪馬台国が産声をあげました。こうして預言者や祭司、いわゆる聖職者の統治による山上国家が発展し始めたのです。

そこでは神が祀られ、律法の掟に従ってイスラエルの祭司らにより宗教的儀式が日常行われ、遠く西アジアから持ち運ばれた神宝等も大切に保管されました。それ故、新天地における聖地としての位置付けは疑う余地がなく、早くから庶民の参拝対象となり、多くの人々に崇められたことでしょう。それら諸々の儀式を執行する責務が、律法に基づいて与えられたのが、イスラエルのレビ族です。そして新天地においても大きな権限を持つようになり、彼らが中心となって古代社会における政治宗教制度が仕切られるようになったのです。その結果、村造りからいつしか国家が生まれ、その山上国家は神の聖地となるべく、急速に発展を遂げたと考えられます。それが邪馬台国の原点であり、日本列島における統治国家の始まりです。

また、大陸から訪れるイスラエル系渡来人の波は前7世紀より止まることなく、レビ族ら、祭司を中心として統治された山上国家とは別に、他の未開の地域では王系ユダ族による統治が進められました。よって、いつしか列島では、山上の聖地と並行して、各地にイスラエルの王族が統治する小国家が産声をあげたのです。それらの国々はまず、神を参拝する必要性から、聖地として認知された邪馬台国周辺の地域に造られたことでしょう。その後も大陸より継続して渡来者が列島を訪れ、更に邪馬台国と朝鮮半島を行き来するルート沿いの平野部においては、必然的に次々と小国家が起こされたのです。それらが末盧国、伊都国、奴国の始まりです。しかし、これらの国々はまだ小規模な国家でもあり、古代社会においては民族宗教を仕切る祭司らの統治下にあったことから、当初は歴史の流れの中に育まれているだけの存在だったと考えられます。こうして列島の随所に起こされた王系一族による国々は、宗教的なメッカとして君臨した邪馬台国によって取りまとめられるようになったのです。

ちょうどそれは、イスラエルが南北2つの国に分かれても、神の都としてのエルサレムの位置付けは変わらず、そこには契約の箱が保存された宮殿が存在し、祭司や預言者が宗教的行事のすべてを取り仕切っていた構造とよく似ています。祭司は王や高官に助言を与えながら強い影響力を持ち、かつ民衆を支配していたのです。首都エルサレムは信仰の中心地であり、宗教リーダーはときには人々の罪を罰し、国家の規律を保つ監視役の役目も果たしながら国家の統治に貢献していたわけですから、当然のことながら王や民衆からは畏れられる立場にありました。古代社会においては聖職者の地位は絶対です。同様に、山上の邪馬台国にて宗教的儀式を取り仕切り、神の代理人として天から頂いた言葉を直接、人々に助言する役目を果たした祭司らの影響力は絶大でした。中でも卑弥呼は、それまでの祭司や預言者以上の力を発揮し、その著しい霊力は比類なきものであったが故に、大陸までその宗教リーダーの名が広く認知されたと考えられます。

穏やかな倭国の歴史が一変したのが秦の崩壊後の前1世紀です。後漢書によると、「霊帝の治世(147-189年)、倭国はたいへん混乱し、たがい戦い、何年もの間(倭国)の主なきありさまであった」と記載されています。以前からイスラエル系の渡来者は継続して列島に移民し続けたと考えられますが、この事件の直後から、朝鮮半島を経由して日本に移住する渡来者の数が膨大に脹れあがり、一気にピークを迎えたのです。その渡来者の数は最終的には100万から150万人、もしくはそれ以上の数に脹れ上がっていたと推測されます。そして無数の渡来者が九州から本州、四国、全国各地へと新しい移住先を探し求めて移動し続けたことにより、内政は大混乱をきたし、それまで穏やかに過ごしていた諸国の民は戸惑い、国々の統治が困難な状況に陥ったことは想像するに難くありません。

そして内乱が、いつしか内戦にまで発展し、多くの血が流された暁に、その霊力を持って国々の民に対して平穏な生活に戻ることを天上からの命として告げたのが卑弥呼です。内乱を収めることに成功し、これらの国々を取りまとめる聖地の中心に立つ女性の指導者として、自他ともに認められる存在になったのです。その女王、卑弥呼の有様は、史書の記述からも垣間見ることができます。卑弥呼は「かなりの年かさでありながら未婚で、鬼神道を用いて人々を妖惑」し、その支配力をもって大衆の信望を得て、王位に就くことになりました。そして1,000人もの侍女を持ちながらも、「その姿を見た者は稀である」と書かれたほど、一般社会に顔を出すことはなかったのです。そして、「一人の男子が飲食を供給し、辞言(ことば)を伝えている」と書かれているとおり、山上に籠りながらも、極めて厳格な規律をもって、国家を統治したのが卑弥呼の姿です。

これらの背景を踏まえると、女王としての卑弥呼の働きは国家の王というよりもむしろ、祭司、預言者的リーダーに近いものであり、霊的な指導者として国々を導き、勅令を与えることが主な働きであったと想定されます。それ故、卑弥呼は巫女、霊媒者と同一視されただけでなく、シャーマニズム的な呪術とも言える鬼道をもって衆を惑わし、先導し、国家のリーダーとして活躍したことから、海外では女王と認知されたと考えられます。しかし現実的には国王というよりもむしろ、国王らも含めて国家を霊的に導く最高権力者であったのです。神に通じ、権力を持って民を統治し、畏れられた指導者、それが卑弥呼の姿です。

末盧国から伊都国を経由した不弥国への想定ルート
末盧国から伊都国を経由した不弥国への想定ルート

伊都国から奴国へ向かう旅路

その卑弥呼に統属した伊都国は、北は海、南は山に挟まれ、九州の北部から東部、そして南部へと往来するには不可欠な陸上交通路の要所にありました。そこは四方を眺めることのできる皿倉山も存在する要所です。よって人口の少ない小規模国家ながらも、倭国では極めて重要な位置付けとなり、卑弥呼に従う国々の中でも、大陸に向けた最前線にある公的な玄関としての役割を果たしました。大陸からの渡航者は対馬、壱岐、宗像を経由して、まず王が統治する伊都国を倭国の玄関として認知し、そこに停泊することを目論んだのです。それ故、史書には諸外国の高官らが倭国を訪ねる際、まず、伊都国に滞在することになっていることが明記されています。その伊都国を過ぎて、次に向かう拠点が、奴国です。

(伊都国から)東南に百里すすめば奴国に到着する。(長)官は兕馬觚(じまこ)、次(官)は卑奴母離(ヒナモリ)という。二万余戸の人家がある。

史書の記述より邪馬台国への旅路を辿ると、奴国と呼ばれた古代都市の候補地として、伊都国の比定地である北九州八幡から東南方向7km先にある小倉南区の北方周辺エリアが浮かび上がってきます。奴国は、現在の福岡市付近に存在していたという説が一般的ですが、小倉の北方がピンポイントでその比定地として考えられる理由は、単に史書の記述に準じて伊都国からの位置付けを容易に理解できるだけに止まりません。北方周辺の地域は、2万戸の家屋に相応しい広大な平野地が存在するだけでなく、そこは、九州北部の海岸沿いから東部の海岸へと抜けるための唯一の貴重な陸路が存在し、交差点にあたるエリアだったのです。そして北東に聳え立つ足立山からは、西方には伊都国の比定地である北九州八幡、そして南方向には周防灘の海岸からその内陸にある奴国全体までを一望することができるのです。

古代の民の中でも特に西アジア系の渡来人にとって、堅固な都市を造成するためには、多くの民家を構築しやすい平野部が存在するだけでなく、その周辺に山並みがあることが極めて重要でした。山は防衛戦略上、国を周辺諸国の攻撃から守るために重要な役割を果たします。そこは周辺諸国を見渡すための展望所でもあり、いざというときの要塞にもなりうるのです。また山々は、祭司らが神に祈りを捧げ、儀式を執り行う聖地を造営するための場所でもあります。古代人にとって高き所が存在することは、国家を造成する上で極めて大事な条件となっていたのです。それ故、奴国の候補地として、海岸線により近い小倉北区や博多方面よりも、山に囲まれた北方の方が古代社会では重宝されたことでしょう。

海人文化が示唆する渡航ルート

日本書紀や古事記によると、日本有史の始まりは淡路島であり、国土創成は瀬戸内海の東部を基点として、そこから西方へと広がっています。その後、神武東征に至っては方向が逆になり、九州から瀬戸内海を介して畿内へと向うルートが記載されています。これは、古代社会において少なくとも2つの大きな文化の中心が九州北部と淡路島近郊の地域に存在していたことを示し、その結果、瀬戸内海沿いにおいては主要海路が、陸路とともに必然的に発展したと考えられます。その後も大陸からの渡来者が朝鮮半島を経由して大勢列島を訪れ続けたことからしても、古代の列島における人の流れは朝鮮半島と瀬戸内海の界隈を行き来する渡航ルートが主流となり、頻繁に活用されたと考えられます。例えば、福岡や対馬、壱岐から出土された1世紀初めに鋳造された貨泉と呼ばれる貨幣は、大阪平野からも大量に出土していますが、それは淡路島周辺、今日の大阪湾の沿岸地域が、古くは弥生時代から九州北部との文化交流がある先進地域だったことの証ではないでしょうか。瀬戸内海地域は、古代から日本列島の動脈的地位を占めていたのです。

九州北部から起こり、急速に瀬戸内海周辺の地域にも広まった海人の文化を検証しても、この人の流れは明らかです。瀬戸内には海上を祭りの場とする行事が多く、海の守護神、厳島神社や、航海安全の神の象徴とも言える金毘羅信仰などが有名です。これらは古代から海上航路が重要な役割を果たしていたからこそ生まれた宗教文化であることは言うまでもなく、その背景には国境や地域の島々の領域を越えて海を渡り、文化交流を可能にした海人の存在があったのです。そして九州から瀬戸内海方面に向かう旅筋としては、単に船で北九州の関門海峡を半島に沿って遠回りに渡航するだけでなく、実際には北九州を北部海岸から東部海岸に(北西から東南に)陸路で斜めに横切り、そこからまた船に乗るというルートも発達し、そのショートカットとも言える陸路に沿っても町造りが発展しました。その結果、史書においては末盧国、伊都国、奴国という、邪馬台国への道沿いに発展した九州北部の国々の存在について明記されたのです。中でも奴国には必然的に大規模な都市となる地の利があったからこそ、古代の九州における国々の発展においても、群を抜いて、大規模な村造りが進められたのでしょう。

倭国の最南端にある奴国

(後漢の光武帝の)建武中元2年(57)、倭の奴国(王が遣使して)貢物を奉り、朝賀した。使者は大夫と自称した。(奴国は)倭の最南端の国である。光武帝は(奴国王に)印綬を与えた。

後漢書の倭伝には、1世紀、倭の奴国は使者を光武帝に送った際に貢物を奉り、その結果、光武帝王は印綬を与えたことが記載されています。古代、奴国は倭を代表する立場にあり、その政治経済面における影響力は倭国内でも突出していたと考えられます。実際、志賀島にて金印が江戸時代に発見され、その印には「漢委奴國王」と彫られていました。その「委」という文字は、「倭」のにんべん「イ」が省略されたものですが、奴国の存在が史実に基づいていたものであったことが証明されたと考えて間違いないでしょう。魏志倭人伝によると、当時、奴国の人口は2万戸を数え、それは末盧国の5倍にもなります。陸上交通の要所であり、広大な平野部に恵まれた地域に多くの人口を有した奴国は、倭国の関所、玄関としても名高い伊都国とともに、重要な政治的位置を占めていたことがわかります。

さて、後漢書では、その奴国の位置が「倭の最南端の国である」、と明記されています。邪馬台国に向けて旅する途中に奴国はあり、その後、更に東南方向に国々が存在することから、一瞬、誤植ではないかと疑う方も少なくないはずです。そこで、その信憑性を確かめるために、まず、奴国の位置が比定地とされる地域の中心地からどの範囲まで広がっているかを想定してみました。奴国の中心地は、周囲の山々、及び河川の位置、そして北西方向から東南報告へと行き来する人の流れから察するに、今日の北九州市小倉南区北方の周辺にあると想定されます。そして2万戸という膨大な数の民家を、該当する地域の平野部に散りばめると、少なくとも南は徳力嵐山から志井公園、東は足立山麓の安部山公園、北は城野まで広範囲に人々が居住していたと考えられます。それは距離にして少なくとも南北およそ5km、東西には3kmほどの地域を包括することになります。果たしてその奴国が、倭の最南端の位置にあると言えるのでしょうか。

早速、史書に記載されている邪馬台国への旅路の途中にある末盧国、伊都国とともに、奴国の比定地を地図にプロットし、人が居住しやすい平野部をその比定地の中心地から特定し、人口数に応じた大きさのエリアを描き、その位置を比較してみました。すると前項の地図のとおり、奴国は九州でも最大の国として、北方を中心に南北に長く広がっていることがわかります。この南北の広がりこそ、奴国が最南端の国として認知された理由と考えられるのです。

邪馬台国は帯方郡の東南方向にあるという史書の記述に基づき、対馬方面から一旦、末盧国へ上陸した後も、伊都国、そして奴国への旅路は、一貫してその方角に向かっていることが、この比定地のプロット図から理解することができます。そして奴国の次に向かう拠点となる不弥国は九州の東海岸沿いにあり、1000戸の小国家であるため、奴国と不弥国、2国の最南端の位置を比較すると奴国の方が、かなり南に位置していることがわかります。しかも後述するとおり、奴国から不弥国、そしてそれ以降の邪馬台国への旅路も、奴国の最南端の地点よりも南下することはないため、実際に奴国は女王に統属する国々の中では最南端の国であることに違いなく、史書の記述が正しかったことがわかります。奴国は人口の多い大きな国であり、そのエリアは南北への広がりが顕著であったことから、倭国の最南端の国として、いつしか周辺諸国からも認知されるようになったのでしょう。

和気清麻呂が見初めた九州の重要拠点

奴国の中心地と想定される北方の北東に聳え立つ足立山は、地元の誰もがよく知る観光地です。標高518mを誇る足立山は夜景のスポットと言われるほど、山頂からの見渡しに優れています。この山が足立山と言われる所以は、その山の麓にある安部山公園に行けば、すぐにわかります。そこでまず目にするものは、和気清麻呂の銅像であり、足立山という名称の謂れも含め、その山麓周辺の地域には、偉人の史話、民話、伝説が多く残されています。奴国の比定地の話から意外にも浮かび上がる和気清麻呂の存在は、例え時代はかけ離れていても、空海とともに古代史の謎を紐解くキーパーソンの一人だけに無視できません。

奈良時代後期、天文学と測量学の天才として名声を博した和気清麻呂は、数々の土木や灌漑プロジェクトにおいて多大なる貢献をしました。平安京の造営においては、清麻呂自身が平城京から遷都する必要性を桓武天皇に訴え、その目的地を探し当て、実際に平安京の造営を完成させたマスターマインドでもあったのです。更に神社造営の達人としても知られる清麻呂は、空海とも交流を持ち、神宝の取り扱いや、それらを秘蔵する場所について、さまざまなアドバイスを与えたと考えられます。その博学な和気清麻呂が、奴国の比定地にある足立山を拠点としたことは、それなりの理由があったはずです。そこでまず、清麻呂が足立山へ導かれた背景となる宇佐八幡宮神託事件を振り返りつつ、北方周辺の地理的重要性を探ってみましょう。

奈良時代、藤原一族とその反対勢力による皇位継承の争いは絶えることがありませんでした。聖武天皇の時代でも、藤原不比等の娘であった光明皇后の子が亡くなった後、女性の阿倍内親王が皇太子、そして孝謙天皇となることにより、政権抗争が続いたのです。その孝謙天皇が上皇に退いた際、上皇の信望を得て出世を狙う道鏡に敵対する藤原仲麻呂が764年に反乱を起こしまた。しかし謀反は失敗に終わり、直後、上皇は称徳天皇として再度即位されます。そして766年、道鏡は前代未聞の法王という天皇の位に匹敵する称号を与えられました。その道鏡の元にある日、「道鏡を皇位につけたら天下太平である」という宇佐八幡宮のご神託なるものが届けられたのです。孝謙天皇は、周囲の疑問を払拭するためにも、当時、天皇に仕えていた和気広虫を、宇佐八幡宮の神託を改めて請うための勅使として任じられますが、その代わりに行くことになったのが、弟の和気清麻呂です。

769年、清麻呂が八幡宮に参宮した際、「わが国は君臣の分が定まっている。いまだ臣もって君となしたことがない。天つ日嗣は必ず皇儲をたてよ」という神託を持ち帰り、道鏡の逆心を封じたのです。ところが、虚偽のお告げを奏上したとして、道鏡と親しい間柄に陥っていた天皇の怒りを買い、足の筋を断たれたあげく、大隅(鹿児島)に流罪となったのです。その旅の途中、天候が急変して清麻呂の船は宇佐に流され、猪が200頭ほど現れて清麻呂を宇佐宮に送り、そこで得た八幡神のお告げに従って足立山の麓から湧き出でる霊泉を浴び、足が癒されたという伝承が残されています。それが足立山と呼ばれるようになった所以です。

清麻呂が足立山に惹かれた理由は、単に宇佐宮八幡神の神託の導きによるものだけではありません。和気清麻呂は実際にその地域が大陸と日本列島を行き来する上において、北九州最大の要所である奴国の地であることを知り尽くしていたことでしょう。清麻呂はその足立山を自らの拠点として、そこで休息も兼ねて、都への再出発の時期を窺っていたのです。

その1年後に称徳天皇が崩御されると清麻呂は赦免されて帰京し、皇太子の勅により政界に復帰します。そして光仁天皇が即位した後、道鏡は失脚し、皇位継承の流れが天武天皇系から天智天皇系に戻ることとなります。その後、清麻呂は光仁、桓武天皇に仕え、河川工事、灌漑工事等、新都市の造営に尽くして日本国家の社会基盤を造り上げたのです。そして最終的には桓武朝の高官として、平安遷都の土地を見出し、自らを造営大夫として遷都に尽力したのです。

和気清麻呂が足立山をこよなく愛した訳は、八幡神の介入による不思議な神の導きがあったこと以外に、もう1つ大事な理由が秘められていました。それは足立山の緯度が、イスラエルの民と邪馬台国が絡む四国剣山とまったく同じであるということです。つまり、足立山の頂上に立つことは、その真東にある剣山と同じ緯度の延長線にいることになり、それは古代社会において神秘的な繋がりを意味することから、とても大切に考えられていたのです。そして測量学の天才である和気清麻呂だったからこそ、剣山と同緯度に聳え立つ足立山の存在は極めて重要でした。

清麻呂の家系がユダヤである理由

和気氏(わけうじ)は別氏とも書き、清麻呂の生家は先祖代々から和気郡司を務めた和気郡の伝統的名家です。「日本後記」によると、和気氏の祖は垂仁天皇(前29年-70年)の皇子である鐸石別命(ぬてしわけのみこと)であり、清麻呂は15代目にあたることからしても、和気氏の出自は皇族の系統であることがわかります。和気清麻呂の父の名前は磐梨別乎麻呂(いわなしわけおまろ)です。磐梨という名称については、「続群書類従」に記されている和気氏の系図に、垂仁天皇の皇子である鐸石別命(ぬてしわけのみこと)の3世の孫、弟彦王が初めて吉備磐梨別公の氏姓を賜わったとあります。弟彦王は神宮皇后の新羅征伐の際に活躍し、その軍功により現在の岡山県和気郡周辺となる吉備磐梨県、藤原県を授かったのです。よって、和気氏の本来の名は磐梨氏であり、後に和気氏と改名され、7世紀には皇族の血統を継ぐ豪族の名として定着します。

この和気清麻呂の系図に記載されている豪族の名から、清麻呂の出自が天皇系と同様にイスラエル王系ユダ族であることがわかります。清麻呂の父の名前は磐梨別乎麻呂と書き、「イワリ・ビコ・マロ」と読むことができます。訓読みの「いわ」に続き、音読みや中国語の読みが混在しますが、ヘブライ語の発音に漢字があてられた際に、そのルーツがあからさまにならないように、異なる読み方になるように工夫されているのです。

「イワリ・ビコ・マロ」は3つのヘブライ語から成り立っている名前です。「イワリ」はヘブライ人を意味するivri、イヴレー(ivri、イヴレー)であり、日本語の発音では、「イブリ」、「イワリ」となります。「ビコ」は男子の名を作る接尾辞であり、ヘブライ語ではbekhor、ビコ(bekhor、ビコ)と書き、元々は最初に生まれた子供、長男を意味します。また、最初の収穫を指して使うこともあります。おそらくこの「ビコ」が語源となって男子の美称を意味する「彦」(ひこ)の文字が後世において使われるようになったと考えられます。そして「マロ」はヘブライ語でmarom、マロ(marom、マロ)、天、天国を意味する言葉です。磐梨別乎麻呂の名前は「ヘブライ人の最初の天子」を意味し、それは清麻呂の父だけでなく、磐梨別君の氏姓を賜わった弟彦王、そして垂仁天皇を含む皇族がユダヤ系であったことの証なのです。

皇族の出であるが故に、和気清麻呂は八幡大神である応神天皇や秦氏とも深い関係にありました。しかも清麻呂の妻は桓武天皇の母である高野新笠の妹、嗣子でした。皇族の流れをくむ天才的な学者であり、日本地理を熟知していた清麻呂だからこそ、古くから同族の王が統治した邪馬台国への道のり主要拠点である奴国を見初め、足立山からの見晴らしとその剣山に直結する立地条件にも着眼し、有無を問わず、そこを自身の聖地としたのです。

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