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2012/12/25

奈多宮神社が証する佐田岬経由の旅路の行き先とは

今治から眺める瀬戸内の海
今治から眺める瀬戸内の海

末盧国から不弥国までの陸行については、史書に記載されているとおりの道のりを、難なく見出すことができました。末盧国の比定地にあたる鐘崎・宗像から伊都国の八幡、奴国の小倉北へと東南方向に旅を続け、最後に東海岸沿いの不弥国へ向かい、鳶ヶ巣山の麓にある周防灘を臨む港に辿り着きます。そこは北九州と他の島々を結ぶ交通の要所でもあり、その港から再び舟で南下し、綿都美神社の2重鳥居が示す137度の方角を目指して進みます。そして宇佐を流れる駅館川沿いを内陸に向かうと、秦氏の本拠地である八幡宮の総本社、宇佐神宮周辺に至ります。

旅人が宇佐神宮を経由する理由

宇佐神宮外宮 一之御殿
宇佐神宮外宮 一之御殿
邪馬台国への旅路の途中、宇佐の聖地に一旦立ち寄ることが古代の旅人にとって重要であった理由は何でしょうか。日本書紀には神武天皇が東征する際に、まず、「菟狭の川のほとり」に立ち寄ったことが記載されています。それ程、宇佐の歴史は古くまで遡り、当時から特筆すべき場所であったのです。そして宇佐はいつしか聖地としての名声を博し、列島に渡来した秦氏は宇佐を自らの一大拠点とするべく、そこに宇佐八幡宮を造営して、全国八幡宮の総本山としました。その後も渡来系の民の中には宇佐を目指す者が多く現れ、5世紀末には、新羅系の渡来集団の中心となった辛嶋氏も満を持して朝鮮半島より渡来し、周防灘から宇佐平野の西部に到達して辛国を設立しました。秦氏と同族であり、スサノオ命を祖神とした辛嶋氏は筑紫国に渡来した後、イタケル(スサノオの子)を祀り、豊前国香春岳では新羅神を祀り、その後、豊国を経て宇佐に入ったのです。そして最終的に、辛嶋氏の活動の拠点が豊前国宇佐郡辛嶋郷となったことを「辛嶋勝姓系図」から知ることができます。秦氏一族にとって宇佐とは、他に譲ることのできない神聖な地であったのです。

それ程までに、古代より宇佐が重要な聖地であった理由が、国生み神話で知られる淡路島と日本最高峰の富士山の存在に秘められていました。古事記や日本書紀の記述によれば、淡路島から国生みが始まっています。南西諸島から北東方向に連なる多くの列島は、瀬戸内海を過ぎて淡路島まで北上すると、巨大な本州を境にして一連の島々の流れが途絶えます。その大自然の光景を目にした伊弉諾尊ら一行は、探し求めていた「東の島々」の中心が淡路島であることを悟り、そこから周囲の島々を探索して特定したのが国生み神話の流れです。

そして淡路島では島の聖地として、舟木の丘に石上神社の磐座が見出され、そこから四国の霊山である剣山の方向にある淡路島の平坦な地に、誰もが容易に参拝することができる伊弉諾神宮が造営されたと考えられます。その後、伊弉諾神宮を基点として、夏至や冬至の日の出と日の入りに関わる方角を見極めながら、その方角の線上に1つずつ聖地を見出し、淡路を中心とする新天地の周辺を聖地化して、国全体を清めることに努めたのです。その結果、伊弉諾神宮の北西300度上には出雲大社、北東60度上には諏訪大社、南東120度上には熊野那智大社、そして南西240度上には高千穂神社と天岩戸神社の聖地が見出され、其々が長い歴史の中で、民の篤い信望を得るようになります。

伊弉諾神宮と各聖地の配置
伊弉諾神宮と各聖地の配置

生粋の霊山富士山麓 鳥居
生粋の霊山富士山麓 鳥居
これらの夏至と冬至の線上にある聖地とは別に、古代人が注目したのが日本列島における最高峰の富士山です。圧倒的な標高を誇る富士山は、古代から揺るぎなき霊山として認識されたことでしょう。そして出雲大社には熊野那智大社が、諏訪大社に対しては高千穂神社と天岩戸神社が、伊弉諾神宮を中心とした相対する聖地として選別されたように、生粋の霊山として認知された富士山に相対する聖地として、伊弉諾神宮の西側に宇佐の地が特定されたのです。地図上で富士山の頂上から伊弉諾神宮を経由して直線を引くと、見事に宇佐神宮にあたることがわかります。これは単なる偶然ではなく、綿密に計測した上で、宇佐の場所が選別されたからに他なりません。また、伊弉諾神宮の距離は富士山から368km、宇佐神宮から338kmであり、距離的にもほぼ一致しています。同一の距離でない理由は、368kmの地点が山奥の山上に位置していたために、あえてその手前の平地で、川のほとりに近い現在の宇佐神宮の地を、富士山から伊弉諾神宮を結ぶ線上に選んだのでしょう。

伊弉諾神宮を中心として日本全体を網羅する聖地の1つに数えられた宇佐は、富士山と伊弉諾神宮の線上に直結し、最高峰の霊山の流れを汲む聖地の役割を果たす一大パワースポットとして、秦氏らの篤い信仰を得ることになったのです。こうして宇佐神宮には多くの崇拝者が集まるようになり、貴重な聖地となったのです。邪馬台国へ向かう途中、まず宇佐を訪れてから国東半島の方向へ旅を続ける理由は、国生み神話の中に隠されていたのです。

投馬国の候補地を考察する3つの鍵

(不弥国から)南へ水行20日進むと投馬国に到着する…五万余戸の人家がある。

さて、投馬国の比定地については、その主だった候補地だけでも数十か所に及んでいます。九州だけでも熊本県の玉名と当麻、鹿児島の高城郡托摩と都万郷、宮崎の都萬、福岡県の上妻や下妻と豊前、豊後、そして大分の五馬等が挙げられます。そして山陽、山陰地方では、出雲や兵庫県北部の但馬、瀬戸内海側では山口県の玉祖、広島県の鞆、岡山県の玉野が名を連ね、更に東方に至っては、兵庫県の須磨等が候補地として挙げられてきました。広島の鞆(とも)町と兵庫の須磨の浦は、双方が新井白石によって提言されましたが、いずれも結論を出すことが難しかったことがわかります。これら比定地の殆どは、投馬国の名前が「トウマ」、もしくは「トゥマ」と読まれるという前提から、その発音に似た地名を持つ場所が候補地として挙げられています。これ程までに意見の分かれる投馬国の比定地ですが、その場所を特定する手立てはあるのでしょうか。

史書の記述を頼りに、投馬国の比定地を見出す鍵は3つあります。まず大事なことは、投馬国の地が、不弥国から舟で20日間という長い時間をかけて航海し、到達する地点であるということです。それ故、北九州周防灘沿いの港から20日間という日数をかけて辿り着ける距離にある地域を、まず模索する訳です。古代の様々な航海条件を想定すると、1日の平均渡航距離は15km程度になることは前述したとおりです。すると20日間では、およそ300kmの渡航距離に換算され、それが1つの目安になります。その300kmという距離を基準に、到達地点の候補を考えてみました。

不弥国から投馬国へ至る水行20日の航海路
不弥国から投馬国へ至る水行20日の航海路
周防灘に面する不弥国から海岸線沿いを南方向に辿り、国東半島を過ぎた後も、別府湾を経由して更に南下し続けたと仮定すると、宮崎県延岡周辺の北部平野部までの距離は約260km、日向市までが280km、宮崎平野北部までは約320kmとなります。実際の渡航距離と、それにかかる日数は天候などの諸事情に大きく左右され、岬の先から次の岬へと航海し、大きな湾を長距離に横切ることもあることから、航海路と実日数の想定は、あくまで大まかな目安として考えることが賢明でしょう。いずれにせよ、九州の東海岸沿いを南へと航海し続けるという前提で考えるならば、延岡から宮崎平野周辺の地域が20日の水行にて到達できる渡航距離の範疇となり、投馬国の候補地となり得るのです。また、国東半島から伊予灘を渡り、四国佐田岬へ向かうという想定も可能であり、岬の北側を東方向に進めば、およそ250kmで松山港、そして300kmで今治平野に到達します。また、佐田岬より南方面へ向かったとするならば、およそ300kmで四万十まで到達します。これらの地域が、距離のデータから推察することができる投馬国の候補地となります。

次に、投馬国が「五万余戸」という大変多い家屋を建造することができる程、広大な地域にあるということを念頭に、候補地を絞り込みます。元来倭国とは、「山や島によって国や村をつくっている」と魏志倭人伝に記載され、百余の国々に分かれていました。その後、魏の時代では30国が諸外国に知られるようになります。これらの国々は、小さな島単位で国を形成しているものもあれば、九州や四国などの大きな島では、舟の行き来をする際に、停泊できる港の周辺の平野部が成長したものも含まれていたことでしょう。また、山の地の利を活かし、山上や、時には山地に囲まれた盆地にも国が作られていたのです。そして「五万余戸」という数字を見る限り、その世帯数から国の人口は少なくとも20万人以上と想定されるだけに、それだけの人口を抱えて国家を成立させるだけの広大な平野が、舟で渡航できる海岸沿いになければならないのです。それらの条件を満たす場所は限られており、西日本の航空地図を参照すれば一目瞭然です。それらは九州東海岸沿いでは延岡平野と宮崎平野、四国では松山と伊予を囲む道後平野、及び瀬戸内海沿いの今治平野、そして四国最南端の四万十です。つまり投馬国の候補地は、これらの平野のいずれかであると考えられます。

四国の四万十については、広大な河川口が太平洋に向けて広がる美しい風景が有名です。しかしながら、500m前後の川幅を誇る広大な川の流れが、河川口から5km以上も内陸に続いていることから、川岸を双方向へと行き来することは容易ではなく、川の存在そのものが村落の形成を妨げる原因となります。そして河川沿い周辺の平野部はさほど広くはなく、大規模な集落が形成される程の好立地条件とは言えません。また、太平洋岸の最南端に面し、倭国の海上交通の中心となっていたと考えられる瀬戸内海から九州に向かう主要海路からも極端に離れているだけでなく、四万十の北部に聳え立つ険しい山々により、陸上交通も大変不便な地域です。そして歴史的に津波の危険性も高いことから、そこに巨大な集落が古代から形成されていたということは、考えにくいでしょう。

3つ目の鍵は、地域周辺に旅の指標となる神社や史跡の痕跡を見出し、邪馬台国への旅路との関連性を見極めることです。例えば九州の東海岸沿いにある延岡、日向、宮崎平野を考えてみましょう。延岡平野の西側、山地奥には、高千穂と呼ばれる聖地があり、天照大神が隠れたという伝承が古くから残されている天の岩戸が存在するだけでなく、その周辺の史跡には神武天皇の御兄弟、四皇子が誕生されたとされる四皇子峰や、高天原遥拝所も古来より広く信仰されています。これらの史跡や言い伝えの多さからしても、高千穂周辺のエリアは、神武天皇を筆頭とする歴代の天皇や古代国家と、何かしらの関与があったということに疑いはありません。また、卑弥呼を洛陽音で読むと「ヒムカ」となりますが、その読み自体が日向の読みと酷似していることからも、日向と邪馬台国が関連している可能性を窺うことができます。

しかしながら史書の記述によれば、投馬国を離れた後、そこから南へと水行を更に10日経た後、陸行1カ月を要して邪馬台国に辿り着くことになっています。それ故、日向周辺から西方向に高千穂を眺めながら10日間の旅を続けるとするならば、投馬国を延岡とした場合は鹿児島東部の都井岬、串間まで到達し、また、宮崎平野を比定地とした場合には、舟は種子島にまで行ってしまうことになります。しかもいずれの場所も、そこから30日の陸行を介して邪馬台国へ向かうという、陸上の道のりを見出すことができないのです。また、九州の南部、鹿児島方面に邪馬台国があったとするならば、何故、わざわざ水行と陸行を繰り返して九州の東海岸沿いを南下する必要があるのか説明できません。最初から九州の西海岸沿いを下ることにより、大幅に行程日数を少なくすることができることから、旅程の辻褄が合わなくなります。更に鹿児島以南の地域は、邪馬台国への旅の基点となる朝鮮半島北部の楽浪郡から見て、東南方向とは言えなくなってしまうことも問題です。

これらを総合して考えると、邪馬台国に向けて不弥国を旅立つ舟の行き先は、宮崎や鹿児島方面ではなく、むしろ舟で南下する途中、国東半島から四国の佐田岬へと方向転換していたとしか考えられないのではないでしょうか。帯方郡の東南にある邪馬台国の場所は、九州を超えた更に奥の島に存在していたようです。そしてその証拠が国東半島の海岸沿いに佇む由緒ある神社の歴史に秘められていたのです。

四国佐田岬を暗示する奈多宮神社

再建された奈多宮宝物殿
再建された奈多宮宝物殿
九州の周防灘を臨む不弥国から続く邪馬台国への道のりが、国東半島の南端から方向を転換して瀬戸内海の伊予灘を渡り、佐田岬へと向かっていたことを証する重要な証拠が、半島の海岸沿いに建立された奈多宮神社です。宇佐神宮の重要性は前述したとおりであり、古代の旅人は不弥国を旅立った後、舟で南下した際には、まず宇佐神宮に立ち寄り、そこで神々を参拝しました。その八幡宮、ヤハタ神の総本社である宇佐八幡宮の正倉院とも言われてきた神宝の倉庫が、国東半島の海岸沿いに建てられた奈多宮神社です。奈多宮は「宇佐宮の神貢物を次々と送り込む神社」として知られるようになり、実際には宇佐神宮よりも多くの神貢物が秘蔵されていたと言われています。それ程までに由緒ある奈多宮神社ですが、重要な文化財や神宝を保存するための倉庫が何と、砂浜に面した海岸沿いに建立されていたのです。現地に足を運ぶだけで、奈多宮神社が「海の正倉院」と言われてきた所以が理解できます。正に砂浜が広がるビーチ沿いに建てられた神社の境内であり、その中に建てられたと考えられる古代の倉庫も、ちょっとした荒波により押し流されてしまいそうな際どい立地条件です。何故、そのような一見、危険と思える海沿いの場所に、大切な神宝を保存する倉庫が建造されることになったのか、その理由を考える必要がありそうです。

奈多宮の海中鳥居
奈多宮の海中鳥居
そのヒントが、奈多宮の鳥居の位置に隠されています。現在では古い鳥居が2つ、新しい鳥居が1つ建てられており、また、海中の岩礁の上にも1つの鳥居が建てられています。まず、その海中の鳥居が北東の方向、国東半島の海岸線沿いに向けて建てられていることに注目です。対馬の和多津美神社において5重の鳥居が果たした役割と同じく、奈多宮の海上鳥居も舟で旅する渡来者の安全を祈り、九州の北部から国東半島の海岸沿いを経由して、舟で南下してくる渡航者の目印となるべく、海上の岩石上に建立されたことは明らかです。つまり、奈多宮神社の場所を明示し、そこが大事な旅の到達点であるということを知らしめる為の鳥居だったのです。このように鳥居は、神を祀るための飾りとしてだけでなく、その神社が迎える旅人の無事を祈り、その渡航者が到来してくる方角を示す重大な指標の役割も果たし、奈多宮神宮もその例にもれません。

奈多宮三重の鳥居から見据える海
奈多宮三重の鳥居から見据える海
では、参道から海に向かって真っすぐに建立された御神殿前の3重の鳥居はどうでしょうか。対馬の和多津美神社等の例を見てもわかるとおり、海に向かって鳥居が建てられることに不思議はなく、その方向の先には、神社を参拝に来る海からの旅人の群れが存在することを示しています。奈多宮の3重の鳥居は海に向かい、東南東の方向、およそ108度を指しています。その中心線を見据えて海を遠くまで眺めると、その先には、瀬戸内海を超えて四国の佐田岬があります。つまり九州と四国の佐田岬を行き来する際の九州側の拠点が奈多宮神社であり、その神社の境内に建てられた倉庫は、重要な文化財を一時保管する為のものとして、四国と九州間を航海する際に積極的に活用されていたと考えられます。

これで奈多宮神社が、海岸の砂浜沿いに建立された謎が紐解けました。奈多宮 本殿
奈多宮 本殿
そこは邪馬台国への旅路において、九州と四国を行き来する際の橋渡しとなる伊予灘西側の重要拠点であり、その鳥居が佐田岬から訪れる舟の目印となっただけでなく、その倉庫は貴重な神貢物や大切な文化財、重要な資料を一時的に保管するための櫓として、重要な位置を占めたのでした。そしてこの宝蔵庫は航海上の利便性を考えた上で、あえて神宝や物の移動に便利な海岸沿いに造営されることになったのです。これが、奈多宮神社が「海沿いの正倉院」と呼ばれるようになった所以です。

投馬国とは2つの岬に象徴される国

佐田岬を経由して投馬国へと向かう旅路の選択肢は、既に四万十方面が否定されたことから、もはや四国の今治平野周辺しか残されていません。しかしながら、この今治こそ、史書の記述内容に合致する邪馬台国への旅路の途中にある投馬国の場所であることがわかります。

今治から眺める瀬戸内の海
今治から眺める瀬戸内の海
まず今治は、不弥国の比定地となる周防灘沿いの北九州海外から古代の舟で、およそ20日かけて航海する距離の範疇となる約275kmの地点にあります。また、旅の出発点である帯方郡から見て東南の方角にあることからしても、史書の記述と合致しています。そして今治平野の大きさは、5万戸の家屋を有するに十分な広さがあり、集落が適度に発展しやすい土地柄を誇ります。更に今治は瀬戸内海という、古代から東西を結ぶ主要な回廊に面し、その近隣に浮かぶ瀬戸内海中部地域の島々の山頂周辺には、弥生時代に発展した多くの高地性集落が見つかっています。つまり古くから人と物の流れが今治周辺の海域に存在し、渡航ルートが出来上がっていたのです。そしてそれらの島々を見渡す位置にある今治の北部、高縄半島の丘上には古墳時代前期に造営されたと考えられている全長80mにも及ぶ大型の前方後円墳、相の谷1号墳があります。このような大型古墳の存在は、古代よりその地域に大規模な集落を持つ国が存在し、王とも呼ばれるべき有力者が今治を統治していた時代があった可能性が高いことを裏付ける史跡として考えられます。

特に注目すべきは、投馬国のアイヌ語における意味が、その周辺の地形と見事に一致することです。「投馬」という地名は魏志倭人伝が書かれたとされる3世紀の時代、どのように発音していたのでしょうか。中国語の歴史において、周から前漢までの前256年頃までは「上古中国語」が使われ、その後、後漢から唐の時代までは「中古中国語」が使われました。日本に関する記述が含まれる史書の数々は、これらの時代をまたがって編纂されているだけでなく、中国という広大な土地柄故、その地域によっても発音が大きく異なることが想定され、一概に地名の発音を特定することは難しいかもしれません。しかしながら、魏志倭人伝の編者である陳寿(233~297)は、魏の都が220年に洛陽に移った後、晋朝において仕えた学者であり、その史書自体が3世紀に書かれていたことがわかっています。それ故中国語における発音は、「上古中国語」の後期から「中古中国語」の前期に的を絞ることができます。また、晋を興す原動力となった司馬氏も洛陽に近い河南省の出であり、洛陽を都としていたのです。そして陳寿と同じ時代に晋の詩人として名声を博した左思も、洛陽を中心として多くの功績を残しました。左思が書いた「三都の賦」は、洛陽界隈の多くの人によって書き写されたことから紙の価格が高騰し、「洛陽の紙価を高める」という言葉が生まれた程、洛陽は文化の中心であったと言えます。

これらの背景を総合的に考えると、陳寿が読み書きした中国語は、洛陽の都を背景とした洛陽音を用いていた可能性が極めて高いと言えます。陳寿が洛陽音を用いたと仮定するならば、「投馬」の発音はおそらく「ドマ」、「ドゥマ」、もしくは「ヅゥマ」、「トゥマ」と聞こえたとも考えられます。投馬国の比定地を考察するにあたり、これらの発音に類似した日本語の地名を探し求めて、それを候補地として検討する訳ですが、古代の日本の地名はまず、アイヌ語でその発音に類似した言葉があるかどうかを見極めることが大事です。すると、「トゥマ」という発音に極めて類似したアイヌ語が存在することがわかります。それが「Tuma」です。アイヌ語で「トゥ」は2つ、「マ」は半島の意味を持つ言葉でもあることから、「トゥマ」は「2つの半島」を意味することになります。

今治半島の北部に際立つ2つの半島
今治半島の北部に際立つ2つの半島
さて、今治平野は四国の北西に位置しますが、その平野部の北部には、地図を見ても一見して明らかなように、今治を象徴する半島が北側の先端に2つ並んでいます。今治平野にはこれら2つの大きな半島が隣接し、それが地域の目印となっていることに疑いはないことから、今治は正に「2つの半島」という名前で呼ばれるに相応しい自然界の姿を映し出していたのです。それ故、遠い昔から日本に住む土着のアイヌの人々は、今治周辺を「トゥマ」、もしくは「ドゥマ」、「2つの半島がある国」と呼んでいたのではないでしょうか。これらを総合的に考えると、投馬国の比定地が今治であるという推論が、にわかに現実味を帯びてきます。「投馬」の国名は、アイヌ語の地名が古代社会において九州や四国の地名に用いられている優れた事例の1つであり、他の地名についても、今後の再検証を促す根拠となりそうです。

投馬国の高官とは「有力者」の意味

魏志倭人伝等の史書に記述されているとおり、投馬国は5万以上の家が並ぶ大きな古代都市でした。その数字からしても、国の人口は20万とも30万とも言える数に膨れ上がっていたと考えられます。その大きな国を統治していたのが、弥弥と称された長官、及び弥弥那利と呼ばれた次官でした。

「弥」の発音は中国語では「ミ」であることから、弥弥の読みは「ミミ」となります。不可解な発音ではありますが、そのルーツに潜むヘブライ語を理解することにより、言葉の意味が浮かび上がってきます。ヘブライ語には、mi(mi、ミ)という「誰に?」を意味する言葉があり、この言葉を重ねて1つの単語にすると、「有力者」の意になります。それがha mi va-mi((ha)mi va-mi、(ハ)ミ(ヴァ)ミ)という言葉です。ha(ハ)は定冠詞、中間のva(ヴァ)は「そして」を意味する接続詞で、どちらも発音上さほど聞こえる音ではないことから、実際には「ミーミー」とも聞こえます。つまり弥弥、「ミミ」とは、その地域における1番の有力者を指していたのです。

また、弥弥の次官は弥弥那利、「ミミナリ」と記載されています。那利「ナリ」は、ヘブライ語でnaaleh(naaleh、ナーリ)が語源です。その言葉の意味は、「荘厳な」、「上級の」、「高位の」を意味します。つまり弥弥那利は「上級の有力者」、「位の高い実力者」を意味することから、弥弥に次いで統治を担当する副高官を意味するようになったのではないでしょうか。それ故、投馬国の統治者は、長官が弥弥、次官が弥弥那利と呼ばれ、それが「長官は弥弥(と呼ばれる一番の有力者)であり、次官は弥弥那利(と呼ばれる上級の副高官)」と呼ばれるようになった所以でしょう。

佐田岬経由で往来する理由

今日の佐田岬灯台
今日の佐田岬灯台
投馬国の比定地を今治とした場合、何故もっと距離の短い山口県側の海岸を沿って渡航しないのか、という素朴な疑問が湧いてきます。山口県の瀬戸内海沿いから屋代島近辺を通って今治まで行くと、全行程は約230kmとなり、国東半島を経由するよりもおよそ45kmも短い距離で目的地に到達できるのです。それでも古代の旅人にとっては、国東半島を経由して四国に渡ることが重要であり、また、瀬戸内海から九州方面に行く際も、四国今治から伊予、佐田岬を経由して九州に到達することが多かったのです。その理由として注目に値するのは、以下の2点です。

まず、宇佐八幡宮の重要性については前述したとおり、邪馬台国へ行く旅の途中にある西日本の聖地であり、秦氏の一大拠点でもあるが故、宇佐に停泊して神の宮を参拝することは、極めて重要な旅の要素でした。また、宇佐八幡宮に立ち寄るということは、その後瀬戸内海方面に渡るとするならば、奈多宮神社まで足を延ばすことになります。そこには宇佐八幡宮の宝蔵庫があることから、特に舟に搭載する荷物の量が多かった場合、九州四国間を頻繁に行き来すること等を考えると、保管倉庫となる海の正倉院が存在することからしても、大変便利でした。それ故、奈多宮を拠点として、佐田岬との間を行き来することは理にかなうことでした。

もう1つの理由は「伊予国風土記」の逸文から学ぶことができます。四国松山近くにある伊予の湯は、古代から病の治療に驚異的な効果をもつ名泉として知られていました。その効能故に、景行天皇、仲哀天皇と神功皇后、聖徳太子をはじめ、天智天皇や天武天皇ら、大勢の天皇が伊予の湯を訪れていたことが伝えられています。その「伊予国風土記」には、天皇の一行が朝鮮半島等の政治情勢を見極めるために北九州に出向く際には、その途中で伊予の湯へ行幸し、癒しの力を受けていたことが明記されています。それは聖徳太子の伊社邇波の碑文に「神の井に沐みて疹を癒す」と書いてあるとおりです。つまり、瀬戸内海を通って九州に行く際には、まず伊予の湯につかり、そこから佐田岬を経由して宇佐に参り、北九州へと向かったのです。およそ275kmに及ぶ不弥国から投馬国への航海路ではありますが、宇佐神宮を参拝し、奈多宮にて文化財を保管し、伊予の湯に浴びることができることを考えると、50km前後の渡航距離の延長は何ら、苦にはならかったことでしょう。邪馬台国への道のりは、まだ続きます。

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