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2014/11/07

三輪山の笠縫邑から始まる伊勢神宮への元伊勢御巡幸の歴史を検証

檜原神社の三ツ鳥居

笠縫邑(檜原神社)のレイライン

元伊勢の歴史は、笠縫邑から始まります。神宝が皇居を離れてから最初の33年間、笠縫邑が神宝の奉斎地となり、崇神朝の祭政分離体制が徐々に確立されていくことになります。その期間、神宝については様々な情報が収集され、次の遷座場所などについても協議されたことでしょう。また、鏡と剣のレプリカが斎部氏の指揮の元、鏡作部と金工鍛冶の遠祖2氏からなる大勢の職人によって鋳られ、本物に代わって宮中に祀られたのです。

笠縫邑の比定地としては檜原神社や巻向坐若御魂神社、志貴御県坐神社など、これまで複数の候補が挙げられています。中でも檜原神社である可能性が高い理由は、まず、檜原神社の地が三輪山の麓、大神神社の北側約1kmにあたり、山頂へのアクセスが大神神社よりもよく、便利な場所であることが挙げられます。聖地詣でを日々繰り返しながら三輪山を暴徒から護衛するには、最適な地であったと言えます。次に、檜原神社は三輪山の麓でも標高120mほどの台地に建立され、その境内からは二上山や箸墓を見渡すことができることから、その良好な展望が重要視されたと考えられます。また、大神神社と同じく本殿がなく、境内に造られた三ツ鳥居の向こうに見える三輪山を御神体として拝することも、三輪山と深い関わり合いを持つ社であることの証として重要です。三輪山平等寺旧蔵の室町時代に描かれた古図には、二つの鳥居を進むと、天照大神と春日大明神を祀る社が左右にあり、その先には本殿がなく、三ツ鳥居だけが描かれ、そこから三輪山を拝していたことがわかります。しかも三輪山の頂上に鎮座されている神坐日向神社の社殿は西北の方向、ちょうど檜原神社の方角を向いていることも、檜原神社の重要性を証しています。 さらに「大和志」や「神名帳考証」には、檜原神社が巻向坐若御魂神社の旧遷座地であると記されていることも、檜原神社説を後押ししています。

檜原神社の重要性はレイラインの検証からも確認できます。まず、古代聖地のひとつ、出雲の御神体とも言われる八雲山と三輪山を結ぶレイライン上に、檜原神社が建立されていることに注目です。つまり、三輪山の頂上から檜原神社の三ツ鳥居を介して線引きをすると、八雲山に到達するのです。スサノオ命の拠点である出雲の聖地と紐付けられるということは、スサノオ命が手にした神剣との関わりを持つことの象徴とも解釈できることから、重要なレイラインと言えます。

さらに檜原神社の位置から二上山を越えてまっすぐにレイラインを引くと、沖ノ島を通り抜けます。沖ノ島は神宝の宝庫としても知られ、そこに建立された沖津宮は宗像大社の本宮でもあることから、このレイラインも神宝に絡んでいます。同様に、檜原神社から宗像大社の中津宮へレイラインを引くと、その線上には淡路島の神籬岩が存在し、また、檜原神社の真北には日本海沿岸に三方五湖が、真南には熊野灘に紀伊大島が浮かび、垂直のレイラインによって結び付けられています。さらに、富士山と諭鶴羽山、檜原神社を結ぶレイラインも重要です。古代レイラインの重要拠点である富士山は、宝永山がある南側が基点となっていったと考えられ、レイラインは頂上の南側を通り抜けるように線引きされています。古代では富士山の形状が異なり、今日、御殿場ルートや富士宮ルートと呼ばれるような富士山の南側から登山したと推定され、宝永山周辺に頂上の一角があったと考えられます。これら複数のレイラインの存在から、檜原神社の地は神宝に深く関わるスサノオ命の聖地である出雲や宗像だけでなく、諭鶴羽山の熊野神や、神籬石、富士山にも結び付く、重要な位置を占めていたことがわかります。

笠縫邑のレイライン
笠縫邑のレイライン
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