日本の歴史に残る偉大な企業家の一人に、三井物産を総合商社にまで育て上げた益田孝の名前が挙げられます。1848年、新潟県の佐渡に生まれ、幼いころより語学に卓越した才能を発揮した益田氏は、12歳にして当時東京の麻布善福寺にあったアメリカ公使館に勤務することになりました。14歳の時には遣欧使節団に加わる機会が与えられ、明治維新の直後、アメリカの大手商社に入社。そして益田孝の活躍ぶりは、いつしか井上馨の目に留まり、23歳にして大蔵省に官吏として入省したのです。その後、これらの功績が三井家に高く評価され、1876年、弱冠27歳で三井物産の社長に就任します。
今よりも昔の方が年齢にこだわることなく、本人の実力次第で立身出世できるチャンスに恵まれていたことでしょう。特に益田孝は、語学を特技とし諸外国の知識に長けていたため、その経験とスキルが明治政府にとって重宝されたのです。百年前でも年齢の壁を越えて政界、財界で活躍する機会が20歳そこそこの青年に与えられたのですから、さらに千年以上も昔となれば、出世の可能性は無限大だったのではないでしょうか。それ故、平安時代初期の天皇政治の下で、比類なき才能を持った空海が20歳を前に政府高官への道を歩み始めたことは、想像に難くありません。
大師和讃において「御歳七つのその時に衆生のために身を捨てて」と賞賛される空海は、15歳にして論語や孝経を習得、18歳の時には当時唯一の都の大学に入学して明経道を専攻し、儒学をマスターしました。そして空海の名声は親族である阿刀氏から法相宗の僧侶らを介して、桓武天皇にも知れ渡り、阿刀大足の働きを通じて皇室の側近としても活躍しはじめます。「弘法大師こそ、世界に誇り得る日本の英雄であり聖者である」と、湯川秀樹博士はおっしゃいましたが、まさにそのとおりです。
ところが都の現状を目の当たりにした空海は、その栄華と仏教徒の世俗的衰退を危惧し、19歳で大学を退学してしまいます。空海が執筆した「三教指帰」には、「朝市の栄華念々にこれを厭い、巌藪(がんそう)の煙霞、日夕にこれをねがう」と書かれており、空海がどれほど都の虚栄と宗教の荒廃に嫌気がさしていたかを察することができます。空海の目に焼きついた都の姿とは、貧困に悩む庶民と病人に溢れた苦悩の世界であり、それを思うたびに空海は学問の追及よりも、むしろ真の道を説いて人々の魂を救うことを願ったのです。そして追い打ちをかけるように都の危機が訪れ、空海が大学を去る時期を早める結果となりました。長岡京が早良親王の祟りをはじめ、地理的要素に絡むさまざまな天変地異による危機に陥った際、南都六宗の仏教勢力との接触を嫌っていた桓武天皇は、これらの問題を解決する糸口をつかむために、宗教アドバイザーを必要としていたのです。そこで召集されたのが、奈良で勉学に励み、当時、奈良仏教界においても一番勢力を持っていた法相宗の僧侶らと縁故関係を持っていた空海ではないかと推測します。しかも空海は大陸通であり、梵語や中国語などの外国語だけでなく、仏教思想や日本古来の宗教についても熟知していました。そして出身は讃岐、今日の香川県であり、そこは剣山のお膝元であるだけに、桓武天皇にとっては願ってもない人材だったのです。
天皇の悩みを知るやいなや、空海はその答えを祈り求めるために大学を去り、思いを馳せて奈良の寺院を訪ねて歩き回り、その後大峯山、高野山、伊予の石鎚山、阿波の大滝ヶ嶽などで修行を重ねます。空海自身このときの自らのありさまを、旧約聖書の預言者を髣髴させる「仮名乞児」と呼び、三教指帰には「荒縄を帯として、ぼろぼろの衣を纏った空海の顔はやつれ、長い脚が骨張って、池の畔の鷺の脚のようになった」と記載されています。これらの記述からも、空海が自らに課した過酷な苦行を垣間見ることができます。そして794年、空海は土佐の室戸岬、御厨人窟(みくろど)にて悟りを開きます。具体的には聖書にも類似したペンテコステの記載があるように、天上界から聖なる霊が空海に下り、その聖霊の力によって舌に火がついたように未知の国の言葉、すなわち異言を語ったのです。空海は修行の末、その聖霊を身に浴びて霊の世界に目覚め、後に遣唐使として長安に向かった際には景教を学び、聖書の言葉からその意味を知ることになります。
空海が修行の際に時を過ごした大峯山も、実は、高野山と同様に固有の山を指す名称ではなく、吉野山から熊野へ続く山岳地域を意味しています。丁度その中心に山上岳がそびえ立ち、頂上には修験道の根本道場となった“大峯山寺”があります。この大峯山も高野山と同様、四国剣山と伊勢神宮を結んだ一直線上に存在し、頂上からは、東に伊勢神宮、西には高野山を見渡すことができます。そしてこれらの聖地と高野山、石上神宮との地理的繋がりに着目した空海は、伊勢神宮と石上神宮を結ぶ線を中心に、
石上神宮 拝殿剣山への線とは対称となる線上に平安の都に相応しい聖地があることに気が付いたのです。そして794年3月、天皇は遷都の地を和気清麻呂と共に巡覧され、その後、造営が急ピッチで進められることになります。早急に遷都が実現しなければならなかった背景には、怨霊の問題があり、当時の人々にとって、特に天皇家一族にとってそれはまさに、死活問題だったのです。