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「三種の神器」とは

日本人なら一度は聞いたことがある「三種の神器」。それは、天皇家に受け継がれてきた秘宝である八咫鏡、八尺瓊曲玉、草薙剣を指します。「三種の神器」という言葉は日本書紀や古事記などの古文書には用いられず、日本書紀では「三種宝物」と称されています。それらの宝物を所持することは、正統な皇位継承者である証であり、皇室の大切な御守りとして古代より大切に考えられてきました。そして歴史の流れの中で、これら「三種宝物」には神聖な意味が加えられ、いつしか「三種の神器」と呼ばれるようになりました。

「みくさのかむだから」とも呼ばれるこれらの神器の真相は、多くの謎に包まれています。「三種の神器」の実物を見たという人は、皇族も含め、今日では存在しないと考えられ、例え見た人がいたとしても、名乗り出た事例がありません。過去、八咫鏡や草薙剣を実際に見たという証言はあり、文書に記されたり語り継がれてはきましたが、その信憑性も定かではありません。よって、本物の神宝は存在するのか、またはレプリカなのか、それとも神宝は紛失してしまったのか、ということさえわからないのが実情です。

「三種の神器」のうち、「八咫鏡」は伊勢神宮、「草薙剣」は熱田神宮、そして「八尺瓊曲玉」は宮中三殿の賢所に安置されていると伝承されています。しかしながら、これら「三種の神器」は今日まで何人も見ることが許されないため、神宝そのものの詳細は定かではありません。また、多くの形代とも呼ばれるレプリカも歴代、作られてきていることから、いつの間にか本物とレプリカがすり替わった可能性もあります。

例えば崇神天皇の御代、外来の敵からの来襲を恐れた天皇の命により草薙剣の形代が造られ、宮中では形代が、そして本物の草薙剣は一時期、伊勢神宮に遷され、最終的には熱田神宮にて祀られることとなりました。その後、時代を経た12世紀後半、平家と源氏による壇之浦の戦いにて、剣と曲玉は、幼い安徳天皇とともに海に沈んでしまったと史書には記されています。その際に失われた草薙剣は、本物の神宝ではなく形代であったと推測されます。しかしながら曲玉はその後、箱ごと水面に浮かび上がったことから回収されたと伝えられています。様々な伝承、物語や諸説が飛び交う中、いずれにしても「三種の神器」そのものの詳細については、語られることがないまま今日に至っています。

歴史上「三種の神器」とは皇室において代々継承されてきたものであることから、実存する神宝であることに違いはありません。それ故、皇室のお守りとして大切に祀られてきただけでなく、皇位継承の際にも「三種の神器」は、新しく即位される天皇に引き継がれてきたのです。伊勢神宮では、「三種の神器」のひとつである「八咫鏡」が皇位継承を象徴する御神体として、古くから内宮にある正殿の奥に宝蔵されています。そして20年に一度行われる遷宮の際には、神宝が白い布で覆われ、夜間に限り移動されるという、最も重要な儀式が執り行われてきました。「三種の神器」は、いつしか日本文化の中にしっかりと根付いていたのです。

天岩戸神話に遡る神器のルーツ

「三種の神器」のルーツは天孫降臨まで歴史を遡り、天岩戸神話や国生み神話の時代に由来します。岩戸が閉ざされて暗闇が訪れた際、岩屋から出ることを拒む天照大神に困り果てた八百万の神々は皆で協議した結果、宝物を作って木に掲げ、天照大神を誘い出すことにしたのです。

神原神社古墳出土 三角縁神獣鏡
神原神社古墳出土 三角縁神獣鏡
(提供 島根県立古代出雲歴史博物館)
まず、鏡作りの職人集団により大きな鏡が鋳造され、玉造部の遠祖に導かれる別の職人集団は、曲玉を作りました。さらに、青和弊(あおにきて)・白和弊(しろにきて)の木綿で作られた供え物も粟国忌部の遠祖である天日鷲が作り、天香山の真坂樹を根元から掘り起こして切った枝に、「八咫鏡」「八尺瓊曲玉」とともに掛けて、岩屋の前に立てたのです。そして岩戸の前で一同が祝詞をあげ、神事を執り行う最中、アメノウズメが楽しげに踊りました。その騒ぎが気になり、また、美しい祝詞の言葉にも心を留められた天照大神は、岩戸を少し開けて外を窺われました。ちょうどその時、岩戸の陰に隠れていた手力雄神は天照大神の手をとり、岩屋から誘い出すことに成功したのです。これら物語の詳細は、日本書紀や古事記に記載されています。

天岩戸の舞台となった高天原において数々の宝物が作られた理由は、元来、天照大神を岩屋から誘い出すためでした。「八咫鏡」と「八尺瓊曲玉」は、そのためにわざわざ作られ、岩戸の前で執り行われた神事に用いられたのです。それらの神器とは異なるもうひとつの「三種の神器」、「草薙剣」はスサノオが八岐大蛇を退治した際に、その尾から取り出したものです。つまり「三種宝物」のうち、「八咫鏡」と「八尺瓊曲玉」は高天原にて同時期に鋳造された神器であり、「草薙剣」は明らかにルーツが異なる外来の剣だったのです。

国宝「直刀」金銅黒漆塗平文拵 附刀唐櫃
国宝「直刀」金銅黒漆塗平文拵 附刀唐櫃
(提供 鹿島神宮)
八岐大蛇とは、大陸からの巨大な船を象徴した名称であるとも考えられることから、「大蛇の尾」とは、その長い船尾を指していた可能性があります。もし、その船の中に由緒ある神剣が宝蔵されていたとするならば、「草薙剣」は大陸に由来する神宝であったといえるでしょう。いずれにしても「草薙剣」とは、高天原の神々によって作られた宝物とは別格の存在であり、古来より大切な神宝として丁重に崇められてきた、比類なき外来の神宝であったと想定されます。

伊勢神宮に秘蔵される「八咫鏡」

天照大神の魂が宿るとされる「八咫鏡」は、岩戸隠れの際に鏡作りの遠祖、天抜戸の子が作ったものであると言い伝えられています。最初に作られた鏡には傷がついてしまったことから日前神宮にて収蔵され、実際には2つ目に作られた鏡が神宝としての「八咫鏡」となりました。「三種の神器」の中でもとりわけ「八咫鏡」が重要視されていたことは、瓊瓊杵尊が降臨する際に、天照大神自らが、その鏡を御自身と思って祀るようにと瓊瓊杵尊に命じたことからも理解することができます。

「八咫鏡」は、国生みの起点である高天原で作られたものです。もし、高天原が日本列島内でも夏至の日に太陽がほぼ天空、すなわち空の頂点を通ることを見届けることができる琉球諸島の最南端、今日の沖縄周辺にあったとするならば、「八咫鏡」を含む数々の神宝は船に載せられて、琉球より内地、すなわち本州まで運搬されたと想定できます。

今日、「八咫鏡」は伊勢神宮にて収蔵されています。その御神体は御桶代(みひしろ)に収められ、さらに檜で作られた「御船代」と呼ばれる箱に入れられています。「八咫鏡」を収蔵する箱が「御船代」と呼ばれたのは、神宝が海を渡って運ばれてきただけでなく、国生みの主人公となった先代の渡来者らが優れた航海技術を携えてきた大陸からの海人であり、琉球諸島から北上して列島に渡来したことを象徴しているのかもしれません。

内行花文鏡(提供 伊都国歴史博物館)
内行花文鏡
(提供 伊都国歴史博物館)
その後、第10代崇神天皇が即位した前1世紀、時代が大きく動きます。前95年、都が三輪山の麓に遷都された直後から全国的に疫病が蔓延し、外敵襲来の噂も絶えず、国家が危機に直面したのです。それまで宮中に祀られていた天照大神は「同床共殿」と伝承され、皇祖神として祀られていました。ところが、その神威を畏れた天皇は、「八咫鏡」を皇居の外に遷す決断をしたのです。そして当初、神宝は皇女である豊鍬入姫命に託され、一時、大和の笠縫邑(現在の檜原神社)に祀られることになりました。その後、理想の鎮座地を求めて各地を転々と遷座することとなり、垂仁天皇の時代、80年以上の長い年月をかけて倭姫命により現在の伊勢に鎮座したのです。その結果、多くの元伊勢と呼ばれる場所に神の社が建立され、そこで天照大神が一時的に祀られたのです。その後、「八咫鏡」は今日まで、伊勢神宮の内宮に奉安され続けています。

「八咫鏡」の名称は、鏡の大きさを示しているのではないかと言われています。日本では1尺は30cm、その十分の一が1寸、すなわち約3pです。また、後漢基準の度量衡によると1尺は23cm、1寸は2.3cmです。そして咫とは円周の単位であり、径1尺の円周を4咫としていました。すると「八咫鏡」の径を文字通り八咫とするならば、その長さは2尺、およそ46cmとなります。また、径1尺の円周は3.14尺であり、それが4咫と等しくなることから、1咫は0.785尺と考えることもできます。すると、1咫はおよそ18cmとなり、その8倍となる八咫の円周は約144cm、それを円周率で割ると46cmという径になります。「八咫鏡」の直径が46pもあるとするならば、それはとても大きな鏡を意味します。これまで国内で発掘されてきた銅鏡の面径は20cm前後が一般的です。しかし実際、直径が46.5cmもある「大型内行花文鏡」とよばれる青銅鏡も発見されていることから、「八咫鏡」が同等の大きさであった可能性も否定できません。

果たして伊勢神宮に祀られている八咫鏡は古来の神宝なのでしょうか?それともレプリカなのでしょうか?いつかその詳細が知らしめられる時が来ることを願ってやみません。

皇居に宝蔵される「八坂瓊曲玉」

曲玉とは、ごく一般的に、石を磨いて作った装身具のことを指します。時には複数の曲玉を紐で結ぶこともあり、そのため曲玉には紐を通す穴が開けられている場合があります。古代、天岩戸にて天照大神を誘い出すために作られた「八坂瓊曲玉」は、皇位の証として天皇が保持する「三種の神器」の1つとして神の御魂を象徴し、極めて重要な役割を果たしてきました。

曲玉は今日まで宮中にて大切に祀られてきました。しかし歴史の流れの中で多くの形代とも言われるレプリカが作られてきたことから、天岩戸で用いられた古来の「八尺瓊曲玉」が宮中の曲玉であるかどうかは定かではありません。「八尺瓊曲玉」は源氏と平家が下関の海上にて合戦をした際に海の中に沈んでしまいましたが、それが浮かび上がり、源氏によって回収されたとも伝えられています。さらにはその曲玉は形代であったという説もあり、真相はわからないままです。

真名井遺跡 ひすい製曲玉
真名井遺跡 ひすい製曲玉
(提供 島根県立古代出雲歴史博物館)
「神璽」(しんじ)とも呼ばれる「八尺瓊曲玉」の歴史は古く、天照大神を主人公とする天岩戸の事件以前にも「八尺瓊曲玉」は存在しました。日本書紀によると、スサノオが高天原に住む姉の天照を訪ねた際、スサノオを恐れた天照は「八尺瓊の五百箇御統」(イオツミスマル)と呼ばれる曲玉を、みづらや鬘、そして両手に巻きつけ、千本の矢を背負ってスサノオを迎え討とうとしました。天照大神にとって「八尺瓊曲玉」は、自らを守護するための御守りだったのです。2神の出会いの後、天照大神の首にかけられていた「八尺瓊曲玉」は、スサノオが剣の代わりに取得して噛み砕いてしまいますが、スサノオが再度、天上に昇ろうとした時には、羽明玉の神が別の曲玉をスサノオに献上しています。その後も複数の曲玉を紐で結んだ「曲玉」は護身用のお守りとして用いられました。

その後、天岩戸事件がおきた際、天照大神を岩屋から誘い出すために、玉造りの遠祖である伊弉諾尊の子、天明玉をリーダーとする職人集団が、新たに「八尺瓊曲玉」を作ったのです。その曲玉は「八坂瓊曲玉の五百箇御統」(イオツミスマル)と呼ばれ、それが「三種の神器」のひとつとなりました。「八尺瓊」の後に続く「五百箇御統」(いおつみすまる)という名称は不可解な言葉であり、定説がありません。一説では「五百箇」を数が多いという意味に捉え、曲玉を緒で貫き、紐でまとめて環状に繋いで、首や胴体に巻くことができるようにしたものを、「御統」(すまる)と解釈します。合わせて「五百箇御統」は、緒で結ばれた多くの曲玉を体に巻きつけることを指していると想定します。後述するとおり、「五百箇御統」はヘブライ語で「神の印が私の守り主!」を意味することから、イスラエルルーツの言葉であった可能性が高いといえます。

「草薙剣」と十握剣のルーツ

「草薙剣」は「三種の神器」のひとつとしてあまりに有名です。日本書紀や古事記には、神剣に関する記述が多数見受けられます。神剣の種類は草薙剣の他に、十握剣と、それよりも短い剣に分けられます。それらの違いを理解するために、まず、十握剣について振り返ってみましょう。

石上布都魂神社
石上布都魂神社
十握剣については国生みの時代まで遡ります。神話によると、剣を身に帯びた伊弉諾尊は、その剣を振り下ろして火の神として知られる軻遇突智(かぐつち)を3つに斬り、そこから神々が新たに生まれたとされています。伊弉諾尊は高天原から降臨された神であることから、十握剣とは、高天原で作られたか、もしくは神々が高天原へ到来する以前に大陸にて鋳造された可能性があります。いずれにしても十握剣とは、元来、神の力の象徴となる聖剣でした。それ故、スサノオが天照大神に会うために到来した際、天照大神ご自身も「八坂瓊曲玉」を身に纏うだけでなく、十握剣、九握剣、八握剣などを身に帯びて、剣の柄を堅く握りながらスサノオとしたのです。

その十握剣をスサノオも所有していたことから、それを見た天照大神より求め取られることになります。スサノオの十握剣は、父、伊弉諾尊から譲り受けた物でしょう。その十握剣をもって、スサノオは八岐大蛇を切り捨てて退治したのです。スサノオの十握剣は神の力を極めた神剣であり、布都御魂剣とも呼ばれています。その神剣は当初、石上布都魂神社に奉納され、その後、奈良の石上神宮に奉斎されました。

石上神宮 拝殿
石上神宮 拝殿
十握剣とは異なり、「草薙剣」はスサノオが大蛇の尾から取り出した剣であることから、その出自は一線を画しています。出雲国の川の上流にて八岐大蛇と一騎打ちしたスサノオは、十握剣をもって大蛇を斬り、その尾から見つけたのが「草薙剣」です。そしてスサノオはその剣の素晴らしさに感動し、「是、神しき剣なり」と語り、天照大神に献上しました。別章で記述しているとおり、八岐大蛇とは大陸から到来した巨船を象徴した名称の可能性があります。その前提で歴史を見直すならば、八岐大蛇、すなわち巨船の中から見出された「草薙剣」こそ、船に宝蔵されて大陸より運ばれてきた外来の神宝であった可能性が見えてきます。

志谷奥出土 銅剣集合
志谷奥出土 銅剣集合
(提供 島根県立古代出雲歴史博物館)
「草薙剣」は一時、「八咫鏡」と一緒に伊勢にて宝蔵されていました。そして日本武尊(ヤマトタケル)が東国を平定するために旅立つ際、伊勢神宮の倭姫命(ヤマトヒメ)が、その剣を日本武尊に授けています。日本武尊が亡くなった後、「草薙剣」は尾張の地へもたらされ、熱田神宮にて祀られました。しかしながら熱田神宮では668年に草薙剣盗難事件が勃発し、新羅の僧により草薙剣が持ち去られてしまったという史実があります。その後、宮中で一時期保管され、686年に一旦は神剣が熱田神宮に戻されましたが、それ以降、同じ場所に収蔵され続けたかどうかは疑問です。

宮中では「草薙剣」や「八咫鏡」の分身、つまりレプリカが祀られているように、盗難を回避するために熱田神宮でも、その後密かにレプリカが奉納されたのではないでしょうか。外敵からの攻撃にはほぼ、無防備に近い熱田神宮周辺の立地条件を考えると、本物の草薙剣をいつまでも収蔵し続けることは考えづらいのではないでしょうか。果たして熱田神宮のご神体となる「草薙剣」が古来の本物であるかどうか、その真相は、歴史の渦の中に秘められたままになっています。