1. ホーム
  2. イスラエル神宝と三種の神器
  3.  

三種の神器はユダヤルーツか!

「三種の神器」のあらまし

日本人なら一度は聞いたことがある「三種の神器」。それは、天皇家に受け継がれてきた秘宝である八咫鏡、八尺瓊曲玉、草薙剣を指します。「みくさのかむだから」とも呼ばれるこれらの神器の真相は、実物を見たという人が皇族をはじめ皆無と言われ、例え存在したとしても誰も名乗り出ないことから、多くの謎に包まれています。

「三種の神器」という言葉は日本書紀や古事記などの古文書には用いられず、日本書紀では「三種宝物」と称されています。それらの宝物を所持することは、正統な皇位継承者である証であり、皇室の大切な御守りとして、古代より極めて重要な位置付けを占めました。そして歴史の流れの中で、これら「三種宝物」には神聖な意味が加えられ、いつしか「三種の神器」と呼ばれるようになったのです。

伊勢神宮においては、「三種の神器」のひとつである「八咫鏡」が、皇位継承を象徴する御神体として、古くから内宮にある正殿の奥に宝蔵されています。そして20年に一度行われる遷宮の際には、神宝が白い布で覆われ、夜間に限り移動されるという、最も重要な儀式が執り行われてきました。また、他のふたつの神器のうち、「草薙剣」は熱田神宮に、そして「八尺瓊曲玉」は宮中三殿の賢所に安置されていると伝承されています。しかしながら、これら「三種の神器」は今日まで何人も見ることが許されないため、存在の有無も含め、詳細は定かではありません。つまり「三種の神器」とは、実在そのものが不透明であり、神器の詳細や製作の趣旨などについても検証されないまま、今日に至っているのです。

天岩戸神話に遡る神器のルーツ

「三種の神器」のルーツは天孫降臨の歴史を遡り、天岩戸神話や国生み神話の時代に由来します。岩戸が閉ざされて暗闇が訪れた際、岩屋から出ることを拒む天照大神に困り果てた八百万の神々は、協議した結果、宝物を作って木に掲げ、天照大神を誘い出すことにしたのです。まず、鏡作りの職人集団により大きな鏡が鋳造され、玉造部の遠祖に導かれる別の職人集団は、曲玉を作りました。更に、青和弊(あおにきて)・白和弊(しろにきて)の木綿で作られた供え物も粟国忌部の遠祖である天日鷲が作り、天香山の真坂樹を根元から掘り起こして切った枝に、「八咫鏡」、「八尺瓊曲玉」と共に掛けて、岩屋の前に立てたのです。そして岩戸の前で一同が祝詞をあげ、神事を執り行う最中、アメノウズメが楽しげに踊りました。その騒ぎが気になり、また、美しい祝詞の言葉にも心を留められた天照大神は、岩戸を少し開けて外を窺われました。ちょうどその時、岩戸の陰に隠れていた手力雄神は天照大神の手をとり、岩屋から誘い出すことに成功したのです。これら物語の詳細は、日本書紀や古事記に記載されています。

天岩戸の舞台となった高天原において数々の宝物が作られた理由は、元来、天照大神を岩屋から誘い出すためでした。「八咫鏡」と「八尺瓊曲玉」は、そのためにわざわざ作られ、岩戸の前で執り行われた神事に用いられたのです。それらふたつの神器とは異なり、もうひとつの「三種の神器」である「草薙剣」は、スサノオが八岐大蛇を退治した際に、その尾から取り出したものです。つまり「三種宝物」のうち、「八咫鏡」と「八尺瓊曲玉」は高天原にて同時期に鋳造された神器であると考えられ、「草薙剣」は明らかにルーツが異なる外来の剣だったのです。

志谷奥出土 銅剣集合国宝「直刀」金銅黒漆塗平文拵 附刀唐櫃
(提供 鹿島神宮)
八岐大蛇とは、大陸からの巨大な船を象徴した名称であるとも考えられることから、「大蛇の尾」とは、その長い船尾を指していた可能性があります。もし、その船の中に由緒ある神剣が宝蔵されていたとするならば、「草薙剣」は大陸に由来する神宝であった可能性が見えてきます。いずれにしても「草薙剣」とは、高天原の神々によって作られた宝物とは別格の存在であり、古来より大切な神宝として丁重に崇められてきた、比類なき外来の神宝であったと想定されます。

高天原とイスラエルの関係

国生み神話と天孫降臨の物語は、アジア大陸から東の島々を探し求めて到来したイスラエルからの渡来者が主人公であるという前提で読み直すと、古代史の流れが少しずつ見えてきます。国家を失ったイスラエルの民が預言者イザヤ一行に導かれ、アジア大陸の沿岸を船で東方に向かって航海しながら東南アジアを迂回し、日本列島の南方から到来したと考えてみましょう。そして大陸を離れて台湾を経由し、更に東方に向かって航海する途中、大陸棚と並行してほぼ一直線に北東方向に連なる島々を見出し、その途中で夏至の日に太陽が天空の頂点を通る、貴重な場所に目を留めたとします。周辺には広大な島が広がり、素晴らしい自然環境にも恵まれていたことから、民が休息するための一大集落をそこに造成し、大陸と「東の島々」を結ぶ重要な接点として「高天原」と呼んだとするならば、不思議と神話の世界が現実味を帯びてきます。

神が約束された「東の島々」を目指したイスラエルの民は、太陽が天空の頂点まで昇る「高天原」を国生みの起点として定め、そこにまず結集したのではないでしょうか。祖国から大勢の宗教リーダーや長老らが海を渡って訪れ、数々の会合が持たれた暁に、満を持してイザヤ(伊弉諾)の一行は命を受け、高天原を出発して大陸棚の端に並ぶ南西諸島沿いを北上したのです。そして本州という大きな陸の壁に到達する手前に淡路島を見出し、そこを日本列島の地理的な中心と定めたのです。その淡路島を起点として、島々を巡り渡りながら、それらの位置付けを特定するというのが、国生み神話の主旨と考えられます。

アジア大陸より日本列島へ向かう航海路から察するに、高天原は日本列島の南方に位置していたに違いなく、アジア大陸と倭国を結ぶ重要な接点であったと考えられることから、その比定地として沖縄の存在が浮かび上がってきます。沖縄を含む琉球の宗教文化には、ユダヤルーツに関連する要素が多く見受けられます。また、女性祭司が中心となる歴史の流れも、天照大神による統治を発端とするだけでなく、国生みの働きのために大勢の働き人が島を離れ、男性が一時期不在になった古代社会を反映するものと考えらます。さらにレイラインと呼ばれる古代の重要拠点を結ぶ線上において、沖縄の那覇と、淡路島の中心となる神籬岩、そしてヘブライ語で「神」を意味する青森の八戸(ヤヘ)が一直線上に並ぶことからしても、検討の余地があります。

その高天原において天岩戸事件が生じ、天照大神を誘い出すために作られたのが、「八咫鏡」と「八尺瓊曲玉」などの神宝です。天孫降臨の際には、「草薙剣」を含む「三種宝物」が天照大神から瓊瓊杵尊に授けられ、歴史が大きく動き始めます。そして宝物は徐々に神格化されながら、いつしか「三種の神器」として知られるようになり、皇位継承、かつ国土の支配者の印として天皇家に代々伝わり、天皇制を支える一大要因となります。

高天原から人々が天下り、日本の島々が見出されて国生みが完結しただけでなく、その後も高天原を起点として、天孫降臨に結び付く話が記紀に明記されているということは、高天原と日本列島が、あくまで別格の地理的な位置付けにあったことを意味します。それ故、高天原で作られた「八咫鏡」と「八尺瓊曲玉」は、高天原というかけ離れた聖地から日本列島へ持ち込まれた宝物として、大切に取り扱われたのです。また、「三種の神器」と呼ばれる神宝のうち、「草薙剣」だけは元来、高天原に由来しない神宝であったことから、大陸に由来する由緒ある神宝として特別視されることとなりました。

日本へ渡来してきたイスラエル系移民の中継地点が高天原であるという前提に基づいて歴史を振り返るならば、「三種の神器」のうち、高天原にて作られた「八咫鏡」と「八尺瓊曲玉」は、イスラエル系の神宝と言えるのではないでしょうか。高天原には多くの技術者が大陸より到来していたと考えられることから、これらの神宝を製作するノウハウには事欠けませんでした。また、大陸に由来すると考えられる「草薙剣」については、その出自は不透明ながらも、古代の識者が競って崇め求めるだけの不思議な価値がある重大な神宝であったと見受けられることから、「アロンの杖」のようなイスラエル系神宝である可能性が残されています。

果たして「八咫鏡」と「八尺瓊曲玉」は本当にイスラエル系の職人によって製作されたものだったのでしょうか。「草薙剣」は大陸に由来する重要な神剣だったのでしょうか。 これまで数々のユダヤルーツが噂されてきた「三種の神器」であるだけに、もう少し掘り下げて検証してみることにしました。

伊勢神宮に秘蔵される「八咫鏡」

神原神社古墳出土 三角縁神獣鏡神原神社古墳出土 三角縁神獣鏡
(提供 島根県立古代出雲歴史博物館)
天照大神の魂が宿るとされる「八咫鏡」は、岩戸隠れの際に鏡作りの遠祖、天抜戸の子が作ったものであると言い伝えられています。最初に作られた鏡には傷がついてしまったことから、実際には2つ目に作られた鏡が神宝としての「八咫鏡」となり、1つ目は日前神宮にて収蔵されることになりました。「三種の神器」の中でもとりわけ「八咫鏡」が重要視されていたことは、瓊瓊杵尊が降臨する際に、天照大神自らが、その鏡を御自身と思って祀るようにと瓊瓊杵尊に命じたことからも理解することができます。
  「八咫鏡」は、国生みの起点である高天原で作られたものです。もし、高天原が南西諸島の南、今日の沖縄周辺にあったとするならば、「八咫鏡」を含む数々の神宝は船に乗せられて、内地、すなわち本州まで運搬されてきたことになります。今日、「八咫鏡」は伊勢神宮にて収蔵されています。その御神体は御桶代(みひしろ)に収められ、さらに檜で作られた「御船代」と呼ばれる箱に入れられています。「八咫鏡」を収蔵する箱が「御船代」と呼ばれたのは、神宝が海を渡って運ばれてきただけでなく、国生みの主人公となった先代の渡来者らが海人であり、大陸からの渡航者であることを象徴しているのかもしれません。

その後、第10代崇神天皇が即位し、時代が大きく動きます。前95年、都が三輪山の麓に遷都された直後から全国的に疫病が蔓延し、国家が危機に直面したのです。それまで宮中に祀られていた天照大神は「同床共殿」と伝承され、皇祖神として祀られていました。ところが、その神威を畏れた天皇は、「八咫鏡」を皇居の外に遷す決断をしたのです。そして当初、神宝は皇女である豊鍬入姫命に託され、一時、大和の笠縫邑(現在の檜原神社)に祀られることになりました。その後、理想の鎮座地を求めて各地を転々と遷座することとなり、80年以上の長い年月をかけて最終的に垂仁天皇の時代、倭姫命によって現在の伊勢に鎮座したのです。その結果、多くの元伊勢と呼ばれる、天照大神が一時的に祀られた神社や場所が存在することになりました。そして今日まで「八咫鏡」は、伊勢神宮の内宮に奉安され続けています。

内行花文鏡内行花文鏡
(提供 伊都国歴史博物館)
「八咫鏡」の名称は、鏡の大きさを示しているのではないかと言われています。日本では1尺は30cm、その十分の一が1寸、すなわち約3pです。また、後漢基準の度量衡によると1尺は23cm、1寸は2.3cmです。そして咫とは円周の単位であり、径1尺の円周を4咫としていました。すると「八咫鏡」の径を文字通り八咫とするならば、その長さは2尺、およそ46cmとなります。また、径1尺の円周は3.14尺であり、それが4咫と等しくなることから、1咫は0.785尺と考えることもできます。すると、1咫はおよそ18cmとなり、その8倍となる八咫の円周は約144cm、それを円周率で割ると46cmという径になります。「八咫鏡」の直径が46pもあるとするならば、それはとても大きな鏡を意味します。これまで国内で発掘されてきた銅鏡の面径は20cm前後が一般的です。しかし実際、直径が46.5cmもある「大型内行花文鏡」とよばれる青銅鏡も発見されていることから、「八咫鏡」が同等の大きさであった可能性も否定できません。

「八咫鏡」がユダヤルーツであるという噂が絶えない理由は、その大きな円形の鏡の裏にヘブライ語が記されているという証言が複数、言い伝えられてきたからです。明治中期の文部大臣(現在の文部科学省)のコメントを含め、実際に見たという人の中には、例えば元海軍の技術将校であった矢野氏のように、鏡のスケッチや、そこに書かれている文字まで写し書きした人もいたようです。しかし、誰もが名乗り出て詳細を公表しなかったため、内容を検証する術もなく、信憑性は定かではありません。また、半世紀程前の「東京イブニングニュース」紙には、「八咫鏡」とヘブライ文字の実態について三笠宮殿下が調査すると報じられましたが、その後、殿下からは何ら音沙汰がなかったため、真相は謎に包まれたままとなりました。

これまでの証言をまとめると、まず、「八咫鏡」の裏にはヘブライ語のような文字が書かれているということに違いはないようです。また、矢野氏の書いたスケッチが、実物を見ながら文字の形まで真似て描いたものであるとするならば、八咫鏡の中央に書かれている2行の文字が検証のポイントになります。もし、それらがヘブライ語であるとするならば、古アラム文字や、ヘブライ語オストラコンなど、イスラエルの民が日本列島に渡来したと考えられる前7世紀前後の時代に使われた文字形状も参考にしながら考察することが大事です。さらに、ヘブライ語の文字も、時代とに書き方が大きく変化してきたことに留意する必要があります。

矢野氏が伊勢神宮の八咫鏡を見て書いたという写し矢野氏が伊勢神宮の八咫鏡を見て
書いたという写し
一説では、旧約聖書の出エジプト記、3章14節に書かれているエーイェ・アシェル・エーイェ/私は有って有る者(ehyer asher ehyer、エーイェ・アシェル・エーイェ)、「私は有って有る者」という意味のヘブライ語が、そこに刻まれていると言われています。しかしながら、鏡中央の文字は上段3文字、下段4文字の2行しかないことから、もし下段を「エーイェ」と読むならば、下から上に読んで、再び下段を繰り返して読むことになり、いささか不自然です。
  この2行の文字は、ヘブライ語で「光の神」を意味する「オール・ヤーウェー」と理解することができます。下段の文字は、ヤーウェー/神、すなわち「神」を意味する「ヤーウェー」の4文字に酷似しています。ヨッド(ヨッド)とヴァウ(ヴァウ)は、文字をはねる長さが違うだけですので、ほぼ、形状は同一であり、無理なく「ヤーウェー」と読めるのです。また、上段の3文字は、ヘブライ語で「光」を意味するオー、オール/光(or、オー、オール)ではないでしょうか。すると「八咫鏡」に記載されている文字は「オール・ヤーウェー」、「光の神」の意味となり、天岩戸事件や、天照大神の存在と絡めても、神宝の意味を自然に理解することができます。

今日、「八咫鏡」の裏に書かれている文字の詳細を確認することは極めて難しいことでしょう。おそらく、それを確認できるのは、天皇陛下しかいないのではないでしょうか。そして結論を既に御存知でおられることから、不用意に発言できないのかもしれません。火のない所に煙は立たずと言われるとおり、「八咫鏡」がユダヤルーツである可能性は、残されたままになっているのです。

「八尺瓊曲玉」がユダヤルーツである理由

天岩戸にて天照大神を誘い出すために作られた「八尺瓊曲玉」も、「三種の神器」のひとつとして極めて重要な役割を果たしてきました。「八尺瓊曲玉」は神の御魂を象徴するものと考えられ、皇位の証として天皇が保持する神宝であることから、今日まで宮中にて大切に祀られてきたのです。「神璽」とも呼ばれる「八尺瓊曲玉」の歴史は古く、天岩戸の事件以前にも「八尺瓊曲玉」と呼ばれる曲玉は存在しました。

例えば、スサノオが高天原に住む姉の天照を訪ねた際、スサノオを恐れた天照は「八尺瓊の五百箇御統」(イオツミスマル)と呼ばれる曲玉を、みづらや鬘、そして両手に巻きつけ、千本の矢を背負ってスサノオを迎え討とうとした、という記述が日本書紀にあります。天照大神にとって「八尺瓊曲玉」は、自らを守護するための御守りだったのです。2神の出会いの後、天照大神の首にかけられていた「八尺瓊曲玉」は、スサノオが剣の代わりに取得して噛み砕いてしまいますが、スサノオが再度、天上に昇ろうとした時には、羽明玉の神が別の曲玉をスサノオに献上しています。そして天岩戸事件の際には天照大神を岩屋から誘い出すために、玉造りの遠祖である伊弉諾尊の子、天明玉を中心とする職人集団が新たに「八尺瓊曲玉」を作り、それが「三種の神器」のひとつとなったと考えられます。

真名井遺跡 ひすい製曲玉真名井遺跡 ひすい製曲玉
(提供 島根県立古代出雲歴史博物館)
「曲玉」は石を磨いて作った装身具のことを指します。天岩戸の物語においては、その「曲玉」が護身用として複数が紐で結ばれ、多くの曲玉からなる宝であったことから、「八尺瓊の五百箇御統」と呼ばれました。「三種の神器」のひとつに数えられる極めて重要な宝であるだけに、その名前の意味は極めて重要です。
  「八尺瓊曲玉」の「ヤサカ」は、長さの単位を意味する「咫」(あた、さか)を語源として、「八尺」もしくは「八坂」という漢字があてられたのではないかと言う説があります。前述したとおり、「八尺」はおよそ144cmです。すると「八尺瓊曲玉」は、とても大きな曲玉を意味することになります。しかし、「八咫鏡」の円周が144cmであることは理解できたとしても、首飾りや手首周りにつける装身具としては考えられないサイズです。よって、「八尺」とは「五百箇御統」の緒の長さであると解釈したり、単に大きい曲玉という意味に捉えたり、更には「弥栄」(いやさか)が転じたものであるという説などが提言されてきました。また、「五百箇」は数の多いことを意味し、「御統」は、それらを緒に貫き、まとめて紐で環状に繋いで首や腕に巻くことができるようにしたものであるという説もあります。そして首飾り状のように統一することから「スマル」と呼ぶようになり、そこに神宝としての敬語である「御」をつけて、「ミスマル」と呼ぶようになったと考える訳です。

「八尺瓊」と「五百箇御統」という言葉は、実はヘブライ語の名称であることから、原語での意味を知ることにより、神宝の大切な働きを理解することができます。「ヤサカ」はヘブライ語で「神を見る」、「神に期待する」を意味する言葉です。また、ヘブライ語で数字の5は、ヘ/5(heh、へ)、「飾り物」は、オッ/装飾品(ot、オッ)、そして「御守り」、「守護」を意味する言葉は、ミシュマル/守護、御守り(mishmar、ミシュマル)です。この3つのヘブライ語を合成すると、ヘオツミシュマル/五連飾りの御守(ヘオツミシュマル)となり、その発音は「イオツミスマル」とほぼ同一です。「五百箇御統」という名前には、ヘブライ語で「五連飾りの御守り」という意味が込められていたのです。そして、それとほぼ同一の意味を持つ漢字があてられ、「五百箇御統」と書かれるようになったのです。

「五百箇御統」とは、外敵から身を守るための5連の曲玉からなる御守りの意味です。そして神の救いに大きな期待を込め、神の御加護を信じた結果、「ヤサカ」というヘブライ語で曲玉を形容し、神の御加護に期待する「八尺瓊の五百箇御統」という名称が生まれました。大きな5個の「八尺瓊曲玉」を紐に通し、敵から身を守るために身につけた御守りが「八尺瓊の五百箇御統」です。天照大神自らが護身用として身に纏い、神に守られることを期待した印が「八尺瓊の五百箇御統」であることを、ヘブライ語の意味から察することができます。

「草薙剣」と十握剣のルーツ

「草薙剣」は「三種の神器」のひとつとして有名ですが、神剣に関する記述は記紀に多数見受けられ、「草薙剣」以外にも、多くの神剣が存在したことがわかります。神剣の種類は例えば剣の長さによって種別され、草薙剣の他に、十握剣だけでなく、それよりも短い剣に分けることができます。十握剣については国生みの時代まで遡り、剣を身に帯びた伊弉諾尊は、その剣を振り下ろして火の神として知られる軻遇突智(かぐつち)を3つに斬り、そこから神々が新たに生まれたとされています。伊弉諾尊は高天原から降臨された神であることから、その十握剣とは、高天原、もしくは神々が大陸より高天原へ到来した際に持ち込んだ剣であると考えられます。十握剣とは、元来、力の象徴となる聖剣でした。それ故、スサノオが高天原に到来した際、天照大神ご自身も「八尺瓊曲玉」を身に纏うだけでなく、更に十握剣、九握剣、八握剣などを身に帯びて、剣の柄を堅く握りながら、スサノオと対決する準備をしたのです。

スサノオ自身もその際、十握剣を所有していました。そして、それを見た天照大神より、スサノオの十握剣は求め取られることになります。もしかして、その十握剣は父、伊弉諾尊から譲り受けた、由緒ある剣であったかもしれません。そして最終的にスサノオは、身につけていた十握剣をもって八岐大蛇を退治したのです。スサノオの十握剣は、神の力を極めた神剣であると考えられるようになり、布都御魂剣とも呼ばれています。その神剣は当初、石上布都魂神社に奉納され、その後、奈良の石上神宮に奉斎されました。

十握剣とは異なり、「草薙剣」はスサノオが大蛇の尾から取り出した剣であることから、その出自は一線を画しています。出雲国の川の上流にて八岐大蛇と一騎打ちしたスサノオは十握剣をもって大蛇を斬り、その尾から見つけたのが「草薙剣」です。そしてスサノオはその剣の素晴らしさに感動し、「是、神しき剣なり」と語り、天照大神に献上しました。前述したとおり、八岐大蛇とは大陸から到来した巨船を象徴している可能性があります。その前提で歴史を見直すならば、八岐大蛇と呼ばれた巨船の中から見出された「草薙剣」こそ、大陸より船によって運ばれてきた由緒ある神聖な宝物である可能性を秘めています。イスラエルの伝説である「アロンの杖」も歴史の流れの中で、いつの間にか消え去ってしまいました。果たして、「草薙剣」が「アロンの杖」であった可能性はあるのでしょうか。

志谷奥出土 銅剣集合志谷奥出土 銅剣集合
(提供 島根県立古代出雲歴史博物館)
「草薙剣」の由来については、大蛇の尾に秘められていたという神話のオブラートに包まれていることから、その起源を検証する由がありません。しかしながら、大陸より人々が渡来して、日本の古代史が大きく展開し始めたことに違いはなく、「草薙剣」の出所はアジア大陸に由来すると考えても何ら不思議はありません。それ故、歴史を遡り、古代イスラエルの族長時代において、アブラハムらが所有していた杖、そしてモーセやアロンが用いた神の不思議を実現する「アロンの杖」がイスラエルの宝として長年、エルサレムにて秘蔵され、それが国家の崩壊前に持ち出され、周り巡って日本列島に持ち込まれたという可能性も残されているのではないでしょうか。イスラエルの神宝である「アロンの杖」は、歴史に埋もれてしまい、今日でも所在は、わからないままです。

その「草薙剣」はスサノオから天照大神に献上された後、一時、「八咫鏡」と一緒に伊勢にて宝蔵されていました。そしてヤマトタケルが東国を平定するために旅立つ際、伊勢神宮のヤマトヒメが、剣をヤマトタケルに授けています。ヤマトタケルが亡くなった後、「草薙剣」は尾張の地へもたらされ、熱田神宮にて祀られました。今日でも「草薙剣」はそこで祀られているとういう説もありますが、熱田神宮では668年に草薙剣盗難事件が勃発し、新羅の僧により一度、「草薙剣」が盗難されてしまったという史実が記録されています。その後、宮中で一時期保管され、686年に一旦は熱田神宮に戻ってきたことになっています。しかしながら、それ以降、同じ場所に収蔵され続けたかどうかは疑問です。宮中では「草薙剣」や「八咫鏡」に分身、つまりレプリカが祀られているように、盗難を避けるために熱田神宮でも、レプリカが奉納された可能性があります。外敵からの攻撃に対して、ほぼ無防備に近い熱田神宮周辺の立地条件を考えると、本物の草薙剣をそこに長期間に渡り収蔵し続けるとは考えづらいでしょう。「草薙剣」の真相は、歴史の渦の中に秘められたままになっています。

イスラエルにも存在する三種の神器

1981年、「レイダース失われた《聖櫃》(アーク)」という映画が世界的に大ヒットしました。この映画は、シナイ山頂で神がモーセに語った十戒を書き記した石の板が収蔵されている「契約の箱」の行方を探し求めるアドベンチャーの物語です。聖櫃とも呼ばれる「契約の箱」は紀元前7世紀ごろ、北イスラエル王国と南ユダ王国の崩壊と共に姿を消し、未だに発見されていません。歴史の謎に包まれた聖櫃であるだけに、その秘蔵場所を見出すために、これまで無数の人々が世界中を散策し、多くの物議を醸してきました。それほどまでに聖櫃と神宝はイスラエルの歴史において注視され続け、特にユダヤ教やキリスト教の信者にとっては重要な意味を持っていました。

聖櫃は、イスラエルの民が聖地、エルサレムに辿り着くまでは、幕屋と呼ばれる簡易的に移動できる場所の中に置かれていました。そして聖櫃の側面には金属のリングが設けられ、移動する際にはこのリングに2本の長い木の棒を通して運ぶことが義務付けられていました。その外観は日本の御神輿に大変よく似ています。つまり、日本の御神輿を担ぐのと同様に、複数の人々が棒を肩にかけて担いで移動しながら、聖櫃は遠く離れた荒野からエルサレムまで運ばれたのです。そしてエルサレム神殿に設けられた「至聖所」と呼ばれる大祭司しか入ることの許されない最も神聖な場所に一時期、奉安され、イスラエルの民は神を拝し祀っていたのです。

聖櫃と呼ばれる契約の箱には、実際に3種類の神宝が収蔵されていたと語り継がれています。新約聖書のヘブライ人への手紙を見ると、「そこには金の香壇と全面金でおおわれた契約の箱とが置かれ、その中にはマナのはいっている金のつぼと、芽を出したアロンの杖と、契約の石板とが入れてあり、箱の上には栄光に輝くケルビムがあって、贖罪所をおおっていた。」(9章4-5節)と明記されています。イスラエルの民は遠い昔から、これら3種類の神宝を聖櫃に収蔵し、祭祀活動の基点としていたのです。そして聖櫃のそばにはモーセ五書が常に置かれ、仮庵祭ではその巻物が取り出されて、朗読されました。神の王座の象徴である聖櫃に、契約が彫られた石板と、アロンの杖、金で鋳造されたマナの壺が収蔵されていたことから、イスラエルにも「三種の神器」が存在したと言って、間違いはなさそうです。

しかしながら、ダビデ王の子、ソロモン王がエルサレム神殿を建設し、そこに聖櫃を安置した際には、それらのうち、アロンの杖とマナの壺は既に紛失していました。歴代誌下5章に、「箱の中には石の板二枚のほか、何もなかった。」と記載されているとおりです。どこに持って行かれてしまったのでしょうか。巡りめぐって、それらイスラエル神宝が日本に持ち込まれた可能性はあるのでしょうか。果たしてイスラエルの神宝は、皇室のシンボルである「三種の神器」と関連性があるのでしょうか。イスラエル神宝の形状や、それらの存在目的は、「八咫鏡」、「草薙剣」、そして「八尺瓊曲玉」に類似している点が多いことからしても、日本固有の神宝と考えられていた「三種の神器」のルーツは、再考の余地がありそうです。

「八咫鏡」と「契約の石板」については、形状や材質は違うものの、薄い板状のものであることには変わらず、また、神の戒めである十戒を彫った石の板は心の指針であり、鏡は自らの姿を見て、心をも映すものであると考えられること等の主旨にも、類似点を見出すことができます。もし本当に「八咫鏡」の裏にヘブライ語で文字が書かれているとするならば、それが何よりも、ユダヤルーツの証拠となります。しかしながら「八咫鏡」に強い関心を持っておられた三笠宮殿下も、今や沈黙を保たれたままであることから、真相を解明することが難しくなりました。

次に「八尺瓊曲玉」と、イスラエルの民が40年もの間、荒野で旅をしていた時に、神が天から与えたマナという甘いパンのような食べ物を入れる「金のつぼ」とを比較検討してみました。まず、「八尺瓊曲玉」の形状については、「金のつぼ」よりもむしろ、モーセがアロンに胸掛けを羽織らせた際、その中にいれたウリムとトンミムという小さな石に類似していると考えられます。それはイスラエルの祭司が神に近づき、神の答えを必要とするときに身に纏うようになったものです。ところが、北イスラエル王国と南ユダ王国が滅びた後、イスラエルの伝承によると、ちょうど時を同じくしてウリムとトンミムは用いられなくなりました。もしかして、それらは国外に持ち出され、日本において「八尺瓊曲玉」の基になった可能性があります。

また、「金のつぼ」はマナを収納する容器ですが、それは神の救いの象徴という点において「八尺瓊曲玉」と共通しています。イスラエルの民は、神からマナを与えられることにより、飢えから救われ、生き延びることができたのです。よって、マナは神の救い、そのものであり、それを収納する「金のつぼ」は、神の御加護を象徴します。その意味において、曲玉を連ねた「八尺瓊曲玉」も同様に、神の救いにより頼む御守りの象徴であることは、注目に値します。

日本 イスラエル
三種の神器
  • 八咫鏡
  • 草薙剣
  • 曲玉
日本 三種の神器
お神輿
お神輿
契約の箱
契約の箱
三種の神器
  • 十戒の石版
  • アロンの杖
  • 金のつぼ
イスラエル 三種の神器

アロンの杖と「草薙剣」の関連性

契約の箱の中には十戒が刻まれた「契約の石板」と「金のつぼ」以外に、イスラエルの民がエジプトを脱出する際にモーセが海を分けて、民が逃げ伸びる道を作った時に掲げた奇跡の杖が秘蔵されていました。この神の杖をもってモーセはエジプト王の前で、それを一瞬にして蛇に様変わりさせるような奇跡を起こしたのです。その後、杖はアロンに手渡されたことから、「アロンの杖」と呼ばれるようになりました。西アジアで放牧民であったイスラエルの民にとって、家畜を養うために日々使用する杖は権威の象徴でもありました。その杖に神の力と権威が付加されたのが「アロンの杖」だったのです。どの時点で、「アロンの杖」が聖櫃の中に納められるようになったかは定かではありません。聖櫃がエルサレム神殿に正式に収蔵されたのは、ダビデ王の子であるソロモン王の時代であることから、アロンの杖が聖櫃の中に納められるようになったのは、その時代からとも考えられます。

イスラエルの過越祭で読まれるハッガーダーの伝説によると、「アロンの杖」のルーツは創生記の時代まで遡り、アダムからエノク、アブラハム、イサクそしてヤコブへと手渡されたということです。そしてエジプトにてヨセフが宰相の地位を得て国家を統治した後、モーセの義父エテロがその杖を地に差し、誰もその杖を地の岩から抜くことができませんでした。その後、モーセは杖に書いてある神の名を唱えて杖を地から抜き取り、神の命に従ってイスラエルの民をエジプトから脱出させ、約束の地へと導きました。そして「アロンの杖」は聖櫃と共に移動し、最終的に前7世紀、南ユダ王国のヨシヤ王の時代に国家の滅亡を察知した王により、聖櫃と、その中に奉納されていた神宝はどこかに移設され、メシヤが到来して預言者エリヤが公開するまでは、秘められることになったと言われています。

聖書解釈の権威でもあるミドラーシュでも、ヤコブの杖とユダがタマルに与えた杖は同一であり、尚かつ、それがモーセの杖であり、「アロンの杖」となったことが証されています。その後、杖はダビデに引き継がれ、ダビデはその杖をもってゴリアテと呼ばれた巨人を斬ったと語り継がれてきました。そして「アロンの杖」は王権を象徴する王笏として、ダビデ王の時代以降、代々の王によって重宝されたと記載されています。

ここでまず注目したいことは、南ユダ王国が滅亡する直前に、「アロンの杖」がどこかに隠されたという伝説が存在したことです。日本の国生みは、南ユダ王国が崩壊する時期と重なり、当時、西アジアを脱出して列島まで渡来した民が少なからず存在したと考えられることから、「アロンの杖」が日本に持ち込まれた可能性が見えてきます。また、「アロンの杖」は、実際にはゴリアテを斬ることができるほどの鋭い剣であり、多くの奇跡を成し遂げたことからしても、「草薙剣」の働きと類似しています。

次に、「草薙剣」という言葉に注視してみました。「くさなぎ」という言葉は一見、日本語のように聞こえますが、草を薙倒したことから「草薙」と命名されたというのは、こじつけのようであり、いささか不自然です。もしかして「草薙」はクシュナギッド/クシュの王子(Cush Nagid、クシュナギッド)というヘブライ語に由来している可能性があります。するとヘブライ語での意味は、「クシュの王子」となります。「クシュ」とは古代、エジプト南方からエチオピア周辺の地域に存在し、クシュ人はそこからアラビア、バビロン、ペルシャへと移動したと言われる、いわゆる人類祖先の地です。

通説によると、北東アフリカにて人類の祖先は誕生したと言われ、それはエチオピア周辺の大湿地帯の周辺であった可能性が指摘されています。既に15万年前と推定される最古のサピエンス人骨がエチオピアで発掘され、また、昨今のミトコンドリアDNA解析においても同時期、アフリカにおいて現代人の共通祖先が存在したということがわかってきました。更に、最も古いと言われるヒト科の化石もエチオピアで発見され、類人猿から直立歩行した猿人への進化が500〜600万年前頃ではなかったかとも推定されるようになりました。その人類最古の人々が存在した北東アフリカの地域に移住したのが、旧約聖書に登場するハムの息子、クシュであり、ノアの孫にあたります。よって、エジプトの南部からエチオピア周辺の地域は「クシュ」と呼ばれるようになったのです。もし「アロンの杖」が「クシュナギッド」(草薙)であったとするならば、イスラエルで語り継がれてきたハッガーダーの伝説の通り、「アロンの杖」のルーツが人類の創生にまで遡り、「クシュナギッド」として元来、人類最古の民が住まう地に由来する王子の剣であったと考えることができます。その後の歴史において、「クシュナギッド」とも呼ばれた最古の神剣は、モーセ、ヨシュア、ダビデ王らに引き継がれ、奇跡的に日本にまで運ばれた後、スサノオが手にして、天照大神に献上したと想定してみてはどうでしょうか。草薙剣はユダヤルーツとの関わり合いがあるだけでなく、イスラエルの伝承が証するように、人類の最古の霊剣として、世界で最も由緒ある、偉大な神宝であった可能性を秘めています。

イスラエルの神器は「契約の箱」と呼ばれる聖櫃に収納されて移動しましたが、その契約の箱と酷似した形状である神輿が日本全土に普及している事実からして、遠い昔、大陸より何かしらの神器が日本列島に持ち込まれ、神輿によって担がれながら移動した可能性があります。「契約の箱」はイスラエル神宝と深く関わっているだけに、「八咫鏡」を含む「三種の神器」とイスラエル神宝が関連しているという指摘は絶えません。失われた「契約の箱」は2600年以上、行方がわからないままになっています。イスラエルの10部族からなる北の王国が紀元前722年に、そして2部族からなる南ユダ王国が紀元前586年に滅亡するまでの間、国家が崩壊していくプロセスの中で、聖櫃がいつの間にか姿を消してしまったのです。

ちょうど時期を同じくして紀元前7世紀ごろ、日本列島においては神武天皇を初代天皇とする新しい時代が始まりました。そして天孫降臨と共にもたらされた神器をもって皇位が保証され、国の歴史が育まれていったのです。また「契約の箱」は、ヘブライ語の原語において「船」という意味を持っていますが、日本でも神器を収める御器を「御船代」と呼ぶのは、偶然とは思えません。そしていつしか日本の島々では、各地で人々が神を祀り、お祝いをする際には神輿が担がれるようになり、群衆が大声で「ヨイショ」と掛け声をかけながら、力の限り大地を巡り回ったのです。その神輿こそ、聖櫃を基にデザインされたものに他なりません。

イスラエルが崩壊した直後、突如として神宝を携え、神を祀ることを常とする人々による新しい国の歴史が、アジア大陸の東のはずれに浮かぶ島々で始まりました。この見事なリズムの背景には、「日本とユダヤのハーモニー」のメロディーが込められているように思えてなりません。