3種の役人が統治した伊都国
狗邪韓国から海を渡り、末盧国の港に着岸した後、陸地を東南に500里進んだところに位置する伊都国は、「代々国王がいる」だけでなく、「使者が倭と往来するときに常に駐まる」と魏志倭人伝に記載されていることからしても、倭国の重要な政治的拠点であったことがわかります。大陸に最も近い関所としての役割を担う伊都国には王が君臨し、倭国にはその他、30国余りの王が存在していたのです。
魏志倭人伝によれば、邪馬台国へ至る最初の関門である伊都国では、3種の肩書を持つ役人が民の統治に携わっていたことがわかります。
官日爾支 副日泄謨觚柄渠觚
官は爾支といい、副は泄謨觚、柄渠觚という。
魏志倭人伝より
日本語では馴染みのない肩書の名称であっても、それぞれが大切な意味を持つ言葉として用いられていたのです。
「爾支」の意味をヘブライ語で解明
伊都国の役人の筆頭は、長官としての役職を持つ「爾支」です。その読みは確定できないものの、一般的には「にし」「じき」、もしくは「ニキ」と読みます。爾支の語源には定説もなく不明です。また「爾」の訓読みは「なんじ」「しかり」ですが、漢字の持つ本来の意味も定かではありません。しかしながら古代社会における伊都国の住民の多くが大陸から渡来したイスラエル系の民であり、彼らが中心となって政治が執り行われていたと仮定するならば、「爾支」のような一見不可解な文字でも、ヘブライ語で読めば意味を解明できるはずです。
「爾支」の発音をヘブライ語で解釈するにあたり、まず、爾支「ニギ」を、「ナギ」が多少訛ったものと仮定してみました。すると「爾支」の語源はヘブライ語の נגיד (nagid、ナギ) と理解できます。「長官」「知事」の意味も持つこのヘブライ語は、イスラエルでは神殿に仕える職員を指すこともありました。古代のイスラエル社会では、政治の中心は王と神殿であり、その聖なる場所に仕える祭司らは、民衆に対して大きな権限を持っていたのです。伊都国の長官もその例にもれず、神に仕える役人として社会を執り仕切っていたと考えられ、「ナギ」と呼ばれた可能性があります。それが中国語の漢字表記では「爾支」(ニギ)となったと想定できるのです。
また、「爾支」をヘブライ語で政治を司る長官という意味を持つ נציב (nezhib、ニジッ)という言葉、そのままに捉えることも可能です。「爾支」の「支」は、中国語での発音は ji、zhiであり、「ニジッ」の発音は「爾支」の読みとほぼ、同一です。古代社会において長官という職務は、政治家よりもむしろ神官のイメージが強い役人であったと推測されます。特にイスラエル社会においては神殿を守る役目を遣わされたレビ族が祭司の役目だけでなく、政治に関する庶務を負うことが多かったのです。よって「爾支」は、長官という職権だけでなく、祭司や神官の働きも担いながら、人間と神との間をとりなすための祭祀を執り行っていたと考えられます。
「禰宜」と「爾支」は同義語か?
次に、「ナギ」「ニギ」と類似した発音を持つヘブライ語に「ネギ」という言葉があり、神社の神官を指す言葉として用いられていることに注目です。日本語でも「禰宜」(ネギ)という神官を意味する言葉が古くから存在し、今日では神職の職名として、宮司を補佐する聖職者の職称となっています。その語源は古語の「ねぐ」に由来し、「和ませる」という言葉と絡めて神に願いを捧げ、その心を和ませて加護を願う意味になるという見解もあります。その「禰宜」の最初の文字に「爾」が含まれていることから、「禰宜」と「爾支」、双方の言葉に関連性があると想定し、「禰」の語源から「爾」の意味を察することができないかと考えてみました。
「爾」にしめすへんを足した「禰」は、「かたしろ」とも読まれ、「人間の代わりに置く人形」の意味を持ちます。その為、人の代わりに神の御前に出る神官の意味となる「禰宜」の字に登用されたと考えられます。イスラエルでも同様に、祭司が神と人間との間の仲介者として儀式を執り行っていました。そして神と人間との関係を妨げる人の罪を贖うために、祭司は動物の上に手を置いて、それを人の代わりに生贄として捧げるという儀式を執行したのです。こうして祭司は民衆の罪を贖う役割を担い、人間の代わりに動物を屠りました。
宗教的儀式においては、イスラエルの神官は「禰」(かたしろ)として動物を屠っていたとも言えます。すなわちイスラエルの神官にとって「かたしろ」とは、屠られるべき動物が人形に置き換えられただけであり、人の身代わりとなるという考え方においては相違ないのです。また、爾支「ニシ、ニギ」は「ネギ」とも読めるだけでなく、「ネギ」はヘブライ語で神官を意味しています。それ故、元来ヘブライ語の「ネギ」という神官を意味する言葉に「爾支」という漢字が当てられ、それが日本語では「禰宜」に転化したと考えられないでしょうか。こうして、日本の禰宜「ネギ」も神官を意味するようになり、しかもそこにはイスラエル祭司の執り行う燔祭の儀式に見られる「かたしろ」、すなわち「身代わり」という概念も含まれるようになったと推測されます。「爾支」と「禰宜」が同義語ではないかと考えられる所以がそこにあります。
「泄謨觚」「柄渠觚」の語源はヘブライ語
魏志倭人伝では伊都国の役人の肩書として「爾支」の次に「泄謨觚」が記載されています。日本語では意味を持たないこの言葉も、ヘブライ語で読むとその言葉の主旨を理解することができます。
「泄謨觚」は一般的に「セツボウコ」と読まれていますが、実際の読みは定かではありません。中国語では最初の「泄」が xie (シェ)、もしくは shie (シェ) と発音され、どちらも「シェ」と聞こえます。次の「謨」は mo (モ)、そして最後の「觚」は ku (ク)、zi (ジ)、または gu (グ) と読みます。この3つの文字を合わせて中国語で発音すると、「シェモク」、または「シェモジ」となります。その発音に類似したヘブライ語が2つあります。
まず、שמש (shamash、シャマシュ) という宮の従事を意味する言葉が挙げられます。語尾の「シュ」と「ジ」の発音の相違に違和感が残るも、語呂が類似していることに注目です。「シャマシュ」は、日本語では神社の敷地内にある「社務所」の語源ではないかという説も根強くあり、また「宮の従事」という「シャマシュ」の意味は、「爾支」の意味である長官や神官と併記するに相応しいことから、ヘブライ語の「シャマシュ」に泄謨觚が当てられた可能性があります。
また、צמח (tsemakh、ツェマク) というヘブライ語の発音が「シェモク」と酷似していることにも注目です。「ツェマク」は旧約聖書においてはイザヤ書4章2節、エレミヤ書の23章5節、ゼカリヤ書3章8節等に見られる言葉であり、王系の子孫、神の僕としてリーダー格に相当する「統治者」を意味しています。魏志倭人伝で記載された「泄謨觚」という役職も、あくまで政治を司る役人としての意味で使われていることから、言葉の意味も合致します。よって「泄謨觚」の語源がヘブライ語の「ツェマク」である可能性は高いのではないでしょうか。
伊都国を治めた3つ目の長官の名称が「柄渠觚」(へいきょこ)です。中国語では「柄渠觚」の「柄」は bing (ビン)、ping (ピン) または beng (ベン) と発音します。2つ目の文字、「渠」という字は gu (グ) もしくは keu (ケゥ)、そして最後の「觚」は古代中国の儀式にて用いられた大きな酒の器を意味し、gu (グ) またはtzu(チュ) と発音できます。すると「柄渠觚」の読みは「ピンケゥグ」となります。
ヘブライ語では、書記官を意味する פנקסן (peenkesan、ピンケサン) という言葉があります。それと同じルーツを持つ פנקס (peenkes、ピンケ) は登記・書記の意を表し、「柄渠」(ピンケゥ)とほぼ同一の発音です。そしてその語尾に「人」の意味を持つ גוף (goof、グー) を足すと、登記人、書記人の意味を持つ「ピンケグー」という言葉になります。柄渠觚の中国語の読みとほぼ同じであることからしても、書記官を意味するヘブライ語に漢字が当てられたことがわかります。
伊都国の名前のルーツにはイスラエルのメッセージが潜み、また同義語としてメルティングポットの意味も含んでいるだけでなく、その国の役人の肩書、3種すべてをヘブライ語で解釈できるということは、古代倭国におけるイスラエル系渡来人の影響力が如何に大きかったかということの証ではないでしょうか。そして海に面した末盧国と不弥国とを行き来する中間地点に位置する伊都国は洞海湾に面し、背後の山々の地形にも恵まれ、山上からの視界も広がっていました。よって必然的にその優れた地の利が活かされ、政治の要所となったのです。
兕馬觚(じばこ)の意味を解明
東南至奴國 百里
「魏志倭人伝」より
官日兕馬觚 副日卑奴母離 有二萬餘戸
東南、奴国に至ると百里。
官は兕馬觚、副は卑奴母離という。二万余戸有り。
古代行政の拠点として位置付けられ、北九州八幡に比定される伊都国から100里、およそ7km少々東南方向に進むと、そこには次の停留地である奴国が、大規模な集落を構えていました。伊都国は政治の要所ではあったものの、洞海湾と皿倉山に挟まれた狭い平地のエリアに造営された国であったため、人家は1000余戸と限られていました。その小規模な伊都国に対し、奴国の2万余戸は末盧国の4千戸の5倍、伊都国の1000余戸の20倍にもなる大集落です。
奴国は伊都国が比定される北九州八幡から東南方向へ7~8kmほどの距離に位置する、今日の北方・小倉南周辺に存在したと考えられます。八幡と周防灘、北九州の北岸から東岸へ横切る経路の中間地点にある北方・小倉南の位置付けは、距離、方角、共に魏志倭人伝の記述に合致しています。また、周辺の地形を検証すれば、北東には足立山、南には貫山、西には鷲峯山が連なっています。つまり、ちょうど盆地のような立地条件であり、2万戸に及ぶ集落が造成されるに適した地の利に恵まれた地域であることがわかります。
奴国の役人は、兕馬觚(じばこ)、副官は卑奴母離(ひなもり)と呼ばれていました。これらの役職名もヘブライ語で解明することができることから、古代社会におけるイスラエル系渡来人の働きや、その影響力、役目の重要性等に改めて注目させられます。兕馬觚の読みは定かではありませんが、柄渠觚と同様に最後の「觚」は中国語の読みである「グ」と発音され、おそらく、「ジバグ」、または「シマグ」であったと推測されます。この「兕馬觚」の意味も、ヘブライ語で解明できます。
もし「兕馬觚」の読みが「ジバグ」であるとするならば、ヘブライ語で公務、公事、を意味する ציבור (Tsibur、チブー) と「人」の意味を持つ גוף (guf、グー) を足した「ジブグ」という言葉が語源となり、役人、高官を意味する言葉になります。また、「シマグ」がその読みであったとするならば、ヘブライ語で守護する、見張る、を意味する שימור (Shemur、シェムー) に、「人」の「グー」を合わせて、「シムグ」となり、「シマグ」に極めて近い発音となります。その意味は監視人、護衛人です。どちらのヘブライ語による解釈が正しいか、その決め手は「馬」の読みであり、これを中国語の発音からかい離しても「バ」、もしくは「グ」と読めるとするならば前者の答えに妙味がありますが、そうでなければ後者の解釈に分がありそうです。いずれにしても、「兕馬觚」は役人の意味を持つ言葉であったことがわかります。
卑奴母離の意味は教育官
次に卑奴母離(ひなもり)という副官の役職名を検証しましょう。卑奴母離を和語の「鄙守」と解したり、周辺諸国の敵から攻撃を防御するために配置された軍隊の長であるという意味に捉える向きもありますが、ヘブライ語で検証すると、答えは意外にも「戦い」とは似つかない意味となります。「卑」の読みは日本語では「ヒ」、中国語では be「i べィ」、pe「i ぺィ」です。また、「奴」は日本語が「ヌ」「ド」であり、中国語では「ヌ」と読みます。「母離」の読みは日中双方の発音で「モリ」となります。役人の肩書については一貫して中国語の読みを想定してきたことから、ここでも中国語の読みを用いると、卑奴母離は「べィヌモリ」と発音できることがわかります。
ヘブライ語には בינה (binah、ビナ) という知恵、理解を意味する言葉があります。また、もし接頭語の発音を「ビィ」ではなく「ヒ」と解するならば、חינוך (khinukh、ヒヌッ) という、「教育」を意味する言葉もあります。そして מורה (moreh、モリ) は「先生」を意味する言葉であることから、卑奴母離の意味が見えてくるのです。まず、「ビナモリ」ですが、これは知恵ある教官、つまり民衆の教育に携わる副官を意味します。また、「ヒヌモリ」とするならば、教育官となり、「ビナモリ」と同じように、教育の責任を持つ教官を意味します。奴国だけでなく、対馬や壱岐においても副官の肩書として卑奴母離の記述が史書には見られ、奴国と同様にその地を治める長官の補佐役として、民を導き、教える役目を与えられた教官であったと考えられるのです。


垂仁天皇3年春3月・320年、新羅王子(天日槍・천일창)(天地日暮・天之日矛)アメノヒボコが神宝、羽太の玉、足高の玉、赤石、刀、矛、鏡、熊の神籬の7種を持参した事への言及があります。その渡来の記述は、(新羅訖解王320年11年3月)。としていますが、如何でしょうか?又、DNAについて、その渡来人の型は、わかるでしょうか?