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2016/04/23

伊都国に絡む難解語句のルーツを徹底検証

八坂神社
八坂神社 西楼門

日本書紀の巻第8には、日本武尊(やまとたけるのみこと)の子として、192年から200年に在位した仲哀天皇についての記述があります。身長が10尺もある大男の仲哀天皇は、「容姿端麗」という漢字でその美貌をも讃えられています。1尺を約30cmと理解すると10尺は3mにもなってしまいますが、古代中国での1尺を約22cmとすると、それでも天皇の身長は220cmになります。祖父の景行天皇も身長が1丈(10尺)で大変力が強く、日本武尊も並み外れた頑強な体の持ち主であったことから、抜きん出た体型のDNAを持つ皇族であったことがわかります。この仲哀天皇に纏わる史書の記述からも、邪馬台国への道のりの途中にある伊都国、及び、そのイスラエルのルーツについて学ぶことができます。

史書が証する伊都国の語源

およそ43歳にして天皇に即位された仲哀天皇は、その翌年、開化天皇の玄孫である息長宿禰王と新羅王子天之日矛の5代目の孫、葛城高額媛の娘である神功皇后を妃とします。ある日、天皇は角鹿(敦賀)に行幸され、そこに行宮(かりみや)を造営します。翌月、西方に向け皇后と旅立ち、天皇は瀬戸内海経由、皇后は日本海を渡り、関門海峡近くの豊浦宮で互いに合流するのです。そして共に今日の九州、筑紫へと向かい、岡県主である熊鰐(ワニ)に出迎えられました。その際、岡県主は五百枝の賢木(いほえのさかき)を根から抜き取って船の舳に立て、上枝には白銅鏡(ますみのかがみ)、中枝には十握剣(とつかつるぎ)、そして下枝には八尺瓊(やさかに)を掛けて、周芳の沙麼(さば)の浦で天皇一行をお出迎えしました。

その後、筑紫の伊都県主の五十迹手(いとで)も、岡県主熊鰐と同様に神器を賢木に掛けながら、天皇の一行を穴門の引島にて船でお迎えし、一行は橿日宮に到達します。その際、三種の神器が上下に並ぶ順番は岡県主熊鰐のものとは異なり、上枝には八尺瓊、中枝には白銅鏡、下枝には十握剣が五百枝の賢木に掛けられ、これらが献上されたのです。そして伊都県主は、『天皇が八尺瓊の美しく曲がっている如くに、委曲を尽くして天下をお治めくださるよう、この白銅鏡の如くに、明らかに山川や海原をご覧くださるよう、この十握剣を引き提げて、天下を平定してくださるように』と語り、その言葉を聞いて喜んだ天皇は、『伊蘇志』と仰せられて、五十迹手の国を「伊蘇国」と呼びました。それが、伊都国の語源であると日本書紀には明記されています。

三種の神器に潜むヘブライ語ルーツ

三種の神器をもって天皇をお出迎えするという話は、他にも記述があります。景行天皇の時代でも同様に、一国の首領であった神夏磯姫は、天皇の使者が来られたことを聞いて三種の神器をもってお出迎えをしています。神夏磯姫は賢木の枝に八握剣、八咫鏡、八尺瓊という、「ヤ」の発音で始まる名前のついた三種の神器を掛け、白旗を船首に立てて、天皇に懇願したと書かれています。剣と鏡、そして八尺瓊と呼ばれた勾玉の「三種の神器」をもって天皇をお出迎えする儀礼が古代に存在したということは、単に天皇に服属する意思を表明しただけでなく、神として迎えることを意味したと考えられます。それ故、3つの宝物には「ヤ」というヘブライ語で神を意味する接頭語が付加され、これらがいつしか「三種の神器」として知られるようになったのでしょう。

八尺瓊については、その由来が天照大神の時代まで遡ります。素戔嗚尊が天に昇られて天照大神と対面するとき、素戔嗚尊の到来を恐れた天照大神は、角髪(みずら)や腕に八尺瓊の五百箇御統(いおつみすまる)を巻きつけて備えられたのです。八尺瓊は大きな玉のようなものであり、それらを紐に通して輪にしたものが五百箇御統です。これら神器に纏わる言葉の多くはヘブライ語に由来し、八尺瓊の五百箇も例外ではありません。

八坂神社 本殿
八坂神社 本殿
そこでまず、「八坂」という名前に注目してみました。「八坂」は、日本書紀などの史書に記載されている「八坂瓊曲玉」という神宝の名称に見られることから、古代より神に纏わる何かしらの意味を持っていたと考えられます。今日「八坂」と言えば、京都の祇園町にあり、全国2300社にものぼる関連神社の総本社である八坂神社を思い起こすのではないでしょうか。従来は祇園神社としても知られていましたが、明治時代より正式に八坂神社と呼ばれるようになりました。

一説によると、「八坂」の語源はヘブライ語のyasaka、ヤサカ(yasaka、ヤサカ)ではないかと言われています。「サカ」というヘブライ語には、「見る」「期待する」という意味が込められていることから、「ヤサカ」は「神を見る」と捉えることができます。

一方「八坂」は、「神の守護」を意味するyasako、ヤサコ(yasako、ヤサコ)と理解することもできます。ヘブライ語でSako、サコ(Sako、サコ)は覆う、または被せることを意味します。旧約聖書の詩篇140編8節には、この「サコ」という文字を使った「頭を覆う」という表現が、「私を守護する」「守る」という意味で用いられています。よって、神を意味する「ヤ」を付けて、「ヤ・サコ」と繋げると、「神の守護」という意味になります。「八坂」という名称は、お守りの役割を果たす八坂瓊曲玉だけでなく、神社の名称にも使われていることからしても、「神の守護」という後者の解釈に分がありそうです。

次に、「八尺瓊」の後に続く「五百箇御統」(いおつみすまる)という名称を検証してみましょう。一見、不可解な言葉には見えますが、その意味はヘブライ語で明確に理解することができるだけでなく、漢字で「五百箇御統」という文字が当てられた理由までわかります。ヘブライ語で「イオツミスマル」を綴ると、heh-ot-mishmaru/ヘオッミシュマル(heh-ot-mishmaru、ヘオッミシュマル)となります。へ(heh、へ)のへは数字の5を表し、また、神を言い表す文字です。聖なる神の名前は発音できないことから、古代よりイスラエルの民は神の御名を象徴するハシェムと呼ばれる神の代名詞を用いてきました。へもハシェムであり、神様を指しています。次の、オッ/装飾品(ot、オッ)は「あなた」を言い表すata/アタ(ata,アタ)という言葉が多少訛って、「オッ」となったものと理解できます。mishmaru/ミシュマル(mishmaru、ミシュマル)は、管理すること、守ることに関する名詞として、「守り主」のような意味合いで使われています。

八坂神社 五社
八坂神社 五社
すると、「五百箇御統」の意味はヘブライ語で、「神、あなたは(私の)守り主!」となることがわかります。「ヘ‐オッ‐ミシュマル」の最初の「へ」は神を意味し、「オッ」はあなた、そして「ミシュマル」は守り主を指します。よって、これら3つのヘブライ語から構成される「ヘオッミシュマル」は、人々を守護する象徴となる神宝だったのです。御神が統べ治め、私を守ってくださるという信仰心が、「五百箇御統」に込められていたのです。「八坂瓊」と「五百箇御統」は、ヘブライ語で読むと、その名前の由来が明確に浮かび上がってきます。神の救いに大きな期待を込め、神の御加護を信じた結果、「ヤサカ」というヘブライ語で「神の守り」を意味する言葉は、「八坂」「八尺」と書かれるようになり、曲玉を形容する文字としてだけでなく、神による守護の意味を持つ言葉として、普及したのです。そして私自身が守られることを強調する際は、「八坂瓊」(やさかに)と題して、「神が私を守護する」という意味で用いられたのです。

「八坂瓊」は「五百箇御統」と呼ばれる神宝を形容する言葉としても使われ、神の御加護に期待する神宝の象徴となるべく、「八尺瓊の五百箇御統」という名称も生まれました。それはヘブライ語で、「神は私を守られる!あなたこそ私の守護神!」を意味する言葉だったのです。

多くの「八尺瓊曲玉」と呼ばれる装飾品を紐で結び、敵から身を守るために神の守護を期待しつつ、身に纏うお守りが、「八尺瓊の五百箇御統」です。古代、そのお守りを天照大神自らも護身用として身に纏い、神の守護を期待しました。天照大神にとっても、「八尺瓊の五百箇御統」は、心のよりどころとなる大切な神宝であったことを、ヘブライ語の意味から察することができます。

伊蘇国が意味するものは

伊都国の語源は「伊蘇志」であることが日本書紀に明記され、いきさつの詳細までもが説明されていることからしても、その言葉の持つ重要性が窺えます。そこでまず、「伊蘇」の「蘇」の意味を考えてみました。「蘇」の訓読みは「よみがえる」であり、その言葉どおり、死んだものが生き返るという意味を持つ字です。同じ読みで「甦」という字もありますが、その本来の意味は弱くなったものが再び強くなるということです。これら2つの文字は、読みは同じであっても、そのニュアンスが若干ながらも違うことがわかります。また、蘇の読みは漢音では「ソ」、呉音では「ス」です。そして中国語の発音では一貫して「ス」であることから、「伊蘇」の本来の読みは「イス」であったと考えられます。「伊蘇」、「イス」の国とは、何を意味しているのでしょうか。

五十迹手の国が「伊蘇国」と呼ばれるようになったのは、天皇が「伊蘇志」と仰せられたからですが、その名称に当てられた「蘇」という漢字は、蘇民将来の字にも用いられていることに注目してみました。日本各地に伝承されてきた蘇民将来の信仰は、主に牛頭天王、スサノオを祀る神社により広められ、その名を記した護符を得ることにより、諸々の災害から守られると今日まで言い伝えられています。八坂神社等では五芒星が描かれることもあるこの蘇民将来の護符は、元来、スサノオが蘇民将来に対して宿を貸した御礼として、旅立つ際に与えたものです。そしてそれを門にかけておけば、子孫代々病魔から守られると語ったことに由来しています。この話の内容がイスラエルの過越しの祭に類似していることから、蘇民将来の原点にはイスラエルが絡んでいる可能性が高いことは前述したとおりです。

イスラエルは中国語では「以色列」と書きます。日本語の漢字表記も古くから以色列ですが、何故か日本では「伊色剌」も平行して用いられてきました。「剌」という漢字の訓読みは「もとる」、音読みは「ラチ」、「ラツ」、中国語では「ラ」です。そして「色」は中国語で「セ」、「ス」と発音することから、「伊色剌」も「イスラ」と読み、同じくイスラエルを意味します。もしかすると、天皇が仰せられた「伊蘇志」とは「伊色剌」、すなわち、「イスラエル!」という言葉ではなかったでしょうか。しかしながら、史書にそのまま「伊色剌」と記載することはままならなかったが故に、ほぼ同等の漢字表記である「伊色刺」と書き換え、その「イスシ」の読みに当てて「伊蘇志」となった可能性があります。実際、「剌」と「刺」の字は酷似しているだけでなく、五体字類を参照すると、「剌」と「刺」は「剌刺元別/漢人混用」と注釈されていることから、2つの漢字が入り乱れて用いられていたことがわかります。つまり「伊色剌」は「伊色刺」と記載されることもあったと考えられるのです。その後、「伊色刺」は「イソシ」と読まれ、「伊蘇志」に転化したのではないでしょうか。いずれにしても「伊蘇志」の語源は「伊色剌」、「伊色刺」が意味するイスラエルである可能性が高いと言えます。

八坂神社 疫神社
八坂神社 疫神社
さて、京都の八坂神社内には疫神社があり、そこにも蘇民将来が祀られています。八坂神社自体がキリスト信仰に厚い秦氏によって建立されたことから、そこで祀られている蘇民将来がイスラエルの過越し祭りだけでなく、キリスト教にも絡んでいると考えられるのです。その証として「蘇」という漢字自体が、イエスキリストの蘇りのシンボルであることが、その漢字構成から分かります。「蘇」の文字は、草冠と魚、禾の3つの部分から成り立っています。まず魚は古代においてキリスト教のシンボルとして知られ、今日でも世界各地で用いられています。新訳聖書の原語であるギリシャ語で「イエス・キリスト・神の・子・救世主」と祈る言葉の頭文字を並べると、魚を意味する言葉になることから、いつしか魚がキリストのシンボルと考えられるようになり、それが世界中へと広まったのです。そして「禾」は稲の穂がたれていることを表すシンボルであり、イエスキリストがへりくだって人となったことを表し、また「木」は、キリストが木に掛けられたことを暗示しています。そして、草冠はキリストの頭に茨が置かれたことの象徴とも言えます。そして救い主のことをギリシャ語では「イェスー」と呼ぶことから、キリストの国を「イェス国」と呼ぶことができます。よって、伊蘇国はイスラエルを意味するだけでなく、キリストの国という二重の意味が含まれているとも考えられるのです。

「伊蘇志」という言葉には失われたイスラエル国家が復活し、アジア大陸の当方にある島々にて見事に再建されるという思いが切に込められていたのでしょう。それ故、「伊蘇」は「イスラエル」を意味するだけでなく、その当て字には、イスラエルの「伊」と、死から蘇ったキリストのシンボルとして「蘇」の2文字が組み合わされたのではないでしょうか。それは復活するイスラエルがキリストの国家であることを示唆しているようです。そして伊蘇国は重要な政治的拠点としての位置付けを持つ要所であるという認識から、古代社会においては早くから「都」という字が当てられて、いつしか「伊都国」と呼ばれるようになったと考えられるのです。

ヘブライ語で解明する爾支の意味

狗邪韓国から海を渡り、末盧国の港に着岸した後、陸地を東南に500里進んだところに位置する伊都国は、「代々国王がいる」だけでなく、「使者が倭と往来するときに常に駐まる」と魏志倭人伝に記載されていることからしても、倭国の重要な政治的拠点であったことがわかります。そして大陸に最も近い関所としての役割を担う伊都国には王が君臨し、倭国にはその他、30国余りの王が存在していたのです。それは長い年月を経て、イスラエルより渡来してきたユダ族を中心とした部族がそれぞれ名乗りを上げ、新天地なる島々の随所にて統治をしてきた結果とも言えます。

魏志倭人伝によれば、邪馬台国へ至る最初の関門である伊都国では、3種の肩書を持つ役人が民の統治に携わっていたことがわかります。

(長)官は爾支(にし、じき)といい、次(官)を泄謨觚(せつもこ、せつぼこ)と柄渠觚(ひょうごこ、へいきょこ)という。

伊都国の役人の筆頭は、長官としての役職を持つ「爾支」です。その読みは確定できないものの、一般的には「にし」、または「じき」、もしくは、その組み合わせから「ニキ」と読むこともできます。爾支の語源には定説もなく不明です。また、「爾」の訓読みは「なんじ」、「しかり」ですが、漢字の持つ本来の意味も定かではありません。しかしながら、古代社会における伊都国の住民の多くが大陸から渡来したイスラエル系の民であり、彼らが中心となって政治が執り行われていたと仮定するならば、「爾支」のような一見不可解な文字でも、ヘブライ語に当てた漢字であるという前提に立つならば、その発音から意味を解明できるはずです。

「爾支」の発音をヘブライ語で解釈するにあたり、3つの方向性を見出すことができます。まず、爾支は「ニギ」と読めることから「ナギ」が多少訛ったものと仮定してみました。すると「爾支」の語源はヘブライ語のnagid、ナギ(nagid、ナギ)、である可能性が見えてきます。「長官」、「知事」の意味も持つこのヘブライ語は、イスラエルでは神殿に仕える職員を指すこともありました。古代のイスラエル社会では、政治の中心は王と神殿であり、その聖なる場所に仕える祭司らは、民衆に対して大きな権限を持っていたのです。伊都国の長官もその例にもれず、神に仕える役人として民を執り仕切っていたと考えられ、「ナギ」と呼ばれた可能性があります。それが中国語の漢字表記では「爾支」(ニギ)となったと想定できるのです。

次に、「ナギ」、「ニギ」と類似した発音を持つヘブライ語に「ネギ」という言葉があり、神社の神官を指す言葉として用いられていることに注目です。日本語でも「禰宜」(ネギ)という神官を意味する言葉が古くから存在し、今日では神職の職名として、宮司を補佐する聖職者の職称となっています。その語源は古語の「ねぐ」に由来し、「和ませる」という言葉と絡めて、神に願いを捧げ、その心を和ませて加護を願うという意味とするような見解もあります。その「禰宜」の最初の文字に「爾」が含まれていることから、「禰宜」と「爾支」、双方の言葉に関連性があると想定し、「禰」の語源から「爾」の意味を察することができないかと考えてみました。

「爾」にしめすへんを足した「禰」は、「かたしろ」とも読まれ、「人間の代わりに置く人形」の意味を持ちます。その為、人の代わりに神の御前に出る神官の意味となる「禰宜」の字に登用されたと考えられます。イスラエルでも同様に、祭司が神と人間との間の仲介者として儀式を執り行っていました。そして神と人間との関係を妨げる人の罪を贖うために、祭司は動物の上に手を置いて、それを人の代わりに生贄として捧げるという儀式を執行したのです。こうして祭司は民衆の罪を贖う役割を担い、人間の代わりに動物を屠りました。宗教的儀式においては、イスラエルの神官は「禰」(かたしろ)として動物を屠っていたとも言えます。すなわちイスラエルの神官にとって「かたしろ」とは、屠られるべき動物が人形に置き換えられただけであり、人の身代わりとなるという考え方においては相違ないのです。また、爾支「ニシ、ニギ」は「ネギ」とも読めるだけでなく、「ネギ」はヘブライ語で神官を意味しているのです。それ故、元来ヘブライ語の「ネギ」という神官を意味する言葉に「爾支」という漢字が当てられ、それが日本語では「禰宜」に転化したと考えられないでしょうか。こうして、日本の禰宜「ネギ」も神官を意味するようになり、しかもそこにはイスラエル祭司の執り行う燔祭の儀式に見られる「かたしろ」、すなわち「身代わり」という概念も含まれるようになったと推測されます。「爾支」と「禰宜」が同義語ではないかと考えられる所以がそこにあります。

3つ目の考え方は、「爾支」をヘブライ語で政治を司る長官という意味を持つnezhib、ニジッ(nezhib、ニジッ)という言葉にそのまま捉えることです。「爾支」の「支」は、中国語での発音はji、zhiであり、「ニジッ」の発音は「爾支」の読みとほぼ、同一です。古代社会において長官という職務は、政治家よりもむしろ神官のイメージが強い役人であったと推測されます。特にイスラエル社会においては神殿を守る役目を遣わされたレビ族が祭司の役目だけでなく政治に関する庶務を負うことが多かったのです。長官という職権を有していても、それは祭司や神官と同じ働きに捉えられたとしても不思議ではありません。よって、「爾支」は長官を意味すると同時に、人間と神との間をとりなすための祭祀を執り行う神官を意味したとも考えられます。それ故「爾支」の語源は、神官の意味を持つ禰宜と同一であるとしても何ら不思議はなく、2つの言葉が同義語である可能性が高いと言えます。

泄謨觚、柄渠觚の語源もヘブライ語

魏志倭人伝では伊都国の役人の肩書として、「爾支」の次に「泄謨觚」が記載されています。日本語では意味を持たないこの言葉も、ヘブライ語で読むとその言葉の主旨を理解するこができます。「泄謨觚」は一般的に「セツボウコ」と読まれていますが、実際の読みは定かではありません。中国語では最初の「泄」がxie(シェ)、もしくはshie(シェ)と発音され、どちらも「シェ」と聞こえます。次の「謨」はmo(モ)、そして最後の「觚」はku(ク)、zi(ジ)、またはgu(グ)と読みます。この3つの文字を合わせて中国語で発音すると、「シェモク」、または「シェモジ」となります。その発音に類似したヘブライ語が2つあります。

まず、shamash、シャマシュ(shamash、シャマシュ)という宮の従事を意味する言葉が挙げられます。語尾の「シュ」と「ジ」の発音の相違に違和感が残るも、語呂が類似していることに注目です。「シャマシュ」は、日本語では神社の敷地内にある「社務所」の語源ではないかという説も根強くあり、また「宮の従事」という「シャマシュ」の意味は、「爾支」の意味である長官や神官と併記するに相応しいことから、ヘブライ語の「シャマシュ」に泄謨觚が当てられた可能性があります。

また、tsemakh、ツェマク(tsemakh、ツェマク)というヘブライ語の発音が「シェモク」と酷似していることにも注目です。「ツェマク」は旧約聖書においてはイザヤ書4章2節、エレミヤ書の23章5節、ゼカリヤ書3章8節等に見られる言葉であり、王系の子孫、神の僕としてリーダー格に相当する「統治者」を意味しています。魏志倭人伝で記載された「泄謨觚」という役職も、あくまで政治を司る役人としての意味で使われていることから、言葉の意味も合致します。よって「泄謨觚」の語源がヘブライ語の「ツェマク」である可能性は高いのではないでしょうか。

伊都国を治めた3つ目の長官の名称が「柄渠觚」(へいきょこ)です。中国語では「柄渠觚」の「柄」はbing(ビン)、ping(ピン)またはbeng(ベン)と発音します。2つ目の文字、「渠」という字はgu(グ)もしくはkeu(ケゥ)、そして最後の「觚」は古代中国の儀式にて用いられた大きな酒の器を意味し、gu(グ)またはtzu(チュ)と発音できます。すると「柄渠觚」の読みは「ピンケゥグ」となります。ヘブライ語では、書記官を意味するpinkesan、ピンケサン(pinkesan、ピンケサン)という言葉があります。それと同じルーツを持つpeenkes、ピンケ(peenkes、ピンケ)は登記・書記の意を表し、「柄渠」(ピンケゥ)とほぼ同一の発音です。そしてその語尾に「人」の意味を持つguf、グー(guf、グー)を足すと、登記人、書記人の意味を持つ「ピンケグー」という言葉になります。柄渠觚の中国語の読みとほぼ同じであることからしても、書記官を意味するヘブライ語に漢字が当てられたことがわかります。

伊都国の名前のルーツにはイスラエルのメッセージが潜み、また同義語としてメルティングポットの意味も含んでいるだけでなく、その国の役人の肩書、3種すべてをヘブライ語で解釈できるということは、古代倭国におけるイスラエル系渡来人の影響力が如何に大きかったかということの証ではないでしょうか。そして海に面した末盧国と不弥国とを行き来する中間地点に位置する伊都国は、洞海湾にも面し、背後の山々の地形にも恵まれ、山上からの視界も大変優れていたことから、必然的にその優れた地の利が活かされた政治の要所となったのです。

奴国でも明らかになる語源の秘密

伊都国-奴国 想定渡航ルート
伊都国-奴国 想定渡航ルート
(伊都国から)東南に百里すすめば奴国に到着する。そこの長官を兕馬觚(しまこ、じばこ)といい、副官は卑奴母離(ひなもり)という。二万余戸がある。
 古代行政の拠点として位置付けられ、北九州八幡に比定される伊都国から100里、およそ7km少々東南方向に進むと、そこには次の停留地である奴国が、大規模な集落を構えていました。伊都国は政治の要所ではあったものの、洞海湾と皿倉山に挟まれた狭い平地のエリアに造営された国であったため、人家は1000余戸と限られていました。その小規模な伊都国に対し、奴国の2万余戸は末盧国の4千戸の5倍、伊都国の1000余戸の20倍にもなる大集落です。

奴国は伊都国が比定される北九州八幡から東南方向へ7~8kmほどの距離に位置する、今日の北方・小倉南周辺に存在したと考えられます。八幡と周防灘、北九州の北岸から東岸へ横切る経路の中間地点にある北方・小倉南の位置付けは、距離、方角、共に魏志倭人伝の記述に合致しています。また、周辺の地形を検証すれば、北東には足立山、南には貫山、西には鷲峯山が連なっています。つまり、ちょうど盆地のような立地条件であり、2万戸に及ぶ集落が造成されるに適した地の利に恵まれた地域であることがわかります。

奴国の役人は、兕馬觚(じばこ)、副官は卑奴母離(ひなもり)と呼ばれていました。これらの役職名もヘブライ語で解明することができることから、古代社会におけるイスラエル系渡来人の働きや、その影響力、役目の重要性等に改めて注目させられます。兕馬觚の読みは定かではありませんが、柄渠觚と同様に最後の「觚」は中国語の読みである「グ」と発音され、おそらく、「ジバグ」、または「シマグ」であったと推測されます。この「兕馬觚」の意味も、ヘブライ語で解明できます。

もし「兕馬觚」の読みが「ジバグ」であるとするならば、ヘブライ語で公務、公事、を意味するTsibur、チブー(Tsibur、チブー)と「人」の意味を持つguf、グー(guf、グー)を足した「ジブグ」という言葉が語源となり、役人、高官を意味する言葉になります。また、「シマグ」がその読みであったとするならば、ヘブライ語で守護する、見張る、を意味するShemur、シェムー(Shemur、シェムー)に、「人」の「グー」を合わせて、「シムグ」となり、「シマグ」に極めて近い発音となります。その意味は監視人、護衛人です。どちらのヘブライ語による解釈が正しいか、その決め手は「馬」の読みであり、これを中国語の発音からかい離しても「バ」、もしくは「グ」と読めるとするならば前者の答えに妙味がありますが、そうでなければ後者の解釈に分がありそうです。いずれにしても、「兕馬觚」は役人の意味を持つ言葉であったことがわかります。

次に卑奴母離(ひなもり)という副官の役職名を検証しましょう。卑奴母離を和語の「鄙守」と解したり、周辺諸国の敵から攻撃を防御するために配置された軍隊の長であるという意味に捉える向きもありますが、ヘブライ語で検証すると、答えは意外にも「戦い」とは似つかない意味となります。「卑」の読みは日本語では「ヒ」、中国語ではbe「i べィ」、pe「i ぺィ」です。また、「奴」は日本語が「ヌ」「ド」であり、中国語では「ヌ」と読みます。「母離」の読みは日中双方の発音で「モリ」となります。役人の肩書については一貫して中国語の読みを想定してきたことから、ここでも中国語の読みを用いると、卑奴母離は「べィヌモリ」と発音できることがわかります。

ヘブライ語にはbinah、ビナ(binah、ビナ)という知恵、理解を意味する言葉があります。また、もし接頭語の発音を「ビィ」ではなく「ヒ」と解するならば、khinukh、ヒヌッ(khinukh、ヒヌッ)という、「教育」を意味する言葉もあります。そしてmoreh、モリ(moreh、モリ)は「先生」を意味する言葉であることから、卑奴母離の意味が見えてくるのです。まず、「ビナモリ」ですが、これは知恵ある教官、つまり民衆の教育に携わる副官を意味します。また、「ヒヌモリ」とするならば、教育官となり、「ビナモリ」と同じように、教育の責任を持つ教官を意味します。奴国だけでなく、対馬や壱岐においても副官の肩書として卑奴母離の記述が史書には見られ、奴国と同様にその地を治める長官の補佐役として、民を導き、教える役目を与えられた教官であったと考えられるのです。

コメント
  1. 釋正善 より:

    垂仁天皇3年春3月・320年、新羅王子(天日槍・천일창)(天地日暮・天之日矛)アメノヒボコが神宝、羽太の玉、足高の玉、赤石、刀、矛、鏡、熊の神籬の7種を持参した事への言及があります。その渡来の記述は、(新羅訖解王320年11年3月)。としていますが、如何でしょうか?又、DNAについて、その渡来人の型は、わかるでしょうか?

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