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東アジア史を塗り替えたイスラエル民族大移動の潮流

平凡な原始社会において、高度な文明を携えた異国人が突如として押し寄せてきたとするならば、国土が大混乱に陥るということは想像するに難しくありません。それは異文化の流入や混血による異民族との融合だけでなく、さまざまな紛争が起こることも意味しています。18世紀以降、イギリスを筆頭とする欧州の列強諸国から大勢の開拓者がアメリカ大陸に到来しましたが、欧州からの渡来人は異文化を携えてきただけでなく、原住民との領土争いに突入し、また移民者同士でも支配階級を目指す覇権争いが続き、それまで平和であった大地は一転して争いの坩堝(るつぼ)と化しました。その後も大勢の移民がヨーロッパから渡来し、多種多様な文化がアメリカ大陸というメルティング・ポットの中で融合し続け、時間をかけながら新しい文化が育まれていきました。

東アジアの古代史も同様に、高度な文化を携えてきた西アジア系の移民により、歴史が大きく塗り替えられていきます。東方に向けて大陸を横断する西アジア系移民の潮流の始まりは前20世紀以上にまでさかのぼり、特に前8世紀以降はイスラエル国家の崩壊により、新たなる大きな民族移動の潮流が発生しました。前722年に北イスラエル王国が、そして後を追うように前586年には南ユダ王国も滅亡し、数百万人にのぼる難民が離散し、その多くが大陸を横断して東アジアを目指したのです。

中国に紛争を巻き起こすイスラエル難民

無数のイスラエル難民が大陸を横断しはじめた丁度そのころ、中国では周が東の洛邑に遷都して春秋時代を迎え、各地に戦乱が勃発しました。それらの地域戦争の原因となったのが、数百万人とも考えられるイスラエル難民ではなかったでしょうか。大勢の異国人が突如として中国に到来することは、単に社会不安を呼び起こすだけでなく、原住民との対立や覇権争いを必然的にもたらしたことでしょう。イスラエル移民の大量流入は、春秋時代をいつしか、諸侯の勢力争いが止まない「覇者の時代」へと発展させ、瞬く間に闘争と戦火の時代へと激変させたのです。

中国におけるイスラエル難民の影響は、地域戦争の勃発や政権闘争だけに限りませんでした。西アジアから優れた文化を携えてきたイスラエル難民は、中国各地に農業や商工業の改革をもたらし、優れた製鉄技術や牛耕技術を導入し、農業生産力を格段に向上させました。また青銅貨幣の流通も始まり、土地の私有化と町造りが促進し、経済の在り方そのものに変化が訪れました。しかも移民による人口の急増につれて、官僚制が整備されていく最中、イスラエル系識者の活躍の場が増えて、諸子百家等の多くの学者が輩出され、中国の思想にも大きな影響をおよぼしはじめたのです。こうして多くのイスラエル移民が中国の政治経済に強い影響力を持つようになり、それが諸侯との覇権争いを激化させることになります。

神の民である濊貊の台頭

イスラエル難民が中国に押し寄せはじめてから間もない前7世紀、アジア大陸の東の端、中国の河北省から吉林省西部を含む地方に濊貊、または濊と呼ばれる民族が台頭します。濊の出自は定かではなく、ツングース系で、漢族や騎馬民族に圧迫されながら東方に移住を強いられた民族ではないかという説があります。いずれにせよ、濊の背景にはイスラエル民族の存在が深く関わっていると考えらます。

まず、イスラエル難民が大陸を横断して中国東北部にたどり着いたと考えられる時期と、濊が台頭してきた時期とが、ほぼ一致していることに注目です。次に、史記に記載されている濊の文化的背景が、イスラエルのものと類似していることが挙げられます。また、広大な濊の領域は東夷の拠点として認知されるも、時が経つにつれて濊の領域は徐々に朝鮮半島に向けて南下し、いつの間にか民族移動の潮流とともに消滅することも注目に値します。一民族の領域が移動し続けるという奇妙なプロセスは、日本を目指して移動し続けたイスラエル民族ならではの離れ業であり、濊がイスラエルと関与していることを裏付けます。

特筆すべきは濊という名称そのものです。濊の発音は拼音でHuiとなり、その語源は定かでないと言われています。実はこの濊(Hui)は、ヘブライ語で神を意味する暗号の言葉だったのです。神はヤーウェー、YhWh(ヤーウェー、YhWh)と書きますが、通常は右から読むこのヘブライ語を、左から逆さに読むと、フヒ、HuHi(フヒ、HuHi)となり、実際の発音はHuiとなります。このような言葉の逆さ読みは、イスラエル人が活用した言葉の暗号化の一例であり、日本の折り句や枕詞に類似しています。濊(Hui)とは「神」を指す暗号の言葉であり、大勢のイスラエルの民は、その合図を目指して、ひたすら大陸を横断し続けたと考えられます。

秦始皇帝はユダヤ人か?

大陸を横断する民族移動の潮流にのり、イスラエル民族の多くが東方の濊を目指してひたすら移動を続ける最中、中国では戦火が止むことがなく、春秋時代から戦国時代へ突入していきます。そのような混乱を極めた国勢の中で一人のリーダーが誕生し、それまで敵対していた覇者、部族をまとめて国家を統一し、新政権を樹立しました。それが秦始皇帝です。始皇帝の出自についてはさまざまな説がありますが、イスラエル民族との繋がりがある可能性が高いと考えられます。

始皇帝の父は秦王として即位した荘襄王です。ところが呂不韋列伝には、呂不韋が始皇帝の実の父であると明記されているため、実際の父親は荘襄王ではなく、呂不韋であるという説が語り継がれています。呂不韋は商人として卓越した才能を発揮し、巨大な富を蓄えた有力者です。そして最終的には秦の宰相にまで登りつめ、政治の実権を掌握しました。その呂不韋の後押しによって荘襄王は秦王となりますが、その際、荘襄王は呂不韋が愛人としていた女性を欲し、王妃として迎え入れたのです。ところがその時点で既に呂不韋の子を身籠っていたため、秦王の子として誕生した男の子の実の父は呂不韋であったというのがことの真相と考えられています。よって、呂不韋の背景を理解することが始皇帝の出自を理解する鍵となります。

呂不韋が外国人であり、イスラエル系であると断定できる理由が、実はその名前にあります。呂不韋という名前は一見して外来語に漢字を当てたように見受けられますが、そこにはヘブライ語の意味が秘められているのです。ヘブライ語で神はヤーウェー、YhWhですが、その語尾に「絆」を意味するol、オル(ol、オル)を付け足すと、「神の絆」、ol、オルヤーウェー、YhWh(YhWhol)となります。ヘブライ語では前述したとおり、文字を暗号化する手法の一つに逆読みがあり、任意の母音を充てることがあります。そこでol、オルヤーウェー、YhWhのアルファベットを逆から並べるとヤーウェー、YhWhol、オルとなり、YhWholの逆読みが、LohWhY、ロフィとなるのです。また、呂不韋の中国語による発音は、Lu BuweiまたはLu Fuwei、ルフェイですが、これもLohWhYの発音とほぼ同じです。つまり、呂不韋の名前はヘブライ語で「神の絆」を意味していたのです。イスラエル民族の長年の夢であった神の国の再建を夢見た呂不韋は、自らの存在を「神の絆」と自負して政権を奮ったのです。よって、呂不韋の子である秦始皇帝はイスラエルの出自であり、しかも王位の存続にこだわる南ユダ王国系である可能性が高いのです。

晩年の秦では、始皇帝の暴政による庶民の不満が極限に達し、国家体制が不安定になります。そして不老不死を欲した始皇帝は、方士の力を重要視するようになり、徐福に対して東方にある蓬莱国の三神山より仙人を連れてくるよう命じたことは有名です。東方の蓬莱国とは中国の蓬莱・方丈・瀛州であると言われていますが、実際に徐福は日本へと旅立ち、列島各地を訪れたことからしても、徐福自身は三神山が日本に存在すると考えていたのかもしれません。徐福は九州の佐賀、鹿児島から東北の青森に至るまで多くの山々、名所を訪れ、その軌跡は徐福の伝承として、今日でも各地で語り継がれています。

始皇帝の王政は短命に終わり、秦が崩壊した直後、始皇帝の親族はもろもろ虐殺されました。その悲惨な事態は、「神の絆」の助力を得て造営された都が「平安の都」、エルサレムの再建かもしれないというイスラエル民族の期待を一気に打ち砕くことになります。秦始皇帝による神の国の再建はもろくも崩壊し、呂不韋が心に描いた「神の絆」は、始皇帝から解き放たれてしまったのです。

イスラエルの民が結集した扶余

秦の悪政を目の当たりにし、始皇帝による神の国の再建という望みが断たれた南ユダ王国の部族を中心としたイスラエル系難民は、秦に見切りをつけざるをえませんでした。そして先祖代々語り継がれてきた東方の長寿国に最後の望みを託し、中国北東部にある濊族の地を目指して旅立ちました。前述したとおり「濊」は「神」を意味するヘブライ語の暗号であることから、イスラエル系の民が統治する大事な東夷の拠点であることは、すぐに理解できたのでしょう。

秦王朝下における苦役や戦火を逃れて、濊の領域に難民が訪れたことは、史記の記述からも明らかです。そして濊を訪れた大勢の人々は、新たに扶余と呼ばれるようになりました。扶余の老人らが自らを「亡命者」と呼んだ理由は、彼らが中国から逃れてきたイスラエル系難民であったからです。そしてイスラエル系の扶余は、短期間で勢力を拡大し、扶余国伝には「その国は富み栄え、昔から、いまだかつて(戦いに)敗れたことがなかった」と記されるほどでした。また、扶余王が所持する印には「濊王之印」と刻まれていますが、これはまさに濊と扶余が同族であり、同じ志を持った民族であることの証です。

扶余の背景がイスラエル系であると考えられる根拠は、後述する東明伝説や文化的背景に限らず、扶余という名称からも察することができます。扶余はFuyuと発音しますが、この言葉にもヘブライ語の暗号として、「神」のメッセージが隠されています。ヤーウェー、YhWh(YhWh)、「神」は発音することができないため、任意の母音の読みを当てて「ヤーウェー」と称しますが、この4文字のアルファベットの順番を差し替えると扶余という言葉になります。方法はヤーウェー、YhWh(YhWh)の中間の2文字をとって接頭語とし、HuYh、フヤ・フヨ(HuYh、フヤ・フヨ)とするだけです。つまり、扶余とはヘブライ語の暗号文字で、濊と同様に「神」を意味していたのです。中国を逃れた秦からの「逃亡者」は濊に結集して自らを扶余と呼び、在来の濊族とは一線を画したと考えられます。

祖国の再建を願望するイスラエル難民が結集した扶余では、イスラエル宗教色の濃い文化が踏襲されました。例えば、扶余の王の生い立ちは「東明伝説」に記載されていますが、旧約聖書のモーセに関する記述と、多くの類似点を見いだすことができます。また、史記によると、「扶余は慎み深く、周囲の国々に攻撃を仕掛けず、弓、矢、刀、矛を武器にした強国」でありながら、俎豆を用いるだけでなく、「年の終わりには天を祭り、その時には刑罰を行わず囚人を解放した」のです。さらに刑罰は厳しく、盗みをすると12倍の償いをさせられ、姦淫は死刑、兄が死ねば弟は兄嫁をめとる、というモーセの律法に類似した宗教文化が根付いていました。

秦の滅亡直後から繁栄した扶余は、イスラエル民族の力を結集して国力を培うも、その後、朝鮮半島から日本へ向けて民族移動の潮流が加速するにつれて、3世紀中ごろから弱体化し、最終的には高句麗、百済、新羅の形成に一役かうも、5世紀にはその大役を果たして消滅します。

民族移動の潮流から生まれた三韓

前3世紀、日本がまだ小規模の村落を中心とする古代社会を形成していたころ、朝鮮半島南部も同様に、のどかな原始的社会の様相であったと考えられます。東アジアにおける中国の支配は、およそ遼東郡までに限定され、朝鮮史の原点とも言える衛氏朝鮮でさえも、地理的には現在の中国東北部の遼寧省を中心とする遼東郡の南部から朝鮮半島西北部にかけて、一時期に覇権を握ったに過ぎませんでした。そこから先の半島南部は手つかずのまま、長い歴史の間およそ放置されてきたのです。のどかな朝鮮半島の村落生活が、突如として激変するきっかけとなったのが、何百万人にものぼるイスラエル系民族大移動の潮流の訪れです。

前2世紀、中国東北部では扶余が台頭する最中、衛氏朝鮮が樹立されました。また、朝鮮半島の日本海沿いでは扶余勢力の拡大に後押しされた先住者の濊が南下を開始し、朝鮮半島へ向けて一気に移民の波が訪れます。その結果、元来、山東省、遼寧省界隈に居住していた東夷も扶余に移住したり、中国東北部の遼東郡を経由して朝鮮半島へ向けて時計回りに移動しはじめるなど、新たなる民族移動の潮流が造りあげられました。こうして日本への通り道である朝鮮半島南部には多くの移民が訪れはじめ、半島界隈の様相は一変します。

衛氏朝鮮が樹立した直後、朝鮮半島南部では、風俗や習慣の相違によって国土を3分割した部族が三韓として歴史に姿を現します。半島の西側には54カ国に細かく分散され、後の百済となる馬韓が、東方の日本海側には12カ国に分かれ、後の新羅となる辰韓が、そして半島の最南端には同じく12カ国に分かれ、後の仁那となる弁韓が登場します。これら三韓は中国、および濊や扶余からの移民が先住民と合流し、短期間に朝鮮半島南部で3つの領地に枝分かれしたと考えられます。中でもイスラエルの南ユダ王国系の移民数は大変多く、濊や扶余だけでなく中国からの移民にも多く含まれ、辰韓人と弁韓人の大半を占めたと推測されます。

中国王朝と朝鮮半島南部との交流は、後漢時代まではほとんどなかったため、三韓の統治は当初、自治的な手法に任されました。三韓の中ではまず、中国に地理的に最も近い朝鮮半島南部の西側に位置する馬韓が先行して台頭し、辰韓と弁韓はともに、馬韓より土地を譲り与えられて樹立することになります。また、三韓の中では「馬韓が最も強大」であり、「三韓諸国の王の先祖はすべて馬韓種族の人であった」と史記に記載されていることも注目に値します。すなわち、名目上は三韓に分かれていても、そのすべてが馬韓に属する王によって統治されていたのです。

設立当初より政治面において優位な立場に置かれた馬韓ではありますが、意外にも辰韓や弁韓と文化が異なるだけでなく、その詳細はいかにも見劣りする内容として史記に記載されています。例えば馬韓では、耕作や養蚕、綿布を織ることはできても、「制度が整っておらず」「村落には城壁はなく」、また「黄金・宝物・錦織・毛織物を大切にせず、牛馬に乗ることを知らない」とあります。つまり文化的には辰韓や弁韓よりも後手に回っていたようなのです。辰韓や弁韓には優れたイスラエル文化を携えた大勢の民が、濊や扶余、そして中国から流入してきたからこそ、その格差が生じたのではないでしょうか。

史記の記述を頼ると、馬韓の東方に位置する辰韓には、秦からの亡命者が多く訪れたことがわかります。彼らの多くは濊・扶余の移民の潮流に沿って中国東北部から移住してきたのです。故に辰韓人は自らを、「秦からの亡命者である」と自称しただけでなく、その言語も「秦の言葉に似ている」と史記に記載されています。それが辰韓を、秦韓とも呼ぶゆえんです。また、晋書辰韓伝には、辰韓が「いつも馬韓人を君主とし」、「辰韓王は世々(王位を)継承しているとはいっても、自立することはできなかった」理由が明確に記載されていることも見逃せません。それは辰韓人が日本を目指して移動する途中にある移民の群れであり、当初から一時的な短期滞在だけを目論んでいたため、王を立ててまで政権に携わる必要がなかったからにほかならないのです。梁書新羅伝には、「辰韓人がみずから立って王となれないいわれは、(彼らが)流移の人であることが明らかなためで、恒に馬韓人に支配されているのである」と明記されています。すなわち、辰韓人とは日本を目指してひたすら移動を続けた「流移の人」だったのです。イスラエル系の難民は、濊、扶余、そして辰韓と名称を変えながら「流移の人」となり、民族移動の潮流にのって日本へと渡った証がここに記されています。

民族移動の潮流による朝鮮半島のその後

前二世紀から後三世紀にかけてイスラエル民族移動の潮流が朝鮮半島に押し寄せ、その移民の流れが日本まで到達した結果、朝鮮半島南部、そして日本列島では人口が突如として急増し、それまでの原始的社会の様相は一変して、新しい文化の流入とともに政治経済的な発展を急速に成し遂げはじめます。そして朝鮮半島は移民が通り抜けるに不可欠な日本への出入り口として、引き続き大陸各地から大勢の移民が到来し、独自の文化を発展させたのです。

辰韓からは継続して大勢の一時寄留者が日本に移住し続けましたが、その穴を埋め尽くす以上に朝鮮半島の北部から、異国人が到来し続けました。また、イスラエル系移民の中には南ユダ王国の部族が主導する日本での建国プランには賛同せず、朝鮮半島に残留した者も少なからず存在し、特に北イスラエル王国に属する10部族の民には、この傾向があったと考えられます。こうして辰韓から一時寄留者が去った後、新たなる民族の構成により、新羅国が誕生することになります。

隋書新羅伝には、「(沃沮に)残留した(高句麗)人たちが新羅をつくった」という記述だけでなく、「新羅王の先祖は百済人」であるという証言もあります。元来、辰韓王は馬韓人であったことから、新羅王が馬韓の後継である百済の出であっても不思議ではありません。しかし北方の沃沮から流入した高句麗が新羅の立役者であったということは、新羅が高句麗の影響を強く受けながら、「中国や高句麗や百済の出身者が入り混じる」民族により建国され、それは辰韓とは一線を引く別の国であったことを意味します。よって新羅の前身が辰韓であるという安易な発想には注意しなければなりません。

高句麗は前37年、中国による漢四郡の支配下にある玄菟郡が事実上の傀儡政権であったことを尻目に濊の南方に興され、瞬くまに朝鮮半島北部を網羅する一大勢力となりました。史記によれば「濊族の老人たちは、古くより、自分たち(の伝承)として高句麗と同種である」と語り継がれ、その先祖は扶余と同じ東明であり、「高句麗(の王家)は扶余から分かれ出た」と言われています。高句麗のルーツには北イスラエル10部族が存在している可能性があります。また「その言語、法制、風俗などは、だいたい類似している」とも記載されていますが、鬼神を祀り、男女の風俗は乱れ、国を侵略するだけでなく、「仏法(仏教)を敬い、信仰」しているなど、相違点も多々あり、高句麗の背景についてはさらなる検証が必要です。

高句麗は新羅と常に侵略しあい、史記には「戦争は休みなし(に続いた)」と記載されています。また、北方に隣接する扶余は、民族移動の潮流が加速するとともに民が流出して徐々に影響力を弱め、その領域は高句麗にとって代えられていきました。そして最盛期に高句麗は、朝鮮半島北方の大半から中国北東部までを占領する一大国家となり、後に百済、新羅とともに三国時代を形成します。

新羅の西側に隣接する馬韓では百済国が新羅と同時期に誕生します。史記には百済国の王家の先祖も扶余の出身と明記されていることから、百済王もイスラエルの出自である可能性があります。また隋書百済伝には「百済の人には、新羅・高句麗・倭などが雑じっており、それにまた中国人もいる」という記述があり、百済の民も新羅と同様に複数民族が合流して形成された国家と考えられます。また、文化面においては高句麗と同様に古典や歴史書を好み、陰陽・五行を理解し、仏教が根付きはじめて、僧、尼、寺が多いことでも知られるようになり、その言葉、衣装は高句麗のものとほぼ同類であることから、新羅と同様に、百済も高句麗の影響を強く受けていたようです。

日本への橋渡しとなった朝鮮半島

イスラエル民族が朝鮮半島を介して日本を訪れたという前提に立ち、史記の記述と比較検討しながら歴史を再構築すると、見事につじつまが合います。東アジア民族史の原点には西アジアからの移民の流入があり、特に何百万人にものぼるイスラエル系難民の民族移動の影響は大きく、前8世紀以降の中国古代史に多大なる影響を与え、その後、朝鮮半島や日本の歴史にも大きく貢献することになります。それ故、中国、朝鮮、そして日本民族の接点と相違点を理解するには、中国系の漢民族や北方の騎馬民族系等、アジア大陸の他民族との関わりや構成比に加えて、イスラエル民族移動の潮流を見極めることが不可欠です。特に北の10部族と南の2部族がどの程度、民族の形成に関与したかを考察することが重要課題となります。

中国では春秋時代を境に、イスラエル系の全部族が難民として一気に訪れますが、南ユダ王国の部族の大半は東方の島々を目指していたと考えられるため、最終的に中国の国土に残留し、同化したイスラエル系難民は、北イスラエル王国の10部族が主体であったと考えられます。今日でも中国には、北イスラエル部族のルーツが伝承されている部落が各地に存在します。また、前3世紀以降、朝鮮半島においてもイスラエル民族移動の波が訪れますが、朝鮮に残留したのは濊や扶余等の東夷に混在して渡来した北イスラエル系の部族であり、高句麗のルーツとも関わりがあったようです。南ユダ王国の部族に関しては、辰韓、弁韓を通りすぎたに過ぎず、その痕跡はほとんど残されていないことから、日本へ渡来したと考えられるのです。

つまるところ、日本民族の決定的な相違点は、信仰に熱心な南ユダ王国系の部族を中心として渡来したこと、そして島国であるため、東アジアの他民族の影響を受けづらかったことにつきます。ダビデ王朝の継承を目指すユダ族と、それに仕えるレビ族を中心とする民族移動の潮流は日本の歴史を塗り替え、いつしか日本を神の国と位置づけ、そこに新しいエルサレムの造営を実現する原動力となります。