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元伊勢の御巡幸を支えた船木氏 伊勢に向かって船出する倭姫命を陰で支えた船木氏の存在

水上の御巡幸を支えた船木氏の存在

神宝を携えた御巡幸の最終段が水上の旅という画期的な出来事の背景には、その後、海人豪族として全国各地で名声を轟かせた船木氏の存在があったことも見逃せません。倭姫命が乗船された船は、中嶋宮にて献上され3隻のうちの1隻であると考えられ、これらの船はいずれも伊久良河宮の近郊で同時期に造船された可能性が高いのです。短期間で大型の船を造るためには、優れた造船技術と経験を誇る優秀な職人の存在が不可欠です。また、海人豪族の名を馳せた実権者として、神宝を携えながら旅する倭姫命御一行の船団を護衛する責務も問われたことでしょう。そのような造船技術と資金力、政治力を持つ生粋の海人豪族こそ、船木氏でした。

古代社会においては大陸経由の教養が知識層にとっては重要であり、それなくしては、高度な航海術や造船技術を身につけること自体が不可能でした。それ故、大陸系の豪族や皇族の流れを汲む部族以外に、大型の船を造ることなど到底ありえず、ごく限られた部族のみがそのノウハウを持っていました。その造船技術に抜きんでていたのが船木氏です。よって元伊勢の御巡幸という1世紀近くをかけた国家レベルの祭事が執り行われている最中、その最終段の旅路にて船が必要とされた時、突如として船木氏は歴史にその名を現したのです。

船木氏の背景については、史書には限られた情報しか残されていません。ごく一般的に船木氏は、伊久良河宮のある美濃国本巣郡船木郷より起こり、その後、伊勢国多気郡の地にて拠点を確立した後、播磨周辺へと移動し、そこから全国各地へと船木氏の拠点を拡散していったと考えられています。倭姫命による元伊勢御巡幸は第11代垂仁天皇の時代に行われたことから、船木氏が本巣郡に台頭したのは1世紀頃と推測されます。

船木氏の出自は、古事記の神武記に記載されています。そこには神武天皇の第二皇子である神八井耳命を祖とする氏族のひとつとして、「伊勢の船木直」が含まれています。すなわち船木氏とは、神武天皇の皇子、神八井耳命から出た多臣族であり、皇族の流れを継ぐ豪族だったのです。神武天皇の先代、記紀に登場する神代の神々の中でも最も古い民は、アジア大陸の西方から長い年月をかけて船で海を渡り、アラビア海、ベンガル湾、シンガポール、南シナ海、台湾などを経由して、南西諸島から列島に到来したと考えられます。よって渡来者の中には航海術と造船技術に長けた部族も存在したに違いなく、先祖代々、その船造りの職務を担ってきた豪族の流れを汲む一族が船木氏だったのでしょう。そして元伊勢の御巡幸が水上の旅へと移り変わる際には、その優れた造船技術で名声を博していた船木氏は、天皇や神大根王、美濃国造らの命により本巣郡へ召集され、短期間に船を造り上げただけでなく、船旅の守護神としてその後、倭姫命御一行を護衛することにもなったと考えられるのです。

船木氏が多臣族であることは、伊久良河宮から伊勢に至るまで川を下って海沿いを航海した際、船木氏が滞在したと考えられる拠点にて建立された神社の社伝からも理解することができます。例えば四日市の耳常神社では神八井耳命が祀られています。その社伝によると、寛永の時代頃までは、伊勢国の船木直の子孫が耳常神社を守っていました。同じ四日市市の太(おおみわ)神社も神八井耳命を祭神とし、大正時代には石部神社に合祀されるも、その社伝には船木氏が奉仕をしていた記録が残されています。神八井耳命を祀る神社で船木氏が奉仕する理由は、その子孫に船木氏が名を連ねているからに他なりません。

また、住吉大社神代記によると船木氏の遠祖は大田田命であり、大物主神の子として三輪山にて大物主神を祀った三輪氏の祖、大田田根子のことであるというのが定説です。元伊勢の御巡幸が始まる直前の崇神天皇の御代、疫病や災害が続き、天皇の夢に現れた三輪山の大物主神のお告げにより、大物主神の子である大田田命が大阪の堺市・和泉市の方から召集され、大神神社の神主となったのです。船木氏の祖は、神武天皇の血統を汲む神八井耳命だけでなく、元伊勢の原点となる三輪山と深く絡む大物主神と大田田命の末裔でもあったことがわかります。それ故、前述した船木氏が管轄した神八井耳命を祀る太神社では、「太」を「おおみわ」と読み、三輪山の大神神社と船木氏との結び付きまでも示唆したのでしょう。船木氏の背景には、大物主神と三輪山、そして神武天皇の存在があったのです。

住吉大社神代記には、船木氏の祖である大田田命の子、神田田命のそのまた子、つまり大田田命の孫である背都比古命が富止比女乃命を娶って伊瀬川比古乃命(いせつひこのみこと)を生み、伊西(イセ)の船木を拠点としたことも記されています。美濃国の本巣郡を基点として始まった船木氏の流れは、その後、木曽川から伊勢湾沿いにかけて各地に拠点を設けながら、元伊勢の御巡幸が完結した時点において、伊勢の船木に集落を築いたのです。大田田命の家系に属する伊瀬川比古乃命が伊勢の船木に集落を築くことにより、元伊勢御巡幸の出発点である三輪山と、その最終地点の伊勢双方が、大田田命を祖とする船木氏とも結び付いていることがわかります。

船木氏の祖であり、大八嶋国にて日神を出し奉る大田田命、神田田命は元来、東播磨にある九万八千余町の杣山とも呼ばれる住吉・椅鹿山神領地を古くから領有し、大社の増改築のために材木を供給しただけでなく、造船用の木材を伐り出す山林としても重宝されました。そして元伊勢の時代の直後、神功皇后の時代では、船木連氏によって管理されていた杣山、住吉・椅鹿山神領地の多くは住吉大社へ寄進されました。また、神功皇后が新羅出征をされた際には、船木氏らが自ら領有する山を伐って船三艘を造り、その船に乗って皇后は新羅に遠征し、凱旋したことが、住吉大社神代記の船木等本記に記載されています。その後、第12代景行天皇の時代、武内宿禰により、その船は祀られることになりました。

伊勢から播磨へと移動する船木氏

美濃国から近畿へと広がる船木氏の拠点
美濃国から近畿へと広がる船木氏の拠点

御巡幸地の最終地点である伊勢国に拠点を構え、伊勢国に根付くと思いきや、船木氏も自らの本拠地を伊勢から西方への播磨へと移動することになります。倭姫命御一行を伊勢まで送迎した後、時を経て船木氏は、住吉大社のある摂津から更に足を伸ばし、播磨の加茂郡や明石、今日の兵庫県へと本拠地を移したのです。東播磨の地は、古くから船木氏の祖、大田田命らが高質な山林を誇る杣山を保有していたこともあり、船木氏にとっては縁の深い地でもありました。

播磨の加茂郡はその後、加東郡となり、今日では兵庫県の加東市・小野市に分けられています。地域を流れる加古川の支流となる東条川の上流には「椅鹿谷」という地名が存在し、その近郊の小野市には船木町の地名も見られ、船木氏が根拠地とした形跡を垣間見ることができます。周辺の山々には良質の材木が多く、伐採に適していただけでなく、それらを運搬するための水路についても、加古川水系の舟運を活用することができたのです。

船木氏の活動拠点は古代の加茂郡に限らず、神代記によると、瀬戸内により近い明石郡でも船木村が存在しました。その明石郡からも封戸として住吉大社へ寄進され、大社に仕えていました。明石郡の垂水郷ある式内社の「海神社」は、その名残と考えられます。 船木氏が明石郡の地を選別した理由は、既に船木氏の一大拠点となっていた播磨の東条川上流に近いだけでなく、船の建造に必要な鉄資材と丹沙の確保に適した地であったからと考えられています。明石川の上流や、その北方の志染川流域一帯は、渡来系の鉄器加工集団が古代、拠点を設けた地域です。その重要性故に、第22代清寧天皇の時代では、近隣に縮見屯倉(しじみみやけ)と呼ばれる朝廷が直接管理した倉庫が作られたほどです。船木氏はこの地域で得られる鉄の重要性に早くから着眼し、それを加工して木造船の船材の一部として役立てることを視野に、地域の覇権を拡大することに早くから着手したのです。

船木氏が注目したもう一つの資源は、木製の船体に塗る朱色塗料の素材として不可欠であった辰砂です。弥生時代から産出されたことが知られている辰砂は、古墳や石棺の彩色に使われただけでなく、朱墨の原料としても重宝され、造船する際に船底を塗装するためにも用いられたのです。また、辰砂は加熱することで水銀蒸気から水銀を精製することもできます。播磨国風土記の逸文によると、明石郡と紀伊国伊都郡の式内社である丹生都比女神社では、ニホツヒメが祭神として祀られ、古くから鉱山の採掘者たちが奉じた神といわれています。船木氏は明石地域だけでなく、その後、海を渡り紀ノ川流域の伊都郡にも進出し、辰砂の確保に努めたのです。古代、辰砂は伊勢国、今日の三重県多気町や和歌山県の吉野川上流が特産地として知られていましたが、そのどちらもが船木氏の拠点であることは偶然ではなかったのです。

こうして船木氏は元伊勢御巡幸の最終地であり、天照大神が祀られた由緒ある聖地、伊勢を後にし、早々と播磨の地へと向かい、そこに一大拠点を作ったのです。前述した鉄や辰砂などの資源は播磨に限らず、他の地域からも掘削することは可能だったでしょう。しかしながら、船木氏にはどうしても、淡路島に近い播磨の地へと向かわなければならない理由があったようです。そして海人豪族でありながら、新天地においては海辺を離れて内陸へと向かい、山地の中に拠点を設けることが少なくなかったのです。

播磨に存在する船木氏の拠点の南方には淡路島が目に入り、その先には四国の剣山を遠くに眺めることもできました。辰砂を掘削するために向かった紀伊国伊都郡、吉野川の上流からも同様に淡路島と剣山を見渡すことができます。もしかすると船木氏は、淡路島と剣山に結び付けられた重大な責務を担っていたのかもしれません。元伊勢の御巡幸にはまだ、謎が残されているようです。

船木氏はイスラエルの出自か?

古事記の記述から、船木氏の祖先は神武天皇の家系に直結し、皇族の流れを汲む一族であることがわかります。神武天皇の先代は、預言者イザヤに導かれてきたイスラエルからの渡来者であり、ダビデ王の血統を継ぐ王族であった可能性が高いのです。よって、その血統を継ぐ船木氏は多臣族とは言え極めて重要な存在であり、大陸で培われた高度な教養と学問に代表される航海術と造船技術を持っていたと考えられます。ここでは、伊弉諾命や、他の日本建国に関わった神々がイスラエル、そしてユダヤの王系に関わった人物であることが名前や歴史的背景からわかるように、船木氏もイスラエル系渡来者の血統を継ぐ家系であったことを、その名前の由来から検証してみたいと思います。

船木、「ふなき」は、舟木、布奈木、など様々な書き方がありますが、なぜ「ふなき」と呼ぶのか、その名称がどこからきたのか、言葉のルーツには定説がありません。「船」「舟」という漢字があてられていることから、単に海人豪族のひとつである、と語り継がれているだけであり、古事記や住吉大社神代記の記述についても、家系の繋がりを記しているにすぎません。

「ふなき」という名前のルーツは、ヘブライ語で理解すると、その意味が明瞭になります。ヘブライ語にはhunak、フナッ(ク)(hunak、フナッ(ク))という言葉があり、「与えられた」「授けられた」という意味があります。古代の民にとって、人間が海を渡る、ということは神の恵みがなければできないことであり、ちょっとした判断のミスからでも、海流の難所や荒れた海で船が難破したり座礁し、命を落とすことが多かったのです。よって、船は自然を司る神から守護されるという象徴でもあり、命が守られ、天与の恵みが授けられる象徴となったことでしょう。

その意味を含めたうえで「ふね」という名称は、洪水神話で有名なノアの箱舟のストーリーにも由来していたと考えられるのです。古代、日本へ渡来したイスラエル系の民族は、様々な状況下においてヘブライ語を用いて日本列島という新天地での生活に順応し、同化していきました。その際、ヘブライ語そのものを用いることが多々あり、それらの文字は後世においてカナ文字やひらがなのベースになっただけでなく、様々な名称や日本語そのものの語源にもなったのです。また、ヘブライ語では文字を右から左に書きますが、ヘブライ語自体、子音と母音に分かれているだけでなく、往々にして子音のみで記述されることが多く、左から右に読むこともできるのです。よって日本に到来した古代のイスラエル系民族は、様々な名称を検討する際に、時には左から右、という逆さ読みをすることがありました。

そこで、海上交通に不可欠な乗り物の名称を定める際に、天与の恵みに関連する言葉として、何らかの形でノアの箱舟と結び付ける工夫がされたと推測されるのです。箱舟は命と恵みの象徴であり、海上に浮かび続け、最後には再び陸地に足を踏むことができるという証でもあります。それ故、海に浮かぶ乗り物の名称を、ノアの箱舟に関連付けたと考えられるのです。その結果、その乗り物の名前を「ノア」という名前そのもので呼ぶことにしたのです。「ノア」という名前はヘブライ語では、安息、平穏、平静を意味し、noah、ノア(noah、ノア)、またはnoah、ノア(noah、ノア)と書きます。このヘブライ語を左から右に読むと子音だけでは、HUN、HNとなり、その読みは「フナ」とも、「フネ」ともなります。

船木氏は海人豪族として最高峰の航海技術と造船技術を持つ、古代の優れた民族でした。そして日本に渡来した暁には、自らの部族をその象徴となる「船」「舟」という漢字に結び付け、その読みをノアの箱舟という古典的な神の救いに繋がる聖書の話に紐付けたと考えられます。そのために、「ノア」とい名前そのものを用い、それを逆さ読みにして、なおかつ、「フナッ(ク)」という天与の恵みが授けられる意味を持つ言葉に関連づけて、自らを「フナク」「フナキ」と称し、そこに「船木」「舟木」という漢字をあてたのではないでしょうか。船木氏の存在はイスラエル人が古代、日本列島に到来した証でもあり、それはまた、箱舟に乗って大陸から逃れ、日本という新天地において大地に足を踏み入れ、生き延びるという、神の恵みに授かる証でもあったのです。