倭姫命に導かれた元伊勢御巡幸の目的

聖なる光と共に神御自身が姿を現わされたことから、神を祀る聖地として古代から崇められてきた三輪山を基点に元伊勢の御巡幸は始まりました。崇神天皇の御代には、豊鋤入姫命が神宝を奉じ、およそ半世紀を費やして三輪山の北と南、西方向を巡りました。そして倭国に戻られた後、御巡幸の責務は崇神天皇の皇女である豊鋤入姫命より垂仁天皇の皇女、倭姫命へと受け継がれます。ここから御巡幸は新たな段階に入り、倭姫命の御一行は、東方への旅を始めることになりました。宇陀から名張、柘植と南北に連なる山脈の裾野に広がる野と川に沿って北東方向に進み、そこから甲賀高原と呼ばれる豊かな自然に囲まれた地域を越えてさらに北上し、琵琶湖の東に位置する坂田の地に到達したのです。
元伊勢の御巡幸という80余年にわたる聖地巡りの旅には、さまざまな目的があったとみられます。そのひとつが、三輪山を中心として、東西南北の平野部にあたる要所を訪ね、神宝の存在とその勢威を人々に知らしめることだったのでしょう。そのため、一見すると無防備とも思われるような遠方の地へも堂々と御巡幸を続け、それらの地域の人々と朝廷との結び付きを深めながら、長い年月をかけて人々の理解を浸透させていったのではないでしょうか。人口が集中しやすい平野部が御巡幸地として選ばれ、短期間で人々の信頼を得るためのさまざまな施策が講じられ、神宝や朝廷の権威を広める取り組みが行われたものと思われます。倭姫命御一行の御尽力と想像を絶する御苦労を考えると、自然と心に熱い思いが溢れてきます。
しかしながら古代、琵琶湖の東側にあたる坂田の地周辺は湿地帯に囲まれていたと想定され、これまでの御巡幸地とは異なり、集落の形成には適した地域ではなかったと考えられます。それだけに、神宝を携えた倭姫命の御一行が、交通の便が悪く、洪水の危険にもさらされやすい湿地帯に坂田宮の地を定めたということは、常識的に考えにくいことです。その背景には、何かしら特別な理由があったと推測されます。その理由は、地域の歴史的背景と倭姫命の家系、さらに古代レイラインの分析を重ね合わせることで、読み解くことができます。
由緒ある坂田宮の歴史的背景とは
垂仁天皇8年、倭姫命の御一行は甲賀日雲宮を去った後、琵琶湖の東部を北上し、近江国、現在の滋賀県坂田郡へと向かいました。当時、この地域一帯は海抜0mに近く、周辺は広大な湿地帯に囲まれていたと想定されます。倭姫命の御一行は、時には徒歩で、時には琵琶湖に繋がる天野川を船で下りながら旅を続けたことでしょう。そして琵琶湖の北、東側沿岸近くに到達し、その地に坂田宮を定めたと伝えられています。その境内には、丹波国吉佐宮(真名井神社・籠神社)と同様に、「真名井」と呼ばれる井戸も存在しています。この共通点からも、元伊勢の御巡幸において、聖水が極めて重要な意味を持っていたことが改めて思い起こされます。
坂田宮の南方には、現在の彦根市があります。その地域周辺は古くから「彦根」と呼ばれ、江戸時代には彦根藩の領地として栄えました。「彦根」という地名は、天照大御神の五百箇御統の珠から生まれた五柱の男神のひとりである天津日子根命に由来するとも考えられています。その天津日子根命の末裔にあたるのが、息長水依比売(おきながみずよりひめ)を曾祖母とする倭姫命です。つまり、坂田宮周辺は、倭姫命の先祖ゆかりの地であったと考えられます。
このような歴史的背景から、琵琶湖の東部は古くから「息長」とも呼ばれ、そこには古代より、天照大御神の子孫を含む皇族が集落を形成し居住していたようです。息長水依比売について「古事記」には、「近淡海の御上の祝が以ちいつく天之御影神の女」と記されています。この記述から、息長水依比売の父は、近淡海、すなわち琵琶湖東部の坂田で祭祀を司る立場にあったことがわかります。その息長水依比売を娶られたのが、第10代崇神天皇と腹違いの兄弟にあたる彦坐王です。
彦坐王が一目置かれた理由

彦坐王には複数の妃がおり、多くの子が生まれました。その中でも狭穂姫命(さほひめ)は垂仁天皇の前皇后になられました。また、彦坐王と息長水依比売との間には、丹波国の祖とされる丹波道主命が生まれ、その娘、つまり彦坐王の孫にあたる比婆須比売命(ひばすひめ)は、後に垂仁天皇の後皇后となりました。その系譜から、垂仁天皇には皇子として日本武尊の父となる第12代景行天皇が、また、皇女として倭姫命が生まれます。つまり倭姫命は、息長水依比売を祖とする祭祀という聖職者の家系を受け継ぐとともに、垂仁天皇の皇女でもあったのです。また、彦坐王と袁祁都姫命(おけつひめ)との子孫からは、2世紀、坂田の地域を治めたとされる息長宿禰王(おきながのすくねのみこ)が登場します。息長宿禰王は、神功皇后の父王と伝えられる人物であり、坂田の地と皇室とのつながりを考えるうえでも注目される存在です。
彦坐王御自身は、異母兄弟の崇神天皇が第10代天皇として即位したため、皇位継承の中心からは外れることとなりました。しかし、第11代垂仁天皇の皇后は彦坐王の子孫から輩出され、そこから景行天皇と倭姫命が誕生します。さらに、その家系から日本武尊や第13代成務天皇以降の歴代天皇へと皇統が受け継がれていきました。
また、彦坐王の曾孫である息長宿禰王は、神功皇后の父王と伝えられています。つまり、第14代仲哀天皇と、その皇后となる神功皇后は、双方が彦坐王の家系から輩出されていたことになります。それゆえ、「古事記」において彦坐王の系譜は、孫から曾孫、さらには玄孫に至るまで詳しく記載され、開化天皇記の半分以上が彦坐王に関する記述によって占められていることからも、「古事記』の編纂において、彦坐王が極めて重要な皇族として位置付けられていたことがうかがえます。また、彦坐王の名前には、「記紀」において初めて、「王」という称号が用いられている点も注目に値します。
このように近淡海に隣接する坂田の地には、祭祀を担う息長水依比売の家系と、彦坐王につながる皇族の系譜が重なっています。そして、その系譜を受け継ぐ比婆須比売命を母とする倭姫命は、父である第11代垂仁天皇の命に従って、元伊勢御巡幸という大いなる任務を果たされました。天皇家にとって最も貴重な神宝を託され、それを奉じながら、親族ゆかりの地である坂田へと旅を続けられたのです。長い年月に及ぶ御巡幸の中でも、坂田宮への道のりは倭姫命にとってひときわ感慨深いものであったのではないでしょうか。その御巡幸地は御自身の祖先と深い縁で結ばれた土地でもありました。だからこそ、魂を潤す大切な故郷の地、坂田宮では、約二年にわたり滞在され、この地で神宝を奉斎しながら、大切な日々を過ごされたものと考えられます。
皇室の歴史とも深く関わる由緒に満ちた坂田宮ですが、その貴重な聖地が今日、無造作に分断された状況にあることに驚きを隠せません。明治23年、当時の国鉄と行政による歴史的価値への配慮を欠いた判断により、坂田宮の境内を横切る形で北陸本線のレールが敷かれてしまったのです。その結果、坂田宮社殿はやむを得ず、同一敷地内での移転を余儀なくされました。なぜ、このような皇室ゆかりの貴重な歴史的遺産を後世へ伝える形で守ることができなかったのか。その経緯を思うと、深い無念を感じずにはいられません。
坂田宮のルーツに潜むユダヤの可能性
坂田宮は、坂田神明宮、坂田大神宮とも呼ばれています。古くから元伊勢の伝承地として知られ、天照大御神を祀る坂田宮と、豊受毘売命(とようけびめのみこと)を祀る岡神社の2社が鎮座しています。伊勢神宮の内宮と外宮になぞらえる形で、坂田神社を内宮、岡神社を外宮として人々が参拝してきたことから、いつしか「坂田宮岡神社」とも呼ばれるようになりました。「古事記」によると、岡神社で祀られている豊受毘売命は、伊弉冉命の系譜につながる神として記され、のちに伊勢神宮外宮の御祭神である豊受大御神と同一神として信仰されました。
豊受毘売命は穀物、農耕、御食津(みけつ)をはじめとする衣食住に纏わる神として古代より崇められ、天照大御神の神饌を司る神としても知られています。神名に含まれる「ウケ」という言葉は、食物を意味するとされ、「受」という名を含む豊受毘売命が、食物を司る女神として崇敬されていたことに繋がります。坂田宮の社伝によれば、岡神社の創始は宇賀野魂命(うかのみたまのみこと)の降臨による五穀豊穣の守護から始まったと伝えられています。また、地域に広まった「宇賀野」という地名も、その神の名に因んだものとされています。
さらに、岡神社で祀られている豊受毘売命と宇賀野魂命は、「同性格の五穀の神」とされ、「ウケ」「ウカ」という名称はいずれも食物と深く関わる神名として受け継がれてきたものと考えられます。倭姫命が坂田の地を訪れた際、神田が献上され、後世には伊勢神宮に奉納する神饌が坂田にて調進されるようになったと伝えられています。その背景には、岡神社が古くから食物に関わる信仰の場として重要視されてきたことがあったのではないでしょうか。今日、岡神社は坂田宮の境内に遷され、坂田宮に合祀されています。
岡神社の名称の由来については、現在のところ明確には伝わっていません。しかし、岡神社の創始が宇賀野魂命の降臨と関わっていたという社伝の内容を踏まえると、古来、「受」「宇賀」「岡」の読みは同一であった可能性も考えられます。豊受姫命と同一視される宇賀野魂命がこの地に降臨されたのを機に、まず神社が建立されたと伝えられています。そして時代を経て近隣に坂田宮が建立されると、宇賀魂野命を祀る神社は外宮として位置付けられ、天照御大神を祀る坂田宮は、その内宮として、人々の信仰を集めるようになったのではないでしょうか。そして、長い年月の中で「宇賀」という言葉が音の変化によって「オカ」と発音され、「岡」とも表記されるようになったことで、宇賀野魂命を祀る神社が岡神社と呼ばれるようになったのかもしれません。
豊受姫命は「神楽歌」の中では「止与遠加比(とよおかひ)」と記されることもあり、「受」の読みが「ヲカ」となっている例が見られます。また、「尾張国風土記」では豊受姫と豊岡姫が同一視されています。さらに、「大殿祭祝詞」には、豊宇気姫命が宇賀能美多麻として記載され、「ウケ」「ウガ」、「オカ」という読みが随所に混在して用いられています。このような史料を見ると、「岡」「宇賀」「受」という名称は、古くから、同一の神格に由来する呼称として用いられていた可能性が高いのです。
ヘブライ語で理解する「ウケ」と「すくね」
一方、「受」「ウケ」、もしくは「ウガ」という言葉を、元来ヘブライ語であったと考えると、一連の祭神名を別の視点から理解することもできます。ヘブライ語にはאוחד(uhkha、ウカ/ ウガ)という言葉があり、統一、一体、ひとつとなることを意味します。この解釈に立てば、宇賀魂とは、ひとつの魂となることを意味し、宗教的にも大切な意味を持つ言葉となります。さらに、「岡」の読みが「宇賀」、「ウカ」に由来すると仮定するならば、岡神社の名称も同様に、統一された神社、ひとつの神社、または唯一神の神社という意味になります。そう考えると、外見上は内宮、外宮とに分かれている神社が、実は両社が一体となって全体を成す、統一神社であるという解釈も成り立ちます。
もちろん、このような解釈は一般的な神名研究や日本語語源説とは異なる一つの仮説です。しかし、坂田宮と岡神社の成り立ちや両社の関係性を踏まえるならば、岡神社の「岡」「ウカ」という名称がヘブライ語に由来している可能性についても、一つの視点として検討する余地があるのではないでしょうか。
さらに、坂田の地を古くから治めていた息長宿禰王の名前についても、「宿禰(すくね)」がヘブライ語に由来している可能性があります。一般的には、宿禰は古代の姓(かばね)のひとつとされていますが、その語源や本来の意味についてはほとんど言及されてきませんでした。しかし、日本語としては意味の無い「すくね」という語でも、ヘブライ語との関連を仮定すると、新たな解釈が明確に浮かび上がってきます。
宿禰は、ヘブライ語のסוכנת(sokhenet、ソケネ)に宿禰の漢字を当てた言葉だったと考えられます。「すくね」に近い響きを持つ「ソケネ」は、ヘブライ語で管理者、エージェント、使いの者などを意味する語です。この解釈に立てば、上からの命により土地を管理するために遣わされた者、すなわち地域の管理者、領主をも意味するヘブライ語の言葉だったと見ることもできます。それゆえ、古代において、優れた功績をあげ、人々を統率する立場にあった人物に対し、「宿禰」という尊称が与えられるようになったと考えることもできるのではないでしょうか。
宿禰に用いられている「宿」という漢字は、うかんむり(宀)の下に「百」と「人」が組み合わされており、屋根の下に多くの人が集まる状況を象徴している文字とも解釈できます。古代、西アジアでは、ローマ帝国の影響下において「百人隊長」という言葉が用いられていたように、大勢の人々を編成し、統率する仕組みが存在していました。「新訳聖書」にも百人隊長、百卒長という言葉が頻繁に登場します。古代の日本社会においても、人々を管理する立場にあったリーダーが存在し、そのような人々が「スクネ」と呼ばれていたとするならば、その名称に「宿」の漢字があてられたと想定しても不思議ではありません。
一方、「禰」は、神が依りつく神代や、その神聖な地域を表す字として用いられることがあります。すると、「宿」と「禰」を組み合わせた「宿禰」という表記には、「神が依りつく地域に住む人々を統治する者」という意味が込められていた可能性も考えられます。このような解釈に立てば、大勢の人々が居住する集落や地域において、統治を命じられた者が、ヘブライ語で管理者を意味する「ソケネ」と呼ばれ、すなわちそれが「宿禰」という名称に繋がったという見方も成り立ちます。
「宿禰」という言葉は1世紀前後には、竹内宿禰のように大勢の人々を従える権力者や貴人を言い表す尊称として広く知られるようになりました。そして後には、「連(むらじ)」の姓を持つ天神、天津系の子孫とされる神別氏族にも与えられるようになります。後述するとおり、天津系の子孫は元来、古代イスラエルの祭司一族であったレビ族の血統を継いでいる可能性があります。レビ族は宗教儀式を司ることを使命とし、神事に携わることを許された唯一のイスラエルの部族として知られています。このような背景を踏まえると、日本列島に移住した後も、各地で宗教儀礼や祭祀を広め、その継承に努めたと考えることもできます。そして、そのレビ族の末裔が天津系の民として知られるようになり、地域の祭祀や統治を担う立場にあったことから、「宿禰」という尊称が与えられるようになったという見方も成り立ちます。
古代聖地を結ぶ坂田宮のレイライン

皇族の歴史と深く関わる由緒ある土地柄でありながら、琵琶湖東部の湿地帯という、立地条件に恵まれているとは言い難い地域の一角に建立されたのが坂田宮です。だからこそ、その場所があえて選ばれた背景には、何らかの重要な意味が含まれているに違いありません。もし、日本列島の重要な聖地を結ぶレイラインが交差する地点と坂田宮の所在地が一致するのであれば、たとえ湿地帯の真ん中であっても、古代、この地に神社が建立された理由が見えてきます。そして、その推理を裏付けるかのように、坂田宮の聖地は、まさにレイラインが交差する地点に位置していたのです。
特筆すべきは、琵琶湖東岸近くに建立された坂田宮が、北緯35度20分に位置していることです。この緯度は、富士山頂付近、今日の宝永山に近い山頂南側の地点とほぼ一致します。この一致が意図的なものであったとすれば、坂田宮の建立地を選定する際、まず、富士山頂と同緯度に位置する場所であることが重視された可能性があります。
富士山と共に、もうひとつの指標として浮かび上がってくるのが、滋賀県最高峰として標高1377mを誇る伊吹山です。伊吹山は古代より霊山として知られ、「日本書紀」において、日本武尊が東征の帰路、この山の神の祟りによって倒れるという神話が記されていることでも有名です。琵琶湖の北東に聳え立つ伊吹山は、周辺の山々よりもひときわ高く、その山頂は琵琶湖の西方からだけでなく、東方の岐阜方面からも望むことができます。それゆえ、古代においては、東西双方から位置を定めるための格好の指標となるに相応しい山だったのです。そして、この伊吹山が元伊勢のレイラインを読み解く上で、極めて重要な役割を果たすことになります。
元伊勢の御巡幸地は、その大半が四国の聖地である剣山とレイライン上で繋がっていますが、坂田宮もその例外ではありませんでした。坂田宮を元伊勢となる聖地群と結び付けるためには、剣山と伊吹山という2つの霊山を結ぶレイラインが大きな意味を持っていたと考えられます。そして、そのレイラインが富士山を基準とするレイラインと交差する地点に、坂田宮は位置しているのです。加えて、この剣山と伊吹山を結ぶレイラインは、その南方において九州の日向を通り抜けます。前述したとおり、古代の日向は宮崎市の北部周辺にあったと考えられます。こうして、日向と剣山、坂田宮、そして伊吹山は一本のレイラインによって結ばれ、坂田宮は列島最高峰の富士山頂とも結び付けられます。こうした配置は、坂田宮が古代の聖地として重要な位置付けを担っていた可能性を示しているのではないでしょうか。
また、四国にある2つの岬も、坂田宮の位置を考える上で重要な指標となっていた可能性があります。高知県の太平洋岸には室戸岬があり、これら視認性の高い岬は古代の海洋航海において航路を定めるための目印として用いられていました。その室戸岬と四国最東方の蒲生田岬を結ぶと、この線も坂田宮を通り抜けます。こうして航海する人々は、陸地へ到達する前に、どの方角に坂田宮が存在するか、海上から見極めることができたのです。さらに、諏訪大社前宮と宇佐神宮を結ぶレイラインも存在します。坂田宮はその中心線より3kmほどずれていますが、広範囲にわたる長距離のラインであることを考慮すれば、誤差の範囲と考えることもできるでしょう。
これらレイラインの検証から、坂田宮の存在意義について、いくつかの重要な点を見出すことができます。まず注目すべきは、坂田宮が日本列島最高峰の富士山と同緯度に位置している点です。この一致は坂田宮の建立地を定める上で、富士山との関係が重要視されていた可能性を示しています。富士山は日本列島の最高峰として、古代より特別な存在として認識されてきました。その富士山に結び付けられる場所である坂田宮は、神に最も近い神聖な富士山を常に意識できる聖地として考えられていたのではないでしょうか。
次に注目すべき点は、日向と剣山、伊吹山を結ぶレイライン上に坂田宮が置かれていることです。この位置関係は、元伊勢の御巡幸地、坂田宮が天孫降臨を象徴する聖地とされる日向と、剣に象徴される聖山である剣山、そして古代の霊山である伊吹山と、深く結び付いていることを意味します。元伊勢の御巡幸地では、剣山との関係が最重要視されていたと考えられます。それまでのレイラインの指標として用いられることが少なかった剣山が、元伊勢の御巡幸が始まった時期を境に、レイラインの重要な基準点として意識されるようになったとすれば、それは単なる偶然ではなかったのかもしれません。また、その剣山とレイライン上で結び付けられた伊吹山が当時、元伊勢の御巡幸において重要な指標として位置付けられていった点も注目されます。その後、伊吹山を基準とすることで、坂田宮以降に続く元伊勢の地は見出されていくことになります。
坂田宮に関わるレイラインは富士山と剣山をはじめ、九州の宮崎、日向の地とも結びついています。天孫降臨の地として知られる日向と、剣山、富士山が交差するということは、坂田宮が天皇家の歴史と深く結び付いているだけでなく、元伊勢の御巡幸に伴う神宝とも深く関わっていたことを示しています。四国の剣山や伊吹山、富士山という霊山とレイライン上で結ばれる坂田宮は、日本列島の各地に存在する地の力を受ける場所として、複数の重要なレイラインが交差する琵琶湖東岸の地に選ばれたとも考えられます。剣山と一直線上に結ばれる聖地のひとつとして、坂田宮は元伊勢に込められた意味を後世へ伝える場所として、その建立地が慎重に選定されたのではないでしょうか。そして今、これまで見過ごされてきた坂田宮の位置に秘められた謎が、紐解かれようとしています。
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