
倭姫命による元伊勢御巡幸とは、大切な神宝を携え、多くの従人を伴って列島内の諸国を巡る旅です。付き添い人の大部分は女性であったとされるため、旅の険しい難所は避ける必要がありました。それゆえ、元伊勢の地は、必然的に水源に恵まれた川沿いの平野部に位置することが多く、周辺の地勢からも把握しやすく、なおかつ、複数のレイラインが交差する地点が厳選されたのではないでしょうか。坂田宮で2年に及ぶ滞在を終えた御一行は、満を持して琵琶湖近くの拠点を後にし、東方の美濃国を目指しました。北に伊吹山、南には霊仙山を望みながら、山麓を東に進み、35kmほどの道のりを経て、木曽川の支流である長良川に辿り着いたのです。そこで一行の目に映ったのは古代の波止場町でした。
伊久良河宮の比定地となる安八町
古代、岐阜の長良川沿いには巨大なデルタが形成され、広大な湿地帯が広がっていました。そのデルタの要衝である地に、次の元伊勢となる伊久良河宮の聖地が見出されたのです。その地は、琵琶湖東岸の坂田宮とほぼ同緯度であり、周辺の地勢に目を向けると、西方には伊吹山へと連なる山脈が続き、北方全体も岐阜の山々に囲まれています。そして、それら山々の北側には日本海が広がっています。この地理的条件を考えると、御巡幸がそこからさらに北へ向かう理由は、もはやなかったのでしょう。
今日では安八町と呼ばれる長良川沿いの地域に、宇波刀神社と名木林神社が1.8kmほどの間隔で建立されています。そして、両社には、それぞれ伊久良河宮の伝承が残されています。長良川は木曽川と同じく、古くからたびたび河川氾濫に見舞われてきたため、これらの神社は余儀なく遷座を繰り返してきました。そのため、元の鎮座地がどこにあったのか、今日ではわからなくなってしまったのです。しかしながら、長良川沿いが重要な信仰の地であったことは、河川沿いに多くの神社が残されている読み取ることができます。宇波刀神社から名木林神社までは歩いて30分ほどの距離ですが、その間だけでも、六社神社、大県神社、金峯神社、八幡神社、秋葉神社と呼ばれる5社が建立されています。一方、この枠から外れると、北方1.8kmには浅間神社1社しかなく、南方には社宮神社と白髭神社、そして1.9km離れている秋葉神社の3社しかありません。このような神社の分布を踏まえると、宇波刀神社と名木林神社に挟まれたエリアが、古代において特に重要な祭祀空間として認識されていた可能性が考えられます。
さらに、伊久良河宮の周辺が水運の要衝であったことは、次の巡幸地である中嶋宮において、船が一隻、献上されたという記録からも理解することができます。倭姫命世記には「美濃国造等、舎人市主・地口御田を進る。並びに御船一隻を進りき」と、記されています。この記録から、伊久良河宮から中嶋宮までは船で移動し、その出発点となる伊久良河宮の波止場では船の建造や整備が行われていたことも十分に想定できるのです。実際、古代の美濃国では、周辺の湿地帯に大きな河川が流れ、船を交通手段として用いながら川を往来していたことでしょう。これらの河川は、長い年月の間に合流と分流を繰り返し、今日では木曽川水系に属する一級河川、長良川へと姿を変えています。
比定地の有力候補となる宇波刀神社
長良川は伊勢湾に注ぐ木曽川に合流しており、その地点は美濃国と尾張国の境に位置する河川沿いの三角洲を形成していました。この一帯は河川を利用した水運だけでなく、川を渡って東西を往来する交通の要衝でもありました。このように、陸路と水路が交わる結節点であったことから、河川が合流する周辺は、古くから船着場を中心とする集落として発展を遂げ、そこに伊久良河宮が建立されたのでしょう。「倭姫命世記」によれば、倭姫命の御一行は、その伊久良河宮に4年間滞在した後、長良川を船で下り、次の巡幸地である中嶋宮において船一隻の献上を受けています。そのため、倭姫命の滞在中に伊久良河宮の近郊で、少なくとも一隻の船が造られた可能性があります。こうした地理的条件や伝承を総合すると、その伊久良河宮の比定地として最も有力視されるのが、宇波刀神社です。
地域の歴史に詳しい愛知大学教授であった安藤氏によると、「宇波刀」という名称は、「宇(海)」と「波刀(はと)」の複合語であるとされています。「う」は大きいこと、「はと」は泊、波止場を意味することから、合わせて「大きな波止場」を表す地名と解釈されています。この語源に着目すると、伊久良河宮はその名称が示すとおり、河川沿いに建立された船着場の宮であったと理解できます。以上を踏まえると、長良川沿いの大規模な船着場周辺に存在した伊久良河宮が、後世になって宇波刀神社と呼ばれるようになったと推測されます。その交通と水運の要衝であった船着場の集落に、倭姫命の一行が到来したのです。
宇波刀神社が元伊勢の聖地である理由
長良川沿いに建立された宇波刀神社が元伊勢の聖地である理由は、その地域が交通の要衝であったことだけでなく、その歴史的背景からもうかがうことができます。倭姫命が安八町の宇波刀神社に立ち寄られたという伝承については、宇波刀神社の由緒に、「倭姫命は、天照大神を奉戴し近江国から美濃国の伊久良河宮に四年間御滞在になり、尾張国にお移りになる途中お立寄になった由緒深いお社」と記されています。他社への配慮でしょうか、宇波刀神社では伊久良河宮の比定地であることを明記するのではなく、「お立寄になった」という表現にとどめることで、倭姫命ゆかりの史跡として伝えています。
由緒によれば、かつての本殿は瓦葺屋根丸柱造りという伊勢神宮の社殿造りを踏襲した神明造りでした。そして江戸時代初期には境内近くの堤外に「皇太神宮」と呼ばれた木製の燈明と大檜があったと伝えられており、元来は内宮と外宮とに分かれていたとされています。宇波刀神社の祭神は、天照大御神、豊受大神、気津御子神、そして倭姫命です。また、本殿に保存されている二面神鏡には、その中央に「宇波刀神社」、右に「伊久良河宮」、左に「内宮」と記されています。現存する棟札にも「伊久良河宮」という記述が見られ、「美濃国古蹟考」「美濃明細記」「安八町史」においても、宇波刀神社を伊久良河宮の比定地として紹介されています。
神社の近隣は古代の物部郷であり、物部明神を祀る神社や、物部氏を祖神として祀る大縣神社も存在することから、この地域一帯において物部氏が多大なる影響力を持っていたことがわかります。さらに、宇波刀神社の周辺からは多くの弥生土器と土錘が発掘されています。本稿で考察してきたように、物部氏のルーツは、西アジア、イスラエルからの渡来した人々の中でも、祭司の役目を担っていた宗教色の濃いレビ族と何らかの関わりを持っていた可能性があります。そうした視点に立つならば、物部氏が名実ともに取り仕切っていた安八町、宇波刀神社周辺の地は、まさに神宝を守護する重責を担っていた倭姫命の御一行にとって、大きな心の拠り所となる聖地として映ったことでしょう。
加えて、宇波刀神社が坂田宮のほぼ真東に位置していることも見逃せません。つまり、坂田宮から真東に進むと長良川の浜辺に至り、その近隣に宇波刀神社を見出すことができることから、旅の指標としても絶妙の位置にあったと考えられます。厳密には、坂田宮から真東の地点は宇波刀神社と名木林神社、2社のちょうど中間にあたります。しかし、両社は古代より遷座を繰り返してきたと伝えられているため、その近郊に伊久良河宮の拠点があったという可能性が十分に考えられます。
名木林神社と天神神社も比定地か?
宇波刀神社の下流に建立された名木林神社は、古くは神明社とも呼ばれ、宇波刀神社と並んで伊久良河宮の有力な比定地候補として知られています。名木林神社の由緒には造船との深い関わりが記されており、伊久良河宮を考察するうえで注目すべき点です。垂仁天皇の時代、船が献上されたという伝承は名木林神社の由緒にも記載され、今日まで語り継がれています。そこには、当時の経緯が具体的に記されています。その概要は、次のとおりです。
「皇女倭姫命が天照大御神をお祀りする良い場所を探して各地を御巡幸され、美濃国へもお越しになりました。この際、県主から船二隻が献上されましたが、その船は港近くにあった大木の生えた林の木にて造られました。倭姫命は、その船にて尾張へと行かれ、最終的に伊勢の地に天照大御神をお祀りになられましたが、船の木を調達した林には、倭姫命の御安全を祈願して神社が祀られました。当時、この地は波打ち際を表す「ナギハヤ」と呼ばれており、船にする良い木の林があったことに因んで、「名木林」の字が当てられ、「名木林明神」と呼ばれるようになった。」
この由緒からは、名木林神社が船の献上という歴史的な事業に大きく貢献した神社であったことが理解できます。また、その近隣にて船が造られた可能性が高いことがわかります。こうした伝承と立地条件を踏まえると、名木林神社周辺は伊久良河宮の比定地候補として検討するに値する場所であると考えられます。
伝承地のひとつとして、瑞穂市居倉には天神宮とも呼ばれる天神神社があります。そこでは神世七代の神々が祀られ、主神は伊弉諾命、伊弉冉命とされています。その境内にある小祠のひとつには、倭姫命も祀られています。また、境内には椅子のような形をした幅1mほどの石が一対、向かい合うように置かれています。天照大神の御舟代として祀られているとされるこの「みふな石」は、倭姫命の御腰掛であり、神石の前に茂る榊は倭姫命自らが植えられたものであるとも言い伝えられています。さらに境内の東方には、倭姫命が水を汲まれたと伝わる井戸も残されており、この地における倭姫命ゆかりの伝承の厚さをうかがうことができます。
天神神社がある地は古くから「居倉」と呼ばれ、その「いくら」という名前が「伊久良」と同じ読みであることも、偶然の一致とは思えません。これを直ちに結び付けることはできないものの、伊久良河宮を考察するうえで注目すべき要素の一つといえるでしょう。さらに、天神神社の東方、今日の美江寺駅辺りは、かつて船木村とよばれ、海洋族で名高い船木一族の拠点であったと伝えられています。これは、地域一帯が船の建造、河川、海洋交通に深く関わっていた場所であったことを示唆しています。これらの伝承や地名、地域の歴史的背景を総合的に考えると、天神神社も伊久良河宮、ひいては元伊勢であった可能性も、否定できません。
日本の古代海上交通を仕切る船木氏
古代、伊久良河宮から次の元伊勢である中嶋宮へは、交通手段として船が利用されたと伝えられています。前述のとおり、長良川沿いの名木林神社周辺には船の建造に関わる伝承が残されているだけでなく、倭姫命一行が川を下って中嶋宮へと向かい、そこで一隻の船が寄贈されたことが「倭姫命世記」に記されています。このことは、岐阜の内陸部から伊勢方面へ向かう旅において、水路が重要な役割を果たしていたことを示すものです。大和国の笠縫邑から伊久良河宮へ至るまでの元伊勢御巡幸が主に陸路であったの対し、それ以降の伊勢までの旅には水運が積極的に活用されたと考えられます。これは、御巡幸の旅の形態が、この地を境に大きく変わったことを示す重要な転換点といえるでしょう。
その船旅の出発点となる伊久良河宮の周辺において、造船技術や資金力を背景として、古代社会で多大な影響力を及ぼしたのが、海洋豪族として名高い船木氏です。宇波刀神社の真北、15kmほどの場所には、弥生後期から古墳時代にかけての遺跡群で知られる、標高116mの船来山が存在します。当時、この山は長良川の上流に浮かぶ、小高い丘にしか見えないような小さな島であったと考えられ、船でしかアクセスできないだけに地域の要所となっていたのでしょう。周辺地域は船木氏一族により統治され、その象徴的な存在である小山はいつしか「船来山」と呼ばれるようになりました。
船来(ふなき)は、船木、または舟木とも表記され、いずれも同じ読みの当て字です。「ふなき」の地名は日本各地に見られ、特に海岸沿いや水運と関わりの深い地域に存在します。それは、古代社会において、船木一族が船舶の製造や航海技術を携えるとともに、海洋航海において多大なる貢献をしてきたからに他なりません。その船木氏の祖が古代、長良川の上流に一大拠点を築いていたとすれば、当地において船の建造に携わり、なおかつ、元伊勢の御巡幸に際して船を献上するなど、水運面で支援した可能性も考えられます。そして、その後の倭姫命御一行の船旅についても一手に引き受けて、船木氏が各地への移動を最後まで援護したと考えられるのです。
船木氏についての記述は、「住吉大社神代記」の中に見ることができます。住吉大社は航海の守護神と深い関わりのある国家的な聖地として、古くから朝廷の厚い崇敬を受けていた重要な神社です。古代の船旅は極めて危険であったため、より丈夫な船を造るには良質な樹木を確保することが大切でした。そのため、住吉神らは造船に用いる木材を杣山にて保有し、適した樹木を選んで伐採していました。伐り出された材木は、造船だけでなく、神社の造営や改築にも用いられていたのです。その杣山の管理や造船を担っていたのが大田田神とその後裔一族であり、彼らは優れた造船技術と航海技術を受け継ぐ海洋集団として活躍しました。そして、この一族は後に船木氏と称されるようになったと伝えられています。
船木氏は航海技術だけでなく、葬送儀礼にも深く関わった一族であったと考えられます。「住吉大社神代記」の「胆駒神南備山本記」には、船木氏の祖、大田田神が天照大神の船による護送したことを記念し、木造船と石造船の2艘を造り、胆駒山の長屋墓には石船を、白木坂の三枝墓には木船を納めたことが記されています。この記述から、船木氏は単に優れた造船技術を有する海洋豪族であっただけでなく、葬送儀礼や墓制にも重要な役割を担っていたことがうかがえます。まさにそのような伝統を受け継ぐ一族が当地に拠点を置いていたとすれば、船来山に多くの古墳が築かれるようになった背景にも、船木氏の存在が関わっていたことも十分考えられます。
その後、神功皇后による新羅征討の時代になると、大田田神の子である神田田命は自らが領有していた「椅鹿山」とも呼ばれる杣山の樹木を伐り出し、住吉大社へ寄進しました。その木材を用いて3隻の船が造られ、神功皇后に献上されたと伝えられています。神功皇后はその船に乗り新羅へと遠征し、後日、武内宿禰により、船は祀られることになります。また、新羅征討の際に献上した船の出来栄えが素晴らしかったことから、その功績が認められ、一族はそれを機に、「船木」「鳥取」の2姓を賜ったと伝えられています。こうして船木氏は、各地で船司や津司を務めながら海上交通を支える重要な役割を担い、全国で海洋豪族として知られるようになりました。そして後世では、船木郷において遣唐使船も造られるなど、その優れた造船技術は長く受け継がれていったのです。
船木の地名は、元伊勢の終着地である伊勢にも残されています。瀧原宮が鎮座する渡会郡に隣接する多気郡には、現在も三瀬谷駅の南側に「船木」の地名が残っています。「住吉大社神代記」によると、神田田命の孫にあたる伊瀬川比古(いせつひこ) 命は、「伊西国の船木に坐す」と記されています。この伊西とは今日の伊勢を指すと考えられており、この記述からも船木氏の拠点が伊勢国に存在していたことがわかります。もし、元伊勢御巡幸の一行と伊久良河宮にて合流した船木氏の祖が、宮の周辺で造られた船に乗り、倭姫命の御一行と共に伊勢に向けて南下したのであれば、新天地を目指した結果として伊勢に拠点を見出したのではないでしょうか。こうした経緯をたどると、古代、船木氏と呼ばれる一族の祖は、長良川流域から木曽川下流を経て、伊勢湾沿岸へと活動範囲を広げ、最終的には伊勢にまで至り、そこに拠点を築いて繁栄したと考えることができます。そして、その足跡は現在も「船木」という地名や、「住吉大社神代記」の記述の中に伝えられているのです。
船木氏一行が播磨国へ
この一連の流れの背景には、倭姫命による元伊勢御巡幸があったことは、言うまでもありません。そして、倭姫命御一行に随行して伊勢へ向かった船木氏は、伊勢を拠点とする一族として知られるようになります。しかしながら、その後、船木氏の多くはなぜか、紀伊国にて住吉の神「天手力男意気続々流住吉大神」を祀った後、播磨国へ移住したようなのです。神宝を携えて伊久良河宮から航海してきた船木氏の一行だからこそ、その足跡には重大な意味が秘められているように思われます。こうした船木氏の動向をたどることで、元伊勢の意義と神宝の行方について、さらに理解を深めることができます。

弥生古墳の宝庫となる船来山
船木氏が古代、美濃国で拠点とした場所が、濃尾平野の北端、伊久良河宮の北方にあたる船来山の周辺でした。船来山では、これまで3世紀から7世紀にかけて築造された古墳が多数発見されており、東海地方最大級の古墳群として知られています。古墳は船来山周辺に全長2km、幅600mほどの範囲に分布し、それらの築造年代は、前方後円墳が盛んに造られた時代と一致しています。これまで291基の古墳が確認されており、周辺一帯には、まだ発掘されていないものも含めると、総数は840基に及ぶとも言われています。
中でも3~4世紀に築造された古墳は、これまでに10基しか確認されておらず、大半が6~7世紀のものです。形状はいずれも円墳で、大きさは直径15mの大型円墳を核とし、その周辺に直径10mほどの円墳が数多く分布しています。こうした古墳の分布状況や築造年代の特徴から、これらの多くは、旧来からこの地に居住していた豪族の墓ではなく、新たに地域へ流入した人々の墓であると考えられています。
船来山の古墳群は渡来系か
船来山の円墳は、横穴式石室を備えるものが多く、その大半は6世紀前半以降に造られたと考えられています。これらの石室には特徴があり、片袖式の構造や床面に段差をつけたものが多く見られるという特徴があり、注目されます。また、古墳時代後期6世紀頃に造られた、石室の中をベンガラで赤く彩色した「赤彩古墳」も複数発見されています。そして、これらの古墳の横穴式石室は、朝鮮半島、九州北部、畿内の百済系の横穴式石室と類似点が指摘されています。そのため、一須賀古墳群と同じく、船来山を拠点とした氏族は渡来系の集団に属していた可能性が高いと考えられます。
縄文時代から弥生時代にかけて、特に前1世紀以降は、多くの渡来人が大陸から列島に渡ってきたと推測されています。渡来系の豪族として著名な秦氏に限らず、その後も移民の波は続きました。例えば、7世紀には百済人700余名が琵琶湖の南東部に居住し、すでに渡来者が暮らしていた地域に、新たに参入しています。「続日本紀」(715年)によると、尾張国から新羅人74家が船来山南方の本巣郡東部に移住し、席田郡が新設されたことも記録に残っています。船来山や伊久良河宮の周辺では、古代において河川の氾濫が繰り返されていたことから、治水や土木、海洋技術に長けた渡来系部族が率先して移住、配置され、古くから渡来人の集落が形成されたことでしょう。その傾向は、特に5~6世紀以降に強まり、その結果として船来山では多くの古墳が築造されるようになったと考えられます。こうした歴史的背景や考古学的な特徴を踏まえると、船来山の古墳群も渡来系集団と深い関わりを持つ人々によって築かれた可能性が高いことが示唆されます。
船来山古墳の貴重な出土品の数々
船来山からは、多くの遺物が発掘されていることにも注目です。昭和42年には24号墳が発見され、大きな刀や鏡5枚、そして副葬品も多数出土し、話題を呼びました。また、97 号墳からは「方形革綴短甲」と呼ばれる鎧が、ほぼ原形をとどめた状態で発掘されています。これらの遺物の多くは、小河川沿いに広く分布しており、周辺一帯が湿地帯であったため、徐々に農耕生産に携わる集落が平野部に向けて形成されていったと推測されます。さらに、伊久良河宮の方角にあたる船来山南麓からは、縄文時代早期から弥生時代に至るまでの土器や石器など、多数の遺物が出土しています。このことからも、船来山の歴史は、古墳時代や、元伊勢御巡幸の時代である1世紀前後をはるかに遡り、長い年月にわたって人々の営みが続いてきた地域であったことがわかります。
船来山は、かつて河川に囲まれた湿地帯に位置したため、海上交通を担った船木一族にとって、この地域は統治しやすい環境であったと考えられます。そして、いつしか大湿地帯の中に浮かぶ船来山へも船で行き来するようになり、元伊勢御巡幸の時代には、そこに一大拠点を築いていたと考えられます。それゆえ船来山は船木氏の拠点として、重要な品々を収蔵するための特別な領地として用いられたのではないでしょうか。そう考えるならば、元伊勢御巡幸の際には、船来山が神宝の秘蔵場所として用いられていたのかもしれません。そして長良川の流域に浮かぶように存在したその小山は、いつしか「船来山」と呼ばれるようになったのです。
倭姫命の御一行が伊久良河宮を離れて中嶋宮に向けて南下した際、神宝もまた船によって運ばれることになりました。その護衛と航海を務めたのが船木氏であり、やがて船木氏は船来山を去ることになったと考えられます。そして、船来山では船木氏に代わるように、古墳時代を通じて主に渡来系の人々により、墳墓が造られるようになったと推測されます。その結果、多くの横穴式石室を備えた古墳が造られることとなり、現在では貴重な遺跡としてその姿を残しています。
これらの背景から、伊久良河宮の比定地は、宇波刀神社や名木林神社の周辺地域に存在したと推定されます。元伊勢御巡幸の背景には、船木氏による多大な貢献があったことがうかがえます。そして、倭姫命がこの地を訪れた際には、新たな船が造られ、その後、船木氏の護衛のもと、倭姫命は船で伊久良河宮から南下し、伊勢へと向かったと伝えられています。後述のとおり、この船木氏こそ、神宝の行方を探るうえで重要な鍵を握る一族です。船木氏の足跡をたどることで、元伊勢御巡幸の意義や、その後の展開と結末が明らかになってきます。
伊久良河宮(宇波刀神社)のレイライン

伊久良河宮の比定地を宇波刀神社とするならば、これまでたどってきた数々の元伊勢と同様に、伊久良河宮もまた剣山を指標に特定された聖地であったと理解することができます。まず注目すべきは、宇波刀神社が富士山頂の南側と同緯度の35度20分に位置していることです。つまり、富士山と同緯度に宇波刀神社が存在し、それが富士山のレイラインとなります。この富士山のレイラインと交差するのが、剣山と諏訪大社下宮を結ぶレイラインです。日本を代表する2つの聖山、富士山と剣山を通り抜ける2本のレイラインが交差する地点に、宇波刀神社が位置しているのです。こうして見ると、宇波刀神社は富士山と剣山の地の力を受け継ぐ場所として、特別な意味を持っていたと考えられます。それは、伊久良河宮が剣山と結び付けられ、元伊勢の一つとして定められる際に、その指標となる聖地との関係性を共有していたことを意味しているのではないでしょうか。
さらに大事なことは、宇波刀神社の真北に船来山の頂上が位置していることです。船来山は前述のとおり、船木一族によって重要な拠点として位置づけられ統治されていたと考えられます。その船来山と宇波刀神社がレイラインによって結び付けられているということは、伊久良河宮の創設後、船木一族がその真北に浮かぶ船来山を、伊久良河宮と深く結び付く重要な場所として認識していた可能性を示しています。このような配置は、単なる偶然の一致とは考えにくく、船来山が伊久良河宮との関係性の中で、特別な意味を持つ場所として選ばれていたことを示唆しているのではないでしょうか。
伊久良河宮の比定地を見極めるためには、元伊勢の地に共通して見られる剣山とのつながりだけでなく、坂田宮からの経路、河川を船で渡る航海技術の有無なども検討する必要があります。宇波刀神社の近郊には、古代における重要な波止場が存在し、造船も行われていたと考えられています。また、この地域と船木一族との関連性も認められます。これらの条件を踏まえると、宇波刀神社は、伊久良河宮の比定地として必要な条件を満たしており、さらに宇波刀神社を通るレイラインの配置も、その可能性を示す一つの要素となっています。
伊久良河宮(天神神社)のレイライン
伊久良河宮の比定地として候補に挙げられる天神神社のレイラインも、重要な指標をもとにして形成されていると考えられます。富士山と出雲の八雲山を結ぶレイラインと、鹿島神宮と宗像大社の沖ノ島を結ぶレイラインが交差する地点に、天神神社が位置しています。また、この場所は、石鎚山と諏訪大社を結ぶ線上にもあります。これは、天神神社が富士山と石鎚山だけでなく、剣などの神宝と深い関わりのある出雲の八雲山、鹿島神宮、沖ノ島とも結び付く場所であることを意味しています。このように見ると、天神神社も前述した宇波刀神社にひけをとらない必要な要素を備えた候補地であることがわかります。しかしながら、剣山との直接的なつながりが見られないことや、坂田宮の緯度線よりさらに北に位置していることなどを考えると、伊久良河宮の比定地としては、あくまで宇波刀神社に次ぐ候補地として位置づけられるのではないでしょうか。







