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2015/02/21

美濃国の伊久良河宮からはじまる元伊勢御巡幸の船旅

宇波刀神社 本殿

倭姫命による元伊勢御巡幸とは、大切な神宝を携えつつ、多くの従人と伴に列島内の諸国を巡る旅です。付き添い人の大部分は女性であり、当然のことながら、旅の難所は避けなければなりません。それ故、元伊勢の地とは、必然的に水源に恵まれた川沿いの平野部に位置することが多くなり、周辺の地勢からもわかりやすく、なおかつ、複数のレイラインが交差する地点が厳選されたのではないでしょうか。2年に及ぶ坂田宮での滞在を終え、満を持して琵琶湖沿いの拠点を後にした御一行は、東方の美濃国を目指し、北に伊吹山、南には霊仙山を見渡しながら、山間のすそ野を真東に向かいました。そして35kmほど進み、木曽川の支流である長良川沿いに辿り着いたのです。そこで目にしたのは古代の波止場町でした。

伊久良河宮の比定地となる安八町

広大な一級河川 長良川
広大な一級河川 長良川
古代、岐阜の長良川沿いは巨大なデルタを構成し、大湿地帯を形成していました。そのデルタの接点となる地に、次の元伊勢となる伊久良河宮の聖地が見出されたのです。そこは琵琶湖東岸の坂田宮と同緯度であり、周辺の地勢を見渡すと、西方には伊吹山に連なる山脈が、そして北方全体も巨大な岐阜の山脈が立ちはだかっています。それら山々の北側は日本海であることから、そこから更に北へ移動する理由は、もはやなかったのです。
今日では安八町と呼ばれる長良川沿いの地域に、宇波刀神社と名木林神社が1kmほど南北に離れて建立されています。そして、それぞれに伊久良河宮と呼ばれた元伊勢の伝承があります。過去、長良川は木曽川と同じく河川氾濫による被害に再三遭遇したことから、これらの神社は余儀なく遷座を繰り返してきました。よって、元地がどこにあったのか、今日ではわからなくなってしまったのです。しかしながら、長良川沿いが信仰の宝庫であることは、河川沿いに多くの神社が残されていることからもわかります。宇波刀神社から名木林神社までは1.8kmほどの距離がありますが、その間だけでも、六社神社、大県神社、金峯神社、八幡神社、秋葉神社と呼ばれる5社の神社が河川沿いに建立されています。その枠から外れると、北方1.8kmには浅間神社1社しかなく、南方には社宮神社と白髭神社、そして1.9km離れている秋葉神社3社しかありません。いかに宇波刀神社と名木林神社に挟まれたエリアが古代から重要視されていたか、神社の建立数からも窺うことができます。

また、伊久良河宮の周辺が水路を活用した交通の要所であることは、次の巡幸地である中嶋宮において、船が一隻、献上されたことからも察することができます。「美濃国造等、舎人市主・地口御田を進る。並びに御船一隻を進りき」と、倭姫命世記には記されています。つまり、伊久良河宮から中嶋宮までは船で移動し、その出発点となる伊久良河宮の波止場では造船が盛んであったと想定できるのです。実際、美濃国では古代、周辺の湿地帯に大きな河川が流れ、船を用いて川を行き来していたことでしょう。その川は古くから合流・分流を繰り返しながら、今日では木曽川に連なる一級河川、長良川へと重なっています。

比定地の有力候補となる宇波刀神社

長良川は伊勢湾に繋がる木曽川に合流するだけでなく、そこは美濃国と尾張国の境となる河川沿いの三角地帯であり、川を渡って東西を行き来する交通の要所でもありました。その陸海、双方の拠点となる河川が合流する周辺は、古くから波止場町として発展を遂げ、そこに伊久良河宮が建立されたのです。倭姫命の御一行は、その伊久良河宮に4年間滞在した後、長良川を船で下り、次の係留地である中嶋宮では、船が献上されました。それ故、伊久良河宮の近郊で、少なくとも一隻の船が倭姫命の滞在中に造られた可能性があります。その伊久良河宮の比定地として最も有力視されるのが、宇波刀神社です。

宇波刀神社
宇波刀神社
地域の歴史に詳しい愛知大学教授であった安藤氏によると、宇波刀という名称は、宇(海)と波刀の複合語であり、「う」は大きいこと、「はと」は泊、波止場を意味することから、合わせて「大きな波止場」となり、伊久良河宮はその名称からも、河川沿いに建立された波止場の宮であったと理解できます。これらを総合して考えると、長良川沿いの大規模な船着場周辺に存在した伊久良河宮が、いつしか宇波刀神社と呼ばれるようになったと推測されます。その交通の要所である波止場の集落に、倭姫命が到来したのです。

長良川沿いに建立された宇波刀神社が元伊勢の聖地である理由は、その地域が交通の要所であるだけでなく、その歴史的背景からも理解することができます。倭姫命が安八町の宇波刀神社に立ち寄られた伝承については、宇波刀神社の由緒に、「倭姫命は、天照大神を奉戴し近江国から美濃国の伊久良河宮に四年間御滞在になり、尾張国にお移りになる途中お立寄になった由緒深いお社」と記されています。他社への配慮でしょうか、伊久良河宮の比定地として明記するのではなく、「お立寄になった」という言葉をもって、安八町の史跡と認定しています。

由緒によれば、昔の本殿は瓦葺屋根丸柱造りという伊勢神宮の社殿造りを堅持する神明造りです。そして江戸時代初期には境内近くの堤外に「皇太神宮」と呼ばれた木製の燈明と大檜があったと言われ、元来は内宮と外宮とに分かれていました。宇波刀神社の祭神は、天照大御神、豊受大神、気津御子神、そして倭姫命も含まれています。また、本殿に保存されている二面神鏡には、その中央に「宇波刀神社」、右に「伊久良河宮」、左に「内宮」と記されています。現存する棟札に「伊久良河宮」という記述が見られ、「美濃国古蹟考」「美濃明細記」「安八町史」でも宇波刀神社を伊久良河宮の比定地としています。

神社の近隣は古代の物部郷であり、物部明神を祀る神社や、物部氏を祖神として祀る大縣神社も存在し、地域一帯において物部氏が多大なる影響力を持っていたことがわかります。さらには宇波刀神社の周辺からは多くの弥生土器と土錘が発掘されています。物部氏のルーツは、西アジア、イスラエルからの移民の中でも、祭司の役目を担う宗教色の濃いレビ族と関連していた可能性があります。よって、その物部氏が名実ともに取り仕切っていた安八町、宇波刀神社周辺の地は、まさに神宝を守護する責務をひたすら背負っていた倭姫命の御一行にとって、心の拠り所となる聖地に見えたことでしょう。

宇波刀神社 本殿
宇波刀神社 本殿
また、宇波刀神社が坂田宮のほぼ真東に位置していることも見逃せません。つまり、坂田宮から真東に進むと、長良川の浜辺と突き当たる地点の近隣に宇波刀神社を見出すことができることから、旅の指標としても絶妙の位置付けと考えられたのではないでしょうか。厳密には、坂田宮から真東の地点は宇波刀神社と名木林神社、2社のちょうど中間にあたりますが、古代より遷座を繰り返していることもあり、その近郊に伊久良河宮の拠点があったという推測が現実味を帯びてきます。

名木林神社と天神神社も比定地か?

名木林神社
名木林神社
宇波刀神社の下流に建立された名木林神社は、元来、神明社とも呼ばれ、宇波刀神社と並ぶ、伊久良河宮の有力な比定地候補として知られています。名木林神社の歴史は造船と絡んでいることから注視する必要があります。垂仁天皇の時代、船が献上された史実については名木林神社の由緒にも記載され、今日まで伝承されています。そこには当時のいきさつが具体的に記されています。内容は以下のとおりです。
  『皇女倭姫命が天照大御神をお祀りする良い場所を探して各地を御巡幸され、美濃国へもお越しになりました。この際、県主から船二隻が献上されましたが、その船は港近くにあった大木の生えた林の木にて造られました。倭姫命は、その船にて尾張へと行かれ、最終的に伊勢の地に天照大御神をお祀りになられましたが、船の木を調達した林には、倭姫命の御安全を祈願して神社が祀られました。当時、この地は波打ち際を表す「ナギハヤ」と呼ばれており、船にする良い木の林があったことに因んで、「名木林」の字が当てられ、「名木林明神」と呼ばれるようになった』

この記述から名木林神社は、船の献上という歴史的な事業に大きく貢献した神社であり、その近隣にて船が造られた可能性が高いことがわかります。それ故、伊久良河宮の比定地候補として掲げることができます。

伝承地の中には、天神宮とも呼ばれる天神神社も瑞穂市居倉に存在します。そこでは神世七代の神々が祀られ、主神は伊弉諾命、伊弉冉命とされています。その小祠のひとつに倭姫命が祀られています。また、境内には椅子のような形をした幅1mほどの石が一対、向かい合って並んでいます。天照大神の御舟代として祀られているとされるこの「みふな石」は、倭姫命の御腰掛であり、神石の前に茂る榊は倭姫命自身が植えられたものであるという伝承もあります。さらに境内の東方には名木林神社の境内
名木林神社の境内
倭姫命が汲まれた井戸の伝承も残されているのです。
  天神神社がある地は古くから居倉と呼ばれ、その「いくら」という名前が伊久良と同じ読みであることも、偶然の一致とは思えません。また、天神神社の東方、今日の美江寺駅辺りは、以前、船木村とよばれ、海洋族で名高い船木一族の拠点であったこと自体、地域一帯が船、河川、海洋交通に深く関わっていた場所であったことを示唆しています。よって、天神神社が元伊勢であった可能性も、否定できません。

日本の古代海上交通を仕切る船木氏

古代、伊久良河宮から次の元伊勢である中嶋宮へは、交通手段として船が利用されていました。前述したとおり、長良川沿いの名木林神社周辺では船が造られていたという伝承が残されているだけでなく、倭姫命ら御一行は、川を下って中嶋宮へと向かい、そこでは船が一隻、寄贈されたことが倭姫命世記に記されています。岐阜の内地から伊勢へ向かう際に、船が用いられていたのです。それは、大和国の笠縫邑から伊久良河宮へ至るまでの元伊勢の旅路が主に陸路であったの対し、そこから先の伊勢までの旅には水路が用いられ、御巡幸の旅のあり方そのものが大きく変わったことを意味します。

その船旅の出発点となる伊久良河宮の周辺において、造船技術と資金力を駆使し、多大な影響力を古代社会に及ぼしたのが、海洋豪族として名高い船木氏の祖です。宇波刀神社の真北、15kmほどの場所には、弥生後期の古墳群で有名な標高116mの船来山が存在します。当時は長良川の上流に浮かぶ、小高い丘にしか見えないような小さな島でしたが、船でしか容易にアクセスできないだけに要所と考えられたのでしょう。周辺地域は一族により統治され、その小山はいつしか船来山と呼ばれるようになりました。

船来(ふなき)は、船木、または舟木とも書き、どれも同じ読みの当て字です。「ふなき」の地名は日本各地でも、特に海岸沿いに存在します。それは、古代社会において、船木一族が船舶技術を携え、海洋航海において多大なる貢献をしてきたからに他なりません。その船木氏の祖は古代、長良川の上流に一大拠点を持っていただけでなく、そこで船を造り、なおかつ、元伊勢の御巡幸に貢献すべく船を献上し、その後、倭姫命御一行の船旅を一手に引き受けて、最後まで援護したと考えられるのです。

船木氏についての記述は、「住吉大社神代記」の中に見られます。住吉大社は航海神と深い関わりのある国家的な聖地として、朝廷の厚い崇敬を受けていた重要な神社です。古代の船旅は極めて危険であり、より丈夫な船を造るために、高材質の樹木を確保することが大切でした。そのため、住吉神らは造船に使われる木材を杣山にて保有し、選りすぐって伐採していました。伐り出された材木は、造船だけでなく、神社の造営や改築にも用いられていたのです。その杣山を管理し、船を造る専門職の役を担っていたのが大田田神と、その後裔一族であり、やがてその海洋豪族は船木と呼ばれるようになりました。

古墳群の発掘で注目される船来山
古墳群の発掘で注目される船来山
船木氏は航海技術だけでなく、葬法のエキスパートでもありました。住吉大社神代記の「胆駒神南備山本記」には、船木氏の祖、大田田神が天照大神の船による護送を記念し、木作りと石作りの船、2艘を造り、胆駒山の長屋墓には石船を、白木坂の三枝墓には木船を納め置いたことが記されています。つまり、船木氏は単に造船技術に優れた豪族でなく、葬法にも長けていたことがわかります。正にそれが、船来山に多くの古墳が盛られるようになった背景だったと考えられます。
  その後、神功皇后による新羅征討が行われた時代、大田田神の子である神田田命は自らが領有する「椅鹿山」とも呼ばれた杣山の樹木を伐って住吉大社へ寄進し、その木を用いて造られた3隻の船が献上されたと伝えられています。神功皇后はその船に乗り、新羅へと遠征し、後日、武内宿禰により、船は祀られることになります。また、新羅征討の際に献上した船の出来栄えが素晴らしかったことから、一族はそれを機に、船木、鳥取の2姓を賜ることになります。こうして船木氏は各地で船司や津司の役目を果たしながら全国各地で海洋豪族として知られるようになり、後世においては船木郷で遣唐使船も造られたのです。

船木の地名は、元伊勢の終点である伊勢に近い渡会郡の瀧原宮の隣、多気郡にある三瀬谷駅の南側にも残されています。住吉大社神代記によると、神田田命の孫にあたる伊瀬川比古(いせつひこ) 命は、「伊西国の船木に坐す」と記されています。伊西とは今日の伊勢です。よって、船木氏の拠点は伊勢国にも結び付いていたことがわかります。元伊勢を御巡幸する一行と伊久良河宮にて合流した船木氏の祖は、宮の周辺にて造られた船に乗り、倭姫命の御一行と共に伊勢に向けて南下して新天地を目指した結果、伊勢の拠点を見出したのではないでしょうか。こうして古代、船木氏と呼ばれる一族の祖は、長良川から木曽川の下流、伊勢湾にそって伊勢にまで至り、そこで栄えたのです。

この一連の時代背景の流れには、倭姫命による元伊勢の御巡幸があったことは、言うまでもありません。そして倭姫命御一行と共に伊勢に向けて旅に随行した船木氏は、伊勢を拠点とする一族として知られるようになります。しかしながら、その後、船木氏の多くは何故かしら、紀伊国にて住吉の神、「天手力男意気続々流住吉大神」を祀った後、播磨国へ移住したようなのです。神宝を携えて伊久良河宮から航海してきた船木氏の一行だけに、その行く末には重大な意味が秘められていたのです。その船木氏の動向から、元伊勢の意義と神宝の行方について、さらに理解を深めることができます。

海沿いに現在も残る舟木の地名
海沿いに現在も残る舟木の地名

弥生古墳の宝庫となる船来山

船木氏が古代、美濃国で拠点とした場所が、濃尾平野の北端、伊久良河宮の北方にあたる船来山の周辺でした。船来山では、これまで3世紀から7世紀に至るまでの古墳が多数発見され、東海地方最大級の古墳群として知られています。古墳は全長2km、幅600mほどの船来山周辺全体に分布し、それらの年代は、前方後円墳が造られた時代と一致しています。これまで291基の古墳が発見され、周辺一帯には、まだ発掘されていないものも含めると、合計で840基前後の古墳が存在するとも言われています。

中でも3~4世紀のものはこれまで10基しか発掘されず、大半が6~7世紀のものです。形状は円墳であり、大きさは直径15mの大型円墳を核とし、周辺に直径10mほどの円墳が分布しています。古墳の分布特性から、これらの多くは旧来の豪族による墓ではなく、新たに地域に流入した人々のものと考えられています。

船来山の円墳は横穴式石室に代表されるように、その大半は6世紀前半以降に造られています。石室には特徴があり、片袖式と床面の段差が多く見られることが注目されています。また、古墳時代後期6世紀頃に造られたベンガラと呼ばれる石室の中が赤い、赤彩古墳も複数発見されています。そして、これらの古墳は朝鮮半島、九州北部、畿内の百済系の横穴式石室と類似点があることから、一須賀古墳群と同じく、船来山を拠点とした氏は渡来系の集団に属していた可能性が高いと考えられています。

縄文時代から弥生時代にかけて、特に前1世紀以降は多くの渡来人が大陸から列島に渡ってきたと推測されています。渡来系の豪族として著名な秦氏に限らず、その後も移民の波は続きました。例えば7世紀には百済人700余名が琵琶湖の南東部に居住し、既に渡来者が居住していた地域に、新たに参入しています。続日本紀(715年)によると、尾張国から新羅人74家が船来山南方の本巣郡東部に移住し、席田郡を新設したことも記録に残っています。船来山や伊久良河宮の周辺では古代でも河川の氾濫が生じていたことから、海洋技術を携えてきた渡来系の部族が率先して移植され、古くから渡来人の集落が形成されたことでしょう。その傾向は特に5~6世紀以降に強まり、その結果、船来山では多くの古墳が造成されるようになったと考えられます。船来山の古墳も渡来系ルーツである可能性が高いことがわかります。

船来山からは多くの遺物が発掘されていることにも注目です。昭和42年には24号墳が発見され、大きな刀や鏡5枚、そして副葬品も多数出土し、大きな話題を呼びました。船来山154号墳の石室復元
船来山154号墳の石室復元
また、97 号墳からは方形革綴短甲と呼ばれる鎧もほぼ原形をとどめた形で発掘されています。遺物の多くは小河川沿いに広く分布しており、周辺一帯が湿地帯であったことから、徐々に農耕生産に携わる集落が平野部に向けて形成されていくようになったと推測されます。伊久良河宮の方角にあたる山の南麓からは、縄文時代早期から弥生時代に至るまでの土器や石器など、多数の遺物が出土していることからしても、船来山の歴史は、古墳時代や、元伊勢御巡幸の時代である1世紀前後を遥かに遡ります。
  船来山は河川に囲まれた湿地帯であり、船を使ってアクセスする必要がありました。それ故、海上交通を取り仕切る船木一族は、地域を統治するには相応しい背景と技術を兼ね備えていました。そしていつしか、大湿地帯の中に浮かぶ船来山へも船で行き来し、元伊勢御巡幸の時代には、そこに一大拠点を築いていたと考えられます。アクセスが不便であった船来山は、当初、船木氏の拠点として、大切なものを収蔵するための領地として用いられたのではないでしょうか。よって、元伊勢御巡幸の際には、船来山が神宝の秘蔵場所として用いられた可能性も否定できません。そして長良川の河川に浮かぶその小山は、いつしか船来山と呼ばれるようになったのです。
  倭姫命の御一行が伊久良河宮を離れて中嶋宮に向けて南下した際、共に神宝も船で移動されることになりました。その護衛を務めたのが船木氏であり、最終的に船木氏は船来山を去ることになります。そして船木氏が残した遺跡を継いで、古墳時代では主に渡来系の人々により、墳墓が造られるようになったと推測されます。その結果、多くの石室が造られることとなり、今日、遺跡としてその姿を現しています。

これらの背景を考慮すると、伊久良河宮の比定地が宇波刀神社や名木林神社の周辺地域に存在したと推定するに十分であるだけでなく、元伊勢御巡幸の背景には、船木氏の貢献が多大であったことがわかります。そして、倭姫命が訪れた際には新しい船が造られただけでなく、その後、船木氏に護衛される形で倭姫命は船で伊久良河宮から南下し、伊勢へと向かうことになります。後述するとおり、この船木氏こそ、神宝の行方を示す鍵を握る一族です。元伊勢御巡幸の意義と、その結末が見えてきます。

伊久良河宮(宇波刀神社)のレイライン

伊久良河宮(宇波刀神社)のレイライン
伊久良河宮(宇波刀神社)のレイライン

伊久良河宮の比定地を宇波刀神社とするならば、これまで辿ってきた数々の元伊勢と同様に、伊久良河宮が剣山を指標に特定された聖地であったと理解することができます。まず、宇波刀神社が富士山頂の南側と同緯度の35度20分にあることに注目です。つまり、富士山と同緯度に宇波刀神社が存在し、それが富士山のレイラインとなります。それと交差するのが、剣山と諏訪大社下宮を結ぶレイラインです。この富士山と剣山という日本を代表する聖山を通り抜ける2本のレイラインが交差する地点に宇波刀神社があります。こうして宇波刀神社は、富士山と剣山の地の力を受け継ぐことになったのです。それは、伊久良河宮が剣山に紐付けられ、元伊勢の一つとなるべくその指標を共有することを意味しているのではないでしょうか。

更に大事なことは、宇波刀神社の真北に船来山の頂上が存在することです。船来山は前述したとおり、船木一族によって統治されていたと考えられます。その山と宇波刀神社がレイラインによって結び付けられていたということは、伊久良河宮の創設後、船木一族がその真北に浮かぶ船来山を、伊久良河宮に紐付けることのできる大切な場所として特定したからに他ならず、偶然の一致ではないようです。

伊久良河宮の比定地を見極めるためには、元伊勢の地に共通する剣山との繋がりだけでなく、坂田宮からのアクセス、及び、河川を船で渡る航海技術の有無なども検討する必要があります。宇波刀神社の近郊には古代の重要な波止場があり、造船が行われ、地域と船木一族との関連性も認められます。よって宇波刀神社は、伊久良河宮の比定地となる条件を満たしており、宇波刀神社のレイラインもそれを証しています。

伊久良河宮(天神神社)のレイライン

伊久良河宮の比定地として候補に挙げられる天神神社のレイラインも、重要な指標をベースにして形成されています。富士山と出雲の八雲山を結ぶレイラインに対し、鹿島神宮と宗像大社の沖ノ島を結ぶレイラインが交差する地点に、天神神社が位置します。また、この場所は、石鎚山と諏訪大社を結ぶ線上にもあります。これは、天神神社が富士山と石鎚山だけでなく、剣などの神宝と深い関わりのある出雲の八雲山、鹿島神宮、沖ノ島に紐付けられていることを意味しています。前述した宇波刀神社にひけをとらない名所の数々が名乗りを上げていることに注目です。

しかしながら、剣山が含まれてないことや、坂田宮の緯度線より更に北に位置することなどを考えると、伊久良河宮の比定地としては、あくまで宇波刀神社の次点ということになります。

伊久良河宮(天神神社)のレイライン
伊久良河宮(天神神社)のレイライン
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