レイラインが示唆する古代の謎
四国剣山の頂上風景三輪山を基点として始まった御巡幸について、これまで笠縫邑から坂田宮までの13か所の元伊勢が、如何にしてレイラインの構想をベースにピンポイントで見出されたか、その手法と考え方について解説してきました。坂田宮から先の御巡幸は、琵琶湖から三重県まで一気に南下し、最終的に伊勢神宮内宮まで向かうことになります。この時点で、これまでのレイライン分析を振り返り、その全体像を見極めて方向性を今一度確かめるため、それら全部のレイラインをひとつの地図にまとめてみました。そうすることにより、列島内のどの指標が重要視されたかが一目でわかり、その理由を考察することができます。元伊勢のレイライン分析はまだ折り返し地点であるため、あくまで目安として、およその方向性を見極めてみましょう。
全体図を見ると、結果は一目瞭然です。まず、御巡幸地は三輪山周辺に複数、固まって存在していたことから、当然ながら、レイラインが交差する中心点は、三輪山周辺に集まっていることがわかります。注目すべきは東の諏訪大社と、西の剣山です。諏訪大社は古代より剣の神宝に関する伝承が多く、日本列島の中でも最も古い集落が形成された古代集落の最大拠点です。そして西方の剣山は、元伊勢の御巡幸を機に不思議とレイライン上に頻繁に登場するようになったことから、そこに何かしらの意図が秘められていると想定される特別な指標です。何故、剣山が指標として選ばれ、何故、多くのレイラインが意図的に剣山を通るように引かれて、その線上に元伊勢の御巡幸地が見出されたか、その意図を見極めることが大事です。
坂田宮で2年滞在した後、伊勢に向けて南下した倭姫命の御一行は、その後も剣山に注視しながら御巡幸地を渡り巡り、最終的に伊勢神宮に辿り着きます。1世紀近くもかけて訪ね歩いたこれら御巡幸地の全てが、レイライン上で日本列島の大切な聖地と結び付いていたのです。その事実は地図を一目見るだけで、理解することができます。レイラインの分析から浮かび上がってくる元伊勢御巡幸の目的とは、神宝と剣山を結び付けることであり、其れを後世に知らしめることではなかったのでしょうか。
元伊勢御巡幸地のレイライン全体図 -笠縫邑から坂田宮まで –