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元伊勢と瀧原宮のレイライン 聖地との繋がりを極めた伊勢国の聖地とは

元伊勢の集大成となる瀧原宮のレイライン

荘厳な雰囲気に包まれた瀧原宮の参道
荘厳な雰囲気に包まれた瀧原宮の参道
伊勢湾に面した沿岸を南下し、船で行き巡る御巡幸の旅は、伊蘇宮を離れたあと、なぜかしら川を上って紀伊半島の内陸にある瀧原宮へと向かうことになります。瀧原宮は伊勢神宮内宮の遙宮として知られ、伊勢湾より宮川を上り、その中流となる三瀬谷の支流を更に上った所に建立されました。瀧原宮を訪れる人は、伊勢神宮よりも規模は小さいものの、その荘厳な雰囲気の漂う境内の美しさに心を打たれることでしょう。古くから瀧原神宮と呼ばれ、他の式内社とは一線引かれて神宮号が付されたのは、何かしら古代から特別視される理由があったからに違いありません。

ある学者は瀧原宮が重要視される理由を、「東方鎮撫の為の、重要な拠点」であるとか、紀州や熊野へ通じる交通の要所であったからと説明しています。しかしながら、どう見ても交通の要所には見えず、ましてや紀伊の山奥にありながら、どうして東方征伐の拠点となることができるでしょう。ところがそのような山奥の僻地に、倭国の将来を担う倭姫命が神宝を携えて、わざわざ到来したのです。前人未踏の山奥に皇族の姫君が出向かれるということは、それなりの重大な理由があり、交通の要所とか征伐の拠点というような、ごくありきたりの理由ではないことがわかります。

瀧原宮の素朴で美しい境内
瀧原宮の素朴で美しい境内
倭姫命にとっては当時、五十鈴宮という最終目的地がもう定まっていたはずであり、およそ1世紀近くにわたる周辺の地勢調査の結果により、あらゆる場所がくまなく調べあげられていたはずです。そして、磯神社から伊勢湾沿いに3kmほど航海すれば五十鈴川の河口に着き、そこから川を8kmほど上れば五十鈴宮、すなわち伊勢神宮内宮に到達できたのです。ではなぜ、最終地点を目前にしてわざわざ迂回し、海岸から30km以上も遠く離れた紀伊半島の内地にある瀧原宮へと赴いたのでしょうか。元伊勢の御巡幸からおよそ2000年を経た今日、真相を究明することは困難です。しかしながら、はっきりとわかることは、瀧原宮には何かとてつもない重要性が秘められており、その真実を見出した倭姫命は、五十鈴宮に向かう前に是が非でもそこに宮を建立し、神を崇めたてまつらなければならないと確信したということです。

瀧原宮の地がそこまで重要視された理由は、レイラインの考察から理解することができます。便利な交通手段のない古代、宮川の上流で急斜面の多い山地は、何ら特筆すべき地勢や指標となるような目印など存在しませんでした。ところがそんな山奥の一地点が注目され、その場所が重要視されるあまり、荘厳な雰囲気に包まれた瀧原宮が造営され、そこで神が祀られたのです。瀧原宮の場所が大事であった理由は、その場所が元伊勢の御巡幸において重要視された2つの霊峰、伊吹山と御在所岳を結ぶレイライン上に位置していたからに他なりません。これらの霊峰と一直線上に結ばれる場所がピンポイントで特定され、そこに神の宮が建てられたのです。こうして瀧原宮を基点とする新しいレイラインを構築することにより、改めて御在所岳と伊吹山の重要性が強調されるように目論まれたのです。
  瀧原宮を基点とするレイラインは他にも複数存在し、中でも三輪山と摩耶山を結ぶ線は極めて重要です。三輪山は元伊勢御巡幸の基点であり、これまであまり名を連ねることのなかった摩耶山と繋がり、瀧原宮ともレイライン上で一直線に結び付けられたということは、伊吹山や御在所岳と同様に、摩耶山も神宝の行方を占う上で重大な意味を持つ霊峰として認識された可能性を示唆しています。また、摩耶山は丹波国吉佐宮の比定地である真名井神社と同経度にあり、元伊勢の御巡幸地とも繋がっています。さらに摩耶山は、剣山と大宝寺山を結ぶレイラインも形成しています。それ故、瀧原宮のレイラインを通じて、御在所岳、伊吹山、三輪山、摩耶山、大宝寺山、そして剣山までもが、神宝の行方に絡む霊峰である可能性があることが示されたのです。

瀧原宮のレイライン
瀧原宮のレイライン

さらに瀧原宮は霊峰だけでなく、神の島として名高く、多くの神宝が秘蔵された沖ノ島にも紐付けられています。伊吹山と御在所岳と結ぶ南北の線と、沖ノ島と同緯度、北緯34度21分の東西の線が交差する場所に瀧原宮が造営されたということは、沖ノ島と同様に、瀧原宮が神宝の行く末を示唆する重大な鍵を担う場所と考えられたからではないでしょうか。だからこそ、後に熱田神宮が造営される際は、古代の地の指標として多用された紀伊大島と、神宝と絡む重要な基点と位置付けられた瀧原宮を結ぶレイラインが重要視され、瀧原宮に紐付けられるべく、その熱田神宮に草薙剣が祀られたのです。

瀧原宮のレイラインには、元伊勢の御巡幸地に紐付けられた線が、さらに3本存在します。まず、伊久良河宮の比定地である宇波刀神社と、阿佐加乃藤方片樋宮の比定地、加良比乃神社を結ぶレイラインが存在します。次に、坂田宮と甲可日雲宮の比定地のひとつである若宮神社を結ぶ線もあり、いずれも瀧原宮を通り抜けています。瀧原宮の境内には所管社として若宮神社が建立され、そこには御船代を収蔵する御船倉も併設されていることから、瀧原宮と若宮神社が神宝を運搬する船と深く関係を持っていたことがわかります。

3本目の線は奈其波志忍山宮の比定地となる布気皇館太神社と同経度の南北線です。その線上に瀧原宮が存在することも偶然ではなく、綿密に計算された結果といえます。

倭姫命の御一行が伊勢国五十鈴宮へ向かう直前、遠くに迂回することさえ苦にせず、何としてでも瀧原宮の場所を御巡幸地のひとつとして定め、そこで神を祀ることを大切に考えられた理由が見えてきました。瀧原宮は、神宝に纏わる重要な聖地をレイラインによって結び付けることができる特別な場所だったのです。皇大神宮別宮 瀧原宮
皇大神宮別宮 瀧原宮
元伊勢御巡幸の主目的は神宝を守護し、それらを保管する場所を厳選することでした。その為、複数の霊峰や島々が瀧原宮のレイライン上において紐付けられただけでなく、それらの延長線上に新たなる聖地を見出し、そこで神宝を秘蔵することが目論まれたのではないでしょうか。瀧原宮こそ、神宝を守護する秘策が整ったことを伝える象徴的な存在であり、その結果、元伊勢御巡幸の旅は、最終目的地である五十鈴宮へと向かうだけとなったのです。