伊雑宮にて終わる元伊勢の旅路
天照大神が五十鈴河上にて祀られた後、伊勢の地は祝賀ムード一色に染まり、大勢の人々が倭姫命のもとへお祝いをするために集まりました。そして一同は神楽を舞い踊り、姫も皆のものと共に歌ったのです。倭姫命の30余年にわたる長旅の終焉を告げるに相応しい最高のシーンではないでしょうか。そして、倭姫命は祝福された余生を過ごし、「世記」の幕が無事、下りたと考えたいものです。ところが現実は異なっていました。倭姫命は、ほんのひと時、五十鈴宮にて休息を得ると、1年も経たぬ内に天照大神に捧げる神饌(しんせん)を調達するための御贄処(みにえどころ)を定めるため、再び船に乗り、五十鈴河を下り始めたのです。そして伊勢湾の沿岸を南方へと向かい、紀伊半島の最東端にあたる国崎嶋を目指して行幸されました。五十鈴河上からは、およそ30kmの水上の旅となりましたが、その度重なる労苦さえも倭姫命は厭わなかったのです。
「世記」には、倭姫命が伊勢にて祀られている天照大神へ捧げるため、海の幸や山の幸など、地域の特産物を探し求め、神に捧げるための領域を定めるために尽力したことが記されています。そのためには伊勢国の南に隣接し、万葉集でも「御食国志麻」と呼ばれるほど食の幸に恵まれている志摩国においても、天皇が支配する領域を拡張することが不可欠だったのです。倭姫命はまず国崎嶋にて、朝と夕方2回に分けて捧げられる神饌のために、湯貴潜女(ゆきのかづきめ)と呼ばれる聖なる潜女を選りすぐり、そこに神聖な領域を定められました。そして航海を続けながら海の幸を見出しては御贄処を定め、時には潮の流れや地勢までも検証しながら、浦や島の名前が命名されたのです。また、協力を惜しまず、供えの食物を提供して多大なる貢献をした者には社を定め、その功績を祝したのです。
垂仁天皇27年、志摩国の方から聞こえる鳥の鳴き声を聞いた倭姫命は、使者を送って、その地域を調査することにしました。これまでの御巡幸では、主に地域の有力者から情報を得ながら行き先を探し求めることが多かったのですが、今度は鳥の声という不思議な力の働きによって新天地を見出すことになりました。ちょうど神武天皇が八咫烏により橿原まで導かれた出来事を彷彿させます。これは倭姫命御自身が五十鈴宮に到達した後、それまで以上に神ご自身の導きを強く受けたことの証とも考えられます。
その後、倭姫命は使者を伊雑の方上の葦原へ送り、そこで発見された大きく茂る稲一基や、その豊かな大自然の様子が、すぐに倭姫命に報告されました。伊雑の地域一帯が米を生産するのに優れた地であり、既に農作物が豊富に収穫されていることを知った倭姫命は、早速、「皇太神に奉れる物を」と詔し、その穂から清酒が作られ、神にお供えする御餞(ぎょせん、みけ)の米として奉られることになります。天照大神のルーツである高天原では稲作が行われていたこともあり、五十鈴宮の皇太神へ献上する御餞を供えるための最良の稲作地を確保することは、倭姫命に託された重要な使命のひとつでした。そして注目されたのが、志摩国の中でも陸海双方の自然に恵まれた伊雑の方上だったのです。
「御食国志麻」と呼ばれた志摩国の中でも特に伊雑の方上では、稲作に適した土壌と優れた地勢故に、遥か遠い昔から古代集落が造成され、農耕作が行われてきました。そして良質のお米をもって御饗を捧げることができるだけでなく、海と山の幸にも恵まれていたことから、神に捧げるための食産物を収穫する聖なる地として、倭姫命の目に留まったのです。その伊雑の方上の中心地に伊雑宮が建立されました。伊雑宮は神に捧げる御餞や祝福された農産物の象徴であり、それ故、古代からその宮では農民の豊作だけでなく、漁民の豊漁、そして国家の平穏のために日々祈りが捧げられてきたのです。その流れを引き継いで、今日でも日本三大御田植祭のひとつである御田植祭が例年催されています。
伊雑宮の「伊雑」という地名は、国生みの神である伊耶那岐尊の名を継承している可能性があります。すると、周辺地域の歴史は国生みの時代まで遡り、古代聖地のひとつであったとも考えられます。いずれにしても、皇太神の食を提供する地域の象徴として、伊雑宮は五十鈴宮にとって不可欠な存在であり、正にそれが伊勢神宮の別宮、そして皇太神の摂社、遙宮(トオノミヤ)として今日まで親しまれてきた所以です。皇太神宮儀式帳には「天照太神遙宮、御鏡坐」とも記載されています。五十鈴宮を伊勢神宮のファサード、すなわち歴史上の表立った形とするならば、伊雑宮はその裏方に潜む、古き土台と言えそうです。それだけに、伊雑宮の重要性には注視する必要があります。
五十鈴宮の後に続く、伊雑宮へと向かう志摩国での旅路については「世記」の中で、およそ500文字が費やされています。五十鈴宮は皇太神御自身が認知された御鎮座地として神宝が祀られたにも関わらず、倭姫命の滞在期間が短かったこともあり、五十鈴宮に関わる記述は712文字でまとめられているに過ぎません。その文章量は、およそ500文字を用いて詳細が記されている阿佐加藤方片樋宮や、飯野高宮とさほど変わらないのです。これらの文字数を比較してみても、伊雑宮は「世記」の中で重要な位置付けを占めていたことがわかります。何故、それほどまでに伊雑宮が重要視されたかは、伊雑宮を中心点とするレイライン図が物語っています。
古代聖地の中心に位置する伊雑宮
伊雑宮が重要視された理由については、史書の記述だけでなく、地域の地勢やレイラインの検証を通して推測することができます。伊雑ノ浦に面する地域は水上の便に優れ、そこは紀伊半島最南端から伊勢湾に向かって航海する際の中間地点にあたることから、古代より中継地点となる港として重要視されていました。その背景には前述したとおり、海と山の幸に恵まれた「御食国」と呼ばれる優れた自然環境が存在していました。
伊雑宮の聖地が貴重な存在であったことは、レイライン図を一見するだけでわかります。日本列島の隅々にわたり、伊雑宮と地理的に紐付けられている霊峰や岬、神社は少なくありません。そして複数のレイラインが重なるだけでなく、伊雑宮を中心地として交差しているのです。これほどまでに多くの地の指標と結び付き、しかもそれらの中心に位置する神の宮は、他に類を見ません。それは伊雑宮を基点として神社を建立するための聖地が列島各地に見出されたことを意味しています。それ故、伊雑宮は古代聖地の中でも最も歴史の古い、由緒ある宮のひとつとして知られるようになりました。
伊雑宮のレイライン
伊雑宮にレイライン上で直結する聖地は多く、霊峰では富士山、石鎚山、六甲山、摩耶山、大宝寺山が、島では神島と竹生島が、そして岬では佐田岬、足摺岬、室戸岬が含まれています。また、神を祀る聖地としては、熊野本宮大社、和多都美神社、石上神宮、出雲大社を筆頭に、真名井神社、伊勢神社、阿紀神社、若宮神社、布気皇館太神社、そして斎宮、矢田宮など、元伊勢御巡幸の比定地も多数含まれています。
これら指標同士を結ぶレイラインは、主に3つのカテゴリーに分けて考えることができます。まず、伊雑宮に隣接し、その原点に存在する古代の港を特定するために用いられたレイラインが存在します。それらの線上には富士山、九州・四国の岬、紀伊大島など、自然の地勢に代表される指標が並びます。最初に注目したいのが、岬のレイラインです。国生みの神々は南西諸島の方面から船で渡来してきたと考えられ、九州の日向、今日の宮崎周辺にて拠点となる港を特定する際、夏至の日の出方向に四国の足摺岬を見渡せる場所に船を着岸させたのではないでしょうか。そこから日の出の方角に進むと、足摺岬の先には室戸岬が見えてくるだけでなく、2つの岬が一直線上に並んでいたのです。それら岬を結ぶレイラインは、九州では日向と、そしてその延長線上にある志摩では伊雑宮とも繋がっていたのです。
その岬のレイラインに交差する線中でも一際目立つ存在が、東は富士山、西は九州最南端の佐多岬を結ぶレイラインです。このレイライン上には、熊野本宮大社の大斎原が造営されることになり、富士山に直結する線上ということからしても、重要な意味を持っています。また、紀伊半島最南端の紀伊大島と神島も、半島の東側を航海する際に必ず目に留まる指標として重要な存在です。この2点を結ぶレイラインも伊雑宮を通ります。更には西日本最高峰の石鎚山と、徳島小松島にある阿波三峰のひとつとして知られる日峰山を結ぶ線も伊雑宮に結び付くことに注目です。これら4本のレイラインは全て伊雑宮にて交差します。ちょうどそこは伊雑ノ浦の沿岸にあたり、港の拠点としても適していました。レイラインの交差点は地の力が交わる重要な中心地となることから、その伊雑の方上の一角が見初められ、そこに港が造られて集落が発展し、後に伊雑宮が建立されることになります。
2つ目のカテゴリーは、伊雑宮を基点として他の指標と結び付けながら、新たなる神社や指標の場所を特定するレイラインです。伊雑宮とスサノオ命の拠点となる出雲の霊峰、八雲山を結ぶ線上には六甲山石宝殿が、摩耶山とを結ぶ線上には石上神宮が、そして竹生島とを結ぶ線上には矢田宮が建立されました。また、元伊勢御巡幸地に含まれる真名井神社や伊勢神社を伊雑宮と結ぶ線上には、新たなる御巡幸地や斎宮が造営されています。若宮神社や布気皇館太神社と伊雑宮を結ぶ線上に、大宝寺山のような後世において重要な役割を果たす霊峰を見出したケースもあります。これらの聖地が定められる以前から、伊雑宮の地はレイラインの指標として存在していたことになります。
3つ目のカテゴリーは、伊雑宮と同緯度、もしくは同経度上に新たる拠点や指標を見出したケースです。その同緯度線上には、対馬の和多都美神社が建立され、そして南北にわたる同経度線上には、中嶋宮(酒見神社)が建立されました。これらの聖地も同様に、古代から知れ渡っていたと考えられる伊雑宮の地を指標として定められたのではないでしょうか。
伊雑宮を指標としてレイライン上に見出された拠点は多く、しかも、それらのレイラインは全て、伊雑宮の地点を交差していることが、列島内でも最も古い指標であることの証です。古代、国生みの神々が海を航海しながら紀伊半島に見出した伊雑の方上こそ、神から祝福され、そして神を祀るに相応しい多くの恵みに満ちた場所であることを、伊雑宮のレイラインから知ることができます。
元伊勢御巡幸の完結
「世記」には、倭姫命が伊雑宮の地を訪ねられた後についての記述も含まれています。伊雑宮を訪ねられたその翌年、倭姫命の前に再び葦原の中を行き来する鶴が現れ、御巡幸地として訪れた佐々牟江宮へと向かうことを示されます。その導きに従った倭姫命は、そこでも稲1本、初穂の大切さをはじめ、御饗を供える大切さに感動を覚え、新たに八握穂社が造営されました。その後、天皇の代が変わり、景行天皇20年、倭姫命は「年既に老いて、仕えること能わず。吾れ足りぬ」と語られ、引退を表明されたのです。そして皇女に多気宮を造らせ、伊勢斎宮群行が始まることとなります。
倭姫命が引退してから8年が過ぎた景行天皇28年、国内の政情は悪化し、東方では暴動が頻繁に起きていたことから、日本武尊は叔母にあたる倭姫命のもとを訪れ、その後、東征に向かいました。その際、倭姫命より日本武尊に草薙剣が授けられた話はあまりに有名です。ところが日本武尊は東征を無事に終えるも、伊吹山にて死去し、草薙剣は尾張熱田社にて収蔵されることになりました。こうして倭姫命は国家に多大なる功績を残し、波乱万丈の生涯を終えて、お隠れになります。
伊雑宮の地を訪ね、やはり思っていた通り、最も古い由緒ある地と実感しました。穏やかで豊かな風土と、なにか温かさを感じ、朝廷が伊勢神宮を新たに合祀した、元伊勢神宮祀の中心的存在であると思います。紀元前六世紀の鎮座は、ユダヤの人々が列島に辿り着き落ち着いた良き地でしょう。