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宮古島の聖地から世界平和を祈る 修験道者と宮古島霊能者による一大コラボが実現

宗教の自由を重んじる日本では、全国各地で多くの人が様々な信仰生活を送っています。中でも琉球諸島は宗教色の大変強い地域であり、古代より伝承されてきた宗教関連の祀りごとや風習の多くが、今日まで固く守られ続けています。その琉球の南方に浮かぶ宮古島の砂山ビーチ近郊にて、2017年5月27日の昼過ぎ、「宮古島 INORIE 555」という極めて珍しい聖会が開催されました。世界平和は人類の願いであることから、聖会のテーマは「世界の平和と地球の調和、また宇宙の融和」と提言され、参加者皆が心を一つにして、家庭や地域、国家、そして世界平和のために祈りを捧げることになったのです。

エメラルドブルーに輝く宮古島の海
エメラルドブルーに輝く宮古島の海
その聖会を導く祭祀者と大導師の名前に注目が集まりました。それはかつてない、新しい試みの始まりだったからです。まず、INORIEの祈祷を導く祭祀者は、宮古島の霊能者、カンカカリャーとして知られる根間ツル子氏でした。宮古諸島では古代より神懸かり体験を経たカンカカリャーと呼ばれる女性霊能者が、地域の住民に対してアドバイザー的な役割を果たしてきました。そのカンカカリャーとして、宮古島でも最後の一人になるのではと噂されているのが根間氏であり、その地元、宮古島にて祈りの会が開催されることになったのです。

この祈りの会の主旨に賛同し、協力を約束してくださったのが、世界遺産に指定された「紀伊山地の霊場と参詣道」の一部を構成する吉野山の金峯山寺にて住職を務められている方々でした。数年前、根間氏が体調を崩し、入院された際、ふとしたきっかけで金峯山寺の住職との出会いがあり、その繋がりからこの度、住職が大導師として祝詞をあげるだけでなく、護摩木法要を催行する役もかってでられたのです。こうして全国各地を行脚する傍ら、奈良県吉野の金峯山寺から住職の方々が宮古島まで旅してきてくださることになりました。そして前例のないコラボの試みのニュースは瞬く間に宮古島を愛する信仰者の間で広がり、祈りの会に大きな期待が寄せられるとともに、全国から多くの方々が参加の意向を表明しました。

INORIE聖会の原点には、神様と仏様、双方が大切であり、皆の祈りが大事であるという根間氏の信念が息吹いています。よって、神道や仏教、修験道も含め、如何なる道に精進する者であっても、皆が思いを一つにして祈ることが重要視されたのです。しかも、その祈りを宮古島の古代聖地にて捧げることにより、祈りが天に届くことが期待されたのです。そして根間氏は天から「三位一体」という言葉を事前に授かったことを証され、そのテーマを念頭に、祈りに専念することとなりました。

霊能を極めた宮古の女性祭祀者と、遠く離れた奈良の吉野にて修験道を精進してきた住職らが共に力を合わせて祈りと浄めの聖会を宮古島にて実現するためには、様々なハードルを乗り越えなければならなかったことでしょう。そして運命の時が到来し、多くの賛同者の理解と協力を得ながら、日本列島のほぼ最南端に浮かぶ宮古島にて、宗派を問わない祈りの会INORIEが無事、開催されたのです。世界平和に対する人々の熱い思いが、宮古島の海辺から天に向けて祈られることとなりました。

琉球、宮古島の霊能者とは

今一度、女性霊能者が古代より存在してきたことで知られる琉球、及び宮古島の背景について考えてみましょう。古代、中国では大陸より東方に浮かぶ島々を、台湾も含めて琉球と呼んでいました。今日、日本では沖縄諸島以南の日本列島に含まれる島々や、沖縄のことを琉球と言うことが多いようです。その琉球の中でも、沖縄本島より南西300qほどに位置するのが宮古島です。宮古島から西方へ向かい60q弱の多良間島までに浮かぶ、合わせて8つの宮古島に隣接する島々を宮古列島と呼びます。また、宮古列島より以西、石垣島から台湾近くの与那国島までの八重山諸島と宮古列島を合わせ、時には尖閣諸島も含めて先島諸島と呼びます。

古代大津波から逃れたヌーズマー御嶽
古代大津波から逃れたヌーズマー御嶽
琉球は日本国内でも、土着の民間宗教が古代より最も強く根付いている地域として知られています。その宗教は地域の文化と生活そのものに密着してきたことから、時には琉球神道とも言われています。島々の随所には、古代より御嶽(うたき)と呼ばれる祈りの場が設けられ、今日まで大切に保護されてきた御嶽も多数存在します。古代より宗教儀式が執り行われてきたそれらの霊場を訪れるだけで、琉球に住む人々の信仰生活の在り方を垣間見ることができます。

先島諸島の島々を旅すると、その最西端にある与那国島から最東端の宮古島に向かうにつれて、宗教文化の度合いが増し加わってくることがわかります。のどかな牧場にて馬が放し飼いにされている光景が目に映る与那国島では、土着した宗教の存在を目にする機会はあまりありません。ところが、そこから東方に向かい石垣島に到達すると、御神崎(おがんざき)の磐座が存在感を示し、島の随所にて宗教色を感じるようになります。さらに東に海を渡ると宮古島に到達し、そこでは伝統的宗教観が頂点を極めたと言っても過言でないほど、琉球諸島の中でも、最も根強い民間宗教が古くから息吹いていたのです。

例えば、古代より人々が聖域に祀られた神に祈りを捧げ、先祖の魂を供養した御嶽や、井泉(ガー)、龍宮(海の入口)などの聖域は、面積が200km²ほどしかない宮古島だけで、少なくとも230か所も存在します。つまり宮古島では、1km²あたり、1か所以上の聖地が存在するのです。宮古諸島の他の島々に存在する聖域は、合わせても40か所少々しか知られていないことから、いかに宮古島の存在が聖域と深く結び付いていたかがわかります。

浦島の神を祀る喜佐真御嶽
浦島の神を祀る喜佐真御嶽
これら御嶽などの聖域で祈りを捧げてきたのが、宮古島では神女(カミンチュ、シンニョ)、沖縄本島ではノロ(祝女)と呼ばれる、地域の女性や住民から選ばれた人達です。共同体の神事や祭事もつかさどり、神々と人間との仲介を執り成す神女は、従来、祭祀の家系によって世襲的に継承されることが多く、宮古島ではツカサ、サスとも称されています。地域の祭祀活動を執り行う神女以外に、琉球には巫女として知られる女性預言者も存在します。神女の中でも神懸かり的な様相が濃い霊能者はユーザス、沖縄本島では「ユタ」と呼ばれ、宮古島では「カンカカリャー」として知られています。

神女の本質は霊の支配とメッセージの伝授に象徴され、宮古島の狩俣ウヤガン祭りのように、神が乗り移って人間が神と一つになるという不思議な現象がおきる祭も存在します。そして神ダーリと呼ばれる神懸かり的な憑依によって培われた霊能力は、知られざる神言葉や神歌を語り告げるだけでなく、エクスタシーの最中に与えられるビジョンや幻などの霊体験へと発展していくこともあるようです。一見、信じがたいような話ですが、数々の預言の成就をもって、それが偽りでないことが庶民の体験談や証言からも明らかにされるにつれ、神女の権威と職能が次第に認知されるようになったのです。

宮古島の「カンカカリャー」は、そのほとんどが女性であり、シャーマンと同様の存在と言えるでしょう。女性霊能者は65歳から90歳までの高齢者が多く、市内に居住しながら、家の神棚に供え物や祭器を飾り、そこで祈りを捧げています。そして、地域において庶民にアドバイスを与える存在となり、わずかな香代のみで干支を開いて線香占いをしたり、祈りの中で得たひらめきを周囲の人々に伝え、特に不治の病や、子供の問題、商売の失敗など、現実的な庶民の問題に対して、具体的な救済策を提言するような機会も少なくありません。また、判事や地域の政治、神事にも大きな影響を及ぼすこともありました。こうして宮古島では霊感を持つ「カンカカリャー」は神の言葉を伝える存在として、古くから親しまれてきたのです。

砂山ビーチに佇む奇石
砂山ビーチに佇む奇石
琉球では古くから「カンカカリャー」のような霊能者は、「ツヅの指導のまま、神の言うまま」に語ることが、使命として求められてきました。島々には古代から石に対する信仰が伝承されており、人の魂や神が石に宿ると信じられてきました。よって今日でも、島々の随所に神の石が聖域の中に存在します。この磐座とも呼ばれる石は、古代イスラエルでも神と呼ばれることがありました。ヘブライ語で、「ツ」は石を意味し、時には神と考えられています。よって「ツヅ」は、「神々」を意味しています。遠い昔、イスラエルから渡来した多くの民は、琉球を経由して日本列島を訪れたと考えられることから、琉球で語り継がれてきた「ツヅの指導」とは「神々の教え」を意味していたのでしょう。神々が語るままに、人々に伝えることが、霊能者の職務でもあり、特権でもあったのです。

しかしながら、少子高齢化の波は琉球をも襲い、今や村の祭祀を支えてきた「カンカカリャー」やユタなどの霊能者ら神女もみな高齢化し、後継ぎがないまま、自らの代で祭祀活動が終わらざるをえない状況に陥っています。そして宮古島を含む多くの琉球諸島では、開発が無雑作に進むあまり、古代聖地が失われ続けてきました。後継者が不在の祭祀活動の現実が明らかになるとともに、宮古、そして琉球の精神文化が大きく崩れていく危機を覚えている人は少なくありません。日本の古代ルーツを担う重要な位置を占めてきた琉球、そして宮古島だけに、霊能者である根間氏は平和を祈願するとともに、聖域の保護と祈りの文化の継承を訴え続けてきました。祈らずして世界平和はなく、日本国家、宮古島の未来はない、という信念があったからこそ、今回INORIEの主旨に多くの方が賛同し、金峯山寺の修験道者も心を共にすることができたのではないでしょうか。

カンカカリャー根間ツル子

今回の聖会を祭祀者として導く役を担った根間ツル子氏は、昭和46年、マサイカンカカリャー(優れた信仰の巫女)として激しい神懸かりを経験し、それから5年の歳月をかけて、過酷な試練を乗り越え、カンカカリャーとなるべく生まれ変わったと言われています。大変貧しい家庭に生まれ、幼少時の病気や拒食、不眠、痛みなどを伴う大病を患い続けましたが、ある日、神託により世に役立てんと神ダーリの霊的体験を経て、健康を取り戻したのです。そして孤独の苦しみや修行を通じ、様々な家庭問題に関わる精神的な悩みをも乗り越え、今日に至っています。

根間ツル子氏が一躍有名になった事件が昭和46年におきました。当時、宮古島は本土に復帰した直後から始まったリゾート開発の結果、短期間で樹木が伐採され、島の緑は半減していました。そして島内にある数々の御嶽、小し(示+司)、井泉(ガー)などの聖地が破壊され続けたのです。その実態を嘆き、カンカカリャー、ツカサ、ユーザスの神女が声を上げ始めた矢先、神の島である宮古島を守るためでしょうか、大和井 ヤマトガー
大和井 ヤマトガー
根間氏に神ダーリが乗り移り、工事で埋め立てられてしまった井泉(ガー)を「掘り返せ、掘り返せ」と半狂乱に叫び続けたのです。また、乗り移った神は、「駐車場建設を取り止めないと、津波を起こすぞ、飢饉を起こすぞ」と大声で警告し、実際に1971年、その年に3か月もの間、雨が降らずに深刻な水不足になったことから、宮古市は建設の断念を余儀なくさせられたのです。こうして根間氏の名は、事件直後から世間に知れ渡るようになりました。

長年にわたる無謀なまでの島の開発により、島の守り神の存在が危うくなり、日本国家そのものが危機に面していることを、今日、根間ツル子氏は危惧しています。そのため、島の自然を守り、聖域を大切にして神を敬う信仰心の復興を訴え続けています。根間ツル子氏の自宅の居間に入ると、神棚の背後には八幡大神、天照皇大神、春日大神という3神の名前が大きく書かれた掛け軸が目に映ります。魂の輪廻を信じ、天界と地上界のつながりをもって霊が働きかけていることを、自らの体験をもって知り尽くしているからこそ、先祖の霊も大切に祀ることを心がけているのでしょう。そして先祖がやり残したこと、やり損なったことを成し遂げるために生まれ変わってきた自分がいる、という信条のもとに、根間氏は生きている間、人助けのために、そして国家や、世界平和のために尽くし続けています。

一見、新興宗教の教祖のような側面がありそうですが、実際は全くかけ離れた存在です。根本的な相違点は、根間ツル子氏の生きざまそのものに、お金や権力、ステータスに対する願望がみじんも見られないということです。よって、今もって宮古市街の一角に佇む古屋にひっそりとお住まいになり、一見貧しそうにも見られかねないほどの素朴な生活をしています。お金や権力の誘惑に打ち勝ち、ひたすら霊の導きによるメッセージを語り告げ、信仰をお金もうけの道具には絶対しないという信念を貫いてきたからこそ、悪の力に打ち勝ち、人々に幸せをもたらすことのできるカンカカリャーとして、その使命を達成することができたのでしょう。まだまだやるべきことが残っているという使命感を語られている根間ツル子氏であり、ご高齢になられたこれからも、宮古のため、そして日本と世界平和のため、今後も活躍されることでしょう。

金峯山寺の修験道とは

カンカカリャーの根間ツル子氏と共に心を一つにして、宮古島で祈りを捧げようと、奈良県の吉野からINORIEの聖会に参加することを決めたのが、修験道の総本山としても知られる金峯山寺の住職です。金峯山寺が建立された吉野の地域は世界遺産に指定されている「紀伊山地の霊場と参詣道」の一角でもあり、多くの参拝者が訪れる著名な寺です。今一度、金峯山寺の歴史的背景に目をとめ、その影響力と素晴らしい宗教観について学んでみましょう。

奈良県の南方には吉野と呼ばれる美しい山岳地帯が続きます。古代では大和国の一部を占め、吉野から大峰に至る山岳は金峯山とも呼ばれています。山上ケ岳を含む大峰は奥吉野とも呼ばれ、熊野へと連なる険しい山道が存在することから、長年にわたり修験道者に魂の訓練の場所を提供してきました。こうして金峯山は修験道のメッカとして、金の御岳(みたけ)としても知られるようになったのです。その金峯山の中心に建立されたのが金峯山寺です。吉野のシンボルとして不動の位置を占める金峯山寺こそ、世界遺産にも名を連ねる修験道の根本道場です。

金峯山寺蔵王堂
金峯山寺蔵王堂
金峯山寺の歴史は1300年以上も遡る7世紀の後半、役行者(えんのぎょうじゃ)が吉野山で修行し、金峯山寺を建立したのがその始まりであると伝えられています。今日、境内に見られる本堂、蔵王堂は16世紀末に再建築されたものであり、秘仏本尊蔵王権現など、多くの尊像が安置されています。その金峯山寺を総本山として、厳しい修行を通じて霊の力を体得する道を説くのが修験道です。日本古来の山岳信仰に、神道や仏教の要素が多分に取り込まれた修験道では、大自然の中で心身共に清め鍛えるという実践主義を貫いています。そして修行者は役行者の教えを守り通し、菩提心に近づくことを願い求めます。特筆すべきは修験道が在家主義を掲げていることです。つまり出家はせず、在家の生活を保ちながら修験道の道に励み、自らを磨き上げていくことを教えているのです。

金峯山寺の修験道では、祈りが重要視されているのは言うまでもありません。祈りなくしては、霊の目覚めもなく、霊性を高めることもできないからです。また、御本尊や神が降臨される箇所に壇を設け、そこに火を焚いて神仏が降臨することを念じながら祈る護摩供も執り行われています。護摩の原語はサンスクリット語で「物を焼く」ことを意味し、そのルーツはペルシアの密教とも言われています。金峯山寺の護摩供の祈りでは、願いごとを護摩木に書き、それを燃やしながら、神仏の知恵の象徴である護摩供の炎により叶えてもらうことを祈り求めます。連日、連夜、護摩を焚き続けることもあり、行者の修行においては火傷をするほど壇の周囲は熱されることがありますが、その炎の熱を耐え、いつしか苦にしなくなるまで鍛錬を続けるのが修験道者の通る道なのです。

修験道の行者は山伏と呼ばれ、その頭には兜巾と呼ばれる尖頭円型をした黒色の被り物を付けています。それは大日如来と一体になることができることの印とも言われています。また、山伏は法螺貝を吹くことでも有名です。山伏のルーツはおそらく古代イスラエルに由来すると考えられます。祈る際に、古代イスラエルの祭司は山伏のように白い服装を身に付け、ヒラクリティーと呼ばれる神の言葉が記された小さな黒い箱を頭に被り、羊の角笛であるショーファーを吹き鳴らしました。その姿は正に、兜巾を被って法螺貝を吹く山伏の姿と同じです。また、旧約聖書によると、人が神と出会う場所は高い山であったことから、神と出会うために山に登ることは、イスラエルの民にとってはごく当たり前のことだったのです。その古代イスラエルの慣わしと信仰が山伏によって受け継がれ、今日まで大切に守られてきたのではないでしょうか。

金峯山寺では神仏和合に基づき、巡礼ルートの一端を担うことも大切に考えられています。神仏霊場会奈良二十六番札所や、役行者霊蹟札所会の札所、そして大和四神めぐりの巡礼地としても金峯山寺は名を連ね、連日、多くの参拝者が訪れています。また、修験道を学ぶ者は、自ら他の巡礼地へ足を運び、日本全国各地を行脚しながら、山岳地帯において修練と学びの時を持ちます。こうして霊性を高めていくことに努めているのです。

これらの修験道の背景を考慮するならば、カンカカリャーが祭祀者となる宮古島のINORIE聖会において、修験道を象徴する金峯山寺の真骨頂とも言える護摩供が住職のチームによって導かれたことは、正に奇跡のコラボだった言えるでしょう。多くの人々が宮古の聖地に集い、根間ツルコ氏の祈りと共に修験道者も祈りを捧げ、そこで共に神を祀ることができた瞬間こそ、皆が願い求めていた平和の具現化と言えるのではないでしょうか。

2017年宮古島 INORIE 555

5月27日、宮古聖会INORIEの当日、筆者は早朝6時40分羽田発の飛行機に乗って宮古島へと直行便で飛びました。ちょうど3時間のフライトでした。事前に60名ほどの参加者があることを主催者側から聞いていましたが、とにかく初めての試みでもあり、ワクワク感がつのります。

1時20分頃、集合場所の砂山ビーチ駐車場に到着すると、そこには既に大勢の参加者が、INORIEとプリントされた白いTシャツを着て、根間氏ら御一行が到着されるのを待っていました。この人達と世界の平和、日本の平和を祈り、ひいては宇宙の融和という大きなテーマまでも想定して、天にもつながる聖地で祈祷会が行われるのかと思うと、心が弾んできます。宮古島の聖地へ入る入口の鳥居
宮古島の聖地へ入る入口の鳥居
聞くところによると、大半の方々はこの一大イベントのため県外から来ているとのこと。そして定刻の1時半になると、根間ツル子氏が主催者らと一緒に乗用車で来られました。そこから皆と一緒に車で移動し、海岸近くの樹木に囲まれた、ちょっとした森のような場所を走っていると、目の前に大きな鳥居が見えてきました。その前から狭い道沿いに何十台となく車が一列に止められ、そこから最初の祈りの場所まで歩いて行くことになったのです。

100mほど歩くと、ひっそりとした森の木陰には、すでに祭壇が作られており、金峯山寺の住職に導かれ、祝詞があげられました。その場所の名前は定かではありませんが、地元の方々は、パザカンミと呼ぶことがあるようです。少子高齢化と過疎化の影響が厳しい離島の地域だけに、宮古島も例外にもれず、地名に限らず古来の風習や言い伝え、宗教的儀式などが、矢継ぎ早に失われつつあります。パザカンミのような古代の聖地を、いかに大切に守り続けるかが今後のチャレンジであり、人々の祈りがあってこそ、宮古島の平和が守られるのではないかと祈らずにはいられませんでした。

しめ縄で結界された護摩法要地
しめ縄で結界された護摩法要地
30分ほどして祝詞の儀を終えた後、再び皆と共に車で近くのクーラバマと呼ばれる海辺へと移動することになりました。宮古島を最初に訪れた際、何も知らずに筆者もその海辺を歩いた記憶があり、再び同じ場所に戻ってきたことを不思議に思ったものです。公園の駐車場に車を止めて、そこから細道を下って川を渡ると、すぐに砂浜が見えてきました。そして砂浜の一角では既に、金峯山寺から来られた修験道者によって護摩法要を執り行うための準備が完了していました。

古代では柴や薪で壇を構築したことから、真言系の修験道において護摩法要は、柴燈大護摩供(さいとうおおごまく)とも呼ばれています。その伝統的な儀式が、宮古島の海辺で行われることになったのです。野外の海辺で催される護摩法要であることから、祭壇が作られた場所の四方には、1辺が10m少々の長さにしめ縄が張り巡らされていました。宮古島のクーラバマが正に聖地化され、結界した時でした。そして祭壇手前の中心には、1m四方、高さも1mほどの壇が構築され、その中に積まれた護摩符は壇の枠組みと共に青葉で覆い飾られていました。

海辺に作られた祭壇のお供え物
海辺に作られた祭壇のお供え物
しばらくして、道場の四方が清められた後、法螺貝の響きと共に山伏団が大声をあげて自ら名乗りを上げ、問答を繰り返して唱えながら、しめ縄を切って後方より隊伍を組んで結界へ入場してきました。そして住職が祭壇と相対する位置に座られると、山伏らは刀をもって護摩壇を打ち振い、道拓きをする儀式と進みました。直後、大灯火が青柴と古材に点火され、柴燈護摩壇からたちまち、白い煙が舞い上がり、一気に燃え始めたのです。すると、すぐに般若心経の大誦読が始まり、怒号のように響く山伏の声の響きに、一部参加者の誦和も加わり、舞い上がる火の手と共に、あたりは騒然とした雰囲気に包まれました。

柴燈護摩壇の周囲を回る参拝者
柴燈護摩壇の周囲を回る参拝者
その山伏の般若心経の祈りの響きと、檀からもくもくと舞い上がる煙と共に、根間ツル子氏も祭壇の前で微動だにせず祈り続けておられました。三位一体、神仏融合を念頭に企画された聖会でしたが、正にその思いが実現した時でした。神を信じる者、仏を信じる者、そして共に祈りを捧げたく参加した者、皆が一つになって祈りを捧げ、宮古島のクーラバマから舞い上がる煙と共に、その祈りの思いが天にまで届くように思える平安の時を過ごすことができたことに感謝があふれてきました。