伊平屋島のクマヤ洞窟とは
伊平屋島の最北端、田名(だな)集落の北側にあるクバ山の近くに、「クマヤ洞窟」があります。島の東岸に位置し、その西側には「ヤヘー岩」があります。約3億年前に形成されたチャートが海風によって浸食・風化されてできたとされる「クマヤ洞窟」は、沖縄県の天然記念物に指定されています。
洞窟内は高さが約10m、奥行きは約40mで、およそ600平方メートルの広さがあります。洞窟の奥は島の西岸まで繋がっているという伝承があり、西側の入口は西クマヤ穴と呼ばれていました。また、洞窟の奥には石積みに囲まれた住居跡のような遺構があります。
「クマヤ」と呼ばれるようになった由来については定説はありません。一説によると、神が「籠る」場所を意味する「籠屋(こもや)」が転じて「クマヤ」になったと言われています。また、神が穴に籠ることから「籠穴(こもあな)」が「クマヤ」と呼ばれるようになったという説もあります。
天岩戸伝説の舞台と言われる所以
日本書紀や古事記には、天照大神が洞窟に隠れ、外へ出てくることを拒んだ天岩戸伝説に関する記述があります。その比定地としては九州の高千穂がよく知られており、高千穂には天岩戸神社も鎮座しています。しかし、天岩戸伝説の比定地は国内各地に数多く存在します。
中でも、その舞台は琉球にあったという説が、18世紀後期に歴史学の分野にて名を馳せた藤原貞幹の「衝口発」という論文の中で発表されました。そして、その比定地こそ伊平屋島の「クマヤ洞窟」であると論じたのです。この衝撃的な学説は、その後、多くの論争を巻き起こすことになりました。
藤原貞幹の「衝口発」とは
江戸時代中後期を代表する歴史研究家である藤原貞幹は、儒学、書道、和歌、雅楽をはじめ多方面の学問に精通し、日本考古学や文献学の祖の1人とも称された学者でした。その学識の領域は大変広く、代表作である「集古図」には、日本の地理、天文学、石器、刀剣、銅器、瓦器、葬具などに関わる豊富な知見がまとめられています。
「衝口発」によると、神武天皇は伊平屋島で誕生しただけでなく、その北端にあるクマヤ洞窟こそが天岩戸伝説の舞台であったとしています。また、この著作では神武天皇の在位年代を繰り下げ、神代文字の存在を否定し、さらには素戔嗚尊を新羅の国王であったと論じました。そのため、この学説は大きな論争を呼び、本居宣長を筆頭に多くの国学者から激しい批判を受けることになりました。
「衝口発」が提唱するクマヤ洞窟と岩戸伝説の関連性については、今日に至るまで確かな証拠が示されているわけではありません。しかし、交通手段が十分に発達していなかった江戸時代に、広い日本列島の中から沖縄の離島である伊平屋島に着目しただけでなく、島の北端にある巨石を見出して天岩戸と比定したことは驚くべきことです。そこには、何らかの重要な根拠が存在していた可能性があります。そこで、クマヤ洞窟の詳細を詳しく検証することにします。
クマヤ洞窟を塞ぐ落石の跡
クマヤ洞窟の正面から崩れ落ちた巨大岩石の跡
クマヤ洞窟の実態を詳しく観察すると、小高い山のように見える巨石群が、非常に特徴的な形状をしていることに気付きます。特筆すべきは、海側に面している正面部分です。洞窟の入口がある正面側は、まるで頂上から山が切り落とされたような形状をしており、崩落したと考えられる巨大な岩塊が、そのまま積み重なった状態で残されています。つまり、洞窟全体を形成する巨大な岩盤の前面部分が、最上部から崩れ落ちた痕跡が確認できるのです。
その切り口は極めて不自然で、人為的に崩された可能性さえ想起させます。いずれにしても、遠い昔に何らかの力が加わり、クマヤ洞窟の前面を構成していた岩盤が崩落したことは確かです。そして、その崩落以前に風や波による浸食によって岩盤内部が空洞化していたため、崩れ落ちた岩が入口を塞ぐ形となり、現在の洞窟のような姿になったと考えられます。
その一連の出来事を天岩戸伝説に結び付けて考えると、興味深い一致が見えてきます。すなわち、入口が巨大な岩によって塞がれ、その内部に天照大神が閉じ込められたと考えることもできます。その後、多くの人々が力を合わせて岩を動かしたことにより、少しずつ光が入り始め、やがて人が出入りできるようになったと想定すれば、天岩戸伝説の物語とも見事に繋がります。
クマヤ洞窟内に差し込む太陽の光
もちろん、これらはあくまで仮説であり、現時点で立証する手段はありません。しかし、これほど明瞭な崩落の痕跡があり、しかも入口が巨大な落石によって塞がれているように見える洞窟は、国内でも極めて珍しい事例です。また、京都を拠点としていた藤原貞幹が、どのような経緯で琉球諸島の伊平屋島にあるクマヤ洞窟に着目したのかは、今日でも明らかではありません。しかし、天文学的な知識や地理的な配置、あるいはレイラインのような地理的構想をも踏まえた考察によって、この場所へたどり着いたのではないかと考えられます。
クマヤ洞窟2枚岩の意味
クマヤ洞窟の拝殿横にある2枚岩
実際にクマヤ洞窟の中に入ってみると、その中は意外に広いことに驚きます。そして奥に設けられた祭壇の右側には、2つに割れた岩が左右に広がるように置かれ、その中央が通り道となっているように見えます。この二枚岩は、古代イスラエルの民が神との契約の象徴として用いた、割かれた生贄を思わせる構造に類似したものであると考えられます。
旧約聖書創世記15章には、アブラム(後のアブラハム)が生贄を真っ二つに裂いて、互いに向かい合わせて置いた後、アブラムの眠っている間に煙と松明に象徴される神が、その間を通り抜けたと記されています。これは神の約束が成就されることを象徴する神聖な出来事であり、古代イスラエル人では裂かれた生け贄の間を通ることが、命をかけて契約を結ぶ儀式として理解されていました。そして岩は神を象徴することから、やがて2枚の岩の間を歩むことが、神との契約を新たにする儀式として理解されるようになったのではないでしょうか。
このような割かれた岩の祭壇は、諏訪大社の裏山に佇む守屋山の磐座などにも見られます。クマヤ洞窟の中に、人為的に割かれた岩が綺麗に二股に分かれて置かれていること自体、古来よりイスラエルの民がその場所で祭祀活動を行っていた可能性があることを示唆しています。
「クマヤ」の意味は「神よ立ち上がれ」
前述したとおり、「クマヤ」という名称の意味には定説がありません。しかしながら、この言葉をヘブライ語で読むと意味が明確になることから、その語源はおそらくヘブライ語であると考えられます。
前述したとおり、「クマヤ」という名称の語源には定説がありません。しかし、この言葉をヘブライ語で読み解くと、ひとつの解釈が成り立ちます。まず、קום(kum、クム)は立ち上がるという意味のヘブライ語です。そして「ヤ」は「神」を意味する言葉として知られています。ヘブライ語では神のことを יהוה(yhwh、ヤ―ウェー)と表記しますが、母音が記されていないことから本来の発音は今日でも確定していません。そのため、便宜上「ヤ―ウェー」と記載する場合があります。しかし、今日までユダヤ人は聖なる神の名を発音することを避けています。よって、יהוה(yhwh、ヤ―ウェー)というヘブライ語の言葉は発音できないままなのです。その一方で、「ヤ」という言葉は「神」を意味する言葉として頻繁に用いられてきました。したがって、「ヤ」の神はイスラエルの神なのです。
すると、「立ち上がる」を意味する「クム」と、神の「ヤ」を合わせると、「クムヤ」となり、「神よ、立ち上がってください」という祈りの言葉になります。その「クマヤ」が多少訛って「クマヤ」になったと考えられます。それ故、神が立ち上がることを象徴する岩にふさわしい名として、「クマヤ」という名称で知られるようになったのではないでしょうか。
もしかすると、クマヤ洞窟が天岩戸伝説に結び付いているという説は、あながち根拠のないものではないのかもしれません。天照大神が洞窟から姿を現すことを願い求めて、「神よ、立ち上がってください」と祈ったことが、クマヤ洞窟の背景に潜んでいたのかもしれないからです。天岩戸伝説とクマヤ洞窟が結び付いているという学説の信憑性が増してきます。
クマヤ洞窟と酷似する巨石や磐座
クマヤ洞窟の容姿に似た形状の巨石や磐座が、日本全国を見渡すといくつか存在することに気付きます。まず、四国の徳島県と高知県の県境にある竹ヶ島の東海岸にある磐座です。古代からその巨石の頂上に置かれた石の上では神が祀られてきました。太平洋側に面している前面は大きく崩れ落ちており、表面はほぼ平らな断面になっています。そのため、この磐座を横から見ると、クマヤ洞窟の形に酷似して見えるのです。また、同じ四国の徳島県には剣山へ向かう山麓に、石尾神社の巨石が存在します。山のような岩そのものが御神体となり、その姿もクマヤ洞窟を彷彿とさせます。巨石を御神体としているだけでなく、その場所が古代の聖地である剣山へ向かう途中の通過点であったことから、石尾神社は古代の旅人にとって重要な信仰の場であったことでしょう。
守屋神社奥宮
さらに、クマヤ洞窟を縮小したような磐座が、諏訪大社奥宮である裏山の守屋山の山麓にも存在します。長さ約2mの積み石ですが、明らかに人為的に築かれたものであり、その形状はクマヤ洞窟との共通性を感じさせます。特に守屋山は古代集落として知られる阿久遺跡近くに位置し、諏訪大社とともに、古代の祭祀文化を考える上で重要な場所とされています。
クマヤ洞窟は、その名称の由来を考えると、ヘブライ語との関連性を想起させる興味深い存在です。もし神が立ち上がるという意味が込められているのであれば、「クマヤ洞窟」はまさにその象徴的な場所であったのかもしれません。また、クマヤ洞窟の形状に酷似した磐座が、琉球諸島だけでなく日本列島各地に存在することも注目に値します。これらの洞窟や磐座の分布と、その地理的な位置関係、さらには相互関係を調べることにより、古代人が共有していた思想や祭祀文化の実像に、少しずつ近づくことができるはずです。
クマヤ洞窟の背後には、その構想や祭祀文化をもたらした人々の存在があった可能性も考えられます。そうした視点から、その歴史的背景をさらに検証していくことが今後の課題となるでしょう。
画像ギャラリー : 天岩戸神社



クマヤ洞窟の磐座全景
竹ヶ島古宮の磐座