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マチュピチュとクスコへの冒険旅行
第5話 与那国島海底遺跡との不思議な繋がり!

古代の民が世界各地に残してきた遺跡の中には、昨今の最先端テクノロジーを駆使しても、その建造技術や成り立ちを計り知ることができないものが少なくありません。そのような謎に包まれた遺跡は、日本列島の中にも複数存在します。そのひとつが与那国島の海底遺跡です。2014年、ふとしたきっかけで、台湾のすぐ東側に浮かぶ与那国島の南岸、新川鼻(あらかわばな)と呼ばれる断崖からおよそ100m離れた海中に、砦のような様相を呈した遺跡があることを雑誌の記事から知りました。その海底遺跡の存在を訴え続けてきたのが、琉球大学にて海洋地質学や海洋考古学を教えていた木村政昭教授(現琉球大学名誉教授)です。1992年から琉球大学海底調査が開始され、2000年に「与那国島海底遺跡・潜水調査記録」が出版されました。そこには、与那国島海底遺跡が人間の手で作られたことを裏付ける、多くの画像が掲載されています。

木村政昭著「与那国島海底遺跡・潜水調査記録」より
木村政昭著「与那国島海底遺跡・潜水調査記録」より
しかしながら、与那国島の海底遺跡は一般的にはあまり知られていません。それもそのはずです。調査団からは海底遺跡と称されてはいても、実は自然の地形ではないか、という学者の見解も多数あることから、沖縄県も遺跡として認定していないのです。ただ、行政が何もしてない訳ではありません。2016年からは与那国町が国の史跡として登録できるように調査事業を発足し、さらにはジオパークや世界遺産に登録しようとする動きも見られるようになりました。

与那国島海底遺跡に渦巻く議論

与那国島の海底遺跡は、単に自然の地形であると主張する学者は少なくありません。例えば段々畑のように規則的に重なる地形は、マグマが冷却して固まる際に、直線方向に入る割れ目がずれて、方状摂理の現象により形成されると考えられています。だからこそ、人間の背丈よりも高い断層も生じることとなり、到底人為的に造ったものには見えません。さらには周辺地域の断層に沿って東南方向に遺跡全体が10度少々傾いていることも、生活に支障をきたすレベルであると推測されています。また、折衷案としてそこまで自然地形説に固執せず、古代人によって自然石にある程度の加工がなされ、自然の地形を利用した神殿として祭祀活動が行われていたのではないか、という説もあります。

与那国島 海底遺跡
与那国島 海底遺跡
しかしながら、インターネットに公開されている写真の多くは、明らかに人工の産物のように人の目に映るのではないでしょうか。10度にも傾く地面とて、ちょっとした地殻変動や大地震があれば、その程度の傾斜はすぐにできてしまうでしょう。その他、人が行き来する通路に見える岩場や、メインテラスのように平面の岩がきれいに積み重なっている広場、階段など、人工の作品としか思えない形状のものが多々あり、二枚岩とて板状節理をもっても説明のしようがありません。また、「亀の頭」と呼ばれるようなきれいな三角形を描いた岩場や、広場の角にある階段の形状をした直角の岩など、自然に造成された地形と結論づけるには無理がありそうです。

「百聞は一見に如かず」という諺のとおり、早速自分の目で海底遺跡を確かめてみることにしました。与那国島海底遺跡の探索は簡単ではありません。何故なら海中に存在することから、スキューバダイビングが必須となり、写真も撮影するにしても水中カメラを使用しなければなりません。しかも、与那国島は黒潮がぶつかる場所に位置することから、その潮流の状態と海中の濁りを見極めないと、せっかく潜っても潮に流されたり、何も見えないということになりかねません。また、天候のチェックも不可欠です。島の南岸に遺跡が存在するので、風の悪影響を受けないためにも北方から風が吹いてくる時を待たなければならないのです。これらすべてのコンディションをきめ細かく観察した上でなければ、ダイビングはできないことから、海底遺跡の探索は決して容易ではありません。

ダイビングのチャンスが訪れた
ダイビングのチャンスが訪れた
幸いにも与那国島を訪れてから4日目の最後の日に風向きが変わり、無事にダイビングを実行することができました。海中での視界も悪くはなく、持参した水中カメラで遺跡の画像をしっかりとキャプチャーすることができました。海中を自ら泳ぎ回り、遺跡の実態を自分の眼で見て、岩石に手を触れながら確認することができたことは大きな収穫でした。そこで見た与那国の海底遺跡とは、精工に造り上げた古代人の作品であり、正に人工の砦としか思えなかったことを覚えています。それからあっという間に7年という年月が過ぎ去っていきました。

昨今、巷では世界遺産のブームが巻き起こっており、日本でも世界遺産の登録を積極的にユネスコに対して働きかけるようになりました。世界遺産の中には著名な遺跡が名を連ねています。中でも、マチュピチュは際立つ存在です。山上の砦というだけでなく、その規模、岩の精工な造り、ペルーの山奥というだけでも、十分なほど神秘的要素に溢れています。

空中都市マチュピチュ
空中都市マチュピチュ

そんなある日、ふと、マチュピチュが与那国島の海底遺跡と結び付いているように思えてきたのです。何故、そう思えたのかは、自分でもわかりません。マチュピチュやインカ遺跡のことについてはほとんど知識もなく、また、与那国の海底遺跡とマチュピチュの繋がりに関する記事さえもいまだかつて見たことがありません。ただ、不思議とそのように思えてきたのです。それ故、マチュピチュと周辺のインカ遺跡をどうしても見たくなり、何か新しい発見があるかもしれないと期待をつのらせて、2018年1月にペルーへと旅しました。

初めての弾丸南米ツアーは、まさに青天の霹靂とも思えるほど衝撃的なものでした。与那国島の海底遺跡で見た記憶のある光景を彷彿させるような同等の造作物を、マチュピチュだけでなく、複数のインカ遺跡で見出したのです。それらの光景を見た瞬間に、「どこかで見たことがある光景だ!」と思わざるをえませんでした。当初は直観的に形状の類似性を感じただけにすぎませんでしたが、時間が経つにつれて、その思いは確信へと変わることになります。何故ならペルーから帰国後、自らが撮影した写真を並べて与那国島海底遺跡のものと比較すると、その中には確かに類似性が際立っているものが複数存在したからです。

インカ帝国と与那国海底遺跡が歴史的に繋がっているのではないか、という当初の思いは、もはや空想の域を超え、現実味を帯びてきました。そこでまず、インカ帝国の成り立ちをインカ神話から学び、与那国島海底遺跡との接点が存在するか、確認することにしました。果たして、そこに歴史的なリンクが存在するのでしょうか。

巨石文化のルーツに潜む水没国家の謎

人類の歴史には多くの謎が潜んでいます。その代表格がペルーの山中に建造されたマチュピチュやインカ遺跡の数々です。これらの古代遺跡の特徴のひとつとして、巨石を用いた造作物が多用されていることが挙げられます。巨石を積みあげて完成された施設の目的は定かではありませんが、古代イスラエル人が、岩は神と考え、神の呼び名として「岩」を用いたように、インカの時代においても岩なる巨石に対して、何らかの信仰心があったと考えても不思議ではありません。

曲線の石組が美しいマチュピチュの「太陽の神殿」
曲線の石組が美しいマチュピチュの「太陽の神殿」
そのインカ帝国の信仰を理解する上で、大切なヒントとなるのが、南米の三大祭りのひとつ、インティライミと呼ばれる太陽の祭りです。正式には15世紀から始まったとも言われるインティライミはおそらく、インカ帝国時代にその起源があるようです。この宗教儀式は、南半球にて1年のうちで最も日が短い6月24日の冬至の日に開催されます。インティライミは当初、クスコの中心地で執り行われていましたが、16世紀から4世紀ほど政治的要因から中断を余儀なくされ、その後、1944年よりインカ帝国の首都クスコに隣接するサクサイワマンにおいて再開されました。インティライミでは、動物の生贄を捧げながら太陽神であるインティを崇め祀り、豊作を祈る儀式が執り行われます。旧約聖書に記載されている律法においても動物の生贄に関する記述が多く含まれており、イスラエルの民は信仰の道からはずれた際には太陽神を崇めることもあったことから、何かしら関連性があるかもしれません。

インティライミの儀式のルーツはインカの創造神話にあると伝えられています。その中心となるテーマは、不思議なことに湖と水没に関わっています。インカの創造神話は複数あります。建国の父はチチカカ湖の中から生まれたとか、湖の彼方からやってきた、もしくは隣の月の島から到来したとも語り継がれています。また、金の杖や笏に纏わるインカ神の伝説も存在します。不義が横行するあまり、インカ神は子供たちをチチカカ湖に降り立たせますが、金の笏が沈んでしまう神話や、金の杖が沈んでしまった地に太陽の神殿を作るため、地下道を通ってクスコにまで行き、そこに神殿を建立したという言い伝えなどが知られています。

これらの伝承に、湖や水没に関連する内容が多く含まれていることは偶然ではないでしょう。それはインカ帝国の前身となる国家が水没してしまうという一大事が歴史的背景にあった可能性を示唆しているようにも思えます。そして二度と水没することのない、常に太陽が輝く新しい国家を創生するため、海抜3,400mの標高を誇るクスコの盆地に新しい帝国の首都を建造したのです。なぜ、クスコの高地が選ばれたかは定かではありません。しかしながら、太陽神を冬至の日に崇め祀る文化があることから、もしかしてヒントは、夏至の日にあるのかもしれません。

クスコ 太陽神殿
クスコ 太陽神殿 (コリカンチャ)
太陽神を崇める民にとって、1年のうちで最も日が長い夏至の日は、一番重要な日であるに違いありません。クスコから夏至の日に太陽が昇るおよそ60度の方向を地図で辿ると、イスラエルのエルサレムに繋がることがわかります。距離は12,400qも離れた遠い場所にあるのですが、ペルーからブラジルとの国境を越えて山を下ると、その後にはイスラエルまで一切、山や高地が存在しません。南アメリカではブラジルの原始林、そしてアフリカ大陸ではアルジェリアやリビアの砂漠があるだけで、その途中には大西洋が広がっています。つまりクスコの地とは、エルサレムから見ると、冬至の日が沈む方向にある、標高の一番高い所にある盆地なのです。

インティライミの儀式が行われる6月24日は、北半球のイスラエルでは夏至の日です。よって、6月24日を祝うということは、イスラエルにおける夏至の日を祝うことにも繋がるだけでなく、実際にはクスコから見て夏至の太陽が出ずる方向に、イスラエルが位置しているのです。このように太陽信仰を介して、クスコの位置づけとイスラエルのエルサレムが関係していたと想定すれば、クスコという標高3,400mという高地になぜ、街造りがされたかを理解することができます。クスコは、イスラエルから見て、冬至の日が沈む方向にある最も標高の高い場所に位置していたのです。

いずれにしてもインカ神話で語り継がれてきた湖や水没をテーマとした伝説の背景に、海面下に沈む古代国家の存在があったとするならば、遠く離れた与那国島の海底遺跡との関連性も否定できません。与那国島のインカ帝国が何らかの天変地異を機に水没してしまったことから、二度と水没することのない場所に首都を設けるべく、世界中をくまなく探した結果、イスラエルと地理的に結び付き、太陽の動きとも見事に連動する直線上の最も標高の高い盆地に、インカの首都が作られたとは考えられないでしょうか。与那国島の海底遺跡とクスコ・マチュピチュが歴史的に繋がっているかもれしない、という当初の憶測は、あながち的外れではなかった可能性が出てきました。

与那国島海底遺跡の真相に迫る

遺跡ポイント立体図 木村政昭著「与那国島海底遺跡・潜水調査記録」より
遺跡ポイント立体図 木村政昭著「与那国島海底遺跡・潜水調査記録」より

与那国島の海底遺跡は、南北150m、東西250m、高低差は25mという壮大な規模を誇ります。水深は最も深いところでも25mほどです。主だった遺跡は水深20mから10m前後の岩礁の中に広がり、遺跡の最高部は水面上にその姿を現しています。まず、トンネル状の通路からなるアーチ門があります。次に二枚岩と呼ばれる長さが7m、高さが1m、厚さ40pほどの薄い岩が、ぴたりと重なって岸壁に立て掛けられています。この二枚板を見るだけでも、自然に割れて付着したものではないことがわかります。そして水深15mほどにはメインテラスと呼ばれる平坦に造成された広場が存在し、周囲には階段のように積まれた造作物が整然と並んでいます。

岩礁の上部、水面10mから5mほどまで上がると、そこにはアッパーテラスと呼ばれる聖域のような場所が広がっています。高さが3mほどの円形の筒型をした礼拝所にも見える神殿のような所もあり、その形状からしても、クスコやマチュピチュにある太陽の神殿を思い出さずにはいられません。さらに三角形の石を頂点として、左右均等に広がる石もあり、亀の頭、もしくは翼を広げた鷲のような鳥のようにも見えます。与那国島の地上にあるサンニヌ台遺跡には、大きな鷲のような鳥の形をしたレリーフが存在することから関連性があるかもしれません。その他、段々畑のように見える壁と地面の繋がり、直角にきちんと削られた階段、くさびのような道具を使った穴跡が並ぶ岩石など、見どころ溢れる与那国島海底遺跡には、多くの散策スポットが存在します。

与那国島海底遺跡は自然の産物か、人工の遺跡か、賛否両論に分かれます。しかしながら、実際に潜水しながら自分の目で確認した巨大な海底岩盤は、正に遺跡と言うにふさわしいほど、人の手がかけられた痕跡を伺うことができました。この海底遺跡を人工のものと仮定した場合、それが古代の神殿か、琉球のグスクのような城か、何らかの砦か、もしくは墓か、果ては伝説のアトランティス大陸の一片か、方向性は未だに見えてきません。

多くの意見が飛び交う中、与那国島海底遺跡とインカ遺跡の関係についても検討していく必要がありそうです。何故なら、ここに掲載のペア写真にあるように、与那国島海底遺跡にある岩の姿と、複数のインカ遺跡で見られる岩の形状は酷似しているものが多く、そのルーツがもしかすると同じではないのかと思えるからです。与那国島とインカ帝国の繋がりは、果たして単なる歴史のロマンなのでしょうか。