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秦氏と京都太秦の謎

平安初期、驚異的な地理感と卓越した土木技術のノウハウを駆使して皇室に仕え、桓武天皇の治世に貢献した和気清麻呂は、秦氏らの協力を得て、平安京の遷都を実現させました。当時、朝廷において強い影響力を持っていた有力者である秦氏は、平安京の造営にあたり、そのプロジェクトを推進するために平安京の大内裏を含む土地や多くの私財を献上した陰の立役者です。日本の古代史における秦氏の働きについては、教科書にもほとんど触れられていないことから、いまだにあまりよく理解されていないようです。しかしながら、秦氏の実態を調べていくうちに、この渡来系の集団こそ、天皇家に繋がる王系一族の流れを汲む生粋の民族であるだけでなく、実際に日本文化の礎を築き、神道信仰の土台を構築した日本史における、最も重要な渡来系一族であることがわかります。

日本の歴史に大きく貢献した秦氏

アジア大陸から朝鮮半島を経て渡来してきた秦氏の歴史は、少なくとも3〜4世紀まで遡り、ちょうど大和朝廷が成立した頃と重なります。「新撰氏姓録」には、秦氏の先祖である功満王が渡来したことに関する記載があります。また、「日本書紀」には、応神14年に功満王の息子で融通王とも呼ばれる弓月君が、朝鮮半島を経由して百済から127県の民を率いて帰化し、秦氏の基となったことが明記されています。その後、秦氏は雄略天皇の時代(5世紀)に秦部92部から成る18,670人、さらに6世紀には少なくとも7,053戸、数万人規模の存在として公に知られるようになり、一大勢力に成長したのです。当時の日本の総人口から考えても、秦氏の存在は際立っていました。

秦氏が大陸より携えてきた文化は極めて高度なものであり、秦氏はその財力と土木技術を活かして、灌漑や大規模な土木工事、古墳の造営に着手し、特に西山、北山、東山の山麓に囲まれた山背国と呼ばれる地域の開発と発展に大きく貢献しました。そして、八幡神社や広隆寺をはじめとする多くの神社を全国に設立したのです。また、養蚕や機織り、酒造も手掛け、楽器や紙といったさまざまな文化・芸術に関する教養も日本にもたらし、飛鳥文化における中心的な役割を担いました。秦という名前から、機織りという言葉が生まれたとも言われています。さらに政治・経済においても秦氏の影響力は計り知れず、聖徳太子のブレーンとして活躍した秦河勝を筆頭に、その絶大なる経済力を背景に多くの寺院を建立し、朝廷に対して強い影響力を保持したが故に、最終的には平安京さえも短期間で造営する原動力となったのです。

秦氏に関する素朴な疑問とは

秦氏が古代日本史における中心的存在として、これまでさほど話題に上らなかった理由は、おそらく、そのルーツが渡来人であり、その出自が不透明であったからではないでしょうか。日本に渡来する以前は、大陸においても長い間、寄留者・異邦人という立場で大陸を移動し続けた秦氏は、東アジア各地においても多大なる政治・文化的な貢献を果たすも、結局は自らのアイデンティティーを明かさず、あくまで裏方に徹してきたようです。よって東アジア史においても、秦氏の存在については多くの謎に包まれたままです。また、史書には秦氏の祖先は始皇帝であるという記述が散見され、ユダヤルーツの可能性も以前から囁かれていますが、これもまた、多くの謎が残されたままです。

秦氏に関する素朴な疑問を幾つか考えてみました。まず、数万人規模の集団が大陸から移住してきたにも関わらず、故郷が明らかでないのはおかしなことです。少なくとも、本来ならばその旅の経路や人口の変動、文献による記録などから、どこから到来した民族であるかがわかるはずです。また古代の日本社会においては経済の基礎インフラがほとんど構築されておらず、物資そのものが不足していたこともあり、短期間で蓄財することは到底不可能であったと考えられます。よって、秦氏は大陸で財を成した有力者であり、その富と技術、大勢の民を伴って渡来してきたことは明らかです。大陸通であるが故に、後世610年に新羅からの使者を迎えるにあたっては、その重要な役目を朝廷から授かったほどでもあり、歴然とした有力者として政治に携わってきた一族であったのです。では、彼らの高度な文化は一体どこで培われ、その政治力や経済力の原点はどこに由来していたのでしょうか? さらに、秦氏と関係の深い神社仏閣に残る習慣には、景教の影響を受けたと思われる事例が散見されることから、秦氏はユダヤ系の景教徒ではないかと長年、囁かれてきていますが、本当なのでしょうか? 何故、秦氏がシルクロードの東の終点である日本に到来し、最終的にそこを生涯の拠点として、末永く国家形成の為に尽力したのでしょうか。

これらの疑問を解決するため、今一度、日本文化と秦氏の関わりを見直し、特に宗教文化における神社創設との関わりや言語面に注視し、その背景に見え隠れするイスラエルの存在を検証しながら、秦氏の出自を明らかにしていきます。

秦氏のルーツに見え隠れするイスラエルの影

京都周辺には秦氏の氏寺である広隆寺をはじめ、大覚寺、仁和寺、木嶋神社や大避神社等、秦氏が創建に関わった神社が多数あります。秦河勝によって建立された太秦の広隆寺は、正面門前より広い境内へと向かう参道の緩やかな勾配と、美しい建造物、そして背景に広がる山々の景色との調和が実に見事です。仁和寺や大覚寺等、秦氏が建造に関わった寺社にも同様に、境内周辺の情緒溢れる穏やかな空間、きめ細かいデザインが際立つ各種建築物の高度な技巧、類似したモチーフなど共通した美的感覚を見出すことができ、優れた建築技術に感嘆しないではいられません。また仁和寺と大覚寺では、参拝者が自由に素足で回廊を巡ることができ、歴史の重みを十二分に感じとれ、回廊を散歩中に目にする美しい風景にも絶句させられます。大陸文化とは一線を画す日本独自の繊細で几帳面な建築美学のルーツが、ここにあります。

始皇帝(三才図会より)
始皇帝(三才図会より)
古代日本における秦氏の力は計り知れず、太秦村誌にも「欽明天皇の頃、戸籍に載する秦氏の総数七〇五三戸に及ぶより見れば、その勢力の侮るべからざることを知るべし」と記されています。当時、秦氏の戸数はすでに140郷余りであり、欽明天皇より15代後の元正天皇の御代でも国内全体の郷数は4012に過ぎず、秦氏の勢力については想像するに難しくありません。事実、秦氏の手が及んでいない神社仏閣を探すほうが難しいほど、秦氏は京都太秦を中心として栄えました。そして秦氏は大陸新文化を鼓吹し、商業、農業、酒醸造などに貢献し、日本文化の礎を築く原動力となることにより、政治経済の実権を握ったのです。その実態は京都府葛野郡史概要に「伊勢に至り商業に従ひしことあれば利殖の道に長け、他日、秦氏の富饒を招来する因を講へしなるべし。特に大蔵省に召されしを見ても秦氏の富との関係、はなるべからざる由来を窺ふべし。秦氏は實に新しき文化と共に巨富の所有者なりしない」と記されている通りです。秦氏がユダヤ王族系の財閥でなくして、これだけの利殖の道に長けた富豪が、突如として日本の歴史に登場することなどありうるでしょうか。

ところが、古代日本社会において、日本文化の基礎を築き上げる中心的役割を、秦氏が果たしたことが明らかであるにも関わらず、歴史の教科書には「大陸から新しい文化を携えて日本の文化に貢献した渡来人」程度の記述しかないようです。日本書紀等の古文書には、秦氏が「百済より帰化けり」と明記されているため、日本文化に貢献した中心的な存在として秦氏を公認してしまうと、日本人のルーツが百済からの帰化人であると解されてしまうことを怖れたのでしょうか。確かに秦氏の多くは百済を経由して渡来したと考えられるため、百済系渡来人と思われがちですが、実際には百済で一時的に寄留していた「異邦人」に過ぎなかったのです。そして秦氏のルーツをさらに遡ると、秦の始皇帝の子孫である可能性を秘めているだけでなく、弓月君の出自である西アジア地域にも繋がり、最終的にはイスラエルのダビデ王族の血統を継ぐ一族に辿り着く可能性さえも見えてくるのです。そのルーツの流れは、秦氏が建立した寺社を検証することによって、明らかにされます。

広隆寺は大秦景教のお寺

秦氏は広隆寺をはじめ、八幡神社や稲荷神社等、多くの寺社の建立に長年関わってきたことが知られています。647年に秦河勝が没した際に、赤穂の坂越(兵庫県)に大避神社が創建され、その霊は大避大神として天照皇大神と共に祀られました。また、稲荷神社の発祥の地は京都の伏見稲荷大社ですが、その由来書には、秦伊呂具が創建したと記載されています。さらに、日本各地に1万社以上あると言われている八幡宮は、そのおおもとである大分の宇佐八幡神宮も辛島氏という秦氏が創建者です。そして松尾大社や四国の金刀比羅宮等、多くの神社に秦氏が関わった形跡が残されています。また、嵯峨野のある山城国葛野郡は秦氏の本拠地の1つですが、そこには秦河勝が聖徳太子より弥勒菩薩半跏思惟像を賜り、建立された秦氏の氏寺である広隆寺があります。京都最古の寺として603年に建立された広隆寺は、元来、蜂岡寺(はちおかでら)と呼ばれていました。その後、幾度となく移転を繰り返しながら平安初期、現在の地に落ち着き、いつしか「太秦寺」とも呼ばれるようになったのです。

広隆寺が建立された頃と時を同じく、唐においてはネストリウス派のキリスト教である景教の布教が活発になっていました。そして3世紀から7世紀にかけて西アジアを支配したササン朝ペルシャ帝国により育まれてきた景教を638年、唐は公認したのです。その寺院は当初、ペルシャに由来する宗教という意味のヘブライ語pharsi、ファシィ(pharsi、ファシィ)、もしくはペルシャ語の「ファルシィ」の音訳として、「波斯」という漢字が用いられ、中国では「波斯寺」(はしでら)、もしくは「波斯経寺」と名付けられました。その例にもれず、日本では同様に景教のルーツを持つ広隆寺も、「波斯の宗教」、「ペルシャの経」という意味の「波斯経寺」と命名されたのです。そしてこの言葉を語源として広隆寺の元来の名である「蜂岡寺」が、その当て字として生まれました。「経」は「宗教の聖典」を意味しますが、ヘブライ語ではkhok、ホック/オク(khok、ホック/オク)という「律法」を意味する言葉で言い表します。すると「波斯経」の読みは「ファシオク」なり、その発音に当てた漢字が「蜂岡」です。そして日本語では「波斯経寺」が、「蜂岡(はちおか)寺」と呼ばれるようになったのです。

その後、651年にはササン朝が滅び、イスラム共同体にとって代わったため、745年には教団の名前が「大秦景教」と改められ、それ以降、景教寺院の呼び名自体も「大秦寺」に改称されました。当時、中国よりも西に位置する帝国は大秦国と呼ばれており、歴史的にはローマ帝国を意味しました。そしてキリスト教は既にローマ帝国において国教とされていたことから、公には「大秦景教」と呼ばれるようになり、その際、「波斯経寺」の名前も「大秦寺」に改名されたのです。それ以降、日本においても蜂岡寺として建立された広隆寺が、いつしか「太秦寺」とも呼ばれるようになったのです。それは単に大秦景教と大秦寺という名前が、景教に基づく信仰のルーツによって関連しているだけでなく、広隆寺そのものの背景に、当時アジア大陸に広まりつつあった景教がしっかりと根付いていたことを意味します。

中国ではネストリウス派の布教が5世紀後半には既に開始されており、景教が公認される以前から布教活動は各地で積極的に進められていました。よって、景教の寺院である波斯経寺が、中国での公認より先だって日本の地で建立され、蜂岡寺と呼ばれるようになったとしても、決して不思議ではありません。諸外国の影響を受けづらい島国である日本だからこそ、そしてまだ宗教的対立となる障害がその当時、さほどなかったという国家の事情も相重なり、新規に寺院を建立しやすかったことが、当時、中国よりも先に「波斯経寺」の日本版である「蜂岡寺」が早期に建立され、公認された要因と考えられます。

太秦がウズマサと呼ばれた所以

広隆寺のルーツが景教にあることの決定的なもう1つの理由が、広隆寺が建立された場所の地名である「太秦」の文字と、その読みに秘められています。「太秦」は「ローマ国教」であるキリスト教を意味する「大秦景教」の「大秦」に由来すると考えられますが、何故それを「ウズマサ」と呼ぶようになり、秦氏自らの本拠地の地名として使うまで、重要視したのでしょうか。

日本書紀や新撰姓氏録によると、秦酒公が朝廷に税を献上する際に、絹を「うず高く積み上げた」ことに感動した天皇が、「兔豆母利麻佐(うつもりまさ)」という姓を秦氏に与えたのがその由来であり、また、続日本紀には、聖武天皇の時代、恭仁京を造営する際に築いた大宮垣の褒美として「太秦」の称号が与えられたと記載されています。

実は「兔豆母利麻佐」という言葉は、「ウツァ・モリッ・マシャ」というヘブライ語に漢字を当てたものであり、その言葉の意味は「処刑された救い主」だったのです。まずhutsa、フゥツァ(hutsa、フゥツァ)が「(命を)取られる」という意味の言葉であることに注目です。その発音は「ウツァ」とも聞こえhutsale-horeg、ウツァ・レホレグ(hutsale-horeg、ウツァ・レホレグ)「処刑される」の意を持つ熟語にも見られます。次にmorish、モリッ(morish、モリッ)ですが、この言葉は「遺贈者」、「遺言により財産を他人に与える人」を意味します。またmashiakh、マシァ(mashiakh、マシァ)は「油注がれた者」、すなわち「メシア」、「救い主」を意味する言葉です。「兔豆母利麻佐」(ウツァモリッマシァ)は「自らの財産を捧げて処刑されたメシア」、つまり「自らの命を捨てて処刑された救い主」という意味になります。その略称が「ウツァ・マシァ」であり、このヘブライ語が日本語では、「ウズマサ」と発音されるようになったのです。太秦、ウズマサとは、自らの命を捧げて「処刑された救い主」を意味する言葉だったのです。

秦氏の氏神である大辟大明神の名称にも、太秦と同様にイスラエルの神に関する痕跡を見出すことができます。景教ではダビデのことを「大闢」と書きます。「闢」の門構えを省略すると「大辟(オオサケ)」となるため、この名前はダビデ王を意味し、それが秦氏の氏神ではないかと考えられるのです。ところが、本来「大辟」は「オオサケ」ではなく「タイヘキ」と読むものです。しかも「大辟」は「重い刑罰」、すなわち「極刑」を意味します。すると、大辟大明神の意味は、「極刑」の神となります。果たしてそのような際どい名前の神が存在し、しかも「うずまさ」と読み方まで変えられてしまうようなことがあるのでしょうか。

その答えは、「太秦」という言葉に秘められていたのです。「処刑された救い主」をヘブライ語で意味する太秦(うずまさ)の同義語として大辟大明神の名称が用いられるようになり、それは「極刑に処された神」を意味していたのです。どうやら、秦氏が景教の信望者としてイエス・キリストを信仰していたという推測は間違いではなさそうです。秦氏の氏神が「極刑に処された救い主」であることの証が、太秦と大辟大明神という言葉に秘められていたのです。そして「ウズマサ」とは、「処刑されたイエス・キリスト」を指していたのです。この秦氏の氏神である「救い主」が日本に土着することを願い、「大辟大明神」や「ウズマサ」など、誰も抵抗を持たない風変わりな名前を、秦氏は厳選したのではないかと考えられます。大和の国という新天地において、永久の繁栄を求めた秦氏の英知が、ここに結集されているのです。