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2021/07/19

日本人のルーツと秦氏の存在 秦氏がもたらした大陸の文化から考察

秦氏のルーツはアジア大陸のいずこに?

秦氏のルーツについては不透明な点が多く、定説のないまま今日に至っています。日本書紀には、秦氏の一族が百済から渡来したと明記され、また「新撰姓氏録」や「隋書」には、秦氏と秦国との繋がりに関する記述が散見されることから、秦氏のルーツとして中国人説、朝鮮人説など、さまざまな見解が飛び交っています。しかしながら秦氏のルーツに関する諸説の多くは、これまでアジア大陸の中でも朝鮮および中国における足跡までしか歴史を遡らないことが多く、必然的に断片的な解釈に留まってしまいがちです。秦氏のルーツは、朝鮮、中国に限定されるのではなく、そこからなお時代を遡り、アジア大陸でも、さらに遠い西方にある可能性も追求することが重要です。

秦氏一族の故郷はアジア大陸のいずこにあるのでしょうか。中国史書によると、秦の始皇帝との血縁関係もあるように見受けられ、それが真実ならば、始皇帝のルーツまでも検証しながら、歴史の流れを辿る必要があります。秦氏の出自に関する謎を紐解く鍵は、秦氏自らが日本国家の創建に貢献した数々の宗教文化と神社の建立から、糸口を見出すことができます。

木嶋坐天照御魂神社 (蚕の社)
木嶋坐天照御魂神社 (蚕の社)
古代社会において日本の宗教文化の礎は、秦氏によって築き上げられ、開花したといっても過言ではないでしょう。秦氏の特異な宗教的貢献は、日本の神社神道の根幹ともいえる土着した信仰の基礎を築く結果となりました。その多大なる貢献は、秦氏によって建立された全国各地の神社において大切に伝承されてきた由緒を辿ることによっても知ることができます。それらの背景を探りながら秦氏のルーツを考察していくと、その大元となる先祖代々の本拠地が中国を越えて遥か西アジアにまで達し、ユダヤ王朝の血統を引き継ぐイスラエルの民へと繋がっている可能性が見えてきます。

始皇帝(三才図会より)
始皇帝(三才図会より)
日本に渡来するまで、秦氏は何世紀にもわたる長い年月をアジア大陸にて費やし、政治経済の分野において多大なる影響力を中国にて培ってきました。そして秦始皇帝の時代においては、始皇帝との血縁関係も囁かれる最中、一族は繁栄を極めたと考えられます。秦氏の名前、そのものが「秦」であることも、偶然の一致ではないでしょう。その後、秦が崩壊し中国大陸の政情が混乱し始めると同時に一族は東方へと拠点を移し始め、その多くは朝鮮半島にまで至りました。そして代々継承され続けてきた独自の文化やアイデンティティーを携えつつ、満を持して日本に渡来し、新天地にて自らが信じる宗教文化を日本列島において開花させたと考えられるのです。

秦氏について語られない理由

長い年月をかけて大陸を東方へと移動し、最終的に朝鮮半島から日本列島へと渡来した秦氏は、日本の宗教文化や衣食住の在り方そのものに、多大なる貢献を及ぼしました。その結果、古代中国では倭の国、すなわち日本が「秦王国」と称されるまでの政治力を短期間で誇示するまでになったのです。それだけの政治経済力と皇室との繋がりがあったからこそ、列島に渡った当初から、天皇が住まわれる京都周辺に拠点を構え、絶大なる経済力を最大限に活用して、天皇家を着実に支援することができました。秦氏の卓越した技量と政治が活かされ、短期間に国家の繁栄に貢献できたのは、皇室との血縁関係があったからに他ならないと考えられます。その血縁の基となる歴史の流れを検証することが、日本のルーツ、しいては皇族の出自を解明する手がかりになるはずです。

しかしながら、日本文化の礎を築き上げることに貢献した秦氏の功績と天皇家との親密な関係は疑いもない事実であるにも関わらず、これまで日本の歴史教育において秦氏の存在がさほど重要視されなかったのはなぜでしょうか。少なくとも秦氏の血統は今や、日本人の一部に引き継がれていることに違いはなく、今日でも秦の姓名を継承している家系は少なくありません。それ故、秦氏の出自を辿っていくことは、少なくとも日本人のルーツそのものについて考察することであり、歴史を正しく理解するために不可欠なプロセスのはずです。

秦氏についての考察や議論がこれまで積極的に行われなかった理由は、古代日本で活躍した著名人の多くが大陸からの渡来人によって占められていることが露呈することにより、日本国民の比類なき独自性と単一民族的な存在意義について疑問が投げかけられるからではないでしょうか。また、秦氏の研究の結果は皇室の出自についても言及することになり、様々な影響を及ぼすことが考えられます。よって、これまで多くの歴史家や研究者は、ありのままに議論することを躊躇し、学校教育においても踏み込んだ記述ができずに今日まで至っていると考えられます。

日本書紀や古事記に書かれていることを鵜呑みにするならば、日本という国家は天皇を現人神とする神国であり、およそ日本人は古代から連綿と続く単一民族であるという大前提に則って歴史の流れが理解される傾向があります。そのため、歴史教育によって培われた古代日本人のイメージは、独自の文化を持つ日本列島に土着していた縄文人に、大陸から渡ってきた弥生人が長い年月を経て交じり合い、今日の日本人の原型が育まれたとする考え方が定着してきたのです。それ故、古代日本における文化の礎の構築を担った人々のほとんどが渡来人であるというような論説は、日本人のルーツそのものに言及することになりかねず、あえて封印するしか術はなかったと推測されます。

しかしながら古代のデータを振り返ると、渡来人の貢献なくして古代日本社会における急速な文明開化はあり得ないことがわかります。今日の歴史人口学では、弥生時代後期に少なくとも150万人以上の渡来者が日本列島に移住しなければ、飛鳥時代から奈良、平安時代へと急増する人口の説明がつかないと結論づけています。そして膨大な数となった大陸からの移住者により、日本文化の礎が築かれていくことになったのです。突如として大量の渡来者が海を渡って訪れてくるという事象は、もしかしてアメリカの歴史がイギリス系の移民を中心とする渡来者により始まったことに類似しているかもしれません。

アメリカの建国に類似する古代日本史

アメリカ合衆国の歴史は、イギリスやオランダ、その他ヨーロッパ諸国から宗教弾圧を逃れて、大西洋を渡ってきた渡来人(移民)によって幕を開けました。当初はイギリス系の移民が圧倒的に多かったのですが、その後、他国からも大勢、海を経てアメリカへと渡るようになりました。その結果、アメリカ大陸に土着する少数派のインディアン諸部族は、圧倒的な武力を有する渡来人の圧政下のもと、インディアン居住区と呼ばれる山奥や砂漠周辺の狭いエリアに徐々に集約させられ、その存在感は歴史の中に埋もれていくことになります。そしてアメリカ大陸の歴史は渡来人によって塗り替えられ、中でもイギリス系渡来人の影響力は強く、英語圏が定着していく最中、彼らが歴史の主人公となりました。その後も多くの移民がアメリカ大陸に渡り、最終的に巨大な国家を形成するに至ったのです。

日本の古代史においても同様に、中国の圧政下から逃れて朝鮮半島に移住した秦氏が、ある時を境に新天地を目指して日本に渡り始め、その後においても、秦氏に限らず、大勢の渡来者が継続して日本列島を訪れたのです。そして秦氏は政権を樹立して国家の礎を創る陰の立役者となり、高度な大陸の文化や技術を列島に紹介しました。その秦氏の渡来に続いて、イスラエル系の他部族や、その他の民族も続々と日本列島に渡来し始め、渡来者を中心とした新しい文化圏が列島にて創生されていくことになります。その結果、それまで日本列島に土着していた縄文人とも呼ばれる原住民は、列島の隅々に追いやられてしまうことになったのです。

シルクロードのルート (1世紀ごろ)
シルクロードのルート (1世紀ごろ)
それほど、大陸からの移民は膨大な数に上り、秦氏系だけでも数万から数十万人の規模に達していたと考えられます。そして縄文時代末期では10万人に満たないと推定される日本列島の人口は、弥生時代の途中から急激に増加することとなり、数世紀に渡る大陸からの渡来者の数は最終的には100万人を優に超えたとも言われています。歴史人口学上でも、渡来者の数を少なくとも100万から150万人程度に推定しなければ数字の辻褄が合わないほど、実際に移民した人々の数は多かったようです。

日本列島に向かう大陸からの渡来者が膨大な数に上るという前提にたって歴史を解釈することにより、これまで語られることがなかった多くの謎が解明されるだけでなく、さまざまな史料をより理解しやすくなります。大陸からの渡来人による民族移動なくしては、これだけの急激な人口増加だけでなく、高度な製鉄の技術や、漢字の文化、醸造や灌漑技術、そして律令制に則った統治制度などが、古代日本社会にて急速に普及されたかを説明することができません。

特に言語の問題は重要であり、古代日本においてはほとんどの文献が漢文、中国語で書かれていたという史実があります。漢字文化を吸収できるような教育のインフラが存在しない日本の古代社会にて、知識人はどこで漢文を学び、それを流暢に読み書きして、相互のコミュニケーションをとっていたのでしょうか。つまるところ、中国大陸で教育を受けた渡来人が大勢列島に渡来し、書面上の文言は中国語でやりとりをするということが当たり前の時代であったと想定されます。そしてその渡来人の中で、最も中心的な役割を果たしたのが秦氏なのです。

秦氏の出自に関わる諸説

日本書紀などの史書に基づき、秦氏は百済から渡来した朝鮮人、韓人であるという説があります。しかしながら反論も多く、歴史家の井上光貞は、秦氏を「中国文化を身につけた外来人で、秦の遺民を称する人々」としました。つまり秦氏は朝鮮人ではなく、中国圏に長年居住してその文化を理解する秦の始皇帝の末裔である、というのです。

また、江戸時代に新井白石は「古史通惑門」において、秦氏は辰韓に移住してきた秦人(中国人)であると主張しています。その根拠となったのが3世紀末に、西晋の陳寿によって書かれた「三国志」の「魏書」にある東夷伝の倭人の条の略称で、日本では「魏志」とも呼ばれる「魏志倭人伝」の記述です。そこには、秦の苦役から逃れた民が馬韓(紀元前2世紀末~4世紀)へ亡命し、その東方に居住したのが辰韓人の始まりであるという記述があります。つまり日本と同様に、朝鮮半島においても秦氏の渡来による影響は多大であり、日本にまで渡ることなく朝鮮半島に踏みとどまった一族の存在や、秦国から逃れてきた他の部族らにより、新たなる文化圏が構築されていくことになります。

朝鮮半島における秦氏の影響力

その朝鮮半島南部では、同時期に言語や文化の異なる馬韓、辰韓、弁韓と呼ばれる三韓が歴史に登場します。その後、辰韓の地域は新羅となり、馬韓は百済、そして弁韓は朝鮮半島の最南端にて伽耶と呼ばれたのです。ところが魏志の記述においては辰韓と弁韓が混同して使われることもあり、いつの間にか「弁辰」という言葉で言い表されるようにもなりました。それは辰韓と弁韓の言語や文化が実は酷似していたからに他ならず、「魏志」にも、双方が蚕桑や織物という同一の技術において優れた文化を有し、辰韓人と弁辰人が雑居しているという記述があります。秦氏の抜きんでた文化的背景を辰韓と弁韓が共有していたのです。

その上、住人も秦人と呼ばれる中国人に似ているということから「秦韓」とも呼ばれるようになりました。こうして「秦」と、「辰韓」の「辰」は、重複した意味合いを持つようになり、混同して使われ始めただけでなく、弁韓も辰韓と混同して考えられることがあったようです。これらの背景には、膨大な数に上る秦氏をはじめとする中国大陸からの渡来者の流れがあったと推定され、様々な地域対立の要因はあるものの、その背景には秦氏の存在があり、共通の文化を有していたと考えられます。つまり秦氏こそ、辰韓と弁韓、すなわち「魏志」に書かれている弁辰の中核として存在していたのです。

秦氏の正体はユダヤか?

八幡宮神社 (対馬)
八幡宮神社 (対馬)
それでは何故、同じ秦氏の文化的背景を持つ弁辰の民が、辰韓と弁韓に分離していたのでしょうか?2つの国に分かれた謎を解く鍵が、イスラエルの南ユダ王国の2部族です。秦氏のルーツは前述した通りイスラエルに関連する可能性があり、中でも南ユダ王国のユダ族により強く結び付いていると想定されます。「秦」の「ハタ」という読みに、神を意味する「ヤ」を接頭語とした「八幡」「ヤハタ」という言葉は、ヘブライ語で「ユダヤ人」を意味する「イェフダ」に由来すると考えられるからです。ユダヤ人という言葉は今日、イスラエル人の総称として使われることもありますが、元来、南ユダ王国を構成するユダ族とベニヤミン族を指していました。中でも圧倒的な政治力と人口の多さから、ユダ族の代名詞としても使われています。よって、秦氏が建立した神社が「八幡」、「ヤハタ」と呼ばれていることは、秦氏一族自らがユダ族の出自であることを証していたと考えられるのです。

では、秦氏はどのような経緯で大陸を横断し、日本にまで渡来することになったのでしょうか。前6世紀から8世紀にかけて南北のイスラエル国家が崩壊した後、北イスラエル王国の民は世界各地へと離散し、南ユダ王国の民はバビロンへ捕囚の民として連行されました。しかしながら全員が捕囚となったわけではなく、南ユダ王国からも、アジア大陸各地へと離散した民が多く存在しました。また、国家が崩壊する直前においては、王族と祭司ら一行は、国家のアドバイザリーであった預言者らの指導の元、エルサレムを脱出して船に乗り、アジア大陸の南岸沿いを東方に航海したと考えられます。こうして南ユダ王国のユダ族、ベニヤミン族、そして祭司の任務を司るレビ族の民も、その多くはアジア大陸を東方に移動し、ごく少数のエリートのみが船に乗って海を航海したのです。その中に、秦氏の先祖も含まれていたと想定されます。

その結果、ユダ族の家系に属する秦氏も長い年月にわたりアジア大陸を拠点として中国の文化を吸収し、秦王朝の時代では、国家の有力者として台頭するまでの政治経済力を築き上げてきたのです。そして秦氏一族は秦の滅亡を機に、迫害を避けるために国を後にし、その多くは再び東方へと移動し、大陸の最東端とも言える朝鮮半島にまで辿り着いたのです。秦氏は日本へ渡来する直前まで朝鮮半島を拠点としてその存在感を極め、韓流文化の影響を受けつつ有力者として活躍しました。そして朝鮮半島においても大きな勢力となっていく過程において、秦氏が統括するエリアは「辰韓」とも呼ばれるようになったのです。それが「魏志」において「辰韓人」と記載されている所以でもあります。

秦氏の正体とは、中国や朝鮮の文化圏において育まれたイスラエル系のユダ族と考えられますが、その周辺には常に、南ユダ王国におけるもうひとつの兄弟部族であるベニヤミン族の存在もありました。秦氏らを中心とするイスラエル系の民が朝鮮半島に拠点を構えた際、少数派のベニヤミン族は部族ごとに分かれて居住するというイスラエル元来の風習に従って、ユダ族が居住する辰韓の南方に拠点を構えたと想定されます。それ故、ベニヤミン族が支配する地域は、その部族の頭文字בנימין(Binyamin、ビンヤミン) の「ビン」「ベン」をとって、弁韓と呼ぶようになった可能性があります。このように、秦氏がイスラエルのユダ族の出自であると想定することにより、朝鮮半島を介する渡来者の流れとその民族構成さえも、より分かりやすく理解することができます。

秦氏のルーツであるイスラエルの民は、国家を失った後、世界各地に離散し、それぞれの地域において、文化、教育、政治、経済面など多岐に渡り大きな貢献を成し遂げました。そしてどんなに離散しても、決して自国の文化、言語、宗教観を忘れることなく、世代を超えて自国民の生きざまを後世に伝承してきました。だからこそ、2600年も前に国家が滅亡しても、ヘブライ語は死語となるどころか、聖書を読むために不可欠な古代ヘブライ語として今日まで存続し続け、1948年にイスラエル国家が再建された際には、国語としてヘブライ語が復活を遂げたのです。このような特異な文化を持つイスラエル民族であり、しかも痕跡を殆ど残さずに民族移動を続け、世界各地に土着してきたという歴史的背景を踏まえるならば、最終的に日本に定住した秦氏の正体も見極めづらいのは当然のことであり、いつしか歴史のベールに包まれてしまったのです。

神の選民であるイスラエル人の血統は、国家が崩壊した後もアジア大陸にて長年にわたり育まれてきました。元来の卓越したイスラエル文化に古代中国大陸の優れた知性がブレンドされてさらに磨きがかかることにより、研ぎ澄まされたように繊細な美的感覚を誇る独特の文化はアジア大陸で培われてきたのです。そして最終的にイスラエル系の秦氏によって日本に持ち込まれ、現在に続く日本文化の礎となったのです。

アジア大陸の遥か西方のイスラエル
アジア大陸の遥か西方のイスラエル
無論、日本列島各地には、秦氏よりも前に渡来したイスラエル人が存在しており、西日本各地にて高地性集落等を構成し、生活圏を確立していただけでなく、特に皇族の存在は極めて重要でした。秦氏の大規模な移民の波を伴った渡来は、その皇族を中心とする一族を支えることに大きな貢献を果たし、日本古代史の中でも際立つ歴史的転換点となったのです。それほどまでに歴史に残る秦氏の功績や偉業の数々は、もはやイスラエル系渡来人の存在なくしては説明することはできません。隋の使者が秦氏について「明らかにする能わざるなり」と、出自に関する結論を明らかにできなかったのも無理はないのです。なぜなら、秦氏のルーツは、アジア大陸の遥か西方の中近東、イスラエルまで遡るからなのです。

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中島尚彦

中島 尚彦

南カリフォルニア大学、ペンシルベニア大学ウォートン校、フラー神学大学院卒。音楽系ネット通販会社サウンドハウスの創業者。古代史と日本古来の歌、日ユ同祖論の研究に取り組むとともに、全国の霊峰を登山し、古代遺跡や磐座の調査に本腰を入れている。

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