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2021/08/27

秦氏はイスラエルのユダヤ系王族か? 秦氏の出自と日本文化への貢献

アジア大陸の豪族であった秦氏の出自とは

秦氏が日本に渡来してきた経緯については諸説があります。アジア大陸において秦が滅びた後、一族が国外に脱出して亡命してきたという説をはじめ、万里の長城建設などの苦役に耐えられず、秦韓に落ち延びた後、日本へ亡命してきたという説、秦の末裔を名乗ることで異国において優遇されようと目論んだという説など、秦氏の出自については枚挙にいとまがありません。

新撰姓氏録には秦氏の出自が秦始皇帝に由来していることが明記されています。その信憑性には議論の余地が残るも、可能性については留意する必要がありそうです。日本の歴史において重要な役割を果たしてきた秦氏ですが、一族の記述については日本書紀や新撰姓氏録などに少々残されている程度です。また、中国の史書においては不思議とその出自に関する記述を殆ど見出すことができません。秦の末裔というのが事実なら、中国にも秦氏の出自に関する記述が残されているはずですが、皆無に等しいのです。
秦氏は、如何にして都の造営に携わるほどの政治・経済力を携えてアジア大陸を移動し、日本にまで辿り着いたのでしょうか? 秦氏が大陸よりもたらした優れた文化と芸術的感性、そして特異な宗教的背景を振り返る限り、秦氏一族は元来、高貴な王族級の出であることが想定されます。

日本書紀によると、弓月君(ユヅキノキミ)が3世紀末、朝鮮半島より渡来したことが秦氏の基であると記されています。当時、中央アジアには弓月国が存在し、そこに弓月部族が居住していました。そこはイスラエルの祖先が居住していた地域であり、西アジアからも近く、景教の一大拠点としても知られています。また、シルクロードの通過点となる場所に位置していたことから、多彩な文化の交流とともに、キリスト教の布教も熱心に行われた地域でした。秦氏は景教の信奉者であることからしても、つじつまが合います。よって、日本書紀の記述にあるとおり、秦氏の故郷が、この中央アジア近辺の弓月国に関わっていたと考えて間違いないようです。

秦氏が建立した大酒神社
秦氏が建立した大酒神社
その秦氏は景教の信奉者として日本に渡来した後、全国各地に神社を建立し、さらにはエルサレムの都に倣ってデザインされた平安京の造営に、多大なるく貢献をしたことが知られています。日本神道の宗教的な土台を築き、しかも莫大な資産を保有し、平安京の建設に必要な土地までを提供したという史実からしても、秦氏はアジア大陸の豪族であったことに違いありません。

秦氏はユダ族の王系である理由

数多くの神社の建立から垣間見れる秦氏の特異な宗教観や、秦始皇帝との血縁関係の可能性から察するに、秦氏はアジア大陸でもさらに西に存在するイスラエル国のユダヤ王系の一族であったと推測されます。

イスラエルの荒野から死海を望む
イスラエルの荒野から死海を望む
秦氏がイスラエル民族であり、しかも王系のユダ族である理由として、まず、「秦」の読みが考えられます。。古語拾遺には「秦」を当初「ハダ」と発音した根拠として、「肌膚に軟らかなり。ゆえに秦の字を訓みてこれを波陀と謂う」と書かれています。しかしながら、その説明は納得いくものではありません。そこで、秦氏の出自がイスラエルであるという前提で、その名前をヘブライ語で読んでみることにしました。すると、「ハダ」という発音が、「ユダ族」を意味する「(ヤ)ハダ」という言葉に極めて類似していることがわかります。

南ユダ王国に属するユダ、ベニヤミンの2部族の末裔は、今日「ユダヤ人」と称され、ヘブライ語でיהודי(Yehudi、イェフディ) と呼ばれています。中でも王権を継承する役目を担ったユダ族はיהודה(Yehudah、イェフダ) と呼ばれました。その綴りは、ヤーウェーの神を意味するיהוה(yhwh) に一文字ד(d) を付け足しただけです。そしてユダ族の「イェフダ」から神を意味するי(y) を除くと、「フダ」となり、「ハダ」とほぼ同じ発音です。よって、「イェフダ」が「秦」の語源になったと考えられます。つまり、秦氏は「ユダ族」の出自であり、ヘブライ語で「ユダ族」を意味する「(イェ)フダ」を語源として「フダ」または「ハダ」という名称になり、その読みに、「秦」の漢字をあてたと推測されます。

秦氏の出自がユダ族であることは、「秦」の漢字表記からも理解することができます。旧約聖書の創世記に登場するアブラハム、イサク、ヤコブらイスラエルの先祖は、民衆を治める指導者という意味において、「族長(パトリアーク)」と呼ばれています。語源は、ギリシャ語の「父」を意味する「pater」と、「指導者」。「王」の意味を持つ「archon」が組み合わされたものです。その後、キリスト教では「パトリアーク」は「司教」という意味で使われるようになり、中国の景教では「波多力」と書き表されました。

つまり「波多」という漢字は、イスラエルの指導者、ユダヤの父なる指導者を示唆する言葉だったのです。そのイスラエルの指導者を称して「波多力」と書き、それが「秦」とも書かれるようになり、「ハタ」と読まれるようになったということは、秦氏がまさに、ユダヤ系の指導者なる一族の血統をくんでいることの証と考えられます。

秦氏がイスラエルの指導者であり、神の都を再建する使命を担ったユダ族の末裔であると理解することにより、ユダ族の中でもイスラエルの王権を継承する王系一族であった可能性が見えてきます。だからこそ秦氏一族は、大陸より日本に渡来した直後から皇族が住まわれる京都界隈にすぐさま出向くことができただけでなく、皇族との親睦も深め、その地域一帯を自らの拠点として開発することができたのでしょう。

秦氏の出自はイスラエル

秦氏がイスラエルの出自であり、しかも元来ユダヤ教の一派であった景教の影響を強く受けた民族であることの証しは、「新撰姓氏録」からも理解することができます。そこには秦氏が仁徳天皇より姓を賜った際の記述があり、「ハタ」の当て字として「秦」ではなく、「波多」と書かれています。つまり景教で「族長(パトリアーク)」「司教」を意味する「波多力」に由来する言葉がそのまま使われているのです。

そしてヘブライ語で「ユダ族」を意味する「(ヤ)フダ」に「波多」(ハダ、ハタ)の漢字を当てたと考えられることから、「秦」という名称には、イスラエルの指導者としての「波多力」と、王系ユダ族の血統である「(ヤ)フダ」、両方の意味を読み取ることができます。

始皇帝(三才図会より)
始皇帝(三才図会より)
また、秦氏については「秦始皇帝の後なり」、と記載されていることに注目です。秦氏本系帳にある系図においても、秦始皇帝をはじめとして歴代の秦氏の名前が確認できることから、秦氏は秦始皇帝の子孫であるという説の根拠とされています。

その秦始皇帝の実父は呂不韋(リョフイ)と呼ばれ、その名前の意味はヘブライ語で理解することができます。「神のくびき」をヘブライ語では、עוליהוה(yhwh aol)と書き、それを左から右に逆さ読みすると「ロフヒ」となります。よって、神の僕として仕えた秦始皇帝の実父は、自らの名を「神のくびき」、すなわち呂不韋(リョフイ)にしたと考えられるのです。

これが事実ならば、秦始皇帝も神の一族、つまりイスラエルの中でも生粋のユダヤ人であった可能性が見えてくるのです。始皇帝の肖像画を見ても西アジア人特有の鷲鼻が際立ち、言い伝えでは「目は青く西洋人のようであった」ということからしても、秦始皇帝の先祖がイスラエル出身であった可能性は否定できません。そして秦氏がユダ族の出自であるというも、秦始皇帝がユダヤ人であることを意味することになり、歴史のつじつまが合います。

秦氏のユダ族出自が否定される理由

イスラエルのユダ族である秦氏が建立した古代の神社が、八幡(ヤハタ)神社です。その名称は、ヘブライ語でユダ族を意味する「イェフダ」、יהודהを語源として考案されたようです。「イェフダ」「ヤフダ」と「ヤハタ」の発音はほぼ同一であることから、八幡語源は、ヘブライ語の「ユダ族」という言葉であったと推測されます。秦氏がユダ族であるということは、イスラエルの王系一族の末裔である可能性も示唆しています。よって、中国の歴史を塗り替えた秦の始皇帝との姻戚関係も、高貴な王族というつながりにおいて理解しやすくなります。

しかしながら、これだけの確たる理由があるにも関わらず、「秦氏はユダ族」と唱える学者はこれまで多くありませんでした。その理由は、アジア大陸より日本に渡来したイスラエル人は、「失われた10部族」であり、その中にユダ族、ベニヤミン族は含まれてないという説が、古くから流布されてきたからに他なりません。ユダヤ系学者にとって、日本に渡来したのはイスラエルの10部族のみ、という説は根強く、それ以外の部族との関連性については、これまでほとんど議論されることはありませんでした。つまり、南ユダ王国に属するユダ族とベニヤミン族が古代、日本列島まで渡来することはありえず、あくまで他の10部族のみが失われたという信念に基づいているのです。

よって、たとえ八幡(ヤハタ)という言葉がユダ族を意味する「イェフダ」の発音に酷似していても、検討外とされてしまうようです。そして代替案として提言されったのが、ヘブライ語で「ヤー・エハッド」、「唯一の神」という言葉であり、それが「ヤハタ」の語源であるという解釈が広められてきました。「ヤー・エハッド」が「ヤハタ」のルーツ語である可能性は残されていますが、「秦」の名前との関係を説明できるわけでもなく、「唯一の神」という神社の名称も、古代を想定するとピントがずれているようです。古代の神社は、神、人そのものの名前を元に命名されることが多く、やはり「ユダ(イェフダ)神社」、「ヤハタ神社」と呼ぶのが自然です。

今日のイスラエル人にとって、自分たちがユダ族の末裔であり、日本に渡来したイスラエル人はあくまで「失われた10部族」であるという信念を貫く気持ちはわかります。しかしながら歴史が残してきた数々の名称の繋がりから察するに、やはり、「ヤハタ」はユダ族を意味する「ヤフダ」が普通に訛ったものと考えるのが自然です。また、国家が崩壊した後、南ユダ王国の民が日本に渡来できない理由も特にありません。ユダ族の末裔である秦氏が日本に渡来してきたと考えることにより、秦始皇帝が同じくユダ族の出自であることともつながり、歴史の流れをわかりやすく理解できるようになります。よって、秦氏のみならず、日本の皇族も同様にユダ族であっても何ら不思議はないのです。だからこそ、秦氏が建立した八幡神社にはユダ族の象徴である獅子が置かれ、多くの皇族が参拝に訪れるのではないでしょうか。

葺田八幡神社 (小豆島)
葺田八幡神社 (小豆島)
秦氏は、自らの氏寺である広隆寺だけでなく、全国各地に数多くの寺社を建立しました。全国で見かける八幡神社は、八幡様や八幡宮などを含めると、少なくとも1万社以上も存在し、3万社もあると言われている稲荷神社と並んで日本人にとっては大変馴染みの深い神社です。

秦氏の関連する地名や氏神の名前は、ヘブライ語で重要な宗教的意味合いを持っているものが少なくありません。秦氏の氏寺である広隆寺の境内近くには、「イスラエル」の国名に酷似する伊佐良井(イサライ)があり、外枠の石に「いさら井」と彫り込まれた古い井戸があります。その名称は景教の経典に書かれているイスラエルを意味する一賜楽業(イスライ)に酷似しています。これらはイスラエルを意味して命名されたのではないか思われます。

秦氏の本拠地にある八坂神社の祇園信仰においても、その「ギオン」という名前の語源が、神が住まわれるイスラエルの聖地、ציון(zion、ツィオン)と考えられるのです。秦氏とその拠点となる京都の多くの儀式や祭りの数々に、古代ヘブライ信仰との類似点が多く存在することにも注目です。

平安京の歴史を振り返る

日本文化の発展に多大なる貢献をもたらし、神を崇め祀る神社信仰のルーツを日本列島に築きあげた秦氏こそ、まぎれもなく神の選民であるイスラエル民族であり、その中でも生粋の王系、ユダ族のリーダー的存在であったのです。その王族の末裔である秦氏が、卓越した大陸文化とイスラエルの遺産を携えながら長い年月を経て大陸を横断し、朝鮮半島を経由して日本へと辿り着いたのです。そして先祖代々の夢であるエルサレムの都の再建を目論み、満を持して日本の地において夢の実現に着手して完成したのが、平安京でした。

再建を待ち望むエルサレム神殿の城壁
再建を待ち望むエルサレム神殿の城壁
もはや、秦氏の貢献をオブラートに包み隠す必要はありません。秦氏がイスラエル、ユダ族の出自であるとするならば、平安京に纏わる歴史の解釈が一変します。ダビデ王の末裔である秦氏が、大陸より渡来してエルサレム神殿をモデルにした平安京を築き、ユダ族の血統を共有する皇室と共に国政を担ったという前提で歴史を振り返ると、一連の流れが理解しやすくなります。そしてイスラエルの律法に基づき、神宝の管理を含む宗教体制が、イスラエルの祭司役を担ってきたレビ族の末裔に任されるようになったのです。その一派が例えば、後世では物部一族に代表されています。

古代社会において、秦氏が日本建国の歴史を培ったと言っても、決して過言ではありません。その貢献は、単に神社の建立や都の造営にとどまらず、失われたイスラエルを彷彿させる膨大な国家事業だったのです。それは正に、ユダ族の王が君臨し、その神殿と神宝をレビ族が祀ったイスラエル王国の復元と言えます。

調和と繊細な美を大切にする日本文化のルーツが秦氏にあるということは、神の選民の血が日本人のうちに息吹いていることを意味しています。それこそが日本人の誇りであり、私達の使命なのです。

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中島尚彦

中島 尚彦

南カリフォルニア大学、ペンシルベニア大学ウォートン校、フラー神学大学院卒。音楽系ネット通販会社サウンドハウスの創業者。古代史と日本古来の歌、日ユ同祖論の研究に取り組むとともに、全国の霊峰を登山し、古代遺跡や磐座の調査に本腰を入れている。

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