3世紀以降、渡来人の流れが一変し、突如として大勢の民が朝鮮半島から海を渡り、シルクロードの最終地点となった日本に移住してきました。それまでも渡来人の流れは列島にむけて何百年も続いていましたが、その流れが一気に加速したのです。そして弥生時代後期から飛鳥、奈良時代にかけて、特に古代社会のメルティング・ポットとなった奈良盆地の周辺には多くの知識階級層の渡来人が居住するようになり、大陸文化の流入とともに栄えました。当時の古代社会において政治や宗教、文学、農業など、日本の社会全般に多大な影響を与え、日本文化の基礎を培う原動力となったのは、渡来人にほかなりません。
その後、渡来人は列島の文化に同化し、長い年月をかけて日本独自の文化を作り上げていくことに貢献しますが、しかしながら、有力者の出自のほとんどが大陸系であることに変わりなく、その民族性と特異性については、新天地である日本の地においても長年、温存され、その氏名は歴史に名を残すこととなります。例えば長岡京(現京都府)の周辺に居住していた秦氏、弥坂氏、鴨氏、出雲氏などの多くは、渡来系であることが知られています。これらの有力者の経済力と高い教養のレベルは渡来人ならではのものであり、その名前の多くがヘブライ語の意味を持っていることからしても、渡来系の中には単に中国や朝鮮半島との繋がりだけでなく、イスラエル系の民も複数存在していたと思われます。中でも山背国で実権を握り、平安京遷都の立役者として活躍した秦氏とイスラエルの関係についての噂は絶えません。秦氏はその財力と大陸文化に繋がる人脈故に、平安京遷都の際には所有する財産や不動産を献上し、桓武天皇の信任を得ながら朝廷にとって大きな経済的支えとなりました。また、それ以前、平城京から長岡京への遷都においても、それを指揮した藤原種継の母親も秦氏であり、一連の遷都の背景には当初から多くの秦氏の影響が強く加わっていたと考えられます。
秦氏のほかにも奈良時代後期から平安初期にかけて、注目すべき渡来系人が、多数浮かび上がってきます。まず桓武天皇の母親は、今生天皇の「ゆかり」発言にもあったように、高野新笠という百済の出であり、父方の和氏は武帝王由来の百済王族です。また、延暦寺を建立し、桓武天皇に仕えた最澄は、後漢の孝献帝の子孫を祖先とする三津首家(みつのおび)の家柄であり、中国系の渡来人の子孫です。そして空海も、母方の阿刀氏が帰化人です。そして空海の伯父にあたる阿刀大足(あとのおおたり)は、その優れた教養と知識が朝廷でも高く評価され、桓武天皇の皇子、伊予親王の侍講を勤めていたほどでした。その阿刀大足がおそらく中国で学んだと考えられる論語、孝経、史伝を中心とした多くの知識を、幼い空海に自ら授けたのです。こうして古代社会においては、至るところで渡来系の人物が朝廷に大きな影響力を与え、日本の文化の礎を作る大きな原動力となっていたのです。