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2023/09/22

東の島々を目指したイスラエルの12部族 さまよえるイスラエル民族の行き着いた先とは

北イスラエル王国滅亡後の民はどこへ?

イ東の島を目指すイスラエル民の渡航ルート
東の島を目指すイスラエル民の渡航ルート
紀元前722年、アッシリアの攻撃によりイスラエル北王国が滅亡した際、何十万人ともいわれる大勢の民はどこへ逃げて行ったのでしょうか?彼らが南のユダ王国に逃げ込んだという記録もなく、諸外国の史書の中に、捕囚の民として登場することもありません。北イスラエルの10部族は、歴史の闇に消え去ってしまい、いつしか「失われた10部族」とも呼ばれるようになりました。

また、北イスラエル王国が滅びた後、南ユダ王国も崩壊し、多くがバビロンへの捕囚の民となりました。その後、ごく僅かな民だけが最終的に祖国に戻ってきたことに関する詳細が、その人数も含めて旧約聖書の歴史書に記録されています。では、残りの民はどこへ向かったのでしょうか。つまり南ユダ王国からも、行方がわからなくなった民が大勢存在したのです。

「エルサレム滅亡を嘆く預言者エレミヤ」
「エルサレム滅亡を嘆く
預言者エレミヤ」
史書やアジア大陸に関連するさまざまな伝承、地域の資料を探ると、歴史から姿を消したイスラエルの民の多くは東方へ移住した可能性が非常に高いことがわかります。なぜならイスラエルの地理的条件を見据えると、西方は海、北は天敵のアッシリア軍団、南はアラビアの砂漠という過酷な条件下に囲まれていたことがわかります。そして逃げ道の一つとも考えられていた南西方向のエジプトについても、北イスラエル王国の民は当時敵対していた南ユダ王国を通らなければいけなかっただけでなく、著名な預言者エレミヤを通してエジプトに逃げる者は滅びるという神から与えられたメッセージが前7世紀後半に語り告げられたことから、エジプトに行くことだけは、どうしても避けなければなりませんでした。それ故、残された逃げ道は、東方だけだったのです。よって、広大なアジア大陸という未知の世界に目が向けられ、とにかく生き延びるために大勢のイスラエル難民は、東方に向かったと想定されます。

預言者イザヤの出現と救いのメッセージ

紀元前8世紀から7世紀にかけて、イスラエルには神からのメッセージを民衆に伝える預言者が何人も存在しました。それら預言者は、神への背信行為に対する裁きのメッセージを人々に語り伝えるだけでなく、一人でも多くの民が改心して、神の道に立ち返ることを求めていたのです。

その中心的存在が預言者イザヤでした。イザヤは南ユダ王国のエルサレム神殿に出入りしながら、南ユダ王国のヒゼキヤ王に仕えていました。イザヤは神から示されるままに語り続け、その内容は時には、北イスラエル王国に関する事項も含めて広範囲にわたっていたのです。よって、イザヤの名声は北イスラエルにも広まっていました。

ある日、イザヤには裁きのメッセージだけでなく、救いのメッセージも与えられ、イザヤはそれを書き記しました。戦争の噂で人々が不安に恐れ慄いている最中、国家の滅亡と同時に、救済の道がイザヤに示されたのです。そのメッセージには、少々不可解な言葉が含まれていました。

「東方の海の島々でイスラエルの神、主の名をあがめよ」(イザヤ書24章15節)

何故不可解かというと、イスラエルから見て太陽が昇る東方はアジア大陸であり、島々など存在しないように思えるからです。しかしながら、それが神から与えられた言葉だったのです。その言葉を信じたイザヤは、国家が崩壊するという絶望の中にも僅かな希望の光を見出し、未知の世界に浮かぶ東の島々に向かって旅することを心に決めたのではないでしょか。

こうしてイザヤはイスラエルの南ユダ王国が滅びる直前に国家を脱出し、船に乗って東方を目指したと考えられます。また、イザヤの言葉を信じて、東の島々に望みをかけた民も少なくなかったことでしょう。その結果、大陸を東方に向けて横断するイスラエルの民族移動が起きたと考えても不思議ではありません。東方にしか逃げ道はなく、行くあてもなかった民にとって、大陸の遥か彼方には、神が約束された島々が存在するというメッセージは、まさに希望の光となったことでしょう。かくして大勢のイスラエルの民は、東に向けて大陸を移動することを決断したと考えられます。

イスラエル民族大移動がはじまる

国家の崩壊を事前に察知したイザヤは、イスラエルの南ユダ王国が滅びる直前に国家を脱出し、船に乗って東方を目指したと考えられます。また、イザヤの言葉を信じて、東の島々に望みをかけた民も少なくなかったことでしょう。その結果、大陸を東方に向けて横断するイスラエルの民族移動が起きたと考えても不思議ではありません。

東方にしか逃げ道はなく、行くあてもなかった民にとって、大陸の遥か彼方には、神が約束された島々が存在するというメッセージは、まさに希望の光となったことでしょう。かくして大勢のイスラエルの民は、東に向けて大陸を移動することを決断したと考えられます。そして長い年月を経た後、中には東の島々まで到達した人々もいたはずです。

無論、多くの民は最終目的地まで辿り着くことができず、アジア大陸の各地に留まり、地域の人々と交流を深めながら同化していったことでしょう。また、イスラエル民族の移動は、膨大な数に膨れ上がっていたと推測されることから、アジア大陸の各地にて土着する人々を取り込んで、むしろ新しい文化圏を創生していた可能性もあります。

その一例が、アジア大陸における騎馬遊牧民の出現です。イスラエル民族は元来、遊牧民族であり、信仰の父と呼ばれるアブラハムや「主は私の羊飼い」と歌ったダビデ王のように、天幕で移動しながら羊や馬を放牧して生活圏を築いてきました。その後のアジア大陸の歴史を振り返ると、このイスラエル民族大移動の軌跡を、アジア大陸における遊牧民の部族連合体の出現に垣間見ることができます。

アジア大陸を席捲するスキタイの出現

秘儀の杯に描かれたスキタイ戦士(クル・オバ遺跡より)
秘儀の杯に描かれたスキタイ戦士
(クル・オバ遺跡より)
イスラエルが国家を失った紀元前8世紀から7世紀にかけて、イスラエルからタガーマ・ハランを通り、その北方にある黒海とカスピ海の間を抜けた今日の南ウクライナ周辺に、スキタイと呼ばれる広大な遊牧騎馬国家が形成されたのは周知の事実です。スキタイが歴史に台頭したタイミングからしても、行方がわからなくなった北イスラエル王国の部族がスキタイに同化して、それが騎馬民族と化し、長い年月をかけて徐々に東方に向けて拠点を広げていったと考えても不思議ではありません。

スキタイは南ユダ王国が滅びた前6世紀には北の草原地帯からコーカサス山脈の東側を抜けてアジアに侵入し、その領地を拡大しつつメディア軍を破り、東方のアジア圏を席捲するまで至りました。また、前4世紀には「匈奴」と呼ばれる騎馬民族が東方のモンゴルで勢力を伸ばしながら、遊牧国家を建設しています。匈奴のルーツは、西アジアの方面から移住してきた高度な文明を持つ民でした。その背景にはイスラエルの民族大移動があったと想定することにより、アジア大陸の歴史の流れが見えてきます。

ところがスキタイは、いつしかアジア大陸から忽然と姿を消します。それは騎馬民族が東漸するにつれて、各地で現地の住民に同化し、新たな騎馬民族の群れを形成するも、国家としては徐々に弱体化したことが一因と考えられます。そして東方へと移動し続けた結果、遊牧国家を形成してきた多くの民は、いつしか太平洋岸周辺に拠点を持つ東夷とも同化していくことになったと推測されるのです。東夷は中国東方に拠点を持つ異民族の集団であり、それが後に朝鮮、ならびに日本民族を指す名称にもなります。

天皇家の歴史が幕を開ける

アジア大陸の歴史にイスラエルの民族大移動が大きく絡んでいたという前提で歴史を振り返ると、そこには騎馬民族に代表される遊牧民や東夷だけでなく、その大移動の延長線には日本の存在も見えてくるようです。

日本の古墳時代後期に作られた古墳から発掘された副葬品や装飾品の多くが、モンゴル系騎馬民族の物に類似していることや、天皇家の万世一系の制度が騎馬民族のものと酷似していること、また日本語の語源や意味、読み方が、大陸のツングース系諸言語と類似点が多いことなどの事実を振り返って見ても、騎馬民族系の民がアジア大陸から日本に到来し、日本の古代史に関わっていたという史実を匂わせているようです。それは、国家を失ったイスラエルの民が離散し、大勢が東の島々に救いを求めてアジア大陸を渡り、長い年月を経て日本列島までたどり着いた民が少なくなかったことの表れとも考えられます。

その東の海にある島々こそ、イスラエル民族が熱望していた新天地であり、倭国、大和の国なのです。天皇家の歴史が幕を開けたのは、北イスラエル王国の崩壊後、およそ60年後のことでした。失われかけたイスラエルの文化が、日本の土壌で再び、芽生えることになります。

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